薬師寺・花会式と国宝・薬師寺展

 

        薬師寺薬師寺薬師寺

 

 

               薬師寺・花会式と国宝・薬師寺展

 

 

 春の麗らかな陽気に誘われて大和路へ、西ノ京にある清冽な御寺・薬師寺。680年、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ)<のちの持統天皇>の病気平癒のため発願され、創建された法相宗の大本山で、創建当時は藤原京に建てられたものですが、718年に平城遷都に伴い現在の場所に移転されました。造営は808年頃まで続きましたが、数度の災害と1528年の兵火によって、当時の建造物は残念ながら東塔のみ往時のまま現存しております。そもそも薬師寺は佛教に関する学問所であったために、お葬式などをやる御寺ではなく檀家さまを一切持ちません。従って何の収入のあてもないのですが、金堂は1976年に、西塔(千年後東塔と同じ高さになるように西塔の高さが若干違う)は1981年に、中門は1984年に、回廊は1991年に一部が、それぞれ有縁の人々のお写経勧進(有料)や入場料などによって復興されて来たのです。 当時の故高田好胤管主が企業献金など一切受けつけずに、一般人の心ある方々による写経によって写経料を集め復興したことはあまりにも有名で御座いましょう。

 今月30日から4月5日まで薬師寺では花会式が行われます。東大寺のお水取りと同じような修二会のことで、花会式とは本尊の薬師如来さまに対して行われるもので、「薬師悔過(やくしけか=声明であり星まつりを兼ねる)」の行法を行う修二会の別称なのです。大きな12個の鉢にさまざまな造花が盛られ、、薬師三尊さまを荘厳することから花会式呼ばれ、金堂で行われます。薬師寺の修二会とは元来旧暦2月に修する法会のことで、ご本尊さまに罪障を懺悔して罪垢を清め、国家繁栄や五穀豊穣を祈願する行になっているのです。1107年、堀河天皇が皇后の病気平癒を薬師如来さまにおすがりし,薬師寺の薬師如来さまに格別のお祈りをされたところ、無事快復なさいました。皇后はその感謝をこめて、翌年より宮中の女官と紙の造花をつくり、薬師寺の修二会にお供え申し上げたのです。造花は椿・梅・桃・櫻・山吹・杜若・藤・牡丹・百合・菊の10種で、一見華やかな花会式に見えますが、僧侶たちには現に厳しい行法であり、東大寺と同じように錬行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶たちがこれにあたります。行の中心をなす「初夜の行」では堂の灯りがすべて消され、鐘、太鼓、ほら貝が響き渡り,剣を両手に振りかざした呪師(しゅし)が堂内を走り、結界をつくる「呪師走り」が行われます。結願の最後の悔過法が終わった5日の夜8時には「鬼追式」が行われ、松明を持った黒、青、赤の親子の鬼が堂外にあらわれ、金堂の周りを乱舞し、大声で叫び、お堂をかけめぐりますが、やがて毘沙門天があらわれ鬼を退散させてくれるのです。修二会の最後に鬼が現れるのは長谷寺のだだおしと共通していますね。幽玄な情景のなかに大和の春の到来を感じられる素晴らしい行事です。尚花会式期間中に舞楽や能の奉納もありまして、見学者には大変楽しみなことであります。

       薬師寺 入江泰吉写真『宵月薬師寺伽藍』 玄奘三蔵院

 

 薬師寺の東塔(写真左は創建当時のまま)は、奈良時代に建てられた東搭であり、各層に裳階とよばれる庇があり6層に見えるのですが、実は三重搭なのです。その複雑な造りから「凍れる音楽」とも称されており、先端部分にある水煙には美しい24人の飛天像が透かし彫りされています。写真右のお堂は『西遊記』の三蔵法師として有名な玄奘三蔵(この方がおいででなかったら今日私たちは殆ど経文を知ることはなかったでしょう。玄奘三蔵の生涯)を記念して造られた最も新しいお堂で玄奘三蔵院伽藍と申しますが、中には平山郁夫画伯の大唐西壁画が悠久で壮大な壁画として描かれています。故高田管主と20世紀までに奉納するとの約束を果たされて描かれた巨大な壁画で、実際にシルクロードを歩かれ、ヒマラヤに登山して描かれた感動的な素晴らしい絵であります。又夜になると西塔、東塔、金堂がライトアップされ、御寺が浮かびあがります。奈良時代からこうして現代に伝えられた凄みにきっと驚かれることでしょう。尚西塔の傍には会津八一の歌で『すいえんの あまつをとめが  ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな』の歌碑が、更に東塔の傍には佐々木信綱の歌で『ゆく秋のやまとの国の薬師寺の塔のうへなる一ひらの雲』と同じく信綱の歌で『秋ぞらはきよらに澄めり水煙の天女のすがたけざやかに見ゆ』の二首の歌碑が立っています。

 ところが今年の花会式にはご本尊の薬師如来さまの脇佛である日光・月光菩薩さまがいらっしゃいません。東京の国立博物館で平城遷都1300年記念『国宝 薬師寺展』(2008年3月25日 火曜日~6月8日 日曜日まで)が開かれるためであります。薬師寺には昭和51年に復元された金堂に、薬師三尊像(国宝)が安置されていて、我が国仏教美術の最高傑作といわれる白鳳時代の金銅仏で、日光菩薩・薬師如来本尊・月光菩薩のご三尊のことですが、先日日光・月光両菩薩さまがお身払いを受けるように大切に光背が外されている模様がテレビで放映されました。ご本尊の薬師如来さまは御寺を今までの通りご守護なさいますが、両菩薩さまが揃って旅立たれることは御寺史上初めてのことです。国立博物館では光背がない状態で公開されるらしく、見学者は御仏さまをグルリと回って、普段観ることが出来ない菩薩さまの後ろ姿も拝観出来るようです。本場の花会式には何とも申し訳ないのですが、我々遠くにいるものにとってどれほど有難く、特別に臨時で私たちの花会式になることでしょう。尚他の国宝級の展示物もあるようですが、今から楽しみでなりません。薬師寺内にある東院堂には、吉備内親王が母・元明天皇のために721年創建されたお堂で、現在のは鎌倉時代1285年に再建されたようです。堂内には私が大好きな聖観音立像(国宝)が漆黒のお姿でスックと真っ直ぐに立たれており、四天王像(国宝)文殊菩薩坐像(国宝)などもご安置されておられます。この中のどなたさまがご一緒においでになられるのでしょう。本当に有難いことで歓びに堪えません。私の大好きな聖観音立像(国宝)は高さ1,9メートルあり、19歳で刑死した有間皇子をモデルにしたという説も御座います通りの青年像で、凛々しいお姿で立たれておいでです。櫻爛漫と咲く上野の森にいらっしゃるのは、私たち関東人にとって何かのいいご縁でありましょう。皆さまがたにおかれましては、ご機会が御座いましたら、是非どうぞご見学に訪れられたらいかがでしょうか。私は付き添いを一人依頼し車椅子にひかれることになりますが、家内ともども参る所存です。本日はお彼岸中のかのえ、さるの日で、午前中家族全員四人で母のお墓参りに行けました。嬉しいことで有難いお天気でした。お陰様です。

 

薬師寺

金堂内 国宝・日光菩薩像

 

薬師寺東院

東院堂内 聖観音立像

 

<おことわり> 薬師寺の一葉は入江泰吉さんのお写真で、下の大きな二葉は土門拳さんのお写真です。

当然著作権は両者に帰属して御座いますことをおことわりしておきます。ご協力を感謝申し上げます!

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薬師寺・花会式と国宝・薬師寺展 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    薬師寺へ行ったのは学生時代の春休みでしてから、もう半世紀近く昔の今頃になります。生憎と東塔が補修中で囲いがしてありました。佐々木信綱の名歌の風情が味わえず、がっかりしたものです。その時の印象も薄れ、一緒に行った友人は、今や脳梗塞で療養しております。私も元気な間に今一度行かなくては、と思ってはいるのですが・・・。東京では二体の菩薩が拝観できる絶好の機会ですネ。香の君とお二人で心行くまで観賞なさってください。「西の京の駅を出て、薬師寺の方へ折れようとするとっつきに、小さな切符売場を兼ねて、古瓦のかけらなどを店さきに並べた、侘びしい骨董店がある。いつも通りすがりに、ちょっと気になって、その中をのぞいて見るのだが、まだ一ぺんもはいって見たことがなかった。が、きょうその店の中に日があかるくさしこんでいるのを見ると、ふいとその中にはいってみる気になった。(中略)。裏山のかげになって、もうここいらだけ真先きに日がかげっている。薬師寺の方へ向ってゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたっている。 荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪を見上げて、その水煙のなかに透かし彫になって一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。 それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫(かがや)いていた。」(「大和路」堀 辰雄)。「民族の持つ美の源泉は実に深く、遠い。その涌き出ずる水源は踏破しがたく、その地中の噴き出口は人の測定をゆるさない。厳として存在し、こんこんとして溢れて止まぬ其の民族を貫く民族特有の美の源泉は、如何なる外的条件のかずかずを並べ立ててみても説明しがたく、殆ど解析の手がかり無き神秘さを感じさせる。近寄ってこれを観れば、或は紛々として他と分ちがたい程の交流に接する時さえありながら、一歩退いてこれを眺めるとまがう方もない其の民族特有の美の地下泉は、あらゆる形態で到るところにあらわれる。如何なる他からの影響があっても一つの民族は一つの根源的な美の性質を失わない。これの失われる時はその民族が解消する時である。 世界美術史は斯かる民族の美の源泉間に行われる勢力交流の消長に外ならない。或る民族の美的源泉が強力な時、その美は世界に溢流する。或る民族の美の源泉が弱い時、それは多く一地方的存在としてのみ生存する。最も強大な美の源泉は、民族そのものが亡びても其の美の勢力を失わない。一民族を超えて世界の美の源泉となる。(中略)最も壮観を極めるものに薬師寺金堂の薬師三尊の巨大な銅造仏がある。古事記、日本書紀の出来た頃前後の作と思われるが、その端厳にして旺盛(おうせい)な仏徳発揚の力といい、比例均衡の美といい、造型技巧の完璧(かんぺき)さといい、更に鋳金技術の驚くべき練達といい、まったく一つの不可思議である。唐の影響はよく淘汰(とうた)され、大陸にもかかる優れた遺品は絶無である。同寺東院堂の銅造聖観音立像もこれに劣らぬ美の最もいさぎよきものである。」(「美の日本的源泉」高村光太郎)。少し長くなりましたが、二人の作家の印象的な文章をご参考までに。「時雨降る野末の村の木の間より見出でてうれし薬師寺の塔」会津八一。

  2. 文殊 より:

           道草先生
     
     春の大和路は特別に素晴らしいです。奈良の観光は春先に限りますね。清浄な感じや清楚な印象がとても記憶に残るものです。第一吉野が御座いますから、どうしても春になると大和路へ自然と向かってしまいます。薬師寺は堀辰雄の文章にもある通り、その周辺を歩くのもいいのですが、中断真ん中にある夕刻の薬師寺の映像は入江泰吉さんのお写真ですが、今はあの池に堤防が設置されてしまったり、往時の風情はなくなっています。それでも堀のいうお店はまだ現存しておりまして、近鉄線のレールの向こう側に奈良独特の窯場であり優しさが溢れる赤膚焼きが御座いますから、周辺のお店で求めることが出来ます。薬師寺と唐招提寺は近くて一体の感がありまして、斑鳩の法隆寺近辺とはやや赴きを異にしています。寺内に入ってみると、やはり三重塔が目立ってこちらを睥睨しているように威風堂々と立っていらっしゃいますね。特に東塔の見事さは多くの文人・墨客の皆さまが何とかそれなりに書き残したい感情に急き立てられるでしょうネ。堀も書いているように水煙の透かし彫りの見事さは言語に絶します。なるほど「凍れる音楽」だとうまいことを言ったものだと感心させられます。後は皆新しい建造物が多く、それでも中に入れば天平の御仏さまたちが私たちを強く確かに暖かく出迎えて戴けます。薬師三尊もさることながら、金堂裏手にある東院堂の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)が特別に好きです。あの全部がキリリと引き締まったお姿は何時間観ていても飽きることがありません。いつもしっかり生きよと厳しくも暖かい叱咤激励を受けて参ります。更に私は堀辰雄の大和路モノの記述が大好きで、特に「花あしび」に触発され、岩船寺から細い山道をテクテク歩き、途中石の微笑佛たちから歓迎されつつ、坂道を上り詰めてようやく浄瑠璃寺へ。この小道は何度歩いたことでしょう。しかもまさに春でなければなりません。浄瑠璃寺もこの世の浄土、御仏さまたちは皆堂々としていらっしゃって、お塔の池の付近から観ると、本堂は浄土そのもののような迫力があり、屋根の勾配は取り分けなだらかでうっとりと致します。又季節ごとに花々が咲き乱れているのは岩船寺も浄瑠璃寺も同じでしょうか。堀もきっと何度も訪れたのでしょう。
     
     高村光太郎は厳父光雲の制作手法が大嫌いで、パリへ行く前は天平佛をよく研究したようです。安曇野にある碌山美術館の荻原守衛(新宿・中村屋で吐血後若くして亡くなられた彫刻家)と連れ立って、一緒にオーギュスト・ロダンに逢いに行き、折りしもロダンは留守で逢えなかったらしいのですが、彼の彫刻を目の当たりにして二人とも一瞬にして開眼したのでしょう。その時応対してくれたご婦人は、既に晩年になっていたので、恋人カミーユ・クローデル(詩人ポール・クローデルの姉)ではなく、妻のローズ・ブーレであったようです。でも彼の家ではなく、その時紹介された場所で二人はロダンと結局は逢えたようでした。職人気質で、日本の昔から伝わる伝統技法を駆使した父が取り分けお酉様のお飾りを作って生計を立てていた父が突然芸大の彫刻の主任教授になったものですから、何もかも気に入らなかったのでしょうネ。留学から帰った光太郎は父に反逆し、パンの会に所属し、詩歌を始めるに至ったわけで、光太郎の苦悩も相当なものだったのでしょう。何よりも先生が書いて下さった光太郎の審美眼はまさしく真っ当であり正確です。実はそんな光太郎も晩年智恵子を失い、花巻の山口部落で隠遁生活をしている時、父にどんなに感謝していたかがよく分かります。光太郎は智恵子との生活を維持するためにどれほど父の彫刻の下職をしていたことではなく、夜店の飾り職人から身を起こした父の尊厳に酷く感謝の念を忘れなかったのです。薬師三尊もさることながら、聖観音立像に対しても書かれてあり、嬉しい限りです。
     
     奈良といえば、奈良公園脇の日吉館(現在は廃業しています)で、多くの文人に愛されたボットン便所の安い旅館でした。会津八一先生はよく学生を連れて行ったようです。『鹿鳴集』など奈良に対する思い入れは彼は最大の方だったかも知れませんです。新薬師寺で、学生が懐中電灯をつけて観ようとしたら、厳しく叱ったそうです。暗がりの中で観るからいいのであって、昔日の面影や昔日の方々の尊厳を守って観なさいと。手厳しい方のようでした。でも奈良を愛する方なら、会津を避けては通れませんね。
     
     今回は奈良、中でも大好きな方々ばかり出して戴いて、どんなに感謝の念に思ったことでしょうか。本当に有難う御座いました。改めて勉強したいという意欲に溢れて参りました。先生もどうか春うららかな大和路をご散策下さりたく!合掌!
     

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