神嘗祭(かんなめさい)

正宮

 

 

                   神嘗祭(かんなめさい)

 

 本日は、伊勢の神宮で神嘗祭が奉られる。神嘗祭とは伊勢の神宮と宮中の祭りで、その年の新穀を天照大神に奉る行事である。古来より宮中より神宮へ幣帛使(へいはくし=へいはくとは神に奉納する物の総称で、その宮中から神宮への使い人のこと)が派遣され、新酒と神饌が授けられ奉納されて来た。明治以降皇居の賢所(かしこどころ=宮中神殿)でも、神嘗祭が行われ、神嘗祭の儀式に先立って、天皇が伊勢の神宮の方角へ神嘉殿南庇にて遥拝する。神嘗(かんなめ)とは「神の饗(あえ)」が変化したもので、饗(あえ)とは食べ物でもてなす意味であり、新穀を意味する贄(にえ)の意味でもある。20年に一度行われる式年遷宮は、この神嘗祭が大規模になったものと考えられる。

 伊勢の民衆は神嘗祭に際して、「伊勢のおおまつり」が行われる。この13日から今日までで、日本各地からやって来た各地のお祭りが奉納され、奉祝一色に染まり、賑やかな祭典が行われる。昨日16日、伊勢の民衆(神領民)によって五十鈴川では、「初穂曳き」の川曳きが行われ、今日に合わせられている(http://www.iseyeg.jp/saijiki/10.15-hatsuho.htm 初穂曳き)。 又今年の全国のお祭りでは下段のような祭りが選考され、伊勢で奉祝の行事に参加する。

  http://www.ise-kanko.jp/html/event/oomatsuri.html (伊勢おおまつり)

   阿波踊り (徳島県 みやび連)
   花笠踊り (山形県 四方山会) 
   沖縄エイサー (沖縄県 天願青年会)  
   郡上踊り (岐阜県 伊勢神宮郡上踊り奉祝実行委員会) 
   木曽踊り (長野県 木曽踊保存会)
   越中おわら風の盆 (富山県 若林美智子社中) 
   じゃこっぺ踊り (志摩市 伊勢えび祭保存会)  
   伊勢音頭 (伊勢市 伊勢音頭保存会) 
   諏訪御柱木遣 (長野県 下諏訪町木遣保存会)  
   神宮奉納神輿 (伊勢市 祭遊騎・伊勢みこし連) 
   おんぽい節 (岐阜県 おんぽい節保存会 よさこい踊り (高知県 ほにや) 
   西馬音内盆踊り (秋田県 西馬音内盆踊り愛好会)  
   尾鷲節 (尾鷲市 渡辺二三子) 
   関東木遣り (埼玉県 越谷市木遣保存会)

 などであり、祭りの少ない我々都会の人間には垂涎の的となっている。よく考えてみると、神嘗祭は日本人の心の故郷である。日本人の神々には、稲魂(いなだま=稲の神・民族の神)・氏神(うじがみ=一族の神)・祖霊(それい=個人の先祖霊)と大きく三種類に分類されるが、中でも稲に対する敬虔な信仰や願いが最も強かったのである。古来から万民の等しい祈りであったのでしょう。その祭祀を司る長が天皇であり、戦前までは国民休暇の日であったことが、そのことをうかがわせる。

 それがどうだろうか、農業のグローバル化に従って、減反政策から始まり、稲作への国家的理解度が薄まって来ている。荒地が広がり、非農地で、草が伸び放題で茫々としている様は、この国の将来を暗示しているかのようだ。度重なる農政大臣の不始末、あのバンソウコウ大臣!嘆かわしいのひと言では済まされまい。営農者の高齢化が進み、四反以下の営農者は切り捨てられそうになっている現在、この国の将来的農業のあり方こそ、今日ほど危機に瀕しているのではあるまいか。自給自足率が30%と極端に下がり、日本人の特性や伝統までが浸食されようとしている。世界の何処かで風邪を引いたら、台所に直撃する仕組みに出来上がっている。荒地があるなら、営農者以外農地転売が出来ないようにしている現行法を一部見直し、広く営農者を募る方法もあるのではないだろうか。田舎住まいを希望する方々は若者にまで広がりを見せている。そしてそこでガソリンに代替出来るエコ燃料の開発をしてもいいじゃないか。一方厳しい規制規制で雁字搦めの状況は、一見営農者を保護して見えるようだが、逆に首を絞めているようでもあり、どうしても納得出来ないのである。今年も又神嘗祭をお迎えし、様々に痛恨の極みである。豊年満作を祈る必要がなくなってから、田圃のお祭りが激減した。日本人の個性と特徴と伝統と文化を無視し、何処へ走って行くのだろうか。百年千年の禍根を残すのではないだろうか。五穀豊穣の祈りは日本人の心そのものであったと。

 昨日の初穂曳きに、例年だと赤福の連中が大勢参加していた。だが今年の初穂曳きにはたった一人も参加していなかった。いいや参加出来なかったのである。「赤福お前もか」であり、雪印事件から一つも学習していないことに大いに驚くと同時に腹が立ち、食の安全への危機感が、改めて弥が上にも高まって来ようと言うものであろう。儲けが出れば何をやっても構わないと言う嫌な風潮はただただ情けない話である。美徳に満ちた美しい日本人の原点に回帰し万民と歓びを一つにする、この神嘗祭を通して様々に深く考えたいものですね。

                                        

                     『天地の歌』
                          本居宣長
          雨降れば 井堰を越ゆる
          水分けて 安く諸人
          下り立ち 植ゑし群苗
          その稲よ 真穂に栄えぬ

 

       日本の国土は五穀豊穣で栄えあり、万物が春の様相でありたいものです。(硯水亭)

 

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神嘗祭(かんなめさい) への4件のフィードバック

  1. 道草 より:

    昔は新嘗祭という祝日があり、今は勤労感謝の日ですか。何だかこじつけの気がしますが、休日なので施行以来文句は言いませんでした。神嘗祭は昔からあまり馴染みがありません。いずれにしても、日本古来からの稲作に深く関連しているのでしょう。現在では早期栽培が進み、私の古里の丹波では、稲刈りは9月中で既に終わっています。私の居た在所(宇津地区)の例では、かつて1000人だった人口は今は550人に減りました。あと50年もすれば300人を割ります。そして、更に50年経てばおそらく廃村になっているでしょう。ここ10年間の新生児はゼロで、65歳以上の人口は60%を占めるに至りました。他の在所も似たり寄ったりの状況で、京都府には臨界農村が何箇所もあります。
    農村の疲弊の最大の原因は、米が売れなくなったからです。米が売れないと農業では生活が不可能です。米以外に主食は多様化し、一部のブランド品を除いて米の需要は激減しました(硯水亭Ⅱさんは、こしひかり以外の米を食べますか?)。50年前に比べてサラリーマンの初任給は10倍になっていますのに、米価は2倍に過ぎません。この現状にあって、農業を引き継ぐ者が居なくなるのは当然でしょう。それでも、当時の私の古里では、農業の後継ぎをした同級生は4人(男性12人の内)おりました。ただ、丹波の山村では農業だけで生活を維持することは難しく、冬場の林業との兼業です。その杉材も外材に押されてまるで売れなくなり、現在の若者はほとんど全て高校を卒業すると進学か就職で市内へ出ます。かくて米作の村は、やがて訪れる廃村へ向かって歩むしかありません。
    村には空き家が何軒もあり、その気になればいつでも借りられます。また、ログハウスを建てて日曜菜園にリースもしています。しかし、遊び半分の都会人が何人来ても、米作りなど出来るはずもありません。政府が推奨するデ・カップリング政策にしても、指定(面積・作物・手段等々)に従う必要があり、受け入れたくても高齢者では気力・体力・資力等の面からとても対応が不可能である、と友人は嘆いています。120世帯ばかりの古里にあって、この政策を実践しているのは40歳代の男性が居る2世帯だけとのことです。
    「やまびこ学校」で一生を風靡した無着成恭氏は、「先生は逃げた」と教え子でただ一人の農業に従事する佐藤藤三郎氏から糾弾されています。あの「やまびこ学校」すら崩壊して、現在は跡形もありません。今や、ブランド品中心の一部の富(豪)農を除いて、稲作りの農業のみで生活を支えることは絶対に不可能です。
    米が500kg収穫出来るが赤蜻蛉は10匹しか育たない田圃よりも、米は300kgしか穫れなくても赤蜻蛉が5000匹生まれる田圃とどちらを望むかと問われれば、私は非農家で無責任な立場とは申せ、日本人として後者を希望します。しかしながら、そんな理想論にさえ対応し得ず滅びるに任せるしかない農家の多いのが現状であり、私の同級生もその一人です。下記の詩は昔の農家の実態です。それすら過ぎ去った過去の姿となりつつありますが。
     
    「雪の中で」   猪狩満直
     
    さあ
    来年の種物まで売つて了(しま)はねばならない
    この貧乏百姓
    人間の生活なんかありやしねい
    小屋いつぱいの寝床さ
    子供は小屋の中に一日中つなぎ馬だ
    おれだちはからだごしらぶちこんでその日を送る
    夕べぐつたり疲れて床にぶんのめる死人だ
    寒気と飢と、否
    おれだちは土の親しみから引きはなされた
    ………………………
    甘い夢をむさぼる奴はむさぼれ
    おれだちには火のやうな呪がある
    おれだちには石ころのやうな決意がある。

  2. 文殊 より:

          道草先生
     
     先生が仰る通りです。そこまで農政は疲弊しています。普段私は田圃の全く見えないところで生活していて、何をほざいているのだと言うお気持ちで御座いましょう。それには全く反論など出来ません。ですが多くの営農者とのお付き合いがあります。私なりに幾らか勉強をしているつもりですが、先生のように強かな実感を伴っていないかも知れません。反論ではないのです。ですが、やや論点を離れてはいないかと少々不安に思いました。私が申し上げたかったのは、稲作の現状だけではなく、日本人の文化の根源としての稲作でして、ちょうどいい比較対照はフランスです。ブルゴーニュでもあのシャンパーニュ地方でも、現在ワインが売れなくて困っています。ご存知かと思いますが、フランスも日本と同様に農業立国です。小麦や葡萄農家が数知れず、フランスはフランスでワインが売れなくなって、ワイン農家の文化の危機を訴えております。
     
     どの国にも特産物と言うか、その国を語るのに、最も早い農業の産物があります。そしてそれぞれにその産物によって、それぞれの文化が大きく違っています。そんな折に、日本のグローバル化を考え、日本の農政に幾らかでも提言出来るとすれば、稲作による文化以外にないことは明白です。殆どの国家は農業を基盤にして構築されているのでしょう。ローマ帝国からもたらされ、いつしかフランスの文化そのものになったワインの歴史と文化を思う時、日本における稲作文化を思わざるを得ないのです。万一フランスにワインがなかったら、何を語ればいいのでしょう。フランスもワイン以外の飲み物に浸食されています。スコッチだったり、ウォッカであったり、大変な多様化の時代で、ワインは国民からやや離れつつあります。
     
     日本においては米が食べられなくなったと言う大きな要因があります。古来のような単一な文化であり得なくなっているのでしょう。先生の仰られる通りです。でも今回話題にさせて戴いたのは、それぞれの国家における農産物と文化と言う視点です。農業の現実をさておいて何を言うとお叱りを受ける覚悟で申し上げることを許されるとしたら、日本の農家の現実は現実として、稲作における日本人の文化は色濃いものだと信じていることです。
     
     農政で、最早ばらまきの農政は許されないでしょう。従って農政にも構造改革が必要であって、確かなカタチで農政がちゃんとして戴きたいと願って止みません。永年の農政でばらまき的な農政もありましたが、瀕死の重症の農政に対し、今最も必要な事柄は、各種規制を排除し、もっともっと積極的な農政でしかなく、受身のカタチでの農政は一切罷りならないと言うことではないでしょうか。私はお米は大好きです。一人で一日当たり二合のお米しか食べておりません。でもコシヒカリだけ食べているのではありません。茨城の農家から出るササニシキも、北海道産のヒトメボレも食べています。但し殆どの場合は十五穀類の雑穀を合わせて炊いておりますが、お米は大好きです。そして夜は酒米の山田錦の吟醸酒を戴いております。
     
     最も申し述べたいことは、それぞれ各国の基本的な主食によって、それぞれの文化が育まれることだと言うことです。政治の世界で何ともなり得る問題は問題として、永年培って来た主食による文化をお互いに理解し合わなければ、何も出来ないと言うことです。和食は昆布とカツオと椎茸の出汁です。何でも料理にはそれぞれの特徴があるのでしょう。中国はオイスターソースであり、韓国はチリであり、ベトナムは魚醤でしょう。フランス料理はバターであり、イタリア料理はオリービオイルでしょう。それぞれの国家観は、そんなところから育まれて来るのではないでしょうか。そんな違いを意識し理解することによってしか、経済活動そのものが出来ないのです。
     
     今回誰も話題にしなくなっている神嘗祭をあえて話題に出しながら、農政を槍玉に挙げつつ、国家の品格としての特性を話題にしたかっただけです。どうか半端な農政論議をお許しくださりませ。海外の生活が永くなると、つい日本の故郷的な事柄に話題が行ってしまいます。たくさんの方々のご批判と農業従事者の顰蹙を慮って、我ながらの未熟なる論議を取り下げたいと存じます。本当にご指摘を感謝申し上げます。有難う御座いました!
     

  3. 文殊 より:

            道草先生
     先生が仰られた「米が500kg収穫出来るが赤蜻蛉は10匹しか育たない田圃よりも、米は300kgしか穫れなくても赤蜻蛉が5000匹生まれる田圃とどちらを望むかと問われれば、私は非農家で無責任な立場とは申せ、日本人として後者を希望します。しかしながら、そんな理想論にさえ対応し得ず滅びるに任せるしかない農家の多いのが現状であり」ということは、私も大賛成するところであります。しかし現実は過酷なもので、現在の稲作農家は壊滅状態であるのが実態でしょう。平成8年にお米の自由化が導入され、平均米一俵60キロで20000以上あったのが、価格は凋落の一途を辿り、現在11650円であります。採算分岐点が11000円である農家が大部分である以上、最早最後の処に来ていることは全く疑いの余地がありません。
     あの秋田の大規模営農計画の大潟村で何が起こっているか、恐ろしい現状です。国内では考えられないぐらい大型ですから、当然稲刈り機や脱穀機などの設備投資も大型で必要ですが、価格が下がっている以上大半の営農者は赤字を背負い込んでいます。つまり現在奨励しつつある大型化では何の解決にもならないと言うのが現状なのでして、何の手段もなく、手作業で大型化を図るのかと言うことであります。処がアメリカの米作業者の鼻息は荒く、日本の場合11000円が採算割れに対し、実に3分の1の価格3000円台で、何とアキタコマチが生産されているのです。カリフォルニアのサクラメントでそれは取り組まれておりますが、広大な大潟村より更に数倍も広大であり、とても太刀打ち出来るものではありません。
     日本の場合、標高差があり、極一部の平地での大型営農を除いては皆小型の営農者です。例えば棚田の場合なども大型化は全く無理なはずで、さりとて営農を止めろとは誰が言えるのでしょうか。グローバル化して、安い米がドンドン入って来て、さぁ自由化の時代だから頑張れとは、誰しも言えないのであります。掌をかえしたように、嘗ての農政族もいなくなりました。全くもって、無責任だと断ぜざるを得ません。さてどんな解決方法があるのでしょうか。なかなか難しい政治的判断も求められるかも知れませんが、設備投資などには政府も協力すべきではないかなぁと実感しています。更に営農者は価格競争では負けるけど、日本の米が一番いいと思えるような米作をするはずです。昔のように買取価格を高値で設定をしなくても、補助や援助のやり方があるのではないかと痛感しています。
     兎に角申し上げたいことの一番は、農業をこのまま放置してはならないと言うことであり、お米とは単なる主食と言う役割のみならず、複合的な様々な文化的な意味が大きくあって、それがとっても大切だと思えることであります。お米の役割をもう少しこまめに考えて戴いて、何らかの施策に反映されることを願っていると言うことです。そんなに効率がよくなくても、小さな田圃でも営農出来る施策がいいのでしょう。理想論ではありますが・・・・、何とかならないものでしょうか。

  4. 道草 より:

    この内容を読んでいて、ずいぶん昔に聞いた梅棹忠夫の講演を思い出しました。概略はこうでした。「地球上に棲む人間は、基本的にHumanismの概念に基づいて生きている。異民族であれ人間であるから、侵害や危機にあってはこのismに立って相互の修復・改善を図る。この理念によって人類は発展して来たし、今後もそうあり続けるだろう。しかし、遠い未来にあって、異星の知的生物に遭遇する可能性はある。その異星人の寄って立つ理念はHumanismと異質の概念であって当然である。仮に、そのismが自己以外の生物(この場合人類)を消滅させることにあるとして、人類より遙かに高度な能力を以って地球を消滅させるべく行為を示されても、我々は無駄な抵抗をせずに従容として滅びるべきではないか。それが、地球ひいては人類の運命なのであるから」。
    おおよそこの様な内容でした。要するに時の大きな流れには逆らえない、というある種の達観なのでしょう。肯定・否定はその人の自由であり、私にはこの話しが忘れられないだけです。

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