尊い人の命と通過儀礼

七五三

 

 

                                               尊い人の命と通過儀礼

 

 昨夜ハイビジョンで、月から送られて来た地球を観た。地球はブルーに染まり何と美しい星なのだろう。全天体の中で屈指の美しさと言っても過言ではない。稀に見るその美しき地球に、数多ある生物の中で、特に人として生まれ落ちた幸せを強か痛感せざるを得ない。何と言う奇跡だろうか。神佛のなせる業としか微塵も思えないのである。まさに有難きことであろう。その人間は寿命を全うしてか、不幸にも病か事故か事件かで、大切なイノチを途中で落とすことが多い。最近のニュースでは連日驚天動地の、あってはならない事件・事故が報道され、涙の枯れる暇すらないのが現状である。不幸の極みであり、何と言う勿体無さであろうか。

 人として生まれ、そして死ぬまで、古来日本には通過儀礼と言う習慣・習俗が営々として受け継がれて来た。単なるカタチじゃないかと近年益々軽んじられる傾向があるが、それでは人が生まれる時も死ぬ時も単なるカタチなのであろうか。確かに型であるのだろう。生まれて来た子供が成長をする、そして成人になる。数々の艱難辛苦に耐え、歓びも哀しみも幾年月、やがて死を迎える。それはどんなに美しいこの地球に生まれて落ちても、人は避けることは出来ない事実であり、その時々の通過儀礼は、私達の人生への肯定的な歌であるに違いないのである。荒っぽく言えば社会通念として、型より入って型より出るのが通常であろう。

 生まれてから間もなくお食い初めがあり、初宮参りがある。その後七五三の通過儀礼があるが、地方によっては結婚式並みに資金が掛かる地方もある。そこまでしなくても多分誰しもが七五三ぐらいは経験があるだろうと思いたいのである。明日11月15日、その七五三の日である。以下『櫻灯路』の七五三の記事を参照してもう一度書き出しておきたい。

 毎年十一月十五日は、三歳・五歳・七歳の男女児を伴い、神社にお参りをする風習を、七五三の祝い、略して七五三と言っている。年齢は数え年だが、年齢と性の組み合わせは、土地によってまちまちである。男の子は五歳、女の子は三歳と七歳とか、男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳と言う具合である。然し最近では、やけに華美で趣向をこらした服装で、妍(けん)を競うお宮入り、どこかの商法にはまっているままのようである。七五三のしきたりは、江戸は元禄年間の華やかな時代に、商業の発展とともに生まれたものだから、仕方がないのかも知れない。言わば都会の風俗として、生まれたものであったから この祝いはそんなに古い習慣ではない。

 

          三歳の祝い

 然しだからと言って、まったく根拠のないものとは言い難いのである。武家社会中心で、江戸時代に成立した儀礼であるが、地方ごとに違う風習。或いは身分ごとに違う幼年期の通過儀礼が様々にあって、複雑なそれらがまとまって、総合的に便宜的に、七五三を創り上げたと言っても過言ではあるまい。先ず三歳になると、男女ともお祝いをする地方が多かった。その一つはヒモオトシ(紐落とし)オビムスビ(帯結び)などと呼ばれているものである。それまでは紐をつけて結んでいなければならなかったのが、紐が取れるようになったお祝いであり、又紐なしで、自分で着物が着られるようになったお祝いでもあった。又カミオキ(髪置き)カミタテ(髪立て)などと言って、初めて髪を結ぶ儀式を行う地方もあった。これは昔は生後二年余くらいは男女とも頭の髪を剃っておく習慣があったのを、三歳になったと言うことで、髪の毛を伸ばす式を行い、氏神にお参りをすると言うものである。三歳の子が選ばれて、神社の祭礼に、お稚児さんとして正装し参加することも多くある。このように三歳と言う年齢は、どうやら無事に成長して行ける目途が立つ年齢であった。初めて紐のつかない着物を着て、それも晴れ着を着て、髪を子供らしく結び、母親などに連れられて、氏神に参詣し、その後親戚廻りをする。或いはお稚児の役目をすると言うこともあるわけで 十一月十五日が、そのお祝いの日に当てられていた。或いは、その祝いの日がお正月であったり、二月のいい日であったり、土地の氏神の大祭に合わせるなど、三歳に固定せず、三・四歳にした地方があるくらいである。又地方によって、結婚式の披露宴並みに大袈裟に子供を披露する地方もある。

 

          五歳の祝い

 五歳になると 男の子は一般にハカマギ(袴着)とか、カミソギ(髪そぎ)とか言う儀礼を行い、初めて男の着物を着る。それまでは、男の子と女の子と言う区別はなかったのである。これに対して、カツギソメ(被衣初め)を行う地方があるので、必ずしも男の子だけのお祝いではなかったようである。それにしては、男の子のハカマギは特に有名であろう。一族の人望のある御仁に、袴親(袴着の親)になって貰い、五歳の男の子を吉方に向かって立たせ、麻の裃(かみしも)を着せ、袴をはかせる。この間、子供は碁盤の上に立たせる。この儀式が終わると、皆で氏神詣でを行い、その後親戚一同で祝宴となる。皇室では、着袴の儀(ちゃっこのぎ)と言うのがあるが、ちょうどこれに当たるのであろう。

 

          七歳の祝い

 更に進んで七歳の祝いは、幼年期最後の通過儀礼として、男女とも重視された。幼年期を過ぎて、ようやく少年少女への出発点と言う特別な思いがあったのだろう。女の子の七歳の祝いは、オビトキ(帯解き)、又はヒモナオシ(紐直し)と言って、今までの子供らしい帯を捨て、初めて女の子らしい帯を結び、それにふさわしい着物を着るようになる。男の子のハカマギと同じように、吉方に立たされ、一族の名望のある人間に晴れ着を着せて貰う。式後氏神に参拝し、終わってから祝宴が開かれる。それらが、統一された通過儀礼として、江戸時代に流行ったものと考えられていい。一種の商業主義の影響を受けるのは止むを得ないのかも知れない。従って七歳の通過儀礼は男女児共通のものが多く、たくさんの儀礼が地方に残されている。正月七日に、七歳になったばかりの男の子・女の子が盆を持って、近所の家々を廻り、雑炊を貰って食べる。これをナナトコイワイ(七所祝い)ナナトコゾウスイ(七所雑炊)などと言い、南九州一帯で行われている。運がよくなるし、気にならないと言わ、地域の多くの家々が協力して、地域の子供達の成長を祝う行事になっている。その他『七草祝い』と言って、正月七日に、数え七歳になった子供達が、氏神に参詣し、神主に拝んで貰うと言うもの。 『七草もらい』と言って、親戚知人宅を廻り、下駄などを貰うものも、或いは『七小屋廻り』と言って、七歳以上の子供達が集まって、村の共同小屋を廻って歩き、子供組に加入する儀礼をする。 そんな様々な七歳児の祝いの儀式が、断片的ではあるが、数多く残っているのである。七歳までの子は『神の子』とさ、大事に育てられ、七歳以前で死んだ子は「よみがえり」を信じて本葬を出さない地方もあった。以上のように、子供達が七歳になって初めて子供として一人前に扱われるのである。それまでに三歳、五歳と言うように区別をつけて、成長を確認して行く風潮が強かった。それは農耕民族の特徴として、共同開発、共同作業の訓練を知らず知らずのうちに、身につけようとしていたのではないだろうか。そうして七歳になると、その子供は初めて氏子として氏神に認められたことになるので、『氏子入り』と言って、氏神に参拝し、神からも人間からも、社会人の候補としてなったことを承認されるのである。そしてこの参拝の日時が、偶々十一月十五日に多かったのである。

 又この日、母と子を守護する産土神(うぶすながみ)に参詣し、安産の祈願や幼児の守護を願う行事も多くあった。七五三の年齢の近辺で行われていたものが、奇数を尊ぶ中国の思想の影響を受けながら、次第に七五三に固定されて行ったものである。七五三で賑わう神社の境内に、千歳飴(ちとせあめ)を下げた子が多く見られよう。飴の断面には、鶴や亀、或いは金太郎などが描かれていて、お米だけで水飴を作って伸ばした晒し飴で、江戸・元禄年間、浅草の飴屋七兵衛が、「千年飴」「寿命糖」として、長い袋に入れて売られたのが最初だったらしいが、どの親も、子供達の幸せと長寿を一心に願って買い与えたものであろう。

 女の子はこの七五三の後、数え年で十三歳になると『十三参り(じゅうさんまいり)』と言う微笑ましい行事があるが、春先の行事なので、又稿を改めることにしよう。 

 近年『ムラ』と言う概念と氏神信仰の崩壊によって、七五三を誰しも行うことも少なくなったが、それでも親心がある以上、それなりのお祝いをしたいものである。決して豪華なものでないのが逆にいいのであろう。と言うのも、折に触れ季節の意味と習慣・習俗の考え方を伝承し、お互いに生きる意味について考えあったりすることが重要な気がしてならない。自分の親の死を、平気で無関係とする都会的な風潮は断じて拒否しなければならない。現代に、あの姨捨山の伝説が生き返ろうとしているように思われてならない危機感があるからである。多くの通過儀礼を通し、その時々に人間同士のを深めて行ければ幸いなのではなかろうか。

 

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尊い人の命と通過儀礼 への3件のフィードバック

  1. 道草 より:

    「通過儀礼」が人がある状態から他の状態へ移行する際のイニシエーションなら、葬式など最大の儀礼かも知れません。「十三参り」は京都では男児も行います。「渡月橋南詰を東に路をとると、やがて嵯峨の虚空藏の名で知られる法輪時がある。男女十三歳になると智恵を授かる為めに參詣する古くからの風習があり、これを十三参りといふ。石段を登ると本堂が見える。當寺には持國天・多聞天立像二軀がある。庫裡の裏にある一基の古石塔は、小督局の塔と古く傳へたものであるが、多寶塔の形式で軒反りや全體の格調は鎌倉初頭を下らぬ様式を示してゐる」(『京都古蹟行脚』川勝政太郎/昭和22年1月)。
    私の時は小学校6年生の遠足を兼ねて団体で参詣しました。帰路の渡月橋の途中で振り返ると智恵が逃げると云われていたので、前を歩いている級友の名を後ろから呼んで振り向かせたりしました。半紙に筆で任意の一字を書いて供養してもらうはずが、我々は団体でしたから省略されて、そのせいかご利益は少なかったのかも・・・。長女は「優」と書いていました。次女は「食」と書きましたので、私たち両親はズッコケました。ご利益あらたかで、彼女は結構食べ物にはうるさいようです。「眉目美しと皆に見られて智恵もらふ」(高浜年尾)。女の子は皆こんな気持ちでお参りするのでしょう。硯水亭Ⅱ家の七五三や十三参りがつの日か、祈っております。
     
     

  2. 道草 より:

    *訂正です:  …つの日か→いつの日か

  3. 文殊 より:

             道草先生
     
     そうなんですか。京都では男性も十三参りをされるのですか。益々もって可愛い行事ですね。いつでしたか、法輪寺の虚空蔵さまの帰り道、女の子の団体に逢ったことがあります。折角授かった智恵を振り向いては逃してしまうとして、渡月橋を渡る時は決して振り向かないものだと思っていましたら、悪戯なんでしょうね、何とかして振り向かせようと、アレコレ手練手管をしていたようで、何人か引っ掛かって振り向いてしまったり、結構楽しそうでしたね。又改めて春になったら書かせて頂こうと思っております。
     
     しかし道草家ではお嬢様お二人ですから、凄く可愛かったでしょうねぇ。しかもそれぞれが違った書だったのですね、大いに笑えました。微笑ましいと思ったからです。親がカクンとズッコケたのも今や楽しかった思い出の大事なひとコマだったことでしょう。京都の十三参りではお嬢様方がよく芸妓はんの真似をするとか伺っております。おはしょりにしたやや大きめの着物に、奥様はお嬢様に似合った服装をされて楽しまれたことでしょう。道草家のホノボノとした雰囲気が何となく伝わって来て、嬉しかったです。お嬢様は十三参りの後も、その着物を着ていたことでしょう。そうやって、次第次第に京都のお嬢様方は着物に馴染んで行くのでしょうね。妻も楽しかったと言っておりました。いずれ私達も最初から通過儀礼をすることになるでしょう。その日が来るのが何とも楽しみで仕方がありません。
     
     今日も素敵なコメントを有難う御座いました。こころから御礼を申し上げます!
     
     

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