お彼岸の入り

曼珠紗華

 

 

お彼岸の入り

 

 

今日からお彼岸の入りで、26日が明けとなる。23日のお中日、つまりその秋分の日を境に前後三日間全部でお彼岸となる。

真東から太陽が昇り、真西へ太陽が沈むこの貴重な一日を、古来日本民族は農耕儀式には欠かせないものと考えられて来た。

佛教が流行り、何の理論武装もなかった古来の習慣・習俗は呆気なく何処かに消え去ってしまったが、

未だに近畿地方に僅かにその古い習慣が残り、 7日間中、『日の伴』とか『日迎え日送り』をするのである。

先ず朝日の出る東のお寺や神社に行き、お参りし、 日中南の方角の寺社では農耕の安全と豊作の祈願をし、

それを節目として祖霊を祀るという一連の農耕儀礼プラス先祖供養の形式であるが、

今では殆ど佛教色一色で、お彼岸の日は、『六波羅蜜=ろくはらみつ=悪縁を切る修行)』を修し、

普段(此岸=しがん=現世)の行いを糺し、改めて佛教徒として日頃の生活に戻る。そんな7日間なのであろう。

考えてみると、人がお墓参りする機会は、一年間で数多くある。

お正月の三日間、春秋のお中日とその前後、お盆の四日間、そして親の命日など

少なく見積もっても、上記のように恐らく二十日以上もそのチャンスがあろうというものである。

その上自分の誕生日や他の先祖のことまで行けば、相当な数になるであろう。

お墓参りのチャンスが増え、それだけ精進出来ようというものだが、そんなに行ってられないという現代の忙しさの中でも、

せめて一年間にたった一度ぐらいは、お墓参りをしてもいいのではないかとつくづく思うのである。

亡くなったご先祖様やこれから生まれて来るものと現存の自分を含めて、縦の関係とする。

それに対して、今生きとし生けるものすべてが御仏の眼から見たら、横の関係でしかない。

どうも処世が上手く行かないと思い悩むんなら、是非ご自分の縦の関係であるご先祖様へお墓参りをお薦めしたいものだ。

縦の関係をキチンとすれば、横の関係の煩雑さ不可解さが、容易にはっきりと見えて来ようというものである。

 曼珠紗華

 

 お墓参りには一定の作法があるように思える。お墓を洗うことや線香を手向けることやお花を飾ることではない。

それ以前の話で、先ず日頃来れなかったことを心から謝罪すること。お墓と同じ目線に立って出来たら茣蓙でも敷いて、

日頃のご自身の草々を報告する。その場で酒を飲み交わしてもいいではないか。そして最後は御願いをするのである。

殆どお墓参りに行って、ご先祖様に御願いだけするというのは、どこか筋目が違うのではあるまいか。 

お墓と一体となった墓参りはどんなにご先祖様が歓ぶことであろう。肉体は滅びても霊魂は永遠に生き続けているのである。

因みに我が真言宗では、教祖・弘法大師空海は決して死んでいないことになっている。

簡単には人間に生まれつけないのであり、気が遠くなるほどの、偶然性でしか生まれつけないことは明白である。

ご先祖様や御佛様に優しく接するということは、取りも直さずこうして生きているもの同士、

お互いがお互いに対する優しさが発揮されようというものだろう。

 おはぎ

 

 供物も墓の下の人と共有し戴くものである。春の春分の日は「ぼたもち」と言い、秋の秋分の日は「おはぎ」と呼び、共に戴く。

『暮らし』とは、土の上で陽の当たる場所を言い、『お墓』とは、土の中での生活に過ぎず、表裏一体であろうから、当然のことである。

生きている人だけがいい思いなぞ出来る訳がない。佛壇のないお宅さえ増えているが、私は直ぐ傍に実家があっても私の佛壇を持っている。

喜怒哀楽、何事も報告したり相談したり、お裾分けしたり、佛壇の前で瞑想することが多い。これは亡き主人の影響が強いのかも知れないが、

私はこれでいい、こうあるべきだとの確信がある。

 

 話は変わるが、亡き主人は己の墓石の建立を禁じた。少々分骨しご先祖の御寺にお預け申し上げたが、その殆どは未だに散骨していない。

櫻山が出来たら、散骨専門の一区画を造り、他の散骨希望者の方々と共に散骨する予定である。

今時墓石屋が大活躍し、大きな個人墓所を造ったとしても、果たして何になろうか。

意味がない場合が多くあり、谷中の墓地だったか、都会の墓地では確か30年間お参りするものがいない墓所は撤去される羽目となる。

撤去された空き地には別な方の墓地が建設される。自身の死後己の名は何年持つのだろうかを考えてもいいのではないかと深く考えさせられる。

主人は狭い日本に墓ばかりになっちゃうよと、よく冗談を言っていた。だから墓地は要らないと。

京都・嵯峨野の落柿舎の裏手に、落柿舎主人・向井去来のお墓がある。漬物石のような小さな自然石で、

表面に『去来』とだけ記されていた。それを見た時の感動が彼には消えなかったからだろうか。

散骨をした場合、お墓参りはどうなるのだろうか、お山(高野山)では禁止しているかどうかを含めて、是非聞いておきたいものである。

古い日本の伝統には、埋め墓(うめばか)と参り墓(まいりばか)が共存する両墓制という制度があったではないか。

主人の意に添いたい一心である。

 

 

                因みに六波羅蜜とは、悪い因縁を断ち切る六つの重要な修行のことで、次のようにして言える。 

1.布施

財施(財を施すこと)・法施(真理を教えること)・無畏怖(恐怖を取り除き安心を与えること)

2.持戒

戒律を守ること

3.忍辱

にんにく・苦しさに絶えること

4.精進

常に仏道を修するための努力をすること

5.禅定

心を安定させること

6.智慧

真理を見抜く力を身につけること

 

 

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お彼岸の入り への6件のフィードバック

  1. Miyoko より:

    楽天のお花のブログの訪問して頂きまして
    ありがとうございました。
    全くご迷惑ではありませんのでお時間のあるときは、
    冷やかしにでも覗いてみてください。
    ランキングは遊びでしているものです。
    私の周りはプロの方ばかりだし、カメラのメカから違います。
    皆さん凄いカメラをブログに載せていますがバカチョンのデジカメで
    撮っているのは私ぐらいです。
    皆さん、とても上手に撮っておられますので、それを見るだけでも楽しいと思います。
    それから、ブログ村のボッチをして頂きまして重ねてありがとうございます。
    昔から、「暑さ、寒さも彼岸まで」と言いますので
    お体大切にしてくださいませ。 

  2. 文殊 より:

            Miyokoさま
     
     カトリックの貴女さまがこうして日本のお彼岸の記事に来られるなんて、大感激です。まさに宗教にはどこか不可分の部分があるのでしょうか。感慨深いものを禁じえないのです。特にMiyokoさまからのコメントとなると、主人もどんなに歓んでいることでしょうか。
     
     GANSAN兄さんのところで、その存在を知り、早速お伺いしました楽天のお花のBlogを拝見し、素敵な画像で思わず拍手喝采したんですよ。Miyokoさまのお人柄そのものですもの。いつもボッチボッチさせて戴きますね。 主人のパソコンに、多くのMiyokoさまの写真が残っております。又ここでも数枚使わせて戴きました。ゴッホの記事などは、Miyokoさまの写真がないと始まらなかったでしょう。パリ発信のお花の写真ですからね。そのようにご謙遜されても駄目です。主人のスクラップの中では一番よく写っているのがMiyokoさまのお写真だからです。
     
      暑さ寒さも彼岸までですね。貴女さまに置かれましても、どうぞお身体には充分お気をつけ下さって、お元気でいて下さいね。私は月末からチューリッヒ~リヨン経由でパリへ参ります。こちらはまだ真夏の気温ですが、寒さ対策をして行った方がいいのでしょうね。では又!
     

  3. 道草 より:

    今朝の散歩では、まだミンミン蝉の鳴き声を聞きました。彼岸の中日には東京から長女夫婦が来京して、墓参りの予定です。まず千本出水(六番町)の菩提寺へ四人で参詣します。その後二条駅から山陰線で八木町へ脚を伸ばし、家内の姉弟夫婦と合流。義父母の墓参を済ませ、八名で大堰川畔の料亭で会食をすることになっています。今日も京都は35℃の真夏日。明日から涼しくなるとの予報ですが、どうでしょうか。丹波路に彼岸花の咲いていることを期待して・・・。
    <『冬の実』掲載>
    秋分「陰陽の中分なれば也」。彼岸の中日。昼夜の長さがほぼ等しくなる「秋涼」が「稍々寒」に移る頃。そして、やがて「冷気」と対峙する時。秋風に周囲の色も少しずつ秋色に染まり始める。まだ少し夏の名残りはあるが、そこかしこに小さな秋を見つけることが出来るようになった。「萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花」。山上億良が詠んだ(万葉集)秋の七草は、観賞の対象だけでなく、暮らしに密着した花を選んでいる。萩は垣根、尾花(薄)は屋根を葺く材料。葛は澱粉が採れまた葛布は衣料として利用。瞿麦(撫子)の種子は利尿作用。女郎花、朝貌(桔梗)は咳の薬とか。藤袴は乾燥させて寝床に入れ香水の代用と。そして、花それぞれも十分に風情があり、一つ一つが秋の貌(かお)をしている。
    『彼岸花沈む』
    庭の南側の片隅に彼岸花が一本咲いた。利休梅の緑の葉の下で、炎が燃えているようにそこだけが赤い。植えた記憶は全くない。いつか入れ替えた土に、球根が交じっていたのだろうか。住宅が密集しだした最近の我が家の周辺では、自然の変化にずいぶん疎くなった。車の往来が多く排気ガスも激しい。
    結婚と同時に住んだ三十五年前は、竹薮と無花果(いちじく)畑に囲まれていた。道路は地道で狭く、民家も少なかった。家の前を細い谷川が流れていて、夜はクーラーなど不要だった。信長を討った光秀が、逃亡中に小栗栖の長兵衛に殺されたという伝説の、その小栗栖街道沿いである。茶所の宇治が近い。
    九月も半ばとなると、竹薮の片隅や田圃の畦道に彼岸花が五本六本と見られる。長い帯のような群生ではないが、それでも、確実に秋の訪れを知ることが可能である。
    彼岸花は曼珠沙華ともいう。梵語で<赤い花>の意味らしいが、まさに燃えるような赤色が特徴である。鹿児島だったかに白い彼岸花の咲く所がある、と何かで読んだ記憶がある。なぜ白い花が群れて咲くのかは知らない。ただ、想像する景色は、異様な雰囲気を感じる。一度見に行きたい気もするが、やはり、彼岸花は赤い色に限るように思える。
    近頃は、西洋系のヒガンバナ科の花が園芸店で何種類か売られている。ネリネとかイスメネなど耳慣れない名前で、白や黄色にピンクやスカーレットなど、実にカラフルである。草丈も長く、変化に富んだ形の花は中々優美でさえある。こうなれば好みの問題だろうが、私には、ヒガンバナはやはり深紅の色が目に浮かぶ。
    先入観だろうか。そういえば「赤い花なら曼珠沙華……」で始まる印象的な歌があった。『長崎物語』という曲名である。混血の<じゃがたらお春>の恋心を、小学生の私は意味も知らずに、ラジオで熱心に聴いたものだ。今でも心の底に残る歌である。
    曼珠沙華を歌った曲はほかにも一つ、ずばり『恋の曼珠沙華』がある。二葉あき子が「ああ切なきは、女の恋の曼珠沙華」と、哀調溢れる節回しで熱唱していた。どちらも終戦前後から流行したようだが、熱烈な花のイメージを強く焼き付けられたものだ。
    白秋の『曼珠沙華』では「血のように」と表現している。さらに「恐や、赤しや」と詠う。この詩を知ったのは高校生の頃だが、彼岸花はやはり、鮮烈に赤い。そして、<b>「かたまつて曼珠沙華のいよいよ赤く」 。山頭火の目にも、また、彼岸花はあくまで赤い。
    長女が小学校一年生の時に描いた絵が、教室に貼ってあるのを見たことがある。運動会の日だったが、娘の教室へ入ってみた。児童達の描いた彼岸花が、壁一面に咲いていた。クレヨンで描いた彼岸花は、明るく伸びやかだった。娘の絵は、クローズアップで花弁や蕊(しべ)を克明に描いていた。他の絵もよく似た構図で、それぞれの色は、真紅朱色やピンクなどずいぶん感覚的な絵が多い。
    昔の私なら、畦道に咲く花の遠景を写生しただろう。運動場から聞こえる子供達の歓声が、私を遠い日へ誘ってくれた。

  4. 道草 より:

    (続)
    「舂づける彼岸秋陽に狐花赤々そまれりここはどこのみち」(木下利玄)。
     かつて、戦争で疎開してそのまま居着いた丹波の宇津村では、そんな牧歌的な光景が至る所で見られた。昭和二十年代の頃である。黄色く波打つ稲の穂が広がる中を細い道が横切り、道の両側には真っ赤な彼岸花が咲き乱れていた。舂づく(夕方の)残照が、稲穂の黄色と彼岸花の赤い色をいっそう鮮やかに浮かび上がらせている。薄れゆく青空には、無数の赤蜻蛉が飛び交っていた。
    追い駆けっこをしていた友達の姿が見えない。いつの間にか、知らない道へ来てしまっていた。薄暗い藪陰に、ひっそりと藁葺き屋根の家がある。もう裸電球が灯り、夕食の支度だろうか、軒端の欠けた煙突から細い煙が漂っている。こんな所に家があったのか。
    彼岸花の咲く道には、狐が出るという伝説がある。そういえば利玄の歌に、「曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出るとおもふ大人の今も」と詠んだのもあった。秋の落日は早い。背中がひんやりとしたのは、夕方の風のせいばかりではなかった。
    曼珠沙華が正式な名称なのか。狐花・燈籠花・捨子花・幽霊花・死人(しびと)花など、様々な呼び名があるようだ。なぜか死を連想させる名が多い。口丹波では彼岸花と呼ぶ。なるほど山頭火も、「彼岸花咲くふるさとは墓のあるばかり」と詠んでいる。「ここを墓地とし間曼珠沙華燃ゆる」という歌もある。球根には毒があり墓地にも咲くので敬遠されがちだが、よく見ると可憐な花である。真っ直ぐに伸びた蕊は健気な感じさえする。
    戦争中は、学校で彼岸花の球根剥きが日課になっていた。上級生が掘って来た球根を、下級生が筵に広げて皮を剥く。薬用として供出したのだが、手が真っ黒になって臭い匂いが服に染み付いた。そのうえ、単調な作業はまるで面白くなかった。ふざけて球根をぶつけたりしているうちに、本気でつかみ合いの喧嘩になったものだ。
    宇津小学校の秋の遠足は、毎年、彼岸花の咲く頃にあった。在所の栃本では朝の六時はまだ暗い。法栄さんのお母さんが提灯を灯して、向かいから節子さんと早川君の三人を送って来られた。上宇津は柏原の忠夫君と小美さん幸子さん、弓槻の一民・正志の両君に操子・久子・雪枝さんの森口三人娘を待って中地の学校へ出発する。六年生の遠足は隣の郡の天若小学校だった。山陰沿線の殿田小学校の分校である。下ろし立ての藁草履が、しっとりと朝露を吸った。リュックには予備の草履をもう一足ぶら下げている。番茶の入ったアルマイトの水筒も、その日は全然重くない。
    当時の宇津村は、大堰川沿いに二百戸ばかりの農家が細長く点在していた。川下の下宇津から安倍貞任ゆかりの貞任峠を越える十キロが、遠足のコースだった。同級生は総勢二十八名。担任は新婚間もない安威繁己先生で、いつも穏やかで優しかった。
    峠の上り口から、直ちに三十六曲がりの急坂になる。山は楓(かえで)や櫨(はぜ)や漆(うるし)が紅葉を始め、木々の下を行く私たちも柔らかな陽光で朱色に染まった。誰からともなく『もみじ』の合唱が流れ出す。「濃いも薄いも数ある中に…赤や黄色の色さまざまに…」歌詞と同じ風景に私たち全員が包まれていた。しかし、登るに連れて歌声も途絶えがちになる。峠の上でやっと最初の休憩になった。オヤツは柿や栗や薩摩芋に芋するめなど、いつも食べている物ばかりだ。だが、遠足となると味は特別だった。
    峠を下って世木村の最初の民家が見える所に、小さな貯水池があった。そこに一人の少女が立っていた。少女は私たちと同じ年頃だろうか。紅い半纏の懐(ふところ)に手を入れて、じっとこちらを見ていた。その顔は無表情で、目は瞬きもしなかった。彼女を知っている者がいて、何か言ってからかった。先生が珍しく恐い顔で注意をされた。だが、少女の顔には何の反応もなく、私たちを黙って見送っている。池の周囲に彼岸花が群生していた。紅い半纏の女の子は、まるで彼岸花の精のように静かだった。
    天若分校で待望の弁当になる。中味はとろろ昆布を巻いた、大人の拳(こぶし)くらいの握り飯が定番だった。梅干が入っていれば上等である。〝高級〟な巻寿司を持って来る者もいた。ニヌキがあれば最高だった。その頃は、田舎でも玉子は貴重品である。同じ在所のよしみで、法栄さんと節子さんに一個ずつ巻寿司を分けてもらって私は嬉しかった。
    分校で午後を過ごし帰りに池の横を通った時は、朝の少女はもういなかった。傾き始めた秋の日に、池の端の彼岸花だけが赤く染まっていた。疲れた足元を吹き抜ける風が冷たい。貞任峠の上の空を烏の鋭い声が過(よ)ぎっていった。

  5. 道草 より:

    (続々)
    翌年の晩秋の頃、私はもう一度その少女に出会っている。十一月の終わりだった。鍼灸師の父の仕事に着いて世木村山へ行った。峠には枯れ葉が敷き詰め、道端に薄紫の野菊が咲いていた。霜柱を踏んであの池の横を通る時、私は密かに期待していた。そして、運良く少女を見つけたのである。
    彼女はやはりあの紅い半纏の懐に手を入れて、静かに立っていた。私は少女のことを父に説明しようかと思ったが、結局は黙っていた。振り返りながら見た寒そうな彼女の姿は、やがて視界から消えた。少女を見たのはそれが最後である。帰りの池の周囲には、霜枯れた彼岸花の残骸だけが残っていた。
     
    小学校を卒業してから、五十年の月日が流れた。私は七年間を宇津村で過ごし、中学三年生の夏に隣の郡の八木町へ引っ越した。古里を訪れることは、めったにない。十年に一度くらい開かれる同窓会で、たまに足を運ぶ程度である。同窓会はいつも春の開催が多く、彼岸花の季節に遭うことはない。今の小学生の遠足は、どこへ行くのだろうか。生徒数も全校で三十名程に減ってしまった。母校は、来年の三月で廃校になると聞いている。
    平成十年の夏、下宇津の下流に日吉ダムが完成した。長年の懸案だった大阪の水甕として、天若地区と呼ぶ一帯の大堰川が塞き止められたのである。ダムは<天若湖>と名付けられ、湖畔にはレストランやホテルが建設されている。新しい道路が通じ、隣町の殿田へは自家用車で十分足らずの距離になった。
    かつての世木村は水没した。沈んだ民家はおよそ百五十戸に及ぶそうである。天若分校もダム
    の底になった。今は、貞任峠を行く人はいない。あの少女のいた彼岸花の池は、跡形も無いだろう。
       ※分割入力の指示通りしますと、内容が後先になりました。謝々。

  6. 文殊 より:

            道草先生
     
     紅い曼珠紗華と紅い半纏を着た少女の思い出は、特にあれこれという説明はありませんが、読む人に強い印象をつけています。曼珠紗華の咲くあの村やダムの水底に沈んだ面影は、最早どこにもなく、縹渺と去っていったものたちへ、深い思いの鎮魂歌になっているのですね。とても感動致しました。コメント返しを書こうと思うのに、凡そ20時間以上も掛かりました。簡略に申し上げれば、山頭火の歌を子守唄代わりに聞いたような、どこか懐かしく、恐ろしく人の心に食い込んで来るような、何とも言えない感動が御座いました。どうしてこのような文章が書けるのでしょうか。しばらく読まないと、何度でも読んでみたくなるような、そんなインシュリンのような作用がある文章なのでしょうか。私の魂がきっと求めるのでしょう。
     
     自身を突き放して書かれることの凄さは私にとっては大変にいいお手本です。大袈裟に言えば、何もかもに対して、一見どうでもいいような諦念があって、それでも尚そこに何か確かなモノがあって、繰り返し、遠い紅い花や遠足や、お友達の名前まで鮮やかに浮かんで来るようで、それは阿弥陀如来佛の後光のように煌く宝石の如く光り輝いているのでしょうか。あの紅い半纏の子はどうしたのでしょうねぇ。紅いベベを着られるような場所に行ったか、或いは近在の農家の奥さんになられたか、確かに少年の時、似たような女の子は誰にでもあるようでないようで、鮮やかな思い出だけがいとおしく、時には辛くなったり、ほろ苦くなったりしているのでしょうか。
     
     今日の東京も真夏のような暑さです。明日から涼しくなるという話題があるようで、やっとこさでしょうか。もうじきに中秋の名月が来るというのに、そろそろ暑さから開放されたいですね。仲秋の名月とは満月ではないと、次のBlogの記事には書こうと思っておりますが、根が文学的ではない私は啓蒙的な文章で手一杯であります。今日の散歩で白い曼珠紗華を、先日の場所で見つけましたので、メールにて送らせて戴きます。
     
     折角の文章なのですが、どうしても長くする方法を知りませぬ。このままでも充分皆様が楽しんで読まれるものと信じますし、既に幾つかのメールも届いております。本当に先生のような方から、このような素晴らしいコメントを頂戴し感謝にたえませぬ。とても光栄なことです。本当に有難う御座いました。どうぞお身体には充分お気をつけられて下さりませ!
     

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