あいづっこ宣言

 

オオイヌフグリ

 

 

 

                                            あいづっこ宣言

 

 

 北国の春は遅く、櫻前線が首都圏を通り過ぎれば先ず殆どの報道機関では、櫻の話題から徐々に遠のいていってしまいます。北国には名木だけではなく、染井吉野の花便りだって決して捨てたものじゃないのに、限りなく残念で淋しい思いをするのは私だけでしょうか。今日の話題は会津ですが、会津にだって多くの名木があります。会津五木といって、五本の櫻の名木や鶴ヶ城(=会津若松城)周辺のように櫻の海原になるのです.。でも北国の櫻は観る影も少なく、何処となくひっそりとしていますが、ここ会津には武家屋敷の近くにある石部櫻杉の糸櫻など、圧倒する江戸彼岸の美しい櫻が繚乱と咲いているのが観られるのです。そこに会津に生きる人々の強い意思が籠められているかのように。

 太平洋戦争の総括をする場合、私は江戸末期まで遡ってから総括しようと思っています。鳥羽・伏見の戦いから会津戦争や庄内戦争を経て函館戦争に至る一連の戊辰戦争に、既に太平洋戦争のレジューム(resume)の影が始まっているように思われてなりません。明治憲法の素案を作った坂本竜馬は新政府に何故加わろうとしなかったのでしょうか。近代化は良しとしても結局中央集権的になり、富国強兵の道に走りに走ったのは何故だったのでしょうか。下級武士たちの蜂起があったからでしょうか。東京招魂社から格上げされ靖国神社となりましたが、そこには薩長連合軍側の兵士だけが中心に祀られたのではありませんか。それが日本人全部の戦死者を祀らう神社と言ってもよろしいのでしょうか。徳川方に新政府でパワーを発揮出来る人は皆無だったのでしょうか。坂本竜馬がもし生存していたとしたら、勝海舟始め多くの幕臣の方々ともよく話し合いなどをして内戦を是が非でも回避し、一人大型船を操って大海原に出て全世界を相手に殖産興業に大いに力を注いだのではなかったでしょうか。と、あれこれ考えてしまうのです。

 

会津鶴が城

 

  会津といえば白虎隊で有名です。京都守護職だった松平容保藩主一派を一掃しようと、板垣退助を先頭にした官軍は会津に容赦なく攻め入ります。官軍に先頭を切って抵抗し、敗走中飯盛山で隊士たちが見た鶴ヶ城硝煙は市内の火事であった事実を、てっきりお城が炎上したものと思い込んで若干16~17歳の少年たち19名がそこで自刃して果てました。往時をしのぶ飯盛山の隊士の墓前には今でもお線香の煙が絶えません。よく観ると白虎隊で自刃したはずの少年の一人が生き永らえ、明治の御世に電信技士として働いた人の墓石もありますが、彼の墓石は隊士の墓石から少し離されて建っています。更には武家の子女子も自刃して果て、200名にも及ぶ方々の慰霊碑もあります。何故かくも武力を頼みにして戦わなければならなかったのでしょう。あの尊皇攘夷論や開国論華やかなりし折、義に篤かった藩主の行動の一挙手一投足が会津憎し一点張りの情念となったのでしょうか。

 会津は教育に熱心な藩でありました。日新館という他藩に類例がないほどの立派な藩校がありました。現在復興されている日新館は会津若松市の入り口に復元されていますが、元は城内にありました。上級藩士の子息たちは10歳になるとその藩校に入学させられました。そこの素読所で15歳まで礼法・書学・武術などを学びました。そこに水練場もあり天文台もあったのです。素読所を優秀な成績で卒業すると、江戸表での学問や他藩への遊学も認められていました。中でも注目すべきなのは『什(じゅう=会津藩)の掟』です。藩内の区域を細分化して先ず「辺」という単位に分け、更に細分化して「什」にしていました。什には什長がいて輪番とし、什の構成員に「什の掟」を訓示していました。藤原正彦氏のベストセラー『国家の品格』に紹介されておりましたから、お読みになられた方が大勢いらっしゃることでしょう。

              什の掟

                一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
                二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
                三、虚言をいふ事はなりませぬ
                四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
                五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
                六、戸外で物を食べてはなりませぬ
                七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

                       ならぬものはならぬものです

 

 会津戦争は実に一ヶ月も続きました。あの一見容易な平城はなかなか陥落しなかったのです。狭いお城に約1万人の男女がひしめいていました。降伏した決定的理由はトイレの満タンで不衛生だったからです。剛直で質実な会津武士の面目躍如といったところでしょう。その後藩主・松平容保は日光・東照宮宮司として生き続けました。敗走し、津軽や蝦夷まで逃げ下野し就農して生き続けた剛の者も多かったのです。

 

会津鶴が城

 

 そうして会津はお城と愛する主君を失いましたが、そこには様々な美やイノチが色濃く残されています。櫻の美しさだけではありません。人として生きる美しさもきちんと持ち合わせているのです。そして現在会津若松市の教育委員会で検討され、会津若松市青少年育成市民会議が推進母体となって、明日の会津っ子育成のために策定された「あいづっこ宣言」というのがあるのですが、何とあの「什の掟」がちゃんと底辺に生きていたではありませんか。今度は藩訓とか家訓という堅苦しいものではなく、我が家の決まりごととして次第に定着しているようです。小中学校の授業では最初に声高らかに全員で唱和されているのですから驚きです。

 

            あいづっこ宣言

          一 人をいたわります
          二 ありがとう ごめんなさいを言います
          三 がまんをします
          四 卑怯(ひきょう)なふるまいをしません
          五 会津を誇(ほこ)り 年上を敬(うやま)います
          六 夢に向かってがんばります

                         やってはならぬ  やらねばならぬ
                                 ならぬことは  ならぬものです

            あいづっこ宣言の内容はこちらへ

 いかがでしょうか。サッカーの試合の時だけ日の丸を掲げ、卒業式の際日の丸を掲げることを拒否し国歌斉唱さえ拒否するご時世です。あの忌まわしい軍国主義時代の教育勅語という方も中にはマジでいらっしゃるのでしょうか。でも本当にそうでしょうか。この中には何も特別なことは含まれておりません。常識の範疇ですし、人として生きてゆく上で最小の礼儀です。パソコンばかり相手にしている方々には理解不能かも知れませんが、子供たちは皆大きな声を出して読み書きしています。文字を書いたり声を出したり、未だ春浅き会津の寒空で、会津っ子たちは元気いっぱいです。少なくとも私は会津っ子の真似をしたい気持ちでいっぱいであります。

  

  会津会津

 

 もう直ぐお彼岸です。お彼岸の会津では三頭だての彼岸獅子たちが田圃の畦道などや街角で素朴な笛や太鼓のお囃子を引き連れて練り歩き、春を告げる歓びいっぱい表現した彼岸獅子たちの軽やかさが天空高く舞うことでしょう。そうして櫻の時季が来たら、会津西街道を上って山櫻を追いかけながら行くか、高速道路で一直線で行くか、会津五木飯盛山鶴ヶ城武家屋敷も静かな佇まいで待っています。会津には野口英生記念館があります。字が書けなかった野口の母はお盆の上のお砂で字を勉強し、たどたどしい字ながら実直にして必死に書かれた息子宛ての手紙に、母心の字がストレートに垣間見れることが出来ます。母が息子の無事を祈って信仰した権現さまにも美しい櫻が咲いています。観音堂にも櫻が咲いています。会津磐梯山には雄大で豪快な雲が流れています。五色沼はエメラルドグリーン色に美しく輝いています。でっかい猪苗代湖の白鳥はもう飛び立ったことでしょうか。あの白虎隊の隊士の中に、後のソニーの創始者である井深大さんのお身内の方もいらっしゃいました。一命を取り留めた隊士である飯沼貞雄は朝鮮に渡り、軍部から拳銃を持てと言われた際、既に白虎隊として自分は死んでいるからと言って決して銃を持たなかった方でした。死んで後も隊士と一緒に葬られることはなく、死にはぐれ生きはぐれしながらも、電信技士として精一杯生き、明治という時代を下支えした方でした。会津の魂は明日の日本に警鐘を鳴らしているように思われてなりませぬ。今宵はお手伝いさんから買って来てもらったピンクの侘助・西王母の椿の花を花器に投入し、白虎隊の霊位に敬意をはらいつつ。

 

西王母

 

  尚本稿のあいづっこ宣言の部分は会津若松市教育委員会生涯学習課・Kさまより多大なご協力を頂戴致しました。紙面を借り篤く御礼を申し上げます。尚上記二葉の櫻咲く鶴ヶ城の写真は多分どなたかの写真なのでありましょうが、亡き主人がデータに大切に保存されて御座いました。もしもの場合は無断借用を先ずもって心からお詫び申し上げます。(硯水亭)

 

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あいづっこ宣言 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    京都の梅便りは八日の今朝において、未だ満開の場所はありません。かの北野天満宮が七分咲き、他の名所たる梅宮大社に二条城にそして青谷梅林はやっと五分咲きとのこと。そして、梅ならぬ雪便りもあって、あの広河原が未だに135センチの積雪を〝誇って〟おります。春浅き昨日今日の、如何にも嬉しい(私だけかも)梅と雪の道行きと申せましょうか。また本日は、日本史の復習と言いますか、いえ、かつて学校では教えられなかった歴史の深部と真意を学ばせて戴きました。「白虎隊」となれば、浅学な私には昔に観た映画か歌謡でしか存じません。「紅顔可憐の少年が/死をもて護るこの保塞(とりで)/滝沢村の血の雨に/濡らす白刃の白虎隊・・・」。島田磐也作詩(古賀政男作曲)のこの歌詞に辛うじて覚えがあるる程度です。映画でも自刃した19名ばかりが賞賛されていますが、実際は参加した8割以上の200名が生き残って、それぞれの余生を過ごしているのが史実だそうです。これはやはり、古い観念を排除する「追い腹を切る」ことを禁じた結果からとのことで、そうした歴史の深部にある精神が、「あいずっこ宣言」に生かされているのでしょうか。言わば、この宣言は人間としての基本的な事柄ばかり、至極「当たり前」の理念といえます。それをあえて〝宣言〟しなければならない時代背景こそ大問題の筈です。思えば、我が小学校の校歌にも「ぼくらは強い正義のこども/ぼくらは明るい自由のこども/ぼくらは仲良し平和のこども・・・」などの言葉が盛られおりました。私達は別に校歌の言葉を意識していたわけではありませんが、それでも、虐めや校内暴力や登校拒否の無い、そんな言葉さえ無い、時代がありました。少子化、善きかな。日本にも、いずれそんな時代が復活するのではないですか。期待しましょう。写真のオオイヌフグリノ青さが目に染みるようです。
     
    「花陰」   江森国友
     
    イヌノフグリの開花は三月九日接骨木(ニワトコ)の芽(眼)が耳殻を割ってヒゲをのばす母の墓域に咲いていたベニワビスケ幼いイタドリが舌尖らして赫らむ 春
     はるかに花授をくわえた鳥の <求愛給餌> 翼をふるわせてする≪恋≫い 翼をふるわせながら口移しする
    花朝 花下≪君≫の 花唇を 摘む
     

  2. 文殊 より:

           道草先生
     
     おはよう御座います。早速のカキコを有難う御座います。仰る通り白虎隊は総勢340名おりましたが、その中の8割にあたる290名が生きて永らえました。ただ飯盛山で自刃して果てた白虎隊々士は白虎士中二番隊で、本来なら予備軍なはずでしたが、官軍の鉄砲の矢玉の中で奮闘していたのでした。多分多くは玉砕も覚悟していたのでしょう。ところが隊長の日向内記は城内篭城組とともに生き永らえるのです。装備の上で圧倒的に劣勢だったのは分かり切っていたにもかかわらず、最も重要な防備の拠点である十六橋を壊せなかったために、最前線の行軍に参加するしか二番隊にはなかったようでした。特に戸ノ口原の戦いで潰走せざるをえなかったようです。飯盛山には隊士の墓石の位置とは違った、やや下がった場所にお城を見るのに最も適した斜面があります。市街全部が見渡せる格好の場所です。現在は多くの墓所になっておりますが、そこで果てたと伺っています。ただ一人の生き残り、生き恥を曝したことになった飯沼貞吉、後の飯沼貞雄の墓石は隊士の墓石から話されて、この割腹現場とのちょうど中間点に立派な墓石が建てられております。ただひたすら残念なことは飽くまでも勘違いが生んだ大きな悲劇と言えましょう。でも更に大きな悲劇は松平容保の生涯だったかも知れませんですね。純粋無垢な藩主で、特に孝明天皇から可愛がられ、宸翰や書簡や和歌などを賜り、小さな竹筒に入れて生涯手放さなかったと。官軍はそれを恐れ、何としても取り上げるべく大枚をはたこうとするのですが、一切手から離すこともなかったし、それらをひけらかすことも一切なかったようです。白虎隊々士の面々も皆それぞれ口が堅かったようです。如かしてこの孝明天皇が突如ご崩御あそばされてから、がらりと形成が逆転したのも歴史の綾なのでしょうか。幕末の動乱の人の生き様を見るにつけ、この松平容保を調べるのはなかなか面白いことであります。あちこちに預かりにされながら生きて、ついに東照宮権現さまに仕えることになりましたが、決して逆賊ではなかった何よりの証拠は晩年その名誉が回復されております。その上容保の六男恒雄の長女はかの大正天皇の次男である秩父宮家雍仁親王に嫁いだ勢津子妃でありました。妃の本名は節子でしたが、義理の母君である雍仁親王の実母・貞明皇后の名も節子(さだこ)でしたから、同音の勢津子に変更されたものです。
     
     このあいづっこ宣言は子供たちのいっじめや節操のなさに憂いを感じられたから作られたものではないのではと私は考えています。無論皆無ではありませんが、そもそも戦後の大人たちは右にぶれたり左に傾いたりして、しっかりした歴史観や人生観を持たずに経済だけ優先し、大切なモノを喪失してしまった責任が重いんではないのでしょうか。校内暴力も登校拒否も虐めもみな大人たちの犠牲の上になりたっているように思えてなりません。積極果敢に、負の遺産は負の遺産として認め、日本の将来ひいては子供たちの将来を明確に示せなかった大人たちの責任は極めて重大です。あいづっこ宣言は大人も子供もともに奮闘しようとする何よりの証なのでしょう。大人からの単なる押し付けではないことだけは確かなようです。
     
     戦中隣組が非常によく機能したと聞いております。それを再び復活させよとは決して申し上げませんが、少なくとも鍵っ子にした責任は社会全般にとっても一般会社にとっても個人にとっても重大なマイナスだと思うのです。ヒューマニティの根源はコミュニティでもあります。決して一人ではないことの自覚がすべての出発点でありましょう。都会の子供たちは皆同じように孤独の中にあります。そこから一日も早く脱却させてあげなければなりません。これは我々大人たちの責任でもあり、もうひと頑張りする必要があろうかと存じ上げます。まさしく昔はよかったと小泉八雲を持ち出すまでもなく、そう思います。再発見し再登板し、日本の美徳を先ずもって構築して行くべきでありましょう。
     
     今年の京都は寒かったですね。梅花はまだそんな状態でしょうか。スキー場の積雪をうかがえば容易に納得出来ます。でも道草邸には白梅が咲き、梅香酒のひと時なのでしょう。遠いところから是非一献お供を申し上げたいところですが、怪我の手術が終わるまで当分お預けで、それが一番難渋致しておるところです。名も知られずふと咲いている優しい春の妖精のような小さな花が好きです。道草先生も朝の散歩で大いに愉しまれていらっしゃることでしょう。江森さんの詩は清純な色香があっていいものですねぇ。いつも本当に有難う御座います!
     

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