染井吉野雑感

 

真鍋小学校の染井吉野

 今年の染井吉野 土浦市真鍋小学校校庭のど真ん中に咲く樹齢百年の染井吉野/五本

 

  真鍋小学校の櫻 真鍋小学校の櫻

亡き主人が描いた真鍋小学校の染井吉野の絵 五作セットのうちの二作

 

 

 

                                   染井吉野雑感

 

    春まだき十和田湖畔に 高村光太郎の作『乙女の祈り』像が立っている

    光太郎は どんなにか智恵子を愛していただろう

    46歳から狂い始めた智恵子を 本当によく面倒を見た

    自分の彫刻のこともあったろう 生活のことだってあっただろう でも歯を食い縛って頑張った

 

    それでも愚痴一つ言わずに 僕は智恵さんを分かっていなかったんだと自責の念を深めつつ

    あの悪夢の第二次大戦が終わった後 光太郎は岩手の山中にて隠遁生活をした

    ほとんどの芸術家は 戦地に行きたくないが為 戦争を肯定した事実もあった

    光太郎も他の芸術家と同じように肯定した いやせざるを得なかった その反省もあった山荘生活

 

    結婚して20年後 智恵子48歳にして 狂った智恵子を自分の戸籍に初めて入籍をさせた

    自分がもし先に死ぬようなことがあったら 残された智恵さんが可哀想だからと言い

    それまで二人は ありきたりな結婚を拒否 入籍など 智恵子自身嫌がっていたからだ

 

    入籍してからたった4年 智恵子52歳 急性肺炎の併発で 品川の南ゼームス坂病院で亡くなった

    65も過ぎようとしていた失意の光太郎は 荒廃した東京を後に 宮沢賢治の身内を頼って岩手・花巻へ

    酸性土壌の最も強い何一つ碌に育たない場所・山口部落を敢えて選び 山村生活 独立自尊の生活 

    慣れぬ手つきでじゃが芋や葉っぱをどうにか作っていたが 光太郎自身も最晩年は肺を病んでいた

 

    3畳ひと間の独居生活から6年後 ついに光太郎は 智恵子をあのまま朽ちて行かせてはならぬと

    やにわに東京の友人宅のアトリエに戻り 必死の形相をし 裸婦像を一年足らずで完成させ

    十和田湖畔にその銅像を建てた 除幕式に出席し 元素の智恵子がいることを確認するや

    間もなく光太郎も 吐血後ひっそりと息を引き取った

 

    『乙女の祈り』像のモデルとは他でもない 思い出の中にある智恵子自身であることは言うまでもない

    二人は今 染井吉野が創られた櫻の発祥の地 東京・駒込の染井墓地に 仲良く眠っている

    今年も繚乱と咲く駒込の染井吉野 二人は死んで漸く安住の地を得たのだろうか

 

 

                『十和田湖畔の裸婦像に与ふ』 

                    高村光太郎    昭和28年11月16日の作

 

       銅とスズとの合金が立ってゐる。

      どんな造型が行はれようと

      無機質の図形にはちがひがない。

      はらわたや粘液や脂や汗や生きものの

      きたならしさはここにはない。

      すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで

      天然四元の平手打をまともにうける

      銅とスズとの合金で出来た

      女の裸像が二人

      影と形のやうに立ってゐる。

      いさぎよい非情の金属が青くさびて

      地上に割れてくづれるまで

      この原始林の圧力に堪へて

      立つなら幾千年でも黙って立つてろ。

              参考記事・主人書 櫻灯路『山居独考』及び『一途な愛に応えて』

 

 この銅像と染井吉野はあまりにも対照的である。櫻がはかない花であるとすべての大衆に定着したのはこの花のせいではなかろうか。大島櫻と小彼岸との合成品種であるからか、櫻の中でも最も弱い品種で、江戸後期に見付かり、吉野櫻として売られた。あまりの人気だったからか吉野山地元住民では大反対で、原産地である東京・駒込産として命名されたのが染井吉野の名である。樹齢は平均で60年~70年。でも土浦市の真鍋小学校や弘前城に咲く染井吉野は長生きしていて、もう100歳以上になっているのかもしれない。近年染井吉野の改良が進んでいる。実生から生まれる染井吉野も出来たと聞いているが、実際にはまだ見ていない。白痴美的美しさで小生はさほど好きではないが、直ぐ根がつき花が咲くので圧倒的に支持され、猛烈な勢いで全国各地に広まった。今や櫻の代名詞まで成長したのだろうか。日本から親善友好の証として贈られたワシントンのポトマック川沿いの櫻も満開になったとニュースでは伝えられている。不思議なことだが、染井吉野を思う時何故か光太郎と智恵子のことが思い起こされてならない。

 

十和田湖畔

高村光太郎最期の彫塑 『乙女の祈り』 十和田湖畔にて

 

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染井吉野雑感 への1件のフィードバック

  1. 文殊 より:

      道草先生
     
     染井吉野は江戸後期に江戸は駒込にて交配種として誕生し、明治中期に全国に盛んに植えられて参りました。何故かと申しますと、それまでの硬い樹木であった江戸彼岸や山櫻が鉄砲の台座として殆ど徴収されたからでした。そこへ染井吉野が根が早くつき、早く花を派手に咲かせますから、爆発的に増えたのでしょう。当初吉野櫻として売られたのですが、吉野からの大反対の結果、染井吉野と名を代え全国に瞬く間に波及して行ったのです。醍醐寺だったらふるい染井吉野があっても不思議ではないでしょうね。貴重なご参考を有難う御座いました!
     
     
      道草先生よりメールにて
     
    「桜」といえば染井吉野が代表的な桜だ、とずっと思っていました。新聞などの「桜だより」はこの桜のことですし、葉の出る前に花が咲いてやはり何と云うても華やかです。小学校以来の入学式の思い出に繋がるのも、やはり染井吉野です。しかし、昨年から桜博士の硯水亭さんのブログに接して、目が覚めた思いです。そうです。古里の山や川岸や寺社の境内や校庭の隅にも、様々な桜が咲いていました。昔、ふらりと歩いた所にも桜は咲いていました。それが、会社勤めの間に駅と会社との往路や社員との手軽な花見だけで見る染井吉野が、桜の総てだと思うようになっていたのでした。佐野藤右衛門も染井吉野があまり好きでないとのことです。硯水亭さんもそのようです。しかし、これは染井吉野そのものが好きでないのではなく、桜といえば染井吉野、との風潮に抗した言葉だと思います。染井吉野であれ名もない山桜であれ、桜の花が嫌われる筈はありませんから。先日醍醐の桜を観に行きましたが、三宝院や霊宝館の枝垂桜の美事さは、それこそ筆舌に表せないほどの絢爛さです。でも、染井吉野も美事に咲いていました。醍醐寺の桜は秀吉が植えたとされていますから、400年以上もの寿命になります。ただ、染井吉野の寿命は数十年とのことですから、その後に植えられたものでしょう。昨年の新聞で、醍醐寺霊宝館前にある巨木が、DNA鑑定の結果により染井吉野であることが判明したと報道されました。樹齢はおよそ100年。幹周り3.2メートル・樹高11米で、京都一の染井吉野との判定が出ました。桜は総て佳し。ただ、私が心配していますのは、染井吉野の寿命が短いことです。しかし、硯水亭さんの記事によれば、その寿命を延ばす方法が見つかったとのこと。少し安心しました。高瀬川沿いの染井吉野が川面に散る風情。山陰沿線の八木町の大堰川河畔には20本ばかりの染井吉野の並木があり、知る人ぞ知る名所。昨日、家内が元勤務先の同窓会で案内して、全員大感激だったとのことです。様々な素晴らしい桜。そしてまた、染井吉野もまた愛すべき花です。
    「一夜」   与謝野鉄幹 祇園の桜散りがたにひと夜の君は黒瞳(め)がち上目(うはめ)する時身にしみきそは忘れてもあるべかり若き愁のさはなるに
    *そは=あなたは/*あるべかり=あるだろう/*さは=たくさん

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