ベルト・モリゾがやってくる

ベルト・モリゾ

                         マネの描いた「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」

 

 

 

                     ベルト・モリゾがやってくる

 

 

 夕ひばりさまのご主人さまから彼女を経由してのお知らせで、ベルト・モリゾが東郷青児美術館(9月15日~11月25日)に、約70点もやってくると知って、今から少年のようにワクワクドキドキしている。三年前マルモッタン美術館が上野にやって来た時に、ベルト・モリゾの絵を始めて鑑賞出来た訳だが、あの時の衝撃を決して忘れることは出来ない。ベルト・モリゾは印象派の画家である以上、彼等の動向や裏舞台まで全部知りえた人であったのに、印象派好みの日本人には殆ど知られていないから不再議な現象だと思う。日本語による評伝や紹介が極端に少ないのが一因だが、彼女の師匠マネ自身の記述も極めて少ない方の画家だったから仕方がないと言えばそれまでかも知れない。でも何故これほどの画家を百数年経った今でも知る人が少ないのだろうか。それはどうやらモリゾの生きた自身の中身であるらしい。『Nous mourons tous avec notre secretーBerthe Morisot ; Le Secret de la femme en noirより』 モリゾを紹介したボナの評伝から引用したこの言葉の意味は、「我々は皆、それぞれの秘密を抱いて死ぬ ベルト・モリゾ」とあり、多くの謎に満ち、評伝を読んでも繋がらない部分が結構多いようであるが、硯水亭ではそのボナの書いた評伝を翻訳し、それを中心にちょっとだけ紹介しておきたい。

 モリゾ(1841~1895)は高級官僚の家に三人姉妹の一人として生まれた。父はどちらかと言えば保守派で、後述するマネの家は共和派であった。両方それぞれがサロンを作り、多くの文人墨客を招いては賑わっていた。三人姉妹は最初ピアノを習ったが、三人とも挫折し、その後絵画を勉強させられる。姉・妹はそれぞれ早く結婚し、モリゾだけが画家の道を歩いて行くことになるが、マネの家でのサロンで知り合ったマネとモリゾ。時にマネは結婚をしていたが、モリゾを画家として、そしてモデルとして重用した。但し女癖が悪く、歩いている女の子でも直ぐ口説いてモデルにしてしまうようなマネは、旺盛に画家として大成して行くのだった。何人かのモデルがいたが、中でもオランダ人でピアノ教師だったシュザンヌ(マネの2歳年上)をモデルにして描かれた「オランピア」はパリ中侃々諤々の争論を起こしたセンセィショナルな裸婦の絵であった。然しそれが逆にマネの地位を不動のものにし、更にこのシュザンヌを描いた「草上の昼食」も又物議をかもすのに充分な後世に残る絵として成功した。最初画家として入ったモリゾは自分の絵を観て貰たいというと、そこはいけないとか言われ、殆どマネの絵に直されてしまうのが全く気に入らなかった。まるでロダンと弟子で愛人カミーユの関係に等しい。モリゾは社交的なマネと違って物静かで思慮深い人であった。この頃モネの「日の出」が世に出て印象派展が華々しく開かれ、その新しいサロンの立役者の一人として、又女流画家の先駆者としてモリゾは印象派絵画展の一介の画家として参加し、娘ジュリーの出産の時以外はすべて参加していた。モネ・ルノアール・ドガ・シスレーなどと親交を強くし、詩人ヴァレリーとも知り合っている。世界がモリゾ自身で切り開いたようなものであった。何故なら、モリゾの生きた時代は女流画家は一笑にふされ決して認められず、マネをして「モリゾは才能があるのに、女性だから可哀想だ」と述懐させたほどである。如かして新天地と結婚と、モリゾはマネから独立し生きて行くことになるのだった。女性自身の自我に目覚めて行くモリゾの生き様は、正しく芯の強い女性像のお手本となり、その苦悩や歓喜や絶望や希望までもが、彼女の絵を通して、ひしと伝わって来る。その容姿だけではなく内的魅力に溢れた人であった。

 

モリゾと一人娘ジュリー

               一人娘ジュリーと自身(?)を描いたモリゾ作「ゆりかご」 

 

 モリゾの描く絵は家庭の中のささやかな幸福や陽だまりのある身近な人物画が中心であった。ただいつまでも結婚しないモリゾを両親は何くれとなく心配をしたが、モリゾ家に最後まで通っていたのは、マネの弟のウジェーヌであった。ウジェーヌは絵を描いたが決して人には見せず、特段の職業はなく自分の資産管理だけしている人であった。モリゾの父親はこうした前後に死に、母はモリゾを躍起になってウジェーヌとの結婚を薦めた。愈々モリゾがマネの手許から離れて行く運命にあったモリゾ。その前後マネは徹底的にモリゾを描き続け、有名な「バルコニー」では視線の先が皆違っていて、特にモリゾの視線を中心に描かれた名品となっている。この時マネとモリゾは濃密な時間をともに過ごし、マネは「扇を持つベルト・モリゾ」や「スミレの花束を持つベルト・モリゾ」や「薔薇色のミュールのモリゾ」など、一層華やいだモリゾの肖像画を完成させて行く。1874年モリゾ(33歳の時)はマネの弟ウジェーヌと結婚。この時を境に、次第にマネから遠のいて行った。だがこの結婚は傍目から見ても、ウキウキするような新婚のカタチではなかった。姉のイヴにモリゾが何度か手紙を送っているが、割と淡白な書き方であったと。それでも幸せな感覚を味わっていたようである。ウジェーヌは喘息気味で、南仏など各地に転地療養をしながら、ウジェーヌとの間に一人娘が出来る。名前をジュリー(愛称ビビ)と言って可愛い子で、よく伯父さんに似ていると言われたらしい。ルノアールは、ジュリーが14歳の時に印象派から離れ、独自の絵画への世界を模索し切り開いて行く端緒となった記念碑的なジュリーの絵を残している。

 

 

モリゾの娘ジュリーの絵 

モリゾのジュリーを描いたルノアール過渡期の絵 ルノアールらしい絵でしょう

 

 結婚から20年、ついにウジェーヌは帰らぬ人になってしまったが、その前にマネも又病魔に侵されて既に死んでしまっていた。印象派のサロンの前後に知り合った詩人マラルメに、一人娘ジュリーの後見人を頼み、翌年モリゾも54歳で他界している。ジュリーは16歳だったと思う。姉や身内や画家仲間たちがモリゾの死の淵に駆けつける。事前に丁寧に遺書を残し、最後のモリゾの言葉は「ジュリー!」。

 

 【補填】 Institut de Franceの図書室には、ベルトとその家族、親しい友人たちとの間の手紙がそっくり保存されている。それぞれの人たちの筆跡に人柄が忍ばれるが、さてベルト・モリゾ宛ての手紙で保存されているのは、シャヴァンヌ(ウジェーヌの前に付き合っていた人)から41通、ルノワールから47通、ドガから59通、マラルメから86通。そして肝心要のエドゥワール・マネからはたった4通のみ。しかも名刺カードのようなものに書かれた簡単な形式的メッセージのものしかない。そんなことがありうるだろうか?兄や母、妻あての何通もの長い手紙が、同じ資料室からみつかるのに。そしてベルト・モリゾからマネにあてた手紙は一通もみつかっていない。そんなことが可能だろうか。 何処かに隠されているのか、それともマネとの一切合財を破棄したのか、謎に満ちている。沈黙を愛したモリゾらしい言葉が残っている。「恋文などは燃やしてしまったほうがいい」と。更に驚くことに、パッシー墓地にあるモリゾのお墓は、何とあのマネと一緒なのであり、無論ウジェーヌも同じところに書かれてあるが、やはりひた隠しにしなければならないマネとモリゾの禁断の関係があったのかどうか、その事実を今は知る術もない。

 

 

      http://www.sompo-japan.co.jp/museum/   損保ジャパン内 東郷青児美術館 展覧会開催予定を御覧下さい   

     http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!1520.entry 本記事とは直接関係はないが 櫻灯路「二人のカミーユ」

 

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