質素にして清く正しく心豊かであれ

 

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                              質素にして清く正しく心豊かであれ

 

 

 時々お邪魔させて戴いているブログに風にのって 花ひとひらさまがあります。熱意のある文章と自ら描かれた魅力溢れる絵でいっぱいのブログです。今回の記事で神道方式でのご葬儀と埋葬に関する記事に出逢いました。畝傍山懐に抱かれた大きなお社で、記紀の時代に書かれた記述により、初代天皇とされた神武天皇を顕彰するため、明治天皇が明治23年にご創建された橿原神宮を中心としたご父君と姉君のお話でありました。亡くなられたご父君は戦後、戦地から帰られてからご奉職なされたのが橿原神宮であったそうです。花ひとひらさまは5歳年上の姉君(享年23歳)を亡くされ、33年間の永きにわたってご自宅の神棚に彼女のご遺骨が祀られていたようで、ご父君がお彼岸明けの日に亡くなられてから早12年。ご父君のご遺言通り今ではご父君と姉君が一緒になって近くの墓地にご埋葬されているようです。折りしも白梅の美しい凛とした花が咲き、見事な白梅の絵が掲載されておりました。

 橿原神宮とは、御祭神に神武天皇と皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたいらすずひめ)さまをお祀りされた旧官幣大社のことで、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)さまがわが国に降りられ、日向国・高千穂の宮におられましたが、天下の政治(まつりごと)を行うべくその子孫・神武天皇は遥々と東遷の途に出立なされたのでした。途中言語に絶する数多くの困難な道中に見合われ、6年の歳月を費やし、ついに大和国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)山の東南の地である橿原の地において、宮廷をお建てになられ、ここにおいて即位の礼をあげられました。『古事記』には「畝火の白檮原宮(かしはらのみや)」に坐して、天下を治めたと伝承されており、わが国の基をたてられた記述があります。第一代目の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇のご聖徳を顕彰し国家の安泰と国民の安寧を祈る場として明治期に建てられ、多くの篤い信仰を集めています。神武天皇は、辛酉(かのととり)の年1月1日、天皇は橿原宮にてご即位され、この年を天皇の元年とすると『日本書紀』には書かれてありますが、これを今の暦に直しますと西暦紀元前660年2月11日ということにし、現在2月11日を建国記念日紀元節)に指定されています。在位期間は76年間であったそうで、すると神武天皇は127歳まで生きていらっしゃったことになり、長寿を祈る意味もこの神社にはあり、皇家のいやさかを祈る場にもなっているのです。

橿原神宮祈念祭

 ところで今年私が参拝させて戴いた折、右翼の街宣車が多く集まっていました。橿原神宮はいつの間にか右翼街宣車の聖地となっているようで、もし暴力的な諸団体であれば甚だ不愉快で残念でなりません。然し単純に右翼と片付けられない様々な重要な問題もあります。難しい表現ですが、私は仮の意味で右派急進主義右翼と呼ぶことにしておきましょうか。更にちょっと話題が反れて恐縮ですが、日本人はこれらの重要課題に何時から避けるようになって来たのでしょう。日本史の教育だって常に近代日本史を避けられて来たではありませんか。明治維新のさわりを終えると、3学期の一番最後に、後はザラッと読んでおけぇ!という程度の教育が多かったように思われてなりません。歴史上最も身近な近代史から勉強を始めましょうという教師はただ一人もおりませんでした。逆に神話の世界も難解なためか少なかったように思われますし、どちらにしても何かを避けて来られたのです。今後はそれではしょうがないのではないでしょうか。確かに橿原神宮においては神武天皇のご陵墓そのものが江戸時代後期から少しずつ造り続けられたという経緯もあり、明治という政治的な思惑で造られた官幣社であった事実は間違いないことですが、フィクションの世界だと単純に決めつけるのは如何なものでしょうか。決してその何かを避けてはならないでしょう。大戦後官幣社の制度は廃止されましたが、神話の世界も官幣社の信仰も最初から疑念だけを抱いては何も始まらないのではないでしょうか。先ず虚心坦懐にしてコトに臨むことが重要なことだと信じます。

 アドルフ・ヒトラーを初めとしスターリン、オサマ・ビンラディン、タリバン、ポルポト、チャウチェスク、金正日、更には日本軍部、特に関東軍、過去も現在も独裁政治と強権主義をともなった恐怖政治とテロリストは無数に存在しておりますし、決して過ぎ去った日のことではなく現代の問題でもあるのです。昔日あの十字軍だってそうだったかも知れませんし、文化大革命時代の四人組みだってそうだったかも知れませんし、極論ですが現在のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュだって永い目で見ればその一員に入るやも知れません。いずれにせよ極端な原理主義や特定の人たちだけ(石油利権や武器商や植民地主義など)の利益追求では罪もない犠牲者が中途半端な人数では済まされないのです。何故そのように出来るのか、或いは成立するのかを含めて、広く深く大いに議論すべきです。

橿原神宮祈念祭

 一体全体何かとは何でしょうか。私が申し上げたい何かとは、日本人としてのしんばり棒(精神的支柱)のことです。和とは何かを含め、あやふやな答えは避けるべきだと申し上げたいのです。曖昧なことが日本人をグローバルなポイントから遠ざけて参りました。この際黒白をはっきりとつける習性を身につけたいものです。だからといって他民族を排斥しようとし日本人優位とする民族主義のことを申し上げるつもりはさらさらありません。賀茂真淵本居宣長など江戸の国学者たちをどなたが右翼だと断定し排斥しようとするのでしょうか。無論彼らを絶対視する人は皆無だとは申しません。でも国学を柔軟にしっかり見定めることが何よりも大切なことでしょう。そこで少々飛躍を致しますが、司馬遼太郎の小説に『坂之上の雲』というのがあります。近代日本を読み解くのに最も適切で貴重な小説です。明治時代の日露戦争が小説の時代背景ですが、太平洋戦争で司馬遼太郎は学徒出陣をして満州に行き戦車隊に配属され、いかなる心境をもってこれを書かざるを得なかったのでしょうか。小説には彼が大好きだった正岡子規が出て来ますが、そこに更に重要な役目を担った二人の兄弟が登場します。兄・秋山好古(よしふる)と弟・秋山真之(さねゆき)兄弟です。二人とも下級武士の徒士組(かちぐみ)の出身でしたが、勉学すれば出世が出来る当時の風潮がこの兄弟と正岡子規の三人を奮い立たせます。幕末で松山藩が幕府側についたために松山出身者はみな冷遇されましたが、そこを努力によって弟の真之は海軍に入り東郷平八郎を助けます。対ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦が勃発し、真之は東郷司令官を助け、殆どの作戦を立案し実戦、辛くも戦勝致しました。この時国民全員が狂喜乱舞したと伝え聞いています。真之は戦後僧侶となって亡くなった者たちへの供養と鎮魂をしたかったのですが、果てせぬまま49歳で亡くなりました。兄の好古だって家計を助けるために陸軍に入り騎馬隊を編成し鍛え上げ、対ロシア・コザック戦線では大活躍をし勇名をはせました。後に陸軍大将まで上り詰めたのですが、晩年の好古は地元松山に戻り高等学校に赴任。校長として活躍後、息子たちをただ一人も軍人に出さず逝ってしまいます。一方明治元年生まれで真之と同年にして大親友の正岡子規は病弱なイメージがありますが、なかなかどうして元気のいい若者だったらしく、特にアメリカの野球を紹介し、現在でも野球用語の多くは正岡子規の命名によって残されています。当初野球を(のボール)と本人の本名・升(のぼる)を引っ掛けてつけてみたりお茶目な部分もあったようです。残念ながら彼は34歳の若さで病死しました。徹底した写生主義で、俳句のみならず、その後の文壇にどれほど甚大な影響を与えたことでしょう。絵も描き今日まで子規渾身の写生画が数多く残されています。その三人を機軸にして司馬遼太郎の『坂の上の雲』は成立しています。

 日露戦争は実は首の皮一枚の差で勝利致しました。この勝利はロシア側の不都合で勝ったといっても過言ではなかったのです。そこから軍部を中心に日本全土に元寇以来のカミカゼ神話を創り上げ、ううんでっち上げと言った方が適切かも知れません。経済力の貧困をひた隠しに隠して、日本国民を神の国の民びとに仕立て上げ、日本人を痴呆化させていったのです。何とこの日露戦争とのギリギリの勝利から、太平洋戦争に負けるまでたった40年の年月でしかありませんでした。自国の内実を無視し、国力増強に欠かせない資源をめぐって拡張(軍拡)路線を急ぎ過ぎた所為でした。それが証拠に太平洋戦争に勝利した期間はたったの半年で、残り三年半は敗走に次ぐ敗走の連続であったではありませんか。これも国民には実態を知らされることはなかったのです。従って現代の北朝鮮を愚弄するわけにはいかないでしょう。戦後GHQによって民主主義の路線に代えられるますが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』はまさしく日露戦争を背景にしたあの時から、日本人が完璧に痴呆化され悲劇が始まったと結論づけ、今後の日本の在り方に正しくあれと警鐘を鳴らし続けている最も大切な小説です。(尚最新のビッグニュースですが、『坂の上の雲』の映像化がNHKで進められており、来年から三年に渡って全13話(1話90分)が放映される予定です。 普段の大河ドラマでは1話6000万円掛かるらしいのですが、こちらはもっとビッグで1話4億円以上掛かるというのですから、如何にNHKが全力を挙げているかがお分かりだと思われます。放映が楽しみでなりません)

 あのアフガンでタリバンが犯したバーミアン遺跡の爆破を失笑している場合ではありません。明治時代に『廃仏棄却』『神仏分離』という信じられない風が吹き荒れたのですから。歴史的に観て政教分離であることは先ず第一に実行しなければならないことです。騒動以来チベット自治区の人々に過酷な弾圧を強要している現中国政府のチベット軍事解放をただ愚弄するだけではいけません。旧日本軍は近隣諸国の文化を蹂躙したばかりか、多くの隣人を殺戮して来たのですから。北朝鮮の日本人拉致事件を人ごとのように思ってはなりません。多くの韓国人や台湾人を、時には戦闘のため、時には過酷な労務のため、そしてなかんずく従軍慰安のため、元通りには決して復元出来ないけれど、どちらともきっちりと解決しなければならないのです。無論あれもこれも一緒くたには出来ないものの現在起こっていることと過去に起きたことを、きっちり一線を引いて峻別することが筆者には出来ないのが情けなく戸惑いは否めません。折りしもこの週末に見ごろを迎える櫻の時季です。旧日本軍が、良寛和尚の俳句「散る櫻残る櫻も散る櫻」を白兵戦(武器を持たずに相手陣内に攻め入ること)で潔く死ぬために教えたと、筆者はそのことに激烈な怒りを持って当時の軍部中枢を糾弾し断罪しあまりあり、和尚の句を二度とそのような不埒な考え方に組み入れないで頂きたいと強要したいです。

 戦後の昭和期は列島改造に始まって、まさに怒涛のような狂乱地獄でした。前後しますが左翼・右翼が入り乱れた安保があり、オイルショックがあり、過激派による浅間山荘事件などの大きな事件もありました。オカルト教団による酷いテロ・地下鉄サリン事件もありました。家族の絆やあるべき絆が失われつつあり、今までなら考えられない事件・事故が相次いで新聞などに満載されています。自然災害も半端なものではありません。その隙間バブル期には経済ヤクザが介入し土地成金なるものまで登場致しました。シッチャカメッチャカの状態だったのです。頂点はバブルの全盛期だったでしょう。バブルが思い切りはじけてやっと日本人は痴呆な夢から醒め、漸く経済だけを重視することは可笑しいのだと気付かされました。さて今後日本はどんな選択をして生きてゆくべきでしょうか。筆者は先ず精神的昂揚を掲げたいのです。簡単に言えば「自信を持て!元気を出せ!」でありましょうか。いずれにせよ喫緊の課題は山積しています。特に最近の政治家には大物と呼ばれる政治家が極端に少なくなっていて、映画界でいえば名脇役の喪失といったところでしょうか。百年後及び千年後を見据えた大計や哲学を抱えた政治家はほぼ皆無でしょう。政局にだけ汲々としている政治家のいうことは何をいってもアテにもしませんし信用出来ません。

 明治維新の時新政府樹立を目の前にして、坂本龍馬は新しい憲法の草案まで創りながら、新政府の中に入ろうとしませんでした。何故だったのでしょうか。もし龍馬が生きていたら明治は極端に変わっていただろうと勝手に浪漫を抱くのです。彼なら帆船に乗って大海原に出て、積極的に貿易振興を推し進め、専ら殖産興業に相勤めていたのではないでしょうか。薩長連合軍の犠牲者が靖国神社に祀られていたのが、現在では護国神社で祀られています。何故薩長連合軍はそこまで好戦的だったのでしょう。徳川方にも有能な人材はたくさんいただろうにと思うのです.。旧藩閥の立場が冷遇・厚遇の差を生み、それがゆがんだ軍部を形作っていったのだろうと簡単に想像されるのです。松山藩出身の秋山兄弟は決して軍人を目指したのではなかったのです。子規のようにどれほど最初っから文人になりたかったか痛いほど分かります。下級武士の貧乏がそれを許さなかっただけでした。初めての国家を持って初めての国民であった我ら直ぐ前のご先祖たちが経験したのは昨日のような出来事です。清新な高揚した気分は一部の人間に容易に左右されたのでしょう。更に天皇陛下がご参拝出来る靖国神社であらねばならないと私は考えます。清らかな神道と深い大乗仏教から伝統的に裏打ちされた静かな平和主義(長崎を中心とした日本型カトリック教の方々も伝統の中に当然入るべき)が日本国民の証で誇りです。どの国家よりも積極果敢に平和主義を提唱し、先頭に立って果敢に国際貢献を果たすべきですし、侵略戦争は永久に放棄すべきです。明治維新の藩閥政治から歴史をつぶさに正確に勇気を持って自己批判しつつ総括すべきです。

 私は敬虔なる佛教徒で真言密教宗徒です。醍醐寺派でも長谷寺派でも智積院派でもありません。本山の中の或る御坊=禅宗的に言えば塔頭(たっちゅう)に所属しており、新興宗教の一員でもありません。高野山は我が心の故郷です。高野山には熊野権現さまがいらっしゃって、高野全山をご守護して下さっております。佛教と神道は何ら違和感がありません。かの聖徳太子ご自身だって神道のお家柄のご出身者でもありましたし佛教に特別深いご理解を戴いた方ではなかったでしょうか。密教の秘儀に関するところから修験者(山伏)にも相乗的に相互交流が当然御座います。今回の記事は橿原神宮のことから始めました。神宮をフィクションだと一笑に付すのは実に簡単なことです。でも橿原神宮は戦後官幣社でなくなり、つまり庇護する拠り所がなくなって、現在では郷社のように地元住民の方々や全国においでの奉賛会の方々からのご寄付を受け付けることによって成り立っています。檀家を持たない薬師寺と似た方式で営まれています。私は右翼ではありませんので街宣することは決してありませぬ。でも今後も橿原神宮へご参拝に参るでしょう。尤も私の場合伊勢の神宮が最も多いですが、神道とは『祓い』『清めだけの至って簡素にして清潔で清楚な信仰の宗教です。八百万の神々だって何て民主的な形態・形状ではありませんか。文章に書かれた聖書のような文物=教義が一切御座いません。ですから時の為政者に都合がいいように利用されることが多かったようです。イギリスの世界的歴史学者アーノルド・トゥインビー教授が伊勢の神宮を2度もご参拝され、世界でただ一つ残された最後の興味ある宗教は日本の神道である、大いに研究すべきだと仰いました。天皇家家系存続問題の理由からではなく、神道が始まる以前の日本人のアニミズム信仰にまで遡って私は信仰の対象としたいと存じています。

 『質素にして清く正しく礼節を重んじ心豊かに』が日本人の特徴であり誇りです。花ひとひらさまのご父君や姉君に対する弔意を、この一文に精魂を籠めて託し終わらせて戴きます。ご父君が橿原神宮に奉職されたのも双方の戦争犠牲者に対する真摯な鎮魂の思いがあったからでしょう。であれば、花ひとひらさまのご父君や姉君もきっとこの一文をお歓び戴けるものと堅く信じます。神話の世界から現代まで無理な駆け足で走った結果、少々雑駁な長い文章になってしまい甚だ恐縮でした。最後までお読み戴きまして真に有難う御座いました。心から深く御礼を申し述べます。

 

橿原神宮紀元祭

 

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