稲の伝来

    

              胡蝶の舞古戸の花祭りみのりの季節

 

 

 

                      稲の伝来

 

 

    1 稲作の起源:

 アジア栽培稲の発祥地は、インドの北部にあるアッサムと中国西南辺境にある雲南省の辺りだと見られている。太古からその高原や湿原では野生稲が多く分布されていた。長い歴史の中で、知恵の持つ原始人たちは、野生稲を人工栽培へ、そしてアッサムと雲南からアジア各地に伝播されてきた。

 稲は大きく二種類に、即ち粳米(うるち=俗称インディカ)と糯米(もち=俗称ジャポニカ)に分けられている。粳米の特長は、粒の形が細長く、粘性はない。糯米は丸い形をして、粘性がある。アッサムと雲南ではこの二種類の稲がともに混生してあったのだが、低湿地で育てやすいインディカと丘陵地に強いジャポニカが伝播する時、それぞれの立地に優れているかどうかによって、揚子江流域を経て最終的に中国に伝播されてきたのが、主にジャポニカの系統であった。このジャポニカの系統は後代日本まで伝来し、今日まで神社祭祀にしても民俗の祭りにも、日本の祭りで使われる主要な神饌の米はほとんど糯米であることから、古代日本のお祭りの面影を覗きみることができる。

 

    2 日本へ稲の伝来のルート:

 日本列島への稲の伝来経路について、三つの説がある。それは「海上の道」説、「朝鮮半島経由」説、「中国長江下流」説であろう。

  A 「海上の道」説の否定:

 晩年の柳田國男最期の力作でもあった、彼の主張する海上の道での雄大な仮説は、民俗学界を魅了していた。然し長い間考古学界はそれを受け入れることを拒否していた。

 柳田は、日本民族の構造は人種の混淆を認め、大和民族は単一な民族ではなく、北からのと南からの渡来人に分かれていて混淆されてきたと。それについては稲や米の到来と定着をさらに考えるべきことだと言う。彼の仮説により、日本民族の祖先たちの一枝は南からいかなる経路をたどり、南の琉球列島に移り住んだか。それと同時に、海人たちは稲作技術を携えて、遥か南方からこの道を沿い北上し,琉球列島に伝え、その後さらに日本の九州に至ったか。彼はこの「華南→台湾→琉球→九州」のルートを、「海上の道」だと称している。地図上で見ると、これらの島々が確かにつながっていて、一つの連続した通路のように海上では広がっているが、それはあくまでも考古学上の有力なる証明がなく、一種の民俗学的仮説であり、沖縄本島および離島でそれだけの古い稲作遺跡は見つけることが出来ないからである。琉球列島の住民である海人たちは、長い間漁業を生業とし、島に稲作文化を健やかに育てる広い土地の環境がなかったからであろう。水の便でもそうかも知れない。

 然し、現在日本で栽培されている稲のほとんどは温帯ジャポニカであることと対照に、台湾の山岳部から南西諸島、そして九州までの一連の島々では、熱帯ジャポニカが広く分布している。「海上の道」は間違いなく存在していたのだろうか。恐らく船を操り大海原を駆け巡る海人たちが、熱帯ジャポニカの米を遠くから持ってきて口にしていただろうが、栽培する土壌がなく、稲作まで発展していなかったのではないかと考えられる。

  B 朝鮮半島経由説の疑問点:

 次に、中国大陸を渡り、朝鮮半島を経由し日本に伝来したという幾つかの説がある。

 第一ルーツ:長江中下流域から山東半島、遼東半島、朝鮮半島経由で日本に至る。

 第二ルーツ:長江下流域から山東半島を経て黄海を渡り、朝鮮半島経由で日本に至る。

 第三ルーツ:淮河下流域から黄海を渡り、朝鮮半島経由で日本に至る。

 これらの説は多くの研究者に支持されているが、考古学上ではそれぞれに問題点が存在している。

 まず、古代の山東半島と遼東半島に稲作より先に伝えられた農耕が粟(あわ)作であり、人々は粟を主食とした習慣があって、この地方は水稲が生長できる生態環境に大きく欠けていて、粟作中心でしかない農耕地帯であるといえる。次に、山東半島の大連市にある大嘴子遺跡から、今から3000年以前の炭化粳米が出土された。然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+-50)年前と推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、今から5020年前のものだと修正がなされた。これは山東半島から朝鮮半島へ稲が伝わってきた説と年代的にまったく逆になろう。勿論、山東半島や淮河下流域から数少ない栽培稲の種が出土されてはいるが、まだ考古学的な資料に乏しく、山東半島に3000年前に稲作農耕技術が存在していたことだけで、「山東半島→朝鮮半島→日本」という稲の伝来の説を充分に証明することは出来ていない。

  C 中国長江下流域説の可能性:

 最後に、最も可能性のあるのは、長江下流域と杭州湾地域の浙江省から海を渡って、直接に日本に至るルートである。

  ① 長江下流地方、ここは中国では俗称で「江南水郷」と言われていた。すなわち、水に恵まれ稲と魚の故郷という意味である。この地方は人々が古くから稲を主食とし、中国でも最も有名な稲作農耕地帯であった。新石器時代から稲作遺跡が密集し、近年でもその多くが発見がなされている。例えば上海市青浦県にある崧沢と馬橋、江蘇省無錫市にある仙蠡墩、錫山、呉県の草鞋山、常州圩墩、越城、呉江龍南、と枚挙にいとまがない。その地名の中の「呉」や「越」などは、古代地名「呉越地方」の名残で、この地方は古くから日本との交易が頻繁であった。その遺跡たちの中で最も名高いのは河姆渡遺跡であり、近年における河姆渡遺跡の研究により、黄河文明よりも遙かに古い時代に長江文明が存在していたことが明らかになった。稲作は中国の東北地方を通らず、長江下流域から直接日本に伝ってきたことが容易に考えられる。

  ② 長江下流域から直接に海を渡り日本に渡来する道は、ただ地理的から見れば、南の島々の繋がる海上の道と朝鮮半島からの近距離の渡海より、距離が遥かに長い。が、江浙地帯は東シナ海に臨み、古くから漁業が盛んで、大陸系で馬を駆使出来る東北の人々と対照にし、越人たちは舟を操る巧妙さに高く、漁業を始め、海路の貿易まで、海上活動は大変活発であった。如かして越人たちは、日本との間でさまざまな交易があったことは容易に想像しうる。それを溯り、杭州湾の寧波市にある慈湖遺跡から出土された木製櫂を見ると、先秦時代に長江下流、杭州湾に既に水上交通が相当普及しており、海上にも進出していたことが充分に分かってくる。さらに、造船や航海の技術はまだ充分に発達してなかった当時、海流や季節風などの自然的要素を味方につけ、先秦の人たちの航海技術は、現代人の想像を遥かに超えているかもしれない。河姆渡人たちが舟を乗り、海流に流されつつ、稲を直接日本に持ってきたことは充分に考えられる。

  ③ 以上は考古学から検証したが、次にDNA考古学からまた幾つかの理由を挙げよう。

 中国大陸、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種は主に250種がある。その中で、遺伝子の変形版が8つもあり、それぞれをa~hまでの字を当てることにする。遺伝子だけを見れば、面白い現象が分かる。中国と朝鮮半島にこれら8つの変形版がほとんど存在しているのに対し、日本に栽培される品種の多くはaか bかに限られている、これは中国と朝鮮から持ち運んできた稲の種は極僅かだからであろうか。然し、朝鮮半島にはbがない、中国にはaがないことにも関わらず、日本にはaもbもある。

 前述のように、朝鮮半島経由で稲が日本に伝来したのはまだ大いに疑問が存在しているけれど、いま日本にあるa遺伝子を持つ米は、朝鮮在来の品種の子孫であると言えがたい、b遺伝子を持つ米は、中国から伝ってきたものであると考えてもいいであろう。

 つまり、日本への稲の伝来のルーツは、一つだけではなく、様々な要因を複合総合して、複数のルーツを経由しながら稲はやがて日本の国に伝来したものと考えられるのである。

 

    3 日本列島での稲の東漸

 稲はいつ日本に伝来したか、長い間、弥生時代説が通説であった。然し最近の考古学発掘調査によれば、福岡県板付遺跡に、縄文晩期には既に水田遺構があったことが窺える。弥生早期になると、井堰、水路、水口などの高度な稲作技術が形成されていた。それに伴って同時期に形成したのが初期の環濠集落である。稲作が一挙に日本に伝来し、急速に日本に定着し始めることとなったのだろう。水稲農耕化の日本列島への東漸に伴い、弥生文化の範囲も拡大されてきたのだ。稲作は九州を始め、瀬戸内海を超え、近畿にも農耕集落が現れるようになった。そして第二次の拡大は、中部を渡り、東日本に至り、その時は既に本格的で成熟した農耕文化が形成されていただろう。弥生中期になると、東北地方に巨大な農耕集落が出現したのは明白な事実である。稲作は東漸しながら、日本人の生活を大きく変えてきたといえよう。

 このような急進的な文明の発展と進化はほかの国では類例が見られないぐらいで、稲作が日本に伝来したからこそ、日本人の生産力が急速に高まり、縄文から弥生に飛躍してきたと言っても過言ではないであろう。そして日本列島で農業共同体が形成し、弥生人たちが集団生活をし始めることになった。日本文化の多くの要素は、この稲作による集団生活という原点から発生してきたものであろうことが容易に察せられる。様々な文化の伝播に酷似している。

 

参考資料:『日本のコメはどこから来たのか』渡部忠世/1990年php出版社

            ;『新嘗の研究5』『DNA考古学といね』『稲作農耕東伝経路の研究』

 

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稲の伝来 への6件のフィードバック

  1. 道草 より:

    稻の伝来の歴史がよく理解出来ました。最近は欧米でも「米」がヘルシー食品として注目を浴びているようですが、何を今更の感が否めません。日本では一部のブランドを除いて米が売れない。だから売れないモノは作らない、というより作れないのが現実なのでしょう。私の古里のかつての「U村」は、50年前は約1000人の人口がありました。それが現在は550人程度。ここ10年近く新生児はゼロで60歳以上の高齢者が55%を占め、50年後には300人を割ります。そして、更に50年経てば古里は恐らく廃村となります。これは、今も村で農業を営む数少ない同級生の推測です。
    一時、「美しい国」づくり政策の一環としてあった、昔は稲作を主力としていた過疎の地域に目を配り、美しかった時代の姿を、そしてそれを愛でる多くの日本人の心を復活させようと意図する試みは、今でも継承されているのかどうか。  
    米が日本人(かつての)の命の糧であるなら、小麦や馬鈴薯や玉蜀黍を主食にする人達にとっては、それらは同じ様に命の糧です。現在は、好みに応じて主食が選べる時代になりました。見渡す限りの黄金の稲田は、脚光を浴びる特定の場所では存続するかも分かりません。また、その地域では農業を営む者が百姓の原点に還ることも可能かも知れません。しかし、それは限られた場所での、少し大規模な「植物園」と呼ぶのがふさわしい気もするのです。
    私達の世代は、少なくとも米の飯が大好きです(ブランド品は買えませんが)。あの「七人の侍」の、ラストの田植え(花田植え?)で農民の土屋嘉男や津島恵子の生き生きとした表情。また、侍に食わす米粒が床にこぼれて、百姓の左卜全が泣きながら一粒ずつ拾うシーン。「米」を大切にする日本人の心が痛切に感じられる場面でした。あの心情を知る日本人が、今はどれだけ存在するのでしょうか。
     
    「稲作挿話」    宮沢賢治あすこの田はねえあの種類では窒素があんまり多過ぎるからもうきっぱりと灌水(みづ)を切ってね三番除草はしないんだ  ……一しんに畔を走って来て    青田のなかに汗拭くその子……燐酸がまだ残ってゐない?みんな使った?それではもしもこの天候がこれから五日続いたらあの枝垂れ葉をねえ斯ういふ風な枝垂れ葉をねえむしってとってしまふんだ  ……せはしくうなづき汗拭くその子    冬講習に来たときは    一年はたらいたあととは云へ    まだかゞやかな苹果(りんご)のわらひをもってゐた    いまはもう日と汗に焼け    幾夜の不眠にやつれてゐる……それからいゝかい今月末にあの稲が君の胸より延びたらねえちやうどシャッツの上のぼたんを定規にしてねえ葉尖を刈ってしまふんだ  ……汗だけでない    泪も拭いてゐるんだな……君が自分でかんがへたあの田もすっかり見て来たよ陸羽一三二号のはうねあれはずゐぶん上手に行った肥えも少しもむらがないしいかにも強く育ってゐる硫安だってきみが自分で播いたらうみんながいろいろ云ふだらうがあっちは少しも心配ない反当三石二斗ならもうきまったと云っていゝしっかりやるんだよこれからの本当の勉強はねえテニスをしながら商売の先生から義理で教はることでないんだきみのやうにさ吹雪やわづかの仕事のひまで泣きながらからだに刻んで行く勉強がまもなくぐんぐん強い芽を噴いてどこまでのびるかわからないそれがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだではさやうなら  ……雲からも風からも    透明なカが    そのこどもに    うつれ……

  2. Unknown より:

    こんにちは♪
    無事、退院されたでしょうか。
    とても入院中の方とは思えないブログの更新(笑)に、きっとお元気なのだとホッとしています。
    あとは焦らず、どうぞゆっくりお過ごしくださいね。
    奥様がしばらく傍にいてくださるとのこと、よかったですね~!!
     
    今回の記事も、たいへん勉強になりました。
    道草さんが紹介してくださった賢治の詩は、私も大好きな詩です。
    先生としての賢治の素晴らしさがよくわかりますね。
     

  3. 文殊 より:

                 道草先生
     
     本当に将来の米作は危機的な状況をちっとも出ないですね。天照大御神さまが最も大切になさっているのは稲魂さまで、それが毎年の最重要な祭りである神嘗祭であるはずなのに、次第に滅び行く現在の状況を大いに心底から危惧しています。現在の天皇陛下さまさえも、皇居内の田圃で稲を植えていらっしゃること、とても心が痛みます。ましてや寒村の方々の悲痛な思いに心を致す時、思わずギュ~~ッと極端に物事を考えざるを得ませんのです。特に過疎の村々ではどれほど悩まれていらっしゃるのでしょうか。ここにも格差社会が大きく存在していること、とても驚くばかりです。更に美しい田園風景として存在した棚田は今まさにやり手がなくなってしまった状況です。秋田の八郎潟の大型稲作農家でさえも現在設備投資が全く出来ない状態だそうです。
     
     それでもやはり私は極力楽観的な考え方に重視して参りたいと希望を捨てておりません。北海道の農業試験場で、昨日米の収穫があったばかりです(寒冷地用米作の研究)。稲の研究に各地の農業試験場はそれぞれ未だに頑張っているのです。カリフォルニアからコシヒカリが輸入され、中国では越光として商標登録がなされていると伺っておりまして、海外では密かにお米のブランド化や稲作を重視しつつあります。従って国際的に見ても寿司ブームが長く続き、決してお米の需要はないわけではないように思われてなりません。ただ日本人がお米を食べない習慣が定着しつつあります。あの未曾有のバブル絶頂の時と現在では国民一人当たりの消費量が半減しているからですし、減反政策もまだまだ続けなければならないかも知れません。嘆かわしい一面です。実に日本の美しい風景をも変えようとしていますが、まだ余地を信じるしかないように思われます。
     
     以下が週刊農林に書かれた記事で、一つのヒントを示しているように思われます。
     
     曰く「唯一の自給農産物で、自給率寄与率の5割強を占める米の消費量=生産量が減ることは、日本の食料自給基盤を掘り崩すだけでなく、水田の荒廃が国土の荒廃に繋がり、食料安全保障ばかりか、国土の安全保障そのものを揺るがすといっても過言ではありません。さらにお米が食における「主婦の座」から転落することは、国民の食生活、健康の危機だけでなく、基盤としての稲作文化に由来する日本文化、とりわけ食文化の崩壊を意味します。こうした危機的状況を打開していくためには、米改革・水田農業振興戦略、食生活改善・健康増進戦略、国産農産物消費拡大戦略、安全保障戦略の一環として、経済・社会構造や食料市場、食料消費構造の変化等に対応した米消費拡大対策を戦略的に、とりわけマーケティング戦略として構築し、展開していくことが喫緊の課題です。マーケティング戦略としては、2010年までに消費減退傾向に歯止めを掛け、一人一年当たり66キロ台、総需要量1000万トンを回復、長期的には理想的な日本型食生活といわれた85年の75キロ水準、総需要量1100万トン台の回復をめざすべきでしょう。この目標を実現するためには、まず、いま最も需要が伸び、成長している中・外食、加工米飯分野・市場に着目し、さらに伸ばすことが必要です。おにぎりカフェなど、「和製ファーストフード」としておにぎりブームが起きています。伸びている分野のキーワードは、簡便性、健康・美容性、栄養性・機能性です。次に可能性が大きいのは、競合する輸入麦粉製品に取って代わりうる、「未踏」ともいえる巨大な米粉製品開発分野・市場です。ターゲット論的には、米離れ著しい若い世代、とりわけ若い女性と子供です。食習慣を形成する児童・生徒を対象とする学校給食制度改革は必須です。戦後アメリカの小麦戦略により形成された学校給食における主食の座をパンから奪回するため、国産農産物の使用にインセンティブを与える助成の強化拡充と食農育を推進する必要があります。もちろん、健康増進・食生活改善戦略として、米を中心とする日本型食生活、食生活ガイドラインの普及をさらに効果的に推し進めなければなりません。こうした観点にたって、マーケティング戦略や栄養学の専門家、最前線の食品起業者を中心に、具体的な新機軸となる米消費拡大戦略をご提案頂きました。これらのエキサイティングな提案が、今後の米消費拡大推進の梃子として活用されることを期待するところであります。(週刊農林編集部)
     
     
     米文化の分野でさえ怪しくなるような、そんな国の指針や政策では仕方がないのでしょう。第一農林水産省の大臣があんな情けないことばっかりで、税金を払う意欲を完璧に失くします。自給自足率が世界で一番危うい国家として超有名であったなら、それって完全に可笑しい。オニギリの五割アップ、それもコンビニの二倍サイズを100円で、売ろうとしなければ売れない、無洗米に全力を、MSA協定を破棄し日本の食文化を守る、粒食概念からの脱却を、消費拡大キャンペーンを大々的に、すべての農業生産物の持久力強化を、そして最後には自国の米文化で生きる哲学の徹底を、あれこれ考えたら何かヒントがありそうでなりません。もう眠れなくなりそうですが。
     
     先生!宮沢賢治の詩を有難う御座いました。賢治は同時に科学者でしたね。賢治の耕した田畑は花巻でもまだいい方で、賢治の自宅に戦後一時疎開した高村光太郎は、賢治のお身内の紹介で行った反対側の山口部落辺りは強い酸性土壌で、光太郎はそれをわざわざ承知して行ったのでしたね。全県は全般的にやせた土地が多く、さすがの賢治も幾たびも難渋しなおでしょう。この詩はそこで生きようとする若者にささげた詩だったのでしょうか。素晴らしい!
     
     私は櫻は稲と深い関わりがありますので、こうして特に稲作に強い興味を持っています。稲作に関わる方々だけではなく、多くの日本人がもっともっと元気を出して欲しいですね。農水省を始め、多くの農家の方々がもっと意欲を出して、是非頑張って欲しいものだと思っています。単に稲作だけに関わらず、その他の農業ももっと活発になって戴いて、そうすることによって相乗効果も出て来るでしょう。自給率を増やすことは全般をよくすることだと思えてなりません。田圃のお祭りは減反政策が始まってから三分の一まで減りました。でも、だからこそ続けて、或いは復刻して戴いて、日本文化の基礎をもう一度見直して頂きたいと願ってやみません。今日このような記事にお付き合い下さって、本当に有難う御座いました!
     
     

  4. 文殊 より:

            夕ひばりさま
     
     お陰様で、二人で時を刻んでいます。家内は「うちはここがウチやねぇ」と歓んでいました。やはり僕だけの家がいいのでしょうか。
    そしたらどんなに嬉しいでしょう。無事に退院出来ましたのも、皆さんのお陰です。脚だけが駄目なのですが、頭脳の回転ばかり
    早くなって困ってしまって、ブログの更新ばかりしていました。可笑しいですね。でも来週から再び会社です。気を引き締めて
    頑張って行こうと思っています。
     
     夕ひばり家でもどうぞ御飯を食べて下さい。酒米のことを道草先生の欄で書くべきでしたが、実は山田錦という品種が酒米に使われる代表格のお米の品種です。これは御飯に炊くととてもまずくて食えたものではありませんが、精米技術もさることながら酒米の需要は年々増加の一途をたどっています。米自身が重たいので、収穫時には稲の頭が下がって台風の後のようになってしまうのですが、酒造りには最高の品種です。精米して行くと、それはそれは美酒になって来るからアラ不思議なお米なのです。ありとあらゆるチャンスにもっともっと需要が増えて行くといいなぁと感じています。
     
     賢治の詩はいいですねぇ。イギリス海岸から賢治の記念館から、岩手の田畑をくまなく歩きましたから、この詩の意味をよ~~~く分かるような気がします。久しぶりに賢治の凄さを教えて戴いた道草先生に感謝感謝です。今日もおいで戴きまして有難う御座いました!
     

  5. より:

    硯水亭さま近江の国は安土と近江八幡方面へと足を運び休暇を過ごしました。あいにくの強風のため水郷巡りは楽しめなかったので、車で葦の原を巡ってきました。雨の中安土城趾に登ったり・考古博物館を訪れることが出来ました。ここで「韓国(からくに)より渡りて-古代国家の形成と渡来人-」というご本を買って帰ってきて、ブログを覗き読ませていただいたのがこの「稲の伝来」です。別ファイルに残してゆっくり勉強させていただきます。我が国は東の國から様々な文化、技術をとりいれて来ましたが、私は日本発の文化が世界に広まるのは良いことだと思っています。パソコン通信時代に日仏交流の掲示板を日仏双方で開設して同時進行の会議室を進めたことがあります。冒頭、工業製品だけでなく日本の文化をフランスに輸出したい、というと、すぐさま、ミツル、日本はもうとっくに文化を輸出しているよ、nouvelle cuisine なんかね、とコメントが帰ってきたのを懐かしく思い出したりしました。信長の天守閣に現れた彼の世界観、文化の伝来と帰化人、日本文化の世界への伝搬、などの考えが頭を巡り、とりとめのないコメントになりましたが、骨のある記事を読ませていただき、遊び帰りの夜も楽しいものになりました。ありがとうございます。場所違いですが、ご退院おめでとうございます。北山の山を歩き回れるようしっかりご養生下さいませ。

  6. 文殊 より:

          Mfujinoさま
     
     いいところに行かれましたねぇ。羨ましい限りです。湖北・湖西・大津など、あの辺り一帯には多くの文化財のみならず、民俗も数知れず、憧れの地の一つです。高月に御座います向源寺の十一面観音菩薩さまは、私が大好きな御仏さまの十指に入る御仏さまです。織田・浅井両軍の戦いに巻き込まれ、寺は消失してしまった時に、あの戦火の中を、御仏さまは地元の方が地中深く埋めて守ったものでした。しかもこの時期はあの地方を散策なさる時に何故絶好の機会かと申しますと、春迎えのご神事が多く存在しているからです。一般的に「オコナイ」と呼ばれているものですが、五穀豊穣を祈る祭りなのです。1月から3月に掛けてが殆どですが、あの地方の民間の方々は途方もない智慧を生かし、これまで幾たびかあった危機を脱して来られました。櫻も多くあちこちにあり、特に津崎の櫻は湖面の霞に映えて美しさが一層感じられるものですね。そんなこんなで特別に濃密な場所だと思っています。
     
     日本文化は明治の頃から多くが紹介されて来ました。でもその花が咲くのに随分時間が経ったように思われます。先ず難解であること、西洋人にはどうしてもピンと来ない要素が多いからでしょう。でも最近多いですよ。と言うのは共産圏や独裁国家であった時も日本の古典文学は規制から外されることが多かったからです。ロシアのピアニストでアファナシェフと言うピアノ奏者がいらっしゃるのですが、吉田兼好の「徒然草」を読んで芸術家を目指しました。ロシアでも規制されなかったのです。特に彼は「もののあはれ」に注目し、ピアノでどうしたら「もののあはれ」を表現することが出来るのかと煩悶し、共産圏時代のロシアを脱出し、パリへ。パリには既に芸術の街として芸術的熱気が無くなったと知るや、再び流浪を繰り返し、ついに日本に上陸致しました。去年でしたか、確か醍醐寺でだったと思われますが、自分が作曲した「もののあはれ」の楽曲として、最も難しいシューマンの最後のソナタを演奏されたのです。華道でも禅でも能も、今密かに日本ブームが凄いんです。私の友人も能を十数年習って母国スウェーデンで能を教える一方大学の教壇に立っています。今年いみじくも「源氏物語」から一千年の記念の年です。方々で何かの源氏関係の催しが多いはずですが、海外では海外の文化にある程度限界を感じつつ、静かに深く潜行しています。日本人として大いに誇りを持って伝えて参りたいことですね。
     
     日本文化は外来文化の終息地で、その殆どが日本で完成したものばかりです。現在中国ではご利益信仰の仏教が細々とあるだけです。あの弘法大師空海に最高機密である密教の秘伝を伝えた中国人・恵果和上は何故中国人に託さないで、日本人の空海に伝授したか。大きな意味のあることだと信じています。戦後の自信喪失の時代を超えて、今や海外のモノを取り入れる一方だけではなく、誇りを胸に日本人として立派に生きて参りたいものですね。
     
     いえいえ、どんな話題でも結構ですよ。場違いなんて、ここにはありません。多分どんなことに対しても対応が可能でしょう。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。早く元気になって、周山や美山の里を闊歩したいものです。今日は有難う御座いました!
     

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