上代からの櫻と稲作の神々

 

収穫感謝祭と櫻

 

 

 

              上代からの櫻と稲作の神々

 

                     ―――(今年初めての櫻の論考として)

 

 

 富士山の元に鎮守されている浅間大社、そこに祀られる木花之咲耶姫は、櫻を象徴している神として広く知られている。毎春、日本国中爛漫と咲く花に熱中する日本人にとって至極親しい神様であるのだろう。「サクラ」と言えば、100%に近い日本人の脳内に「櫻の花」のイメージが浮かんで来るはずである。然し、もともと「サクラ」はもっぱら「櫻の花」を特定して指す花ではなく、稲作と深く関わりのある花の総称であった。

 

   1 「サクラ」の語源:

 日本語の中の「サクラ」の語源について、和歌森太郎の『花と日本人』によると、民俗学では、「サ」とは、「サカキ」、「サケ」、「サクラ」、「サツキ」、「サナエ」、「サオトメ」「サガミ」の「サ」は全て神の意味で、すなわち稲田の神霊を指すと受け取っておられていた。お田植神事関係の用語は、「サアガリ」、「サノボリ」、訛って「サナブリ」とも言われるが、田の神が山にあがって山の神になることを指し示していると考えられる。逆に田の神になる時は山から降りて田の神になる必要がある。熊本県のタノカンサーなどが最もいい例であり、田植はまさしく農事である以上、「サ」の神の祭りを中心とした神事であるべきである。そこで田植とほぼ同じ時期4,5月に咲く「サクラ」の「サ」にも通じているのではないかと想定せられる。「クラ」とは、古語で神霊が依り鎮まる座を意味する。(類例:神座<カンザ→カミクラ→カグラ>は神楽に変遷している) 「イワクラ」「タカミクラ」「カミクラ」などの類例があり、「サクラ」は古代農民にとって、もともとは稲魂の神霊が憑き依る花(依り代=神の降りて来る目標物 ヨリシロ)とされたのかもしれない。

 

   2 「サクラ」と国見:

 大和朝廷が最も盛んであった万葉時代、大和盆地の人々は稲作農耕をしながら、五穀豊穣を祈るため、さまざまな民俗風の純朴な神事を伴い行われていた。毎年の早春、ほぼ正月の予祝神事が終っての「こと始め」によって準備がなされ、早い段階に行う畦作りから水源確保の水路の仕事から、更には苗代作りから種蒔きに至り、本番の田植までの間に、様々な農作業が次々と行われてゆく。村の人々は真冬に自然界の山に生きて、気温の上昇によって咲いて来る花全般を「サクラ」と呼んでいた。そしてそれぞれの花はそれぞれの農作業の適切な実施時期を正確に知らせてくれる。従って「サクラ」にはたくさんの種類があると考えるのは至極当然なことであろう。その中で特に名高いのが白雪と見紛う白い花をつける「辛夷(こぶし)」(もくれん科もくれん属)や、タムシバ(辛夷の仲間)、そして同様に白い花を咲かせる「江戸彼岸櫻」や「山櫻」である。その時の櫻といえば、まだ現代人におけるイメージのピンク色の櫻ではなく、日本産野生種であり、春先一足早く咲く江戸彼岸や山櫻なのである。色は辛夷と同じくほぼ白であり、清かなる品の高い花であった。万葉時代の櫻は、後世の平安王朝のように都人によって華麗な櫻の美を愛でることがなく、山村の原始的な美が弥増しに漂う。神の宿る山に春が来ると、草木は幻のように白い木の花が咲く、村人たちが山を登り、これから田植が始まる村里の田園風景を望み、そして満開になる花の下で楽しむ様子は現代日本人と殆ど変わりはない。また花には稲霊が宿っていることが信じられ、今年木の花が盛かんに咲いたかどうかの具合によって、その年の吉凶が占われる。

 花見が終った後、万葉の人たちが山を下り、手折った辛夷や山櫻、また山櫻と少しだけ時間差をおいて咲く躑躅の花に稲霊が宿っているとも信じられ、秋の豊穣を祈りながら、水口に刺し、その後家々は漸く田植を始める。これは一種の稲作の予祝神事であり、「国見行事」といい、万葉時代に農耕を生業とした農民たちにとって、最も重要な行事であった。

 この行事の中で、「サクラ」はけっして櫻だけを指すではなく、山櫻のほか、辛夷や躑躅、田植時期の前後に咲く花であれば、全て大雑把に「サクラ」と表現されていた。当時の奈良盆地周辺の里山では、多くの木材が人々の生活するための燃料や住居用材、そして幾つかの宮を設営された用材として、あるいは農耕用器具もしくは堆肥として、伐採されていた。長い間続いていて、松などの常緑樹が山地に生育する主要な樹種になることによって、その下部には多くの辛夷、山櫻、躑躅、冬青(そよご)などの多くは落葉する広葉樹を主たる樹種として二次林になった。奈良の人たちにとって、これらの山櫻、躑躅などの春先に咲く木の花が、身近くにあり馴染み深く、そして生活に深く関わりのある植物であったのである。

 

   3 朝廷の国見:

 さて万葉の歌から、かつて朝廷秘儀であった国見行事を見てみよう。万葉集巻一の構成を見ると、前半は第一~五三首(「持統万葉」一巻)、後半は第五四~八三首(宮廷歌の集合、「元明万葉」二巻のはじめ)である。くっきり前半と後半との仕切りが存在している。

 万葉集巻一の第一は雄略天皇の歌で、二は舒明天皇の国見歌である。この二の歌は: 

 天皇登香具山望國之時御製歌

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 (読み:やまとには、むらやまあれど、とりよろふ、あめのかぐやま、のぼりたち、くにみをすれば、くにはらは、けぶりたちたつ、うなはらは、かまめたちたつ、うましくにぞ、あきづしま、やまとのくには)

 意味は、大和(やまと)にはたくさんの山があるが、特に良い天(あま)の香具山(かぐやま)に登って、国を見渡せば、国の原には煙(けぶり)があちこちで立ち上っている上、海には、鴎(かまめ)が飛び交っている。本当に良い国だ、蜻蛉島(あきづしま)の大和の国は。

 そして五二、五三の歌は、二の持統天皇の国見にかかわりのある藤原宮御井の歌である。

 五二 長歌: よみ人知らず

 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

 (読み:やすみしし、わごおほきみ、たかてらす、ひのみこ、あらたへの、ふぢゐがはらに、おほみかど、はじめたまひて、はにやすの、つつみのうえに、ありたたし、みしたまへば、やまとの、あをかぐやまは、ひのたての、おほみかどに、はるやまと、しみさびたてり、うねびの、このみづやまは、ひのよこの、おほみかどに、みづやまと、やまさびいます、みみなしの、あをすがやまは、そともの、おほみかどに、よろしなへ、かみさびたてり、なぐはし、よしののやまは、かげともの、おほみかどゆ、くもゐにぞ、とおくありける、たかしるや、あめのみかげ、あめしるや、ひのみかげの、みづこそば、とこしへにあらめ、みゐのましみづ)

 歌の意味は、国を治められている大君(おおきみ)の日の皇子(みこ)が、藤井(ふぢゐ)が原(はら)に大御門(おほみかど)をお建て始めになり、埴安(はにやす)の堤(つつみ)の上にお立ちになってご覧になれば、大和の青々とした香具山(かぐやま)は東側の大御門(おほみかど)に、春山らしく茂って見えます。みずみずしい畝傍(うねび)の山は西側の大御門(おほみかど)に美しく見えます。青々とした耳成山(みみなしやま)は、北側の大御門(おほみかど)に神々しく見え、名高い吉野の山は、南側の大御門(おほみかど)を通じて遠くの雲の向こうにあります。天に届くように高くそびえる宮殿のある、この地の水こそはいつまでもあってほしい、御井(みゐ)の清水(しみづ)よ。

 万葉集巻一の前半は、二である舒明天皇の国見の歌を始め、そしてその歌と対応した五二、五三と続く藤原宮御井の国見の歌で終わり、これは巻の構成上重要な特徴の一つであり、大和朝廷にとって、国見行事の重要性は軽んずることは出来なかった。稲を生業として生活していた農民にとっても、農業が国の重要な経済の支えである朝廷の施策にとって、春先に国見をし、一年の豊穣を祈り、稲作を大事にすることは古代日本では確かなことであった。

 国見行事は、最初は朝廷の行事で後に民間の稲作神事に変化してきたか、それとも最初は民間の稲作神事で後に朝廷の大事な行事になってきたか、現在調べは出来ていないが、これは民間の収穫祭である「あへのこと」などと国家の祭祀「神嘗祭」が同時に混在していると同じことで、稲作文化であった古代日本では、稲は最も重要なことであり、稲作神事は人々の心から、敬虔に祀られていたからに違いない。

 

   4 「木の花」と「櫻」:

 前述したように、「サクラ」はもともと専門的に「櫻」を指すことではなく、少なくとも、万葉時代にはそうではなかった、その時代に「サクラ」とは、辛夷や山櫻や躑躅などが、多く国見の時に咲く花の通称、或いは総称であった。然し後世になると次第に「櫻」のみが「サクラ」の代名詞になってきた。そもそも、「木花之咲耶姫」も同じことである。もともとは「木の花」があらゆる樹木の花を現わされていたが、これも又後世になると、だんだん専門的に「櫻」を指すようになってきたのだった。

 山田孝雄は名著『櫻史』の中で、「咲耶姫(さくやひめ)」は「櫻姫(さくらひめ)」の誤りである仮説を提出した。折口信夫も『古代研究・民俗学篇Ⅰ』、「花の話」の中で、万葉時代の稲作農民が花の咲く具合を見て、今年が豊作かどうかを占うことを語った一方、「木の花」は実は櫻であることを証明しようと、万葉集に載せられている木の花の歌を例として挙げた。

 巻六 一四五六  藤原朝臣廣嗣、櫻の花を娘子に贈れる歌一首

 この花の一辨のうちは百種の言ぞ隠れるおほろかにすな

    一四五七  娘子の和ふる歌一首

  この花の一辨のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや

 この二首の歌の中で、確かに「木の花」で「櫻」のことを指していたが、この二首だけの歌であって、万葉時代全般で「木の花」=「櫻」を証明することは十分ではない。この歌を詠んだ藤原朝臣廣嗣も娘子も、貴族の人間であり、稲作作業をしたこともない彼らは、わくわくとして国見行事をし、苗代や種蒔、田植などの田圃の重労働である仕事を準備し、豊作を念頭にして頑張ろうとする農民たちの心の中での「木の花」像の深みとはまるで違うと思う。

 さて、『日本書記』で木花之咲耶姫について書かれてある段にも、明らかに木花之咲耶姫は「櫻」であることを触れられていなかったが、稲作との関わりが書かれていた。

 ① 木花之咲耶姫が最初に書紀に現れたときは、稲作と関りのある神として現れていた。

 巻第二 神代下 第九段 一書第三

 「時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)、以占(うら)定田(へた)、号曰狭(せ)名田(なだ)。」

 神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)は、木花之咲耶姫の別名である。ここでは、彼女は巫女的神性を有するので「神」の字を冠し、神田を司る神であり、父親の大山祗神は山の草木や獣などを司る神となっている。

 占(うら)定田(へた)とは、占いにより神田と定められた田のことである。狭(せ)名田(なだ)は、狭長田、すなわち狭く細長い田である。神田の特徴に基づいた表現、神田は、山の最初の水を取って治られる山田であるので、狭くて細長い。

 「以其田稲、醸天甜酒之。又用渟(ぬ)浪(な)田(た)稲、為飯嘗之」

 嘗は、「大嘗祭」の嘗と同じく、神と供薦して神に献饌する。渟(ぬ)浪田(なた)とは、沼(ぬ)浪(な)田、すなわち波立つ沼のように水が多い水田のことである。これらは全て水稲農耕の主な特徴であり、書記に書かれた木花之咲耶姫に関する神話の中で出たのは興味深い話である。

 ②書記で二回目の登場する時、彼女の名は時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)から木花之咲耶姫に変わっている。

 「于時高皇産靈尊以真床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、使降之、皇孫乃離天磐座、、、彼國有美人、名曰、鹿葦津姫、亦名、神吾田津姫、亦名、木花之開耶姫、皇孫問此美人曰、汝誰之子耶?、對曰、妾是天神娶大山祇神所生兒也、皇孫因而幸之、即一夜而有娠、皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間令人有娠乎、汝所懷者、必非我子歟、 故鹿葦津姫忿恨、乃作無戸室、入居其内而誓之曰、妾所娠、若非天孫之胤、必當焦滅、如實天孫之胤、火不能害、即放火燒室、始、起煙末生出之兒、號、火闌降命、是隼人等始祖也、火闌降、、、次、避熱而居生出之兒、號、火火出見尊、次、生出之兒、號、火明命、是尾張連等始祖也、凡三子矣。」

 ここで、斎庭から稲穂を地に持ってきた皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊が、稲とゆかりのある木花之咲耶姫と結婚し、子が生まれた。まるで稲と花との象徴的結合である。ここにも相変わらず木花之咲耶姫は「櫻」であることを言っていないが、木花之咲耶姫はあくまでも、やはり田植の目印としての「サクラ」だと理解すれば良いと思う。それが証拠に殆どの場合、村々のどの位置からでも容易に見える最も高い場所に櫻の巨木がそそり立っている。

 そんな訳で文献上「木の花」はいつの時代になってから「櫻」になったか実は分かっていないのであるが、和歌の世界で、「花」が「櫻」を表すのは早くても平安に入ってからのことである。『万葉集』では、櫻の歌は43首で、梅は117首もある。万葉の人は櫻よりはるかに唐の国の象徴である梅を好まれていた。『古今集』では、「梅」の歌が18首に対して、櫻の歌は70首と櫻の歌の割合がぐんと増えた。然し『古今集』では櫻を歌うときに、必ず「櫻の花」と明確に注を加えている。さらに『新古今』という和歌の黄金時代になると、吉野の山櫻が盛んに詠まれるようになり、櫻の歌は119首で、梅は僅か23種に留まる。特に「櫻の歌人」と呼ばれた西行が櫻を愛し、櫻を讃えた歌は200首を超え、『山家集』にはそのうち100首余りが掲載され、多くの名歌を残している。その後も櫻を好む文人が絶えず、中世文学では、「花」はほかの花ではなく、専門的に「櫻」を指すようになっていた。また、鎌倉時代に入ると、武家思想は櫻によって大きな影響を与えられていた。当時の風潮により、日本人はやがて「木の花」を「櫻の花」というような理解になってきたのではないかと思う。

 また一般的な風評として平安時代に、梅派の菅原道真一族と櫻派の藤原一族との争いがあり、藤原氏が勝利したために、宮中内裏・紫震殿に植えられていた左近の梅が櫻に取って代わったというのは未だ充分に論証されていないことも付記しておきたいことである。 更に木花之咲耶姫(コノハナサクヒメ)の万葉仮名での呼び名の中で、「ヤ」が「ラ」だから本来はコノハナサクヒメと言う説があることも表記しておきたい。

 

   5 「櫻の花」と田植:

 日本人の近世で櫻を好む風潮により、都会にも田舎にも全く関わらず、人々は花見を楽しむ習慣が一般的になってきた。無論農村部の春先の田植神事をするときも、櫻の花だけを重視し、櫻の花の咲き具合のみで田植をし、五穀豊穣を願う判断にされて来ることになってきたかからではないだろうか。辛夷は畦作りで、躑躅は苗代から種蒔きと時期が特定され、櫻を全般的に象徴として農作の花として一般化され具現化されたのであったのだろう。

 いまでも、櫻を田植の目印と見られる農作の習俗・習慣は、前述した奈良盆地だけではなく、東北から中部、四国、全国各地にまで類例は見られる。この農作における自然暦と見られた櫻は、関連する農作業によって、種蒔き櫻、種あげ櫻、苗代櫻、芋種櫻、田打櫻などと、さまざまな名をつけられた櫻が多く散見される。また、豪雪地帯である一部東北地方では、春の農作業の目安は櫻のほかに、山の雪形(残雪の形)とも含まれて、農作業は周囲の自然と深く結び付けられている。

 そのほかの櫻と関係する稲作神事の例をあげれば、各地に数多くの櫻の大木に関する伝説が伝えられている。その一つは「駒つなぎの木」の伝説:里の祖霊たちが山に神集って山の神になっている。この山の神が樹木に宿って再び里に下られる時に、歳の神・農の神になる。農の神は、田の側の松や櫻などの大木に神が憑き依ることが信じられている。村民は農の神を祭った木を、「駒つなぎの木」として、「咲いた櫻に、なぜ駒つなぐ。駒がいさめば、花が散る」と歌いはやして、稲の花が無駄に散らないように念願し、豊作を祈っていた。木の種類は地方により、松や櫻、杉、椋(むくのき)などさまざまであるが、この行事は意外に一致点があり、全国に広く分布している。神馬は、神の乗り物であり、農の神でもある。それを木につなぎとめることで、山の神が村に下りて来て、農の神になり、長く田にいらっしゃれることに願ったものと思う。

 もう一つの「子持櫻」や「子福櫻」の伝説は、娘が櫻の花を懐に入れた夢を見、妊娠することになった。これは櫻に稲霊さまが宿り、稲にも繁殖させる力を信じ、開花した櫻の枝を、まだ播種していない田圃の水口に刺し、今年の稲花の開花を切に祈ることで、一種の感染呪術(カマケワザ)と同じことであろう。ここから派生して安産・子授けの神にもなっている。

 幾つか時代が変わっても、日本の村々に櫻の花の咲く風景は変わらない。稲と櫻のこんな素朴な組み合わせはこのように品のある美的感性に結晶して存在し、人の心の奥に深く沁みていくのである。どこかの本で読んだか詳細は覚えてないが、かつて柳田國男が農村に調査しに行った時、長く村の櫻を眺めていた。農林省出身の彼にとって好む櫻は、けっして現代人の好む華やかな都の枝垂れ櫻ではなく、日本の村々に咲く田の櫻であったのだろう。

   

長野県阿智村の駒繋ぎ櫻

長野県阿智村の駒つなぎ櫻

 

 * 参考文献

 ・「桜Ⅰ、Ⅱ」(ものと人間の文化史) 有岡利幸 法政大学

 手作りチョコを送ってくれた貴女へ、貴女流の論文風に返礼として書いてみました。難しいものですね!

 

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上代からの櫻と稲作の神々 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    我が家の周辺で一昨日にうっすらと1センチばかり積もった二度目の雪は、その日の昼過ぎまでに瞬く間に消えてしまいました。それでも広河原のスキー場は120センチの積雪と、今冬の新記録を更新しています。市内の昨日の気温は、昨年の同日より10℃も低いとのこと。やはりこの冬は例年より寒い、というよりこれが平常の冬なのでしょう。昨年の今頃でしたか、たまたま大宮の妙蓮寺へ寄った時に冬桜が咲いていました。1本だけで花はそれほど多くはなく、目立たないむしろ寂しそうな花でした。それでも、縁起をかついで花を持って帰る人が後を絶たないとか。妙蓮寺の名の寺は各地にあるようですが、大本山のこの寺はかつて私の従姉妹の家族がすぐ裏に住んでいた所です。西陣織の生業をしており、私と同い年の従姉妹とは時々遊びました。彼女の家の裏庭伝いに寺の塀の木戸口から境内へ入り、石蹴りや縄跳びや、時には追いかけっこで騒いで、和尚に睨まれたりしていました。その頃から桜はあったと思うのですが、今から60年以上も昔のことで記憶にはありません。「夢のやうに美しい京の春が来る――さう言つただけでも、かねがね京にあこがれてゐたあなたを切ない思ひに追ひこむことでせう。事實奈良の御水取も過ぎ一頃は眞白な頂を水浅黄色の空に見せてゐた鞍馬、比良の雪も消えた此の頃、それこそ春は馬車に乘つていそいそと京を訪れつゝあるのです。(中略)。櫻を賞するなら山櫻を――それは或は本當なのかもしれません。しかし山櫻は所詮ひとり見るべき花です。一二本季節におくれた花をひとり靜かに眺めるべき花ではないでせうか。さういへばもう四五年にもなりませうか。極く氣の許せる友人と二人で、白川越えに比叡に登つた事があるのです。丁度榛の木の花がひそかにその短い總を埀れてゐる頃で、ぷんぷん匂ふ嫩葉の中を歩きながら、遠い谷間に咲き残つてゐる山櫻の花を見た時の、あのあえかなかなしみを今に忘れる事が出來ません。季節のはかなさもあつたでせうが、何といつても山櫻の花が寂しければこそ忘れられずにゐるのです。」(『京都風土記』大塚五朗/昭和十七年発行)。奥様に宛てられた桜論文に口を挟むのは野暮な事。お二人で愛でてこそ、今年の桜。「妻わかうて京のなまりの失せがたな二条に似たる街の春の夜」与謝野晶子。

  2. 文殊 より:

           道草先生
     
     先生は酒仙でいらっしゃられるので、コノハナサクヤヒメがお酒の神様ではないのかという疑念をお持ちで御座いましょう。確かに酒の神のオオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)であり、その娘コノハナノサクヤビメはサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされていらっしゃいます。色々考えた結果、読者が混乱することを気遣って敢えてその部分には触れませんでした。悪しからずお許し下さりませ。
     
     広河原では120センチも積もったのですか。いよいよ持って櫻には格好の場所と相成りましょう。だらだらとした温暖地より遥かに櫻にはいい土地なのでしょうね。本当に寒い日が続きますが、本来はこの方が本当でしょう。花の寺・妙蓮寺はお身内さんのお近くだったのですね。妙蓮寺の冬櫻は観たことはありませんけれど、卯月の御室さんのお多福櫻が咲く頃でしょうか。妙蓮寺櫻、又の名はお会式櫻としてつとに有名です。山櫻科のタカサゴによく似た珍しい花でして八重の可愛い花で、おない年の従兄妹さんとは花と共に寺内で楽しい思い出が豊富にあるのでしょう。日蓮上人さまも道草先生ならとお許しがあったのかも知れません。あの辺りは特に京都にとって雰囲気のある地区でして、先生が羨ましい限りです。
     
     私は山櫻は気品があって、実は大好きなのです。吉野のようにたくさんの山櫻であれば、きっと淋しくはないでしょう。一本だけなら何となく淋しい気もしますが、あの花と共に出て来る臙脂色の葉っぱが花にインパクトを与え、上品な香りとともに素晴らしい花だと想っています。西行が観た花も山櫻であったのでしょう。本居宣長の墓所には山櫻が咲いていました。鼓の胴も山櫻の材料で作られていますし、殆どの日本の秤は山櫻が多いんです。硬くて狂いがない木の性質だからでしょう。最も半木の道ではないですが、京都の度何中にはいささか不似合いかも知れません。京都は日本一櫻の似合う町でして、その時季になれば色々な櫻が繚乱と咲きまする。北白川沿いの住宅街にひっそりと咲く櫻だって、艶かしく流石に京都であると感嘆致します。この大塚五朗さんの流麗な文章にうっとりしながら、又晶子の歌が私たちのことを告げているのでしょうか。何だかとても嬉しくなる詩歌です。本当に有難う御座いました!
     

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