灯りをつけましょ雪洞に 上巳の節句

 

          花桃河津享保雛

              花桃・南伊豆の吊るし雛・大分日田林の豆田町や山形・谷地の鈴木家などに伝わる享保雛

 

 

 

                       灯りをつけましょ雪洞に

                                ――上巳の節句――

 

 

 小学三年の時、現在日赤病院がある辺りの女の子の家に、ちょっとお澄ましの揃いのスーツに蝶ネクタイをつけ、雛祭りに招待され出掛けて行ったのだった。その子は随分以前にイタリアに嫁いでしまって現在日本にはいないが、可笑しなぐらいに仄かな初恋の子であったかも知れない。座敷に通され、緋色の段飾りを見てはっと息を飲んだ。最上段に一対の男女のお内裏様、三人官女、五人囃子、左大臣・右大臣、三人仕丁、お内裏様の真裏に豪華な金屏風、灯りのついた雪洞、左近の櫻、右近の橘、菱餅、白酒、雛菓子などがあり、そればかりではない。重箱、箪笥、長持、鋏箱、鏡台、針箱、駕籠、御所車などのミニチュアがあって、息を飲む美しさ。でもまるでこれから直ぐにでも結婚式に行っちゃうみたいで、何処となく哀しかったことをよく覚えている。雪洞の灯りに何故かほろりとした少年の私。女の子の成長を願ってのことだろうが、無論当時それらの呼び名さえ知らない。後日気づくのだが、当家にも立派な雛飾りがあり、但し母は先祖から当家に伝わった大切なものだからと言って飾られた記憶は殆どない。更に彼女の雛段には菜の花や桃の花が飾られ、煎り豆やアサツキなますやハマグリなど調理された食べ物が供えられていた。順次それらを目の前で下げられご馳走として戴いたが、女の子は数人で、男の子は私だけである。アルコールが入っていたのか、白酒で顔が直ぐに紅く染まった。雛飾りの前で、全員で遊んだ覚えがあるが、何をして遊んだのか今は全く記憶にない。ただその日の出来事を後日克明に作文に書いたのは確かで、(運悪く)学校で特選となり、全校の文集に掲載された。当然男の子からヤイノヤイノと激しいバッシングを受け、バツが悪いって言うか、その作文の後味が特に酷く悪かったのをよ~~く覚えている。勿論その文集は自宅には跡形もなく残っていない。以来私は二度と女の子と遊ばなくなっていたし、中学からずっと男子校で、大学も建築学部であったから当然女子は少なかった。学生時代から主人の家に書生のように出入りするようになり、そのまま今日まで来てしまったのである。

 

 流し雛ひな飾り

                                         下鴨神社の流し雛・雛飾り別誂え

 

  お節句と言えば三月三日の雛祭り(桃の節句)と五月五日の端午の節句(菖蒲の節句)だけを言っている。それぞれ女の子の節句と男の子の節句になっているが、両者とも五節句の一つである。平安時代節ごとに五つの公式宴会(五節会)があり、公家以下一般人は会食をして祝う日と定められていた。ところが五節会の方はその後廃れ、朝廷でも五節句に準じた行事のみを行うようになった。五節句とは、人日(じんじつ=一月七日)、上巳(じょうし=三月三日)、端午(たんご=五月五日)、七夕(たなばた=七月七日)、重陽(ちょうよう=九月九日)の五つで、人日以外は日と日が重なり奇数になっている。尚節供と書くと、節句の日に出される供御(くご=ご馳走)のことである。そもそも上巳の日は旧暦の最初の巳(み)の日のことで、元はと言えば中国で起こった出来事に端を発し発展し成長して来たお祭りのことを指して言う。上巳を俗に「じょうみ」とも言い、三月上旬の「み」と三日の「み」が照応されて三月三日に定めたらしく、三が重なるので、これを「重三の節句」とも呼ばれていた。

 さて上巳の日の起こりとは、中国では池や川など清流のあるところへ行って『流杯曲水の飲』としたとされている(「荊楚歳時記」による)。水の流れ(曲水)に杯を浮かべて、その杯が所定のところに来るまで詩を作って競うと言う。この故事について、晋の武帝が問い質したところ、「漢の章帝の時代、平原に徐肇(じょちょう)と言う男がいて、三月に初めて女の子三人が生まれた。ところが三人とも三日後に亡くなってしまった。そこで村中の者がこれを哀しみ、皆で酒を携え、<東流の水辺>に亡き骸を運び、酒などでよく洗浄した後水葬にした。これに因んで流水に杯を浮かべるようになった」と説明をしたが、武帝は「それはめでたいことではないか」と言うと、他の臣下が「昔、周公も流水に杯を浮かべたし、秦の昭王も三月上巳に河曲に置酒をした」と武帝の怒りを鎮めたと言う。

 

勝浦勝浦勝浦花桃

                                       千葉県勝浦市のビッグな雛祭り・花桃

 

 いずれにせよ、これが水辺に出て災厄を流す行事となり、それが発展し「曲水の飲」と呼ばれる祝い事の行事と相俟って、我が国に伝播して来た。もともと日本の古代神道では災厄を川で清め祓う考え方が一般的で、それが後々まで「邪を砕く力がある」と言われる中国説の桃の湯や桃花酒を飲む習慣が出来て、ちょうど桃の花が咲く頃であったから、『桃花節』とか『桃の節句』となったのであろう。この風習は上流階級の間にも古くからあったようで、平安時代初期には記録が書き残されている。平安貴族たちは、この三月上巳の日に、陰陽師を呼んでお祓いをさせ(人形<ひとがた>を作ってそれを身体をなでることによって、自分の穢れを人形の方へ移す行事)、その人形を海や川に流す行事が盛んに行われた。中国から伝わった曲水流觴(きょくすいりゅうしょう=觴は杯)の飲と、お祓いを済ませた人形を水に流して送ると言う日本古来の行事との習合によるものではないだろうか。

 そしてお祓いの道具として人形が単なる紙製ではなく、押し絵、糸製、土焼製、更には胡粉塗りの飾り雛に変遷して来て、それによって本来の意味が失われて来たように思う。人形(ひとがた)をよくお考え戴ければ理解し易いかも知れない。神社でお祓いなどに使われる御幣(ごへい=木に挟んだ白いギザギザした紙)は何を表現しているかと言うと、あれはヒトガタそのものだからである。御幣を幣束とも言うが、神道では最も重要な祭具であり、最初の頃の流す人形(ひとがた)は白い御幣のようなヒトガタであったのだろう。いつしかそれが紙人形になって彩色を施されるようになったのではあるまいか。

 然し人形(ひとがた)の風習は容易に無くなることはなかった。今でも地方によっては三月三日の節句の日に、野遊びや山遊びをした後に、持参した紙雛で遊び、遊び終わってから川や海へ流す『ひなおくり』の行事が残っている。紙製ゆえに、美しく段飾りをされた人形とは違い、流される運命を背負った人形なのであろう。今では京都・下鴨神社や和歌山・淡島神社や広島県の各地や奈良県五條市の吉野川や鳥取県用瀬や兵庫県龍野市や岡山県笠岡市や下関市赤間神宮や長野県北相原郡白岩や、特に最先端技術で現代雛人形を作り続けるあの岩槻の町にさえ、多くの各地に伝統的な『流し雛』が継承されている。だからと言って段飾りの雛人形は商業主義で、流し雛が本来であると論ずるつもりは全くない。近年我が大東京・隅田川でのように復刻された流し雛の例もある。使い捨てられた雛人形を数万体も集めてビッグなイベントになった勝浦市の雛祭りもある。ただ私には遠い昔、同時に三人の娘を失った父親の哀しみが伝わって来るようでならないのだ。

 雛人形とは違うが、一般に女の子の手にかかって遊ばれた人形たちは淡島神社などに集められ、お清めを受け供養されている。哲学の道の中間に位置する霊鑑寺という公家出身の由緒ある尼寺は椿の花で頗る有名な御寺であるが、お姫様などから預かった多くの気品に満ちた人形が集められ、尼僧によってここでも手厚く供養されている。雛祭りは通過儀礼的要素を含んでいるのだろうか。何処となく哀しみに満ちているのは。イタリアで多分幸せに暮らしていると思われる幼少時分の彼女はお雛様を持参して行っただろうか。フィレンツェに嫁いだらしいので、アルノ川辺りで少なくとも流し雛でもやられて日本を思い起こしながら、精々厄除けをして頑張って欲しいものである。

 

人形供養

                               和歌山・淡島神社の人形供養

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灯りをつけましょ雪洞に 上巳の節句 への8件のフィードバック

  1. (Kazane) より:

    硯水亭さん、こんばんは。 もうすぐ雛祭りですね。私のお雛様、実家においたままなのです。なので、結婚してからは、ミニミニサイズのウサギ雛を飾る程度…。私は小さい頃、やんちゃだったようで(^_^;  お雛様をどかして自分が座ろうとしたそうです。そう言えばそれと同じようなことを実家の猫がやっていました…。 
    勝浦市のビッグな雛祭り、すごいですね。知りませんでした。 >ちょっとお澄ましの揃いのスーツに蝶ネクタイ 
    何だか目に浮かぶようです。(…といってもお顔を拝見したことはありませんが…)そういう思い出って、どこかに残っているものですね(^^) 

  2. 道草 より:

    我が家も二人の娘が成人して家を出てからは、雛壇を飾ることはなくなりました。家内が、二対の立雛を玄関の下駄箱の上に飾る程度です。寂しい桃の節句です。下記は以前読んだ文章です。長くなって失礼ですが、硯水亭Ⅱさんのお話と併行して、ご参考までに。
     
    『雛祭りの話』  折口信夫    
    一 淡島様
     黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びなを羨んで、男を住吉様女を淡島様といふ条りが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。
     古くは願人(グワンニン)といふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。
     其由緒(ユカリ)はかうである。昔住吉明神の后にあはしまといふお方があつて、其が白血(シラチ)・長血(ナガチ)の病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。  
     東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこなが粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこなは其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな説を離さぬ人がある。
     処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命以外にちやんと淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつもない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと・いざなみのみことの最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。遠い遠い記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこなは、常世の国から、おほくにぬしの命の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬしと共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かたがた淡島神とごつちやにされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。
     此淡島様の祭日は三月三日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、三日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除(ミソギハラヘ)をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、三月三日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。
     唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く三月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水(ゴクスヰ)の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏の後、上巳をやめて三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、五日に決められても、やはり、端(ハジ)めの午なのである。
     かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。  
    二 雛人形と女神と
     此までの学者の説明では、其時に穢れを移して、水に流す筈の紙人形が流されずに、子供・女の玩び物になつたのが、雛祭りの雛だ、といふことになつてゐる様である。穢れを移す人形とは即、撫(ナ)で物(モノ)・形代(カタシロ))・天児(アマガツ)などの名によつて呼ばれるものである。なる程、かう説明すると、上巳の節供と雛人形との関係、延いては淡島との聯絡もつかう。が、も少し考へて見る必要がないであらうか。
     従来の我が国の好事家肌の学者の研究では、人形の歴史といふものが、比較的、時代の新しい処に限られてゐる様である。殆ど此撫で物位が人形の起原をなすもの位に考へられてゐるが、なかなかそんな短い歴史ではかたづけられないのである。
     もとはやはり、信仰上の対象として、生れたものに違ひはないが、祭りの中心行事に人形の与ることは、平安朝あたりから近世までは証拠がある。こんな人形は主に、さいのを又はせいのうと呼ばれてゐた。此を直に御神体と見立てたといふ程の、古代の形は見あたらぬが、万葉集あたりに採録された、民謡の中には、古事記・日本紀に洩れた昔物語であつて、極めて素樸な身振り芝居、或は偶人劇の舞踊であつたらしいものが、相応に見つけられるのである。万葉巻十三其他に見えてゐる劇的の脚色を持つた長歌の類には、其を演ずる人或は人形を予期することなしには、独立して存在出来ぬ様なものがあるのである。何かしら身振りが入らなければ、文句だけでは足りないのである。
     さうした神事に使はれる偶人が、次第に遊戯化して来る道程には、きつと、此神事演劇が梯渡しをしてゐるに違ひない。<br />勿論、平安朝頃の上流の女たちの玩び物には撫(ナ)で物(モノ)・形代(カタシロ)・天児(アマガツ)などいふ名で呼ばれた人形はあつたのであらうが、祓除の穢れを移す人形を、其儘、玩具にしたとはいへない。形が同じである処から、同様な名前を附けたと見ることも出来るし、殊に、天児などは祓除以外の神事の人形であることを見せてゐるものらしい。更に更級日記に見えてゐるをみな神なども、単なる形代ではなかつたであらうと思はれる。
     厳粛な宮中の祭祀の中で、一種ひようきんな趣きを見せてゐたものに、大宮之(オホミヤノメ)祭りがある。東国風を多量に取り込んで、其儀礼は野趣横溢、文字通りなものであつた。此には名高い大宮之祭りの祭文があつて、其が誦まれる対象は、宮中の八神殿といふよりも、寧、其折臨時に拵へる竹の柄につけられた華蓋(キヌガサ)、其に結び下げた男女三対、並びに一人の従者の人形にあつたらしい。つまり、其が祀られたらしいのである。此が宮中では、古くひゝなといはれてゐた様である。
     大宮之祭りとは十二月の初午の日に行はれたもので、後世の二月の初午の稲荷(イナリ)祭りの源流だ、と考へられてゐる。此祭りの目的には、悪事災難を除却するといふ意味はあつたのであるが、其ひゝなたちを必しも、撫で物其他の如く、人間の穢れを脊負つて往つてくれるものとも決められない。通常は此を以て、大宮之以下の神々の象徴と見てゐたらしいのである。
     ひゝなといふ言葉は、古く長音符の用法を発明しなかつた時代に、長音を表すのに同音を重ねたものであらう。鶯をほゝき鳥、帚をはゝき、蕗をふゝきなど言ふ風に表すことが多かつた。此ひゝなも其一例である。であるから、ひゝなが約まつて、ひなになつたといふ様なことは、万が一にもないことで、ひなを長音化して用ゐることが多かつた為でなければならぬ。
     想像すれば、ひなは一対のものといふ程の意味を持つてゐたらしく考へられるが、暫く其危険を避けても、鳥の雛の如く可憐なもの、又は形代の意味の人間のひながたといふ様な語から、出たものでないことは明言出来る。
     前にもいつた「女神」があるからには「男神」もあつたのであらう。其を合せて、ひゝな神と言うたことも、略推定出来るのである。(以下略)
     
    (底本:「折口信夫全集3」中央公論社1995(平成7)年4月10日初版発行。底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店1930(昭和5)年6月20日発行。初出:「愛国婦人 第四七九号」1922(大正11)年3月)。

  3. 文殊 より:

           風音さま
     
     そうですねぇ、もう直ぐですねぇ!お返事を送れて済みませんでした。
    桃の花と聞くだけでウキウキして来るような感じがします。先日京都に行った時、妻の実家では本人のが一番小さく可愛かったんですが、親子三代にわたって飾られていました。今度のお雛さまだけは冷やかす人もなく、はんなりした気分で過ごすことが出来ました。男の目線からすると、華やかでとってもいい感じで大好きなんですが、あの当時は大変でした。全く殆どの子と先生からでさえ冷やかされてしまったんです。でもいじめではなかったのですよ。いいなぁっていう羨望が多かったかも知れませんです。
     
     あはははは、風音さんもやんちゃさんだったんですね。何だか考えられないけれど・・・・・。でも子供の時分のやんちゃって元気があっていいですよね。その代わりにニャニャンが代役を務められていらっしゃるなんて可愛い!!今の住宅事情ではどちらさまのご家庭でも大きな段飾りは無理ですよね。今の私の周辺でも殆どのお宅は小さいか、雄雛と雌雛の一対だけだとか、多いですね。もう世の中全体が悠長なことを言っていられる時代ではないのでしょうね。多分禁止礼が二度もあった元禄時代が最高潮の時代だったのでしょう。個人的には流し雛が好きなのですが。勝浦のビッグな雛祭りは凄いでしょ!あれって殆ど中古っていうか、既に使用されなくなったお雛さまなんですよ。淡島神社の人形供養のようにしているのかも知れませんね。人形だって使われるだけ使われて、塵箱の中へポ~~ンでは哀し過ぎますからね。どこかで受け手があるといいですね。使われた瞬間から人形にも思いが込められてしまうのですからね。使用した人の思いの丈も供養してあげるべきでしょう!
     
     子供時代から私は結構お洒落でしたよ。母の影響が大きかったと思いますが、そのお洒落癖は治らないんです。ぷぷ!お洒落も楽しみにしているからでしょう。あの時女の子ばっかりだったので、妙に居心地悪い思い出だけは胸のどこかにはっきりとあります。本日も有難う御座いました!
     

  4. より:

    和歌山の淡島神社へはこの月の初めに訪れました。お雛様のみならず様々な人形や置物が境内に所狭しと並べられていました。決して使い古したものでなく今でもひな壇に飾れるのにと思う立派なものばかりでした。縁の下にある日本人形も素晴らしいものでいっぱいでした。それにしても境内を飾る人形いっぱいの風景は壮観でありました。

  5. より:

    すみません、前のコメントは mfujino が投稿しました。ここでのコメントの投稿に慣れていませんでしたので名前が入っていませんでした。失礼御免。

  6. 文殊 より:

          道草先生
     淡島神社は全国で実に1000社もあって、静かな大社です。社格は郷社ですが。或る意味強大なパワーを誇っています。和歌山の淡島神社が総社となっています。神話の世界で日本の創造主である少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の二祭神さまを御祀りしていますが、神功皇后が三韓出兵と関係がありまして、帰途海難に逢われ、流れに身を任せるようにと。そこで到達したのが現在の淡島の対岸であり、二神がいらっしゃる加太であったらしいのです。そこで神功皇后は三韓から持ち帰った宝を二神に捧げたのが神社の起こりだとされています。その後      道草先生
     淡島神社は全国で実に1000社もあって、静かですが、或る意味強大なパワーを誇っています。和歌山の淡島神社が総社となっています。神話の世界で日本の創造主である少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の二祭神さまを御祀りしていますが、神功皇后が三韓出兵されたことと関係がありまして、帰途海難に逢われ、流れに身を任せるようにと。そこで到達したのが現在の淡島の対岸であり、二神がいらっしゃる加太であったらしいのです。そこで神功皇后は三韓から持ち帰った宝を二神に捧げたのが神社の起こりだとされています。その後神功皇后もお祀りするようになり、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)として祀られております。後年神功皇后の孫にあたる仁徳天皇が加太に来た時に、これは不便であろうと言われ、現在の場所に創設されたとか聞いています。又淡島祭神は住吉神宮の妃神でありまして、彼女が婦人病に掛かってしまって、淡島に流されることになったのですが、妃神は淡島で婦人病を治すという誓いを立てられ、それがもとで現在でもどんな婦人病にでも効用があると敷衍されたのですが、これは後世、特に江戸時代に始まったことなのです。古代の加太は葛城山の修験者の道場で、役行者はその一面の役割を果たして、全国に広まって行ったものと思われます。淡島神社では特別に婦人病へのご利益を宣伝しているわけではありません。特に江戸時代には「淡島願人」と言われる人たちが淡島明神を厨子に背負って、淡島神社のご神徳を説いて廻りました。お陰で爆発的に宣伝されたのでしたが、2月8日の針供養=こと始めと人形供養が浸透して行ったのでしょう。秀吉によって一旦焼き討ちに会いましたが、徳川家は紀州ということもあり、大きな庇護を与えたようです。それが主な社歴ですが、折口先生の言われるようなことと似て

  7. 文殊 より:

     済みません、投稿されちゃいましたので、続きを!
    折口先生の言われることとそっくり似ていると思われますが、先生のおっしゃる淡島伝説は詳細に申し上げれば、幾らか主観が入っていると思っています。このコメントで詳しく申しかねますが、折口先生の学問は折口先生一代で終わるのでしょう。それでも学問の一派をなしたことは凄いことであります。今の学問は例えば妻のやっている書誌学でも、ただ一つを達成すれば学問になるのではありません。複合が進んで、書誌学と言えども科学的な根拠を求められたり、歴史学も必要、民俗学も必要と活用出来る他の分野も総括して入って来ないと学問とは認められないのが現状です。道草先生がご苦労をされて、こうしてお書きになって戴いて大変有難いことは事実なのですが、こと折口学問になると、どうしてなんでしょうか、私は猛反撃したくなってしまいます。先生!若造の言うことです。寛容にどうかお許し下さることをお願い申し上げます。感謝申し上げている一方で、こんな憎まれ口をききまして、本当に申し訳なく思っております。
     
     今回の記事で先生がこうしてお骨折され書きたかった真意は二人のお嬢様への心情ではなかったでしょうか。娘はいなくなってもひいなだけは残る、そんないとおしさと哀しみと淋しさを感じないではいられません。どちらも結婚をされ差って行くのが娘さんの運命でしょうが、親からしたらいつまで経っても娘は娘でしかないのですから、お嬢様がご健在であることを、先生と奥様と私とで、精一杯お祈り申し上げましょう。きっと元気で真っ当するんだぞと、祈りながら真意が伝わるように懸命に祈りたいものです。

  8. 文殊 より:

          Mfujinoさま
     
     ご投稿有難う御座います。おっしゃるとおりで、淡島神社には約二万体の人形がところ狭しと置いてありますね。一体の人形の髪の毛は伸びて来るとうわさされ、一時心霊スポットになったり大騒ぎになったこともありました。あの光景を観て、一種異様な雰囲気を感じざるを得ません。でも人形も一旦人の手に掛かるとやはりその子の魂を宿すのでしょうか。人形そのものに霊魂が宿って、従って後の始末だけは怠りなきようにとのご託宣なのでしょう。女の子の魂はどこか物憂げで哀しいものを感じますが、相手との相性もありましょうけれど、結婚相手との幸不幸のドラマの始まりでもあり、どこか受身なだけに親から見たら、いつでも心配になるのは当然なのでしょう。淡島願人(ほかいびとだったらしいです=乞食)の敷衍にもよりましょうが、人形が最期に行き着く場所を懇願しているのでしょう。私にとってはいい習慣に思えますが、神官から伺いましたら、結構迷惑しているようです。だって大切だった人形だけではなく、最近はぬいぐるみまでポイ捨て状態で置いて帰る人が後を絶たないからだとおっしゃっておりました。淡島神社さまの意思も尊重すべきでしょうね。カキコを有難う御座いました。一旦投稿された分は全部削除するしかなく、大変申し訳ないのですが、このままにさせて戴きます。済みません!同時に有難う御座いました!
     

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