松はみな枝垂れて南無観世音~山頭火頌

 

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                     松はみな枝垂れて南無観世音~山頭火頌

 

 毎年3月27日のさくらの日に、主人のご自宅では『櫻忌』が催される。志半ばで果て夭折した方々を、お慰めし供養する法会のことである。その主宰者の主人が一昨年の夏、若くして逝ったのは如何にも皮肉っぽく、全く主人らしくない。櫻忌には多くの文人がいるが、そこに入れる入れないは主人の意向が殆どであった。だがどうしようか迷った時にはよく私に相談された。中でも最も喧々諤々と議論になったのは種田山頭火(1882/2/12~1940/10/11)その人の時であった。金子みすヾや中原中也など山口県人がいて、同じ県人の山頭火だって入っていてもいいじゃないかと主人は主張した。私はあんな酒にだらしない人は相応しくないし、松山・一草庵にて58歳で死んだ時だって、「おちついて死ねさうな草萌ゆる」と山頭火自身、自分の人生にそれなりに満足だった人ではなかったかと言って反論した。遣り残した糊しろが多く残っている人の方が櫻忌には相応しいし、幾つで亡くなったからと言って反対しているのではないと。主人は弱くだらしない人であっても、山頭火には生涯人間的な優しさがあったじゃないか、それが証拠に山頭火10歳の時、自宅井戸に身投げして果てた自分の母親を忘れまいと、母親のお位牌を生涯抱き続けていたじゃないとも。否優しいとは大嘘で、妻や子を冷徹に捨てたではないかと、結局私がプイとそっぽを向くと、主人は私の主張をそのまま受け入れ、山頭火を櫻忌には入れなかった。今やほろ苦い話となっている。

 山頭火は主人が言う通り魅力ある多く自由律俳句を遺している。実に8万数千首というから驚く。ここまで来ると書いたというより、殆ど生理的な衝動ではなかったかと驚く。明治15年生まれで、昭和15年に亡くなるまでの58年間、山頭火には大きく言って六つの不幸がついて廻ったのではないか。第一は齢10歳の時、自宅井戸に入水し自殺した実母の姿を見たこと、第二は父親に似た放蕩で、特に酒癖の悪さ、第三は世俗にまみれた中途半端な出家、第四は自身の不幸なる結婚、第五は躁鬱病患者であったこと、第六は根っからの漂泊者であったこと。句作行(くさくぎょう=俳句を創ること)という業(ごう)を捨て切れないばかりか、それしか取り得がなかったかもと。そんな多くの弱さの持った俳人であった。そこが逆に現代において多くのファンを持っているともいえようか。

 不幸の始まりは大富豪の家に生まれつきながら、父親の放蕩が凄まじかったことからだ。種田家は山口県防府市で「大種田」と言われるぐらいの大地主で、山頭火幼少の頃は使用人に「正さま(正一=種田正一・本名」と呼ばれ、大種田跡継ぎの御曹司として何不自由なく育っているが、明治のご維新頃に活躍した父・竹治郎は善良で、心の大らかな人物であった。然し山口、つまり長州のこの頃の気風は天下国家の為に為す政治家になることが当然のことで、15歳で大種田を相続した竹治郎は人の良さに付け入れられて、心根にもなく又力量もなく次第に利用され世間に出て行ったものと思われる。ところが旧家生まれの人の良さは女癖が悪い方に発揮され数人の妾を作り、忽ち大きな土地も次第に切り売りしなければならなくなった。そんな時に母フサは神経衰弱に陥り悲嘆して自宅の井戸に入水して死んでしまうのだった。正一少年は引き上げられた母の姿を観て驚き、それが生涯のトラウマとなった。竹治郎は起死回生の一策として酒造業に転じたが、酒に合う水は出なかったらしく、何度か酒が腐ってしまう羽目に陥ってしまい、後日父・竹治郎は子供を置いて出奔してしまうことに。五人兄弟のうち、弟の二郎は別な村の養子に出され、末っ子の信一が死亡、残る三人の兄弟は祖母の元に預けられることになった。哀しみの中に少年時代の山頭火は物臭になり、母と同じく神経衰弱気味になり、後の癖はこんな時に芽生えていたのかも知れない。現実に早稲田大学の前身である高等予科に入学するも、一年半いただけで躁鬱病になり、大学部文学科を辞めざるを得なくなった。山口に帰ってもこれと言ってやることはなし、山頭火の鬱病は酒に溺れることでふっと安らいだ気持ちになれた。何もせずふらふらしている身分であったが蔵元としての若干の仕事はしたのだろうか。そこで父が強引に結婚でもしたらいいと、本人(当時26歳)が気の進まぬままにサキノ(当時20歳)と結婚。不幸の上に又多くの不幸を背負うことになるのだった。ツルゲーネフの翻訳を山頭火の筆名でし、俳句や短歌などもするようになっていたが、深酒は嵩じる一方であった。俳人・荻原井泉水に師事、多くの俳人との生涯の交流も始まっていた。一方蔵元には一向に精が出ず、山頭火として雑誌『層雲』を中心としての活躍があった。山頭火34歳にして種田家は破産。父は行方不明。富豪の家に養子になっていた二郎は義縁されてしまう。そして山頭火は仕方なく、一人息子健を連れ、サキノの縁をアテに熊本に逃れた。そこで古書店「我楽多書房」を営むのだが、相変わらずの放蕩三昧。推して知るべしの自堕落に。36歳の時弟二郎は愛宕山中にて縊死。その遺言は「天は最早吾を助けず人亦我輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならぬ。喜ばしき現世の楽むべき世を心残れ共致し方なし。生きんとして生き能はざる身は只自滅する他道なきを。」と書き、熊本の兄の住所を書いて、遺体発見時には通知してくれるように書いてあった。更に38歳の時、義理の兄からの強引な進めで離婚成立。健は母親の手に。それから42歳まで東京と熊本を行ったり来たり。ほろほろ、ふらふら、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、最後はどろどろの態となる酒の飲み方は一向に変わらなかった。酒を通した俳友達との交流。そうして一大転機が生じて来るのである。

 42歳12月でろでろに酔っ払った山頭火は市電に仁王立ちして急停車させる。大騒ぎになった顛末の時、地元新聞記者の機転によって、市内報恩寺に連れられ、これを機に曹洞宗の禅門に入ることになる。翌年2月望月義庵を導師として出家得度し、3月には味取の観音堂の堂守となる。この時出来た句が表題に使った『松はみな枝垂れて南無観世音』である。この句は一種のエポックメイキング的な俳句であり、以前からひと皮剥けたように次第に素晴らしい句が出来るようになって来るのである。但し永く定住するのは山頭火の性に合っていない。滓のようなモノが心に貯まって来るからで、本山永平寺に行くと言って托鉢をしながら出奔。然し行かずにその近辺を托鉢して歩いた.。この時生涯のスポンサーになる炭鉱医師・木村緑平と逢っている。木村には終生度重なるお金の無心が続き、永い永い漂白の旅の始まりであった。時々粗末な庵を結び、句会をやったり、俳人仲間を訪ねてはお金の無心、更に酒の所望。ここで一つ一つ書けないほどの俗世間的な出来事のテンコ盛り!呆れ果て書く気にはなれないほどである。そうして作句三昧の因業の旅から旅へ、そして束の間の定住へ。その繰り返し。山頭火55歳の時、盧溝橋事件勃発。社会は風来坊の乞食を相手にするような時代ではなくなっていた。57歳四国・松山の高橋一洵を頼りに、其中庵から風来居へ移り住んで、更に松山に移住。松山の一草庵が終の棲家に。やりもやったり四国の遍路旅、時々の句会。10月10日いつも通りのメンバーで句会をしたが、酔いつぶれて起きて来なかったのは普段のことで、何も気にせずメンバーは句会を終了。その明け方、気になった高橋一洵は草庵を尋ねて見ると、そこに死後硬直した山頭火が横たわっていた。ポックリ病で逝きたかった山頭火の思う通りの突然死であった。思うに四国は死出の旅路だったのだ。山頭火は大往生したのだった。58歳の秋10月11日未明のことであった。

 

CIMG0106 の補正

                               グラスは小樽・北一硝子社製「さくらの透かし彫」

 種田山頭火は、どちらかと言うと私は嫌いなタイプの人である。悪い意味であまりにも日本的私小説であった。酒の飲み方が大嫌いで節操があまりにもなさ過ぎる。酒を飲む資金の調達の仕方も全く気に入らない。虱たかりで金たかりの歯っかけ爺さんをどうしても好きにはなれないでいる。でも亡き主人に最早抗うこともないはずである。自由律のスッキリした山頭火の俳句は悔しいけれど素晴らしい句で満ちている。更に晩年になればなるほど透徹した凄みを増す自由律の俳句は、種田山頭火も父親似で、ボンボンの人の良さと潔さを感じられてならない。あんなに冷酷になっていた息子の健からの仕送りも平気で受け取っている。困り果て別れた妻に逢いに行くこともあった。3日3晩酒食の世話になりながら、次の日に付け馬することも平気な神経であった。どろどろになった自分を反省し徹底的に自虐的になることも毎度のことで、散々そんな場面が多かったようだ。ただ母親の死は大きく翳を落とし、山頭火の胸のうちに生涯左右していたのかも知れない。そんな意味から言ったら、何とも言えない哀しみに満ちて来るのである。最期を看取った高橋一洵の山頭火にあてた句碑がある(『母とゆくこの細道のたんぽぽの花』)

 今では山頭火のような旅は出来まい。安い木賃宿がないし、行乞でも物乞いでも生きられるほど流暢で平和ではない時代である。今の俳壇では、俳人とて皆それぞれに忙しいはずで、一文無しの乞食(この場合コツジキではなくコジキ)を相手に泊めたり風呂に入れたり虱だらけの衣服を熱湯で洗ってあげたり酒食を提供などしないのではないだろうか。それだけに現代は殺伐とした世間であるのだろう。しかして山頭火にはあれだけの多くの資金提供者がよくいたものである。それだけに山頭火は魅力たっぷりとあったのだろうか。私は好きではない生き方の山頭火であるが、もしひょいと今尋ねて来られたらどうしよう。一句所望し色紙に書いて戴き、その代金を仕払って門口を去ってもらうより他はないのだろうか。多めに出して、へろへろからでろでろまで行ってもらうしかないのだろう。それにしても悔しいかな、自由律俳句の凄さ。山頭火の山頭火たる由縁だろうと思う。その素晴らしい俳句には絶句するのみであり、ここまでしてホンモノになろうとする意欲とは罪業であるのだろうか、それとも罪業なくしてはホンモノになれない意味なのだろうか。私には不思議でしょうがない。でももし主人が生きていたら、もう一度山頭火論を徹底してやりたいものである。そしていつの日かの私のプイを許して貰いたい。今宵は珍しく山頭火の好きな焼酎を戴こうと思う。ほろほろまでに行こう。ああ山頭火、されど山頭火である。

 

 句集『鉢の子』より

 分け入っても分け入っても青い山   炎天をいただいて乞い歩く  生死の中雪ふりしきる   この旅果もない旅つくつくぼうし   まっすぐな道でさみしい   ほろほろ酔うて木の葉ふる   しぐるるや死なないでゐる   わかれきてつくつくぼうし   雪がふるふる雪見てをれば   どうしようもないわたしが歩いてゐる   へうへうとして水を味ふ   法衣こんなやぶれて草の実   年とれば故郷こひしいつくつくぼうし   酔うてこほろぎと寝てゐたよ   鉄鉢の中へも霰   今日の道たんぽぽ咲いた   墓がならんでそこまで波がおしよせて   ふるさとは遠くして木の芽   いつまで旅することの爪をきる

 

 句集『其中一人』より

 てふてふうらからおもてへひらひら   けふもいちにち誰も来なかったほうたる   雨ふるふるさとははだしであるく   ゆふ空から柚子一つもらふ   雪ふる一人一人ゆく   あるけば蕗のとう   やっぱり一人がよろしい雑草   すずめもどるやたんぽぽちるや   ひっそりかんとしてぺんぺん草の花ざかり

 

 句集『行乞途上』より

 けふもいちにち風をあるいてきた   あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ   ほうたるこいこいふるさとにきた   花いばらここの土にならうよ   いそいでもどるかなかなかなかな   いつも一人で赤とんぼ   旅の法衣がかわくまで雑草の風   春風の鉢の子一つ   ほととぎすあすはあの山こえて行かう   笠をぬぎしみじみとぬれ   何が何やらみんな咲いている   あざみあざやかなあさのあめあがり   雲がいそいでよい月にする 

 

 句集『孤寒』より

 だまってあそぶ鳥の一羽が花のなか   とんからとんから何織るうららか   春風の蓑虫ひょいとのぞいた   草は咲くがままのてふてふ   風の中おのれを責めつつ歩く   誰を待つとてゆふべは萩のしきりにこぼれ   雨ふればふるほどに石蕗の花   しんじつおちつけない草のかれがれ   死はひややかな空とほく雲のゆく   死のしづけさは晴れて葉のない木   枯すすき枯れつくしたる雪のふりつもる   うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする   おのれにこもる藪椿咲いては落ち   春が来たいちはやく虫がやって来た   ひとり住めばあをあをとして草   げんのしょうこのおのれにひそやかな花と咲く   また一日がをはるとしてすこし夕焼けて

 

  巻頭の口絵は村上護編のちくま文庫『山頭火句集』にある小崎侃さんの作画です。著作権は小崎さんにあります。

 

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松はみな枝垂れて南無観世音~山頭火頌 への6件のフィードバック

  1. 道草 より:

    完璧に心身を律した人生を送り、そして世人の多くに応え得る作品を表した作家など、果たして存在するのかどうか。浅学な私には識るべくもありません。山頭火の生き様人間性にはそれこそ賛否続出。ただ、作品そのものに惑了される者の多きことも事実の様です。ぼろぼろの乞食坊主が最後に遺した作品は、「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。彼はやはり生きたかったのでしょう。下記の拙文はかなり昔に書いたものです。場所を汚して申し訳ありませぬ。内容の是非は今は問わず、たまさかお暇な折にでものお慰みにでも。
     

    「山頭火時雨」
     
     京都に北山時雨(きたやましぐれ)という言葉がある。北山の方角から降る京都独特の風物詩らしい。時雨の呼称は多い。その中で、横時雨(よこしぐれ)などは魅力的な響きがする。そういえば、丹波の山の学校の帰り道で、よく横時雨に出遭った。
     いつか時雨の頃に、「中野弘彦展」の案内を見つけたことがある。この画家のことは知らなかったが、副題に≪無常をめぐる≫とあり、山頭火の姿が描かれていた。興味を感じて美術館へ出かけた。全体に暗い雰囲気の絵が多く、観客は少なかった。当時、画家は七十歳。京都美大を卒業後、立命館大や京都大で哲学を学ぶ。戦争末期に青春期を過ごしたことから、人間の生死を巡る不条理をテーマとして取り組むようになる、と解説にあった。
    『山頭火時雨(さんとうかしぐれ)』と題する作品があった。黒い影のみの人物像である。背景の無い灰色の空間に、立ち尽くす一人の男。不安定な中空に浮いた姿は、はっきりと目を見開き、口を固く結んだ険しい顔がある。目は遠くを見据え、大地をしっかり踏みしめているようにも思える。男は確実に存在し、そして、まさに生きているのだ。
     山頭火は家と妻子を捨て、放浪の果てに死んだ。日常生活に縛られ管理社会に生きる現代人にとり、到底叶わぬ自由な人生を送った理想像として、人気があるようだ。旅に生き、酒に生き、自然に生きる放浪の旅人。確かに、「やつと咲いて白い花だつた」「歩きつづける彼岸花咲きつづける」などの句を読めば、多くの人々が、旅や自然への埋没と郷愁に駆られることだろう。
     しかし、無常を直視し、無常と共に生きるしかない人間の宿命を背負い、なお自己の意志に積極的に生きたのが山頭火である、と画家は見る。私は山頭火の研究家ではないので詳しいことは知らないが、山頭火の放浪は、母親の自殺が一つの動機となっているようだ。弟の一人も自殺している。由緒ある実家が没落したことも、遠因かもしれない。
     無常とは、人間にとって「死」である。親しい人、愛する人との別れは、いつか必ず来る。自分が先か近しい人が先か、そのどちらであっても、永遠の別れは確実に来る。それは、全ての人にとって、避けることのできない宿命といえる。
     そう考えると、人生は無常である。「うしろ姿のしぐれてゆくか」。孤独で侘しい情景の中にも、淡々とした山頭火の生き方が詠める。おそらく自嘲の句だろう。この後ろ姿を、誰が見ているのだろうか。
     久々の邂逅だった。酒を酌み交わし、旧交を温めた人と別れる時が来た。名残りを惜しみながら去って行く自分の姿を、見送ってくれている古い友。初冬の薄い日が傾き、折から時雨模様になった。この雨は、〝横時雨〟である。そうでなくてはならない。横ざまに降る時雨の中へ、煙るように消えて行く旅衣の後ろ姿は、頼りな気で儚く寂しい。見送る友の目にも、ひとしお侘しく映っていることだろう。もう、二度と会うことがないかもしれない。これが最期の別れとなるのか……。
     山頭火の生涯は寂しく哀しい。それでも、山頭火は旅を続けた。自ら背負った運命を見据え、その宿命の深さ、重さ、哀しさを友として歩き続けた。山頭火は、それらから決して逃れようとはしなかった。その生きざまと、それを表現した数々の句が、多くの人々の共感を呼ぶ。「分け入つても分け入つても青い山」「まつすぐな道でさみしい」。
     時として、人生の無常の中へ埋没しそうになりながらも、積極的にひたすら生きようとする俳人と画家。二人の共通の姿勢が『山頭火時雨』にはあった。どの絵も同じ切り口である。池田遥邨を初め、山頭火を描く画家は多い。だが、中野画伯のような視点から、山頭火の本質に迫った作品は他に知らない。
     芸術家は、良い仕事をするために生きることができる。私達は、生きるために仕事をせざるを得ない。著名な芸術家が残した作品や生きた軌跡は、多くの人々の共感を呼び、感動を与えることが可能である。だが我々は、限られた身近な人にしか影響を与えることができない。しかし、私達も同じ人間である。芸術家でも、一般人でも、人生の重さは同じはずである。
     会場を出ると、遠く北山の方角は雲で見えなかった。あの下辺りは時雨か。山頭火は、北山時雨に遭ったことがあるのだろうか。
     
     

  2. 文殊 より:

           道草先生
     
     長い論稿を有難う御座いました。山頭火の行動の殆どを時系列に集めたカードが主人の書架にありましたのです。それを参考にして今回は書かせて頂いたようなものですが、托鉢と言っても山頭火の托鉢はその日の糧を得ればお終いです。宿賃、食費、その上酒代が出ればもう最高ということになりましょうか。ほとほとのうちはいいのですが、そのうちでぐでぐになって来ますと、もう見境がありません。無銭飲酒の常習になって、付け馬が駄目なら、偶には留置場に入れられて、何時何日まで払わない場合は刑務所だと何でもそんな事件がありました。木村緑平氏に緊急の打電をすることになります。その後自虐の念に苛まされ、突如鬱になって何も手がつかないと言ったような出来事が再三再四あったのです。いえ特に托鉢に出掛けてからの方が酷かったように思います。
     
     済みません!今ぐらりと来ました。このところ真夜中に2日3日と秩父に出掛け、秩父夜祭を見学させて頂いていたものですから、今日まで何日か殆ど寝ておりません。明日の朝早く会議があって、9時ころには終了致しますので、明日この続きを書かせて頂きたく存じ上げます。なので本当に申し訳ありません。ここらでお許し下さりませ!ではお休みなさいませ!

  3. 文殊 より:

             道草先生
     
     前述の通り、山頭火は孤高で漂泊者で悟りを得た人ではありませんでした。せっかく落ち着けそうな味取の観音堂の堂守をさらりと捨て、永平寺に行くと言って表題の『松はみな枝垂れて南無観世音』の俳句から、がらりと作風が変わりましたが、托鉢しては酒を飲み、飲んでは又自虐の淵に喘ぎ、多くの友人知人を悩ませました。このように孤独な俳句なら、余程孤高なる旅路の果てかと思いきや、俳友を訪ねては酒飲み三昧も続いていました。自身の句会である椋鳥会のメンバーである浴永国助(不泣子)もそうでした。大雑把にその交友ぶりを書かせて頂きます。雑誌『層雲』の主宰者である荻原井泉水も、熊本在住の兼崎地橙孫も、出家後最も親しかった層雲時代からの俳友木村緑平は大牟田で炭鉱の医師をしておりましたが、この方には生涯にわたってお金の無心は続きました。「ゲルト(お金)を局留めにして送れ」何十回、嫌々何百回もったのでしょう。幸い子供がいなかった木村夫妻にしてはスポンサーなどと呼べるものではなく、身にまとわりつく雀程度であったのでしょう。渋々しょうがないなぁと言ってはその要請に応えていました。更に層雲時代の江良碧松もその一人でした。望月義庵がつけてくれた法名「耕畝(こうほ)」を殆ど使う暇がなかったのです。後年山形から浴衣一つで流れついた永平寺の受付でしか思い当たりません。俳友達は時々くれる餞別のゲルトも酒代に換わりました。「歩かない日はさみしい 飲まない日はさみしい 作らない日はさみしい」と言いながら、若いうちは托鉢中心の生活でも、俳友達との交流が大きかったのです。隣船寺の住職の田村宗春にもたかりました。熊本で開いた自身の句会『三八九(さんぱく)』石原元寛にも。第一托鉢と言っても一日3時間が普通でした。その日の糧があればそれでよかったのです。そうやってて聞けば、無一物に徹しいかにも禅坊主に見えるかも知れませんが、私から見たら、ノンキな爺さんでしかありません。何事にも徹し切れないのが山頭火です。層雲に山頭火が結庵するからと言っては寄付を募り、それが集まれば酒代に消え、土地を借りたり小さな庵を作るお金もなくなっていました。特に川棚温泉近くでの結庵計画ではまさにその通りです。相変わらず俳友を訪ねては酒食に預かり、当分の小遣いまでせしめて帰る山頭火でした。三宅酒壷洞などはその時の犠牲者です。それでも時代が許していたのでしょうか。俳友は層雲の選者である山頭火をどことなく尊敬し、仕方なく犠牲になっていたのです。小郡では若き人・国森樹明に出会っていますが、山頭火に心酔した若い学校の先生でした。資金も何もかもつぎ込んで、山頭火の為に『其中庵(ごちゅうあん)』を結庵致しました。小郡のこの庵は最も永くいたところで、定住らしき住まいでした、それと言うのも国森樹明その人も酒浸りの人だったからです。其中庵にいても近郷近在に托鉢に出掛けて行きました。貰いの多い地域は都会より、信心深い田舎周りが効率がよかったのです。其中庵に落ち着いて多くを書きました。その結果『鉢の子』が生まれています。唯一の京都の同人に依頼して出来上がったものでした。その前後大前誠二が何くれとなく援助致しました。「春風の 鉢の子一つ 秋風の鉄鉢を持つ 雲の如く行き 水の如く歩み 風の如く去る 一切空 山頭火」と小郡駅前に石碑がたっております。自分はホイト(或いはホイトウ=乞食、つまり自分はコツジキにはなれず、コジキであると自覚していました。そんな素直などうしようもない部分が割りと好かれた所以ではなかったでしょうか。『放下着(ほうげじゃく)』と言って、捨て去ること、一切無一物になることを本人が正気の時はいつもそう望んでいましたが、酒が一杯入り、二杯になり、ほろほろから、デグデグどろどろになるまで、いつも酒浸りでした。山頭火に酒を取ったら、全く論考が進まないでしょう。放下放下とどんなに唱えたことでしょうか。酒も勿論捨てられなかったし、まして句作は殆ど止められませんでした。大学ノオトにびっしりと日記をつけ、いっぱいになると、借金返済の代わりに、木村緑平のところに送っていました。(今日の山頭火研究の第一級資料) 自虐と鬱と、そこから逃げるように酒へと。私の酒に対するダンディズムとは余りにも掛け離れています。渡辺砂吐流と近木黎々火と広島の大山澄太にはどんなに世話になったことでしょうか。木村医師に負けるとも劣らない援助者は徳山の久保白船と広島の大山澄太、そして熱烈な支援する若者国森樹明であった。更にこれから話題にしようとする松山の高橋一洵ではないかと。それから忘れてはならない人は信州・飯田に住む太田蛙堂の家に訪ねた時でした。普段殆どスーパーマンのように頑丈な山頭火は肺炎で倒れるのですが、この病気は山頭火の生涯で唯一病気らしい病気であったかも知れません。その時病院まで訪ねて来たのは一人息子の健でした。どれほど山頭火は歓んだことでしょう。息子健は秋田の鉱山学部を卒業して日鉄の社員になっていました。全く子育てしなかった息子が来たのは驚くような思いだったことでしょうか。それから健は毎月せっせと仕送りをします。満鉄に入ってからもありました。危篤だと言うと帰って来るに違いないと満州まで打電し、ウソの病気になったこともあります。母セキノは身震いするほど嫌っていましたが、困った時はセキノところに行っていたと前述した通りです。山形の鶴岡にも尋ねました。和田秋兎死(光利)や亀中分山水や佐藤露江を尋ね、その足で仙台の海藤抱壷です。海藤は身体障害者で寝た切りでしたが、後年彼が死に、山頭火は彼の純粋さに酷く悲嘆したものです。山形から永平寺まで浴衣一つで行ったのは、酒癖の悪さを恥じて、まるで夜逃げのようにして、托鉢僧の姿格好を置いてくるしかなかったからです。永平寺では熊本の禅寺で出家したことを告げ、宿坊に泊まることが出来ましたが、所詮修行などする由もありませんでした。聖俗、善悪、業と脱それらがいつも裏返しになって舞い上がる蝶のようでした。「てふてふひらひらいらかをこえた」はその心境を歌っています。
     
     ここで京都についての記述ですが、実際に殆ど記述がありません。俳友が少なかったこと、寒いところでの野宿は辛かったこと托鉢での貰いが少なかったことが主な原因です。それでも山頭火のノオトの文中、必ず京都を通っていると思われたのは4~5回ぐらいありますが、それでも暑い盛りの時分で時雨降る頃は皆無と言っていいでしょう。先生の意に逆らうようで済みません。
     
     49歳の頃の「うしろすがたのしぐれてゆくか」と「鉄鉢へも霰」あたりから作風はどんどん何かが剥がれて行き、名句が誕生する機軸です。
     
     それから湯田温泉の記述も重要なことでしょう。湯田は中原中也の出身地です。中也が前年に亡くなってから、中也の実家とのお付き合いが始まりました。最も親しく接してくれたのは中也の弟である中原呉郎でした。当時医学生でしたが、湯田温泉を故郷にも近く、湯が気に入ったということで、この温泉の近くに結庵し、『風来居』と号しいい気なもので、堂々と相変わらずタカリの生活でした。宇佐山正明や山川千冬や藤岡政一らが面倒を見ました。中でもやはりダントツだったのは中原家に違いありません。哀しみも癒えないご母堂には散々お世話になったようです。そうして漸く自分の死に場所を探しに四国に行くことになります。松山にあると言う野村朱鱗洞のお墓参りが口実でしたが、日ごろの資金提供者である木村緑平や久保白船や大山澄太など多くの人々に連絡して四国に渡ります。松山で野村朱鱗洞のお墓を探すのですが、なかなか見つかりません。そこで国森樹明のような若く熱心な作句者である高橋一洵にお世話になります。お墓探しもそうですが、酒食も大きく関わり、最期の草庵である『一草庵』を設立し多大な貢献をすることになったのでした。お遍路にも出掛けました。足で歩いて70日余、接待慣れしている四国では貰いが少ないとこぼしています。一草庵で句会を毎月10日に開くことになっていました。「おちついて死ねさうな草萌ゆる」名句も誕生し、10月10日その夜も句会がありましたが、山頭火は一向に起きて来ませんでした。先生は又飲んだくれて寝ているのだろうと、メンバーは何も気にせず句会は終了しました。だが高橋一洵は真夜中になっても容易に眠れませんでした。そこで急遽一草庵に出向くと、既に死後硬直の始まった山頭火がいたのです。コロリ往生の山頭火でした。
     
     山頭火の最期の俳句は諸説ありますが、私は高橋一洵の作句帖に最期に書いた「焼かれ死ぬ虫のにほいのかんばしく」ではないかと思っております。このように多くの犠牲を人々に強いて、何者にもなれず、世俗の中に生きた山頭火の悪口雑言を書いているつもりはないのです。ここまでしなければならないのか文学はということであります。然し実際は実話の殆どが寓話化され、実在するのは山頭火渾身の俳句多数なのでしょう。43歳で出家し、49歳から愈々俳境が高まり、58歳で亡くなる直前は悟ったような多くの句をよくぞ残したものだと思っています。長々と失礼致しました!
     
     

  4. 文殊 より:

             道草先生
     
     今下であったかいウドンを食べてまいりました。そしたらもう少しだけ書き足りないと思い、もう少しだけ失礼します。
     山頭火は結局10歳の時に目の前で自宅井戸に入水して死んだ母親のことが決して忘れられなかったのではないだろうか。だから佛の悟りよりも、その哀しみと一緒にいたいと言うことを選んだのではないか。哀しみからたった一歩も前に出ず下がりもしなかったのではないか。草庵を造り、修行する風でもなく、ただひたすら酒に溺れ、作句に明け暮れた生涯でした。私は山頭火を否定しているのではありません。お母さんの第四十七回忌に「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」。最期の句集『一草庵』には、第四十九回忌の母へ「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」、その句と並んで「だんだん似てくる癖の、父はもうゐない」であり、鍋、茶椀、煎餅布団、文机など世帯道具を幾ら貧乏してもあったわけですが、ある時はそれこそそれすらもない時があっても、母親のお位牌だけは手放さなかったようです。私は山頭火は、自分の一生涯を掛けて、お母さんを供養したのではないかと思われてなりませぬ。お金の問題は決して多く要求せず、今で言うなら100万円~1000円貸せではなく、2~3万でいいから送ってくれと言うようなことではなかったのでしょうか。無論高級料亭の付け馬や結庵の建築資金を集める時はそうではなかったけれど、木村緑平すら全額で幾ら都合したかよく分かっていないようで、今では時効もいいところなのでしょう。それだけいい時代だったのかも知れませぬ。ただ山頭火の哀しみだけがつのって参ります。
     

  5. 道草 より:

    水上勉が、「……ふたりの男が、一人は懺悔奉仕の生活に入るべく妻を捨て、一人は一所不住托鉢によって生きる曹洞禅者になりたくて、妻子を捨て、どちらも漂白の果てに野垂れ死にした。残ったものは、彼らの芸術である。もちろん、どんな芸術を極めても、軀はなくなって作品だけが残るわけだが、蕪村、一茶らの世捨て人然り。軀はなくなっても遺したものの如何に大きなことか」と述べています。放哉と山頭火のことですが、山頭火の価値はこの言葉に尽きるのではないですか。
    山頭火が母を慕っていたのも事実でしょう。「母よ うどんそなへて……」の句を作った翌年、山頭火は其中庵を去り、四国の御幸寺の物置を修理し大山澄太が名付けた一草庵に住み、その翌年の盆に「トマトを掌(て)に、みほとけのまへにちちははのまへに」の句を遺しています。また、妻サキノのエピソードでは、山頭火は庵住することを妻に知らせ、離婚後10年経つにも拘わらず彼女は生活に必要なこまごまとした物を送ります。それのみか10円の小為替まで送っています。荷物の中に母(妻にすれば姑)の位牌があり、山頭火は「これだけ残ってゐるお位牌おがむ」と母を偲んでいます。そして、澄太が山頭火の妻サキノに最後に会ったのは、彼の死後十年経った頃。「雅楽多」が戦災で焼けたので、市内の借家に一人で暮らしていた妻と二人で山頭火の恩師望月義庵を訪ねます。帰り際に、寺の垣根に咲く茶の花の下にこぼれていた実を二人で拾います。「茶の花ひっそりと残されし人の足音」(澄太)。この句に、彼女の妻としての人柄をも含む総てが感じられるようです。「雅楽多」の敷地が大洋デパートに売れて、彼女は晩年の生活には困らなかったとのこと。彼女は熊本市の安国寺の墓に、今は山頭火と共に葬られているそうです。
    近くに住む家内の友達の父がこの大山澄太の友人で、生前には澄太の話を時々聞かされたものです。その澄太によれば、山頭火は悟りの心境については誰にも一言も語っていないのだが、「水音のたえずして御仏とあり」「てふてふひらひらいらかをこえた」と永平寺で詠んだこの句について、私にだけ一度こう言った。「澄太君、君には分かってもらえると思うが、これらの句は、山頭火の面目が一応表現出来たと思っている」。「御仏とあり」つまり生死の中に実在する御仏を、永平寺で観取出来た句なのである。あのいらかは大法堂のいらかなのだ、僕が手前の軒下に座っていると、蝶が雙つ飛んで行った。それがなんと、次第に小さくなって、高く舞い上がり、とうとう法堂を越え去った。その時、はっと出来たのだ。一つの大きな飛躍を感じたよ」と。これは昭和10年頃の作ですから、「松はみな枯れて……」の句の10年ばかり後になりますか。
    「天 われを殺さずして 詩を作らしむ われ生きて 詩を作らむ われみづからの まことなる詩を」。生死の一大事を命題として行乞の旅を続けるうちに、その作品から観てゆくと、一歩一歩、一句一句生死を離れた遊行とでもいうか、迷いつつもその心境は生と死を越えてゆくこともあるようになるのであった。この詩には、生死を忘れて、生き抜く、そしてそこにまこことの詩をつくろうとする気構えがよく出ていると思われる。死に切ることと、生き抜くことは同じ心境なのである。と澄太はいいます。「いつでも死ねる草が咲いたり実ったり」「どこまでも死ねるからだで春風」。何処でも死ねると言える人は、そうざらにはいないように思います。山頭火は漂白十余年ののち、どこでも死ねる覚悟の上で、春風の吹く村を托鉢するようになっていたのでしょう。「何処でも」は空間的な場所を指し、「いつでも死ねる」は時間的に死を承知した心で、日々の庵の生活をしていたことになるのかも知れません。
    また、「澄太君、僕は百合の花やボタンの花も美しいとは思うが、野人山頭火には雑草がなつかしい。生えるまま、伸びるまま、咲くがままにしてそれを雑草風景として眺めることが好きなんだ」とよく言った、と澄太は述べています。「草は咲くがままのてふてふ」「うれしいこともかなしいことも草しげる」。山頭火は酒も好きで、よく飲みすぎの脱線行為もあったが、彼は水もまた好きで、淡々とした水をよく味わった。そして、「淡如水」の心境にあこがれていたのだ。山頭火は葉書や手紙など所管は大部なものがあったが、彼は人々から来た書簡を其中庵にも一草庵にも一枚も残していない。生涯を漂白野晒しの山頭火としては、貰った便りを置くべき場所もなく、持って歩くと荷物にもなる。反古として捨てると時には発信者の迷惑になることもあるだろう。結局焼いて煙にした方があっさりしてよかろうと焼き捨てた。とは澄太の感想です。
    かくして、「動くものは美しい 水を見よ 雲を見よ。*求めない生活態度 拒まない生活態度 生活態度は空寂でありたい。自分を踏み越えて行け」。空寂。それこそが、山頭火あこがれの心境なのではないでしょうか。求めず、あるがままを肯定しようとする。そこには貧も富も、負も勝もない、生も死もありません。其中一人を以って任じ、一草一人と事象した山頭火は、一草庵裡一人で死んでゆきました。いつでも死ねる覚悟の上で遂げ得た死。しかも死の前日まで酒を飲み、死が忍び寄る枕元では、彼が生命とした俳句の会が催されていたのでした。
    「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。山頭火に辞世の句はないとされています。芭蕉が弟子から辞世の句を求められた時、「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、日頃読み捨てし句、辞世ならざるはなし」と言い切っています。山頭火は芭蕉を尊敬していたから、彼の心境もおそらくそうだった。そこでこの最晩年の句が彼の辞世の代行をする、との説が有力です。「倒れても、ころんでも、歩むしかないわたし、生きなければ、歩かなければならない、それが運命なのだから……」。山頭火にとっては「生きること」は歩くこと、句作することで、「倒れても、ころんでも歩くしかない」。だからこそ、もりもり盛りあがる雲へ歩み続けるのではないですか。さらにおなじく最晩年の作「いつ死ぬる木の実は捲いておく」。彼はやはり生きたかったのだと思います。

  6. 文殊 より:

            道草先生
     
     夕べ遅く帰り、この書き込みを読ませて戴き、大変感動致しました。私のような文学に門外漢の人間に、丹念に分かるようにお伝え下さって、どんなに感謝申し上げたことでしょう。このことこそ有難いと思うのです。先生のご意見は全く仰る通りでして、私は建築学、主人は経済学部出身ですから、如何にも日ごろの書いていることが私なりに横柄な部分があったのではないか、或いは冗漫な部分がありはしないかと、今なお不安と畏れがあるわけです。特に先生のご意見には、対象のみならず、私への育てようとするかのような暖かさを感じるのです。あり得ないことでありまして、深甚の感謝を申し上げます。有難う御座います。
     
     さて尾崎放哉は確かに山頭火同様に出家致しました。山頭火の最晩年、尾崎のお墓参りをしておりますし、親しい感情を山頭火は持っていたようですが、でも尾崎の方は至極観念的なモノを感じますね。山頭火は「どうしようもないわたし」で出家をしたわけであり、さりとて信仰に熱心になるわけではなかったように思われます。但し義庵和尚から手渡された『無門関』をよく読み、中でも繰り返し読んだのは『修証義』であったのでしょうが、信仰の山頭火を考えるより、確かに先生が仰ったように、山頭火は山頭火の作品ですべてとして解釈し愛読すべきなのでしょうね。
     
     サキノさんとの離婚はサキノさんの兄が仕組んだことでしたね。どうせサキノは印を押さないからとたかをくくって山頭火は印を押したようですが、サキノの方は、まさか印までついてあると驚いたようです。5年に一度しか帰って来なかった山頭火でもサキノにはサキノの人知れぬ何かがあったのでしょう。先生の澄太とサキノのお話をうかがって、益々そんな意を強く致しました。
     
     先生は「てふてふひらひら・・・・・」の句をそう読みますか。山頭火の傍にいたような澄太から聞いてお話であれば、何も申し上げることはないんですが、どうしても私は悟りを開いたようには見えないのは、私の若さと経験のなさでしょう。もともと私は建築学ですから、建てる方が得意の方で、破壊し壊す方は不得手かも知れません。太宰のように可愛くて仕方がない人間でも、破滅型の人をどこか根っから好きになれない部分があるのは本当のことです。山頭火の様々な所業を洗いざらい申し上げ、好きではないことを証明しようとしたのではありません。山頭火の俳句は大好きです。更に申し上げるならば、山頭火の俳句は必ずその背景があることが判明するような、そんな気持ちが強いんです。てふてふひらひらも、私は二極の間を彷徨する山頭火と読んでしまいました。先生の証言が多分正しいのでしょう。山頭火の俳句を山頭火の実生活と切り離して考えるべきなのでしょうね。
     
     確かに山頭火には密やかな野の花が相応しいですね。山頭火と題して、お花の投げ込みなど、いつかしてみたいという衝動があります。本当にそうですねぇ。
     
     空寂、なるほどまさに山頭火らしい山頭火の思いが籠もった言葉ですね。山頭火は本当に何もかも分かっていたのかも知れません。最晩年、托鉢をなるべくせずに、愛する人々への墓参りをしています。自分ももう直ぐそちらに行くのだという思いがあったのでしょうね。亡き主人は道草先生と殆ど同じように言っていました。山頭火を愛してあげるべきだと、硬く言っておりました。それは禅の悟りであり、従ってどうしても書きたいと、戯曲「山頭火」のすごい大きな叙事詩を書いていた途中でした。書きかけの原稿がそのままです。又高村光太郎の最晩年である、岩手の山居を書いた『山居独考』という一人芝居があり、いつかは必ず上演されるでしょう。山頭火の夢や幻を主人は何としても書いてみたかったようです。主人には人は時々悟りで、時々人間で、お天気予報みたいなことってあるじゃないかと、快活に笑っておいででした。完全な人間じゃないから悟りがあるのだとも。生きて、先生とお引き合わせしたかったと大いに悔やまれてなりません。
     
     私の拙い山頭火論に、かくもお付き合い戴きまして、本当に嬉しい限りでした。永い時間を掛けて書いて頂いた先生のコメントは、私の友人から多くの反響が届きました。道草先生の論考は大山澄太の論考も超えていると。先ず何よりも山頭火に対して、愛情が並ではないとも。最期の句になったのは確かに「もりもり・・・・・」にした方が明るくていいですね。なるほどとここでもご納得させて頂きました。有難う御座いました。心から感謝申し上げます!
     

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