武蔵野の恐怖

冬の武蔵野(狭山)    

 

 

                

                       武蔵野の恐怖

 

 もう30年以上経つであろうか。母が生きていた頃、母から「国木田独歩の『武蔵野』を探しに行こうよ」と言われ、お弁当とお菓子を詰めたリュックサックを担がされ、それが嬉しくて、何度もそれらしい武蔵野に出掛けたものだった。母は国木田独歩が大好きだからと言っていたが、もう一つ理由があったようだ。母は小説家・小沼丹先生が大好きで、先生が武蔵野の中に住んでいるからだと言っていたかと思う。無論秋のことである。武蔵小金井周辺や井の頭線の奥地や平林寺などが中心であったが、私はまだ幼く、クヌギ・コナラ・シラカシ・マテバシイなどの色んなカタチをした団栗(どんぐり)を集めたり、野生化したお茶の白い花を探し当てた時など、「お母さん、花が花が」と言って、花が好きな母に得意顔になって教えてあげたりした。民家やお寺さんが近くにあった時、石蕗(つわぶき)の黄色い美しい花があったり、梔子(くちなし)の三角の実や万年青(おもと)の真紅の実や八手(やつで)の丸くポンポンした花など、少年のこころをどっぷりと揺り動かしたのだった。どこの庭先であったかまるで思い出せないが、冬櫻の花が楚々と咲いていたのを、今でも鮮明に覚えている。

 随分後から知ったのだが、そもそも武蔵野とは第二次大戦後になってから急激に無くなって来て、僅かにその残像のような小さな雑木林が所々に残っているだけに過ぎなかったらしい。それでも母は小規模だが、武蔵野らしい雑木林の中で、柔らかな秋の陽光を浴びるのが大好きであった。その日西武池袋線に乗って秩父を目指し、途中の仏子(ぶし)駅周辺を歩いた時だった。今では武蔵野音楽大学があるらしいが、そこは平坦地ではなく、小さな山があって雑木林がある。その山を越えたところに入間川が流れていると言う風景だったと思う。冬が近づいていた。いつものように雑木林を散策していると、ぎょっとするような出来事に出逢った。その不思議な不気味な光景は多分終生忘れられないものに・・・・・・・。

 木の枝に、蛙やトカゲやコオロギやトンボ、果ては蛇までが無造作に突き刺さっていた。私は余りの残酷さに驚き、母に知らせ、抱きついて泣いてしまったと思う。これは酷い、悪戯などではない。きっとこの辺には林の魔物が住んでいて、生きているモノ達に怨念を持って闘い挑み続けているに違いないと確信した。私の寒気が永遠に続くと思われ、早く雑木林から脱出したかった。最初母もしげしげとそれらを観ていたが、その時頭上で甲高い悪声の鳥の鳴き声。「あっ!これ百舌(もず)だわぁ、きっと百舌の仕業なのよ」ときっぱりと断言した。「そこを飛んでいるでしょ、そこそこ!雀より大きくて、尾っぽが長く、曲がった嘴(くちばし)をしてるその鳥よ!キチキチっと甲高い声を出してるでしょ、彼の仕業よ」とほんのり微笑んでいた。何故こんな怖いことに平気なのか。私はその時の母の微笑が全く理解出来なかった。更に母は続けて言う。「百舌はね、昔は沓(くつ)職人だったの。或る時不如帰(ほととぎす)から沓を注文されていたのに、すっかり忘れていたのね、そこで不如帰は大声を張り上げて催促して廻ったの。それが堪らなくなった百舌は不如帰が来る前に、蛙や虫をプレゼントとしてこんなことをするようになったんだよ」と。私にはその伝説か何か知らないけれど、そんな話をされたって恐怖感が一向に収まらなかった。その後母には悪いことをしたなぁと今でも痛念しているが、二度と母と雑木林を巡る散策に同行することがなかった。

 後年二つのことに出逢った。一つは日浦勇氏が書いた『自然観察入門』と言う本である。そこに百舌のその習性について書かれた記事が載っていた。「① 食肉動物にありがちな『屠殺の遊び』、② 捕殺することに興味が強く、必要以上に捕ったモノを挿している行為、③ 足や爪が強くないので獲物を掴んで食べるのが難しく、枝に刺して嘴(くちばし)で千切って食べるが、人や敵が近づくと逃げてしまって忘れてしまう、④ 食べ残しの保存方法、⑤ 食物の乏しい季節に備えて貯蔵しておく、⑤ 縄張りの表示」と書かれてあった。この犠牲者は何と230種類にも上り、それらが挿された位置が高いと積雪が深く、低い時の積雪は低いと言う。一種の自然暦と観るべきだろうとも書かれてあった。

 もう一つはこうした百舌の習性を書いた創作に出逢ったことだ。水上勉原作の絵本『ブンナよ 木から下りて来い』である。水上先生らしく、生類の哀れな営みが描かれてあったが、この原作を脚色し、劇作として再生したのが小松幹生で、青年座の最も得意なレパートリーの芝居になっている。更に近年オペラとして音楽化されたと聴いている。小松氏の脚色は大胆であり図抜けており、原作者より遥かにいい出来であると評判が高く、私も一度その芝居を見せてもらったことがあった。ヒューマンな物語で、百舌が主人公ではなく、百舌から狙われる蛙のブンナが主人公で、如何に百舌が残酷な鳥であるかを、目の当たりにして、永年の思いが沈静化し溜飲が下がったような思いをしたのであった。ひょんな機会で、小松幹生氏自身に逢って、水上先生との脚色時の駆け引きや演出の時まで口出しする水上先生のことや名作の舞台である『ブンナよ 木から下りて来い』の登場の本当の経緯を直接伺ったことがあった。そして最も驚くべきことは、小松先生が現在お住まいの住居は、いつの日か母と行ったあの仏子駅近くであると。

 実は夕べ、久し振りに母の夢を見た。会社に出社する前に、母の仏壇へ、母の享年分の数だけ色とりどりの薔薇の花を翳して来たのだった。

 

 

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武蔵野の恐怖 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    丹波の森林の中でこそ駆けずり回りましたが、武蔵野を私は実際には知りません。ただ、過去には書物や詩歌で読むことはあっても、それだけで想像するのみです。百舌鳥の生贄ですか。悠久の大自然の中にあって母上は毅然として、わが息子へ生きて行くことの有様を教えられたのでしょう。もっと長く、さらに永く、共に生きて行くことを信じて。
     
    「丘」   西条八十
     
    武蔵野のはてに
    ただひとつ
    横ほれる丘よ、
    寂しき丘よ、
    もの言わぬ丘よ。
     
    夕(ゆふべ)のぞめば
    星あかり、
    白昼(まひる)うかぶ
    雲あかり。
     
    青空のもとに
    風わたれば
    しみじみと草ゆれて
    懐かしき人の
    横顔にも似るその丘よ。・・・
     
     
     
     
     

  2. 文殊 より:

          道草先生
     
     武蔵野は未だにその名残を留めている箇所が数が少なく規模は小さいのですが、どうやらあるようですが、昔日のような大規模な雑木林は皆無になっています。その大規模な面影を探しに、いつでしたか長塚節の『土』に登場する茨城県水海道(みつかいどう)付近を、主人と歩いたことがありました。時々NHKの大河ドラマにも登場して来る場所で、まさしくそこは武蔵野の面影でいっぱいでした。コナラやクヌギの雑木林で、ちょうど今頃だったでしょうか。芝栗を取ったり、アケビを取ったりして遊びました。山の芋を取るべく奮闘もしましたが、途中で敢え無くプツンと切れてしまいました。自然の造詣の深さと慈愛に満ちた陽光が、あの時のように暖かいものでした。うず高く積もった腐葉土の踏み心地をよぉ~~く覚えております。母が教えてくれた自然への畏敬の念は、私の財産だと思えてなりませぬ。
     
     今宵も夢の中で、母に逢えたらと思う時が時々あります。妻もきっと我が母を慕ってくれているはずです。
     

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