伊勢の神宮神田における農耕儀礼

 

  ご神饌伊勢伊勢の神宮

 

 

 

                             伊勢の神宮神田における農耕儀礼

 

  神宮神田とは、内宮には楠部町にある家田神田(抜穂田ともいう)・田辺神田・荒祭宮料田が三節祭における由貴大御饌の御料田とされ、外宮には宮崎神田(御常供田ともいう)が日別朝夕大御饌の御料田に充てられてきた。そのほか、内宮別宮伊雑宮にも御料田がある。

 その中で特に由緒が古く、民間の稲作儀礼と共通する祭祀基盤性を持つのが楠部町の内宮神田である。楠部は五十鈴川沿いに位置し、地元の農民が古くから五十鈴川の水を灌漑用水とし稲作をしてきた。伝承によりこの神田の由来は、垂仁朝に倭姫命が大宮処を求めて巡幸した際、各地を経るごとに、地元の国造と県主が神田を献上したものとされている。楠部神田は、倭姫命が宇治郷に行った時、「大神之御刀代田」として献上されたとも伝えられている。

 

    ① 鍬山祭と御田種蒔下始:

 神宮神田における一連の稲作儀礼の中で最も早く行われるのは、毎年2月の鍬山祭と御田種蒔下始である。その前半の鍬山祭は、農村のおんだ祭りと同じで、本当の田植えではなく、田植えの模倣をし、初春の豊年予祝行事に当る。

 『皇大神宮儀式帳』により、二月初子日、禰宜、内人等が山向物忌子を率いて、忌鍬を作るため、湯鍬山に登る。忌物を供えて、山口の神を祭り、櫟(くぬき)木のもとに到って、木本神を祭る。山向物忌子、忌斧を持って、櫟(くぬき)木を伐り始め、後に人夫などに伐らしめる。湯鍬を作り、禰宜、内人等は真佐岐蔓を懸けてから、湯鍬山を下りる。

 その前半の鍬山祭は、神聖な山から神聖な木を切り、その木に宿る神を神聖な田圃まで移す、このような木こり行事は神宮だけの稲作儀礼ではなく、ごく普通の農家のお田植え祭にも登場している。古くから日本人は早春の頃に山にて花見をし、辛夷や櫻などの花が咲けば、このことから田植の作業を始めても良いとの目印になったと見られ、山から稲霊の宿る花の咲いた枝を持ち帰り、田圃に挿し、一年の豊作を祈り、田植を始める。近代の村々にもこの習俗が続けられてきた。年の暮れや新年に山から木を迎えに行って、正月や小正月の行事にねんごろに祀らい奉って、またこれを苗代や田圃の畦道に飾り、田植のときに田圃の水口に飾る習慣も多く観られる。

 もう一つの注目すべき点は、同じ伊勢神宮で行われる祭り――御遷宮の造営にあたり、最初に執り行われる祭儀は山口祭である。神宮の造営する用材を伐採する御杣山の山口に座す山口神を祀り、木を切り始める。その後の木本祭は、伊勢神宮の信仰で最も重視され、正宮の床下にある心御柱の御料木を切る。その木を山から運ばれ、新社殿を造営するとき、まず敷地に神さまの宿る心御柱を立ててから、社殿の周りを建てる。また遷宮の後、旧社殿が解体されても心御柱は神さまが去った形見としてそのまま敷地に保存され、次回の遷宮のときに再びここで新しい社殿を立つ目印になる。心御柱には神の存在が信じられているのである。建築儀礼である神宮遷宮も、稲作儀礼である鍬山祭も、山から神を移すという共通点がある。(鹿児島の民間信仰にあるタノカンサーと同様であろうか) 名高い御遷宮はけっして民衆と離れた儀式ではなく、古来日本人の信仰の色濃く染められているものである。

 また、その後半の御田種蒔下始は、日本田植の原初形式――直播方式であり、現在のような5月の田植方式は、15世紀頃に変わってきたものであろう。神宮の古記録には、その田植の古態、即ち御田種蒔下始のみ記述され、現在の通常の田植は見当たらなかった。

 『皇大神宮儀式帳』により、酒作物忌父、忌鍬を持って御刀代田を耕し、忌種を下ろし始めるとある。時に田耕歌、田舞をなす。諸神田および百姓田、耕して種下しを始める。また、「あな楽し 今日の楽しさ 古へも かくや有りけむ 今日の楽しさ」という御田歌がある。

 現在、毎年4月2日に行われる神田下種祭は、明治5年に古式の儀は廃止された後、昭和八年に復興された新祭式のものである。古儀の鍬山神事の伝統を引き継いだ上で、神田祭場にて神社祭式により献饌の後、黄狩衣の作長と白張姿の作丁により実際に神田に耕作と播種の作業をしている様子を再現している。田歌に「天鍬や真佐岐の蔓笠にきて御田うちまつる春の宮人」という歌があるようにである。

    ② お田植え:

 早春の予祝神事の次、五月に入ると、内宮は家田神田、外宮は宮崎神田にて本式の田植が行われる。前にも述べたが、田植は平安以前の神宮古記録では記述されていなかった。その原因の一つは前述した直播方式であったが、然し一方では、田植の際に奉納される五穀豊穣を祈る為の田楽は、日本において古くからある習慣・習俗であり、また神宮も民間と同じように、2月鍬山祭の後、5月に田植初めを迎えるはずである。神宮古記録に書かれなかったもう一つ重要な原因は、当時田植は神宮禰宜の職務に属せず、郡司専当であった。内宮田植の初見は応永十年(1403年)の『神宮日記』であり、中世を通し、田植が次第に内宮に属した神事になってきたのはこの時期の前後ではないだろうか。

 田舞の芸態について、『皇大神宮年中行事当時勤行次第』によると、五月五日(中略)、宮政所、苗三株を植え始め、農夫農女が競って御田を植え進み、その遅速により作付けの豊凶を占う。田中の森を植え残して苗を植えた後、能人四人、舞人十人が二列に分かれ、福神の刺翳を立てて験とする。(中略)職掌人、歌舞しつつ門内に入来して、鼓吹、歌舞(保古流)するとある。

 その「福神の刺翳を立てて験とする」の中の福神は即ち御歳神で、内宮の田植神事は、鍬山から御歳木を伐り、守護神として神田に迎えることに続いて、田の神の信仰を重視していることが所見せられる。

 外宮の田植について、近世になるほど書物に詳しく記述されている。

 『豊受皇太神宮年中行事今式』により、

   Ⅰ 前儀:

 御田山に幄屋を構える。前日に、一禰宜里第にて家司より、神歌を習い、当日未明にて御田に椎柴を伐り、一禰宜里第にて御田扇、赤飯を賜る。小試、荷用内人、前日に御政印御倉より棒扇篋(はこ)くを一禰宜里第に運び、振棒、振扇、神楽役人も同所に集いともに酒餅を賜る。御田役人の鼓吹につれて、振棒、振扇が歌舞。後に振棒、振扇のみ盛饌に預かる。一禰宜、末広扇一握、御田扇二握を各禰宜斎館に賜る。

   Ⅱ 田植:

 神楽役人は風宮側に集い、家司代、加伊豆留、荷用内人、小内人は庁舎にて飲酒。共に御田に先行する。子等、物忌父等、風宮前、闇谷口、井谷上を経て(新嘗会之田)に至り、田畔の椎木に踞える。その西畔に神楽役人も参集する。禰宜、権官、例所より木柴垣を経て本宮に伏拝、別宮遥拝。二鳥居より一禰宜、十禰宜が騎乗、把笏して先行。二禰宜轅(ながえ)、三禰宜肩輿、三禰宜以下騎乗して従行。闇谷口より井谷上を経て御田山麓にて下乗。山を登りて幄屋に着座。小内人、供具を田畔に据え、子等、物忌父、家司代、加伊豆留、荷用内人、神楽役人等に酒飯を勧める。大物忌父一臈が苗前にて祓を修し、小内人が祓串を執(と)りて、苗、物忌父以下を祓い清める。

 神楽役人、御田に下り立ち鼓吹、歌謡をなす。その第三曲に合わせて子等、物忌父等が起つ。一長、時に苗一株を物忌末座に授け、これを子等に転伝する。子等、市女笠(いちめがさ)を着けて、其の笛を御田に投げること三度。物忌父等、御田に蹲踞拝。

 神楽役人は丸山に往き、子等、物忌父、家司代、加伊豆留、荷用内人は先に帰る。大物忌父一臈、山を登り禰宜幄屋に着座。神楽役人の奏する笛の初音を聞くや、一禰宜に礼して帰る。井谷上に待つ物忌等と共に風宮前を経て、遥拝所より本宮を拝して帰館。

   Ⅲ 後儀

  振棒、振扇、装束、化粧を整えて、一禰宜里第にて朝食を摂り、丸山に向かう。一禰宜家人も棒扇篋から棒扇を取り出して丸山に往く。神楽役人、田沼に下りて鼓吹、歌舞。禰宜、権官、一禰宜斎館にて盛饌を賜る。神楽役人、禰宜帰館につれて御田鳥居前、闇谷口、一鳥居、北御門口、一禰宜里第へと鼓吹、歌舞し、畢りて退出。振棒、振扇、食事、扇二握、青蛛を賜り、祝言を申して退出。

 今日になると、毎年五月十七日に行われる神宮神田(内宮)田植は、明治5年一度廃止され、大正十二年復興されたものである。神宮神職が田の神を祀った後、笛、ささら、鼓などの田楽を奉納しながら、早乙女が早苗を植え付ける。その後、「団扇合せ」や「行司取り」を行う。田植が終った後、大土御祖神社の境内でほこり、舟漕、とう舞(鼓で米俵の真似をし、豊作を祈る)を奉納する。神宮の神田の田植神事でも、民間の田圃と同じく、賑やかで神人和楽な田楽を奉納し、稲の祭り独特にして素朴なる一面は大いな魅力で満ちるのである。

 また、内宮別宮伊雑宮の神田に行われる御田植は名高いものであり、県無形文化財に指定され、後の文の中で詳しく紹介する。

 

    ③ 抜穂祭

 神宮では、九月始め、成熟した稲を神嘗祭に供奉するために収穫する神事を抜穂祭と称する。抜穂とは、日本古来の収穫方法であり、晩稲を収穫するときの刈りとは違い、早稲だけ稲穂を一本一本抜くという独特の方式である。

 『皇太神宮年中行事』の寛正加注により、「禰宜穂抜三穂也、其後宇治郷大小刀禰、祝部等奉抜之、一拳三伏宛十八也」とある。

 今日に行われる抜穂祭は、明治六年の改暦の際に、神嘗祭は旧暦9月から新暦9月になったため、新穀は未熟であったことで困っていたものだが、近年農業の発展により、新暦9月に早稲をも収穫することが可能になり、現在は毎年9月6日に行われている。神田祭場で神祭の後、黄狩衣姿の作長が忌鎌を持ち、抜穂二束を抜く。その後、稲穂を乾燥し、内宮は御稲御倉、外宮は忌火屋殿に納められる。神嘗祭と月並み祭の際に、御料米として献上されるものである。

 

    参考

  『新嘗の研究 5』 にいなめ研究会 2003年 

  『伊勢神宮の稲作儀礼』 小島瓔禮

  『伊勢神宮の神田三儀』 中西正幸

 

注連縄

 

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