気軽に和服を着てみたい

 

尾形光琳

  国立博物館所蔵 尾形光琳作絵 「白綾地秋草模様描絵小袖」 (国博写真から借用)

 

 

                                        気軽に和服を着てみたい

 

 

  妻は和服が大好きです。夕べの電話でも、赤ちゃんが生まれたら、和服が邪魔にならへんよねと快活に笑いながら念を押していました。大阪は食道楽と言い、京都では着道楽と言われておりますが、妻はそんな贅沢など殆どしておりません。何分にもすべてに合理的なのです。どこが合理的かと申し上げますと、先ず殆ど新品はないということです。例え買っても蚤の市などで古着を平気で買って来て仕立て直したり、代々伝わって来た中から自分色のを選択し、洗い張りに出し着丈を合わせ仕立て直し着ております。お婆ちゃんやお母さんが若い頃に着た着物が結構御座いまして、それを今風に上手に着こなしているようです。但し「おせん」ちゃんのようなわけには行かないようです。先ず持っているのは伝統色の着物で、殆ど友禅染めの描絵小袖(絵柄も少ない方)です。だから明るい色調の色目が多いのですが、江戸で流行った粋な江戸褄(えどづま)は殆ど持っておりません。妻の選択した和の色目だけは贅沢かも知れません。灰櫻(はいざくら)・若緑(わかみどり)・萌黄(もえぎ)・白菫色(しろすみれいろ)・甕覗(かめのぞき)・秘色色(ひそくいろ)・月白(げっぱく)・刈安(かりやす)などでしょうか。若さを強調したいのでしょう、はんなり(暖かみのある華やかさ 京方言)とした明るい和の色だけは拘っているようです。

  先日『源氏物語』全五十四帖のうち最後十帖である宇治十帖を何とかかんとか夜を徹して読了致しました。まだ真夜中に興奮しながら読んだ余韻がたっぷりありまして、なかなか今のところ、ここでは書けませんが、ちょっと先に私の血肉になった暁には必ず書かせて戴こうと思っております。ただ源氏物語の絵巻物には女御たちが皆十二単(じゅうにひとえ)を着ているのですが、本文には十二単の記述は全くありませんでした。源氏物語(1001年成立か 今年で成立から千年 記念行事が仰山ありますね)より、凡そ二百年後に成立したと推定されている平家物語の異本で「源平盛衰記」という本があるのですが、その中に、壇ノ浦に身を投げる建礼門院平徳子の装いを、「弥生のころなれば藤がさねの十二単を召されたり」と書かれてあり、十二単の最初の記述ではないかと考えられています。唐衣裳(からぎぬも)の正装ではなく、数多くのの衣装を同時にお召しになられることを、十二単と呼ばれたのではないかとも解釈されています。十二単という言葉の響きの美しさに、後世の人々が感銘し多く使われたのでしょう。

源氏物語

徳川美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」

 

   十二単の基本の形は襦袢(じゅばん)の上に小袖(こそで)を着ます。そして緋袴(ひばかま)を穿いて、一番下に衣紋者(えもんじゃ)という下着のようなものを着てから、襲色目(かさねいろめ)という色々な色彩をした和服を重ねて着ます。僅かに見える襟元の部分に、そられの色は季節感や通過儀礼を表現していたのでしょう。更に打衣(うちごろも)を羽織り、表衣(おもてごろも)を着て、最後に唐衣(からごろも)裳(も)を着て完成するのだそうですが、『栄華物語』ではあんまり数多く重ねて着たものだから、重たくて重たくて簡単には動けなくなったと記述がありますから、多分十二着着たのではなく、もっとたくさん(二十~三十)着ていたのでしょう。しかも春夏秋冬を表現して重ねた襟元をチラリと見せ、殿方にその気をひいていたのでしょうか。そして美しい桧扇(ひおうぎ)を持って平安絵巻の完成です。重たくてオズオズしながら手で這って動き、そこが高貴な御方には堪らなく奥床しい仕草に見えたのでしょう、何だかとても面白く想像出来ますね。

  ところで本日書かせて戴こうとしているのは日本服飾史でも何でもありません。ここからが本文とさせて戴きとう御座います。実は私見ですが、日本の着物の歴史は、ひと言で申し上げれば、十二単で一番下に着る『小袖』の歴史がすべてではないかと想像しています。平安末期、武家が台頭し始めてから、機動性に優れた小袖が男性(男性の正装は直垂<ひたたれ>)にも、一般の女性には無論のこと幅広く着られるようになっただろうし、奥州平泉の夢の跡で、中尊寺・金色堂に眠る藤原三代が着ているミイラの小袖が現存する最古の小袖らしいです。私が実際に観た最古に現存する小袖は厳島神社にある能装束の小袖でした。同系色を30色以上も使ってたくさんの菊花を描いた圧巻の小袖です。江戸時代、徳川秀忠の五女で徳川和子(とくがわまさこ)は天皇家に入内して京都にあがったのでしたが、彼女が宮中へ小袖の文化を持ち込んだようです。尾形光琳の実家は京都一の呉服商「雁金屋(かりがねや)」でした。入内した和子は幕府をバックにして資金に糸目をつけず雁金屋にバンバン発注したようです。そして着物を一枚の大きな画面と捉え、画面いっぱいに広がる絵を描かせ(巻頭の写真をご参照あれ)、これが所謂『寛文小袖』(前出の小袖のWikipediaご参照あれ)と呼ばれたのです。それまでの宮中では小袖は二番手でしたが、小袖が宮中でも大手を振れるようになった瞬間でした。それから江戸時代は庶民の時代になって、経済力をつけた豪勢な商家を中心に盛んに豪華な小袖が持て囃されたのです。悪所(あくしょ)と言われた吉原や歌舞伎の芝居小屋など、余りの豪華な衣裳が跋扈し、質素倹約を勧めた江戸幕府は何度か奢侈禁止令を出したほどでした。それによって、取り分け金紗(きんしゃ)縫(ぬい)惣鹿子(そうがのこ)が禁止され、それがために逆に考案されたのが友禅染めであり、江戸褄だったのです。絵を描きこむ描絵小袖で禁止令を逃れたのでした。

 いつだったか、私が黒い大島を着流しシマの鼻緒の雪駄を履き津軽・古銀の信玄袋を持って、妻は明るい無地の刈安を着て和風の小物入れを持ち、京都・河原町四条通りを歩いていましたら、皆さんから振り返られてジロジロ見られたことがあります。何故見られるのかなぁと半分は悪くない気分でしたが、アレ親子ちゃうの?と思われないか、半分はハラハラしていたことがあります。でもお揃いで着る和服の着心地はそう悪くない気分です。その日でしたか、或る日或る時ママ・チャリンコに跨って、派手なモダン和服を着て、直ぐ脇を駆け抜けて行った女性がいました。妻にあの方は誰って?聞いたら、「マリンバ奏者通崎睦美さんどすえ、有名な方」と教えてくれました。そうなんだぁ、あの時は痛快だったもんね。おせんちゃんの実践者さんが既にいらっしゃったのです。ヘッドに被っている真っ黒い山高帽や真紅の鼻緒をした派手な下駄に少々違和感がありましたが、何々どうして全体から見ると素ッ敵な感じがして、彼女はとっても美しかったんです。その時あっあれって銘仙だと直感致しました。大正から昭和の初期に掛けて大流行した着物(絹)ですが、早速本屋で彼女の本を探して買って読みました。実に楽しんでいらっしゃることが痛快ですらありました。フムフム、言える言えるってね。更に竹久夢二の絵に出て来そうな色んな着物は意外や意外、実に現代的だったんです。驚きました。おせんちゃんと通崎さんによって理解し得たような次第です。

          通崎睦美好みの本     銘仙

                通崎睦美著「天使突破一丁目」                  通崎さんのお好みでしょうか、博多産の銘仙

  テレビ・ドラマ「おせん」(毎週火曜日 日本テレビで夜22:00から放映中)を、私たち二人は離れて住んでいても二人だけで楽しみに毎週欠かさず観ています。おせんちゃんにはまだまだアイテムがいっぱいあります。割烹着モンペなど、それとマフラーというか、履物とか、和装小物に限らず洋風のものでも大いに工夫して和風化した様々なアイテムが登場し、蒼井優ちゃんの真っ白なお肌にピッタシ似会っているのです。和服には様々な呼び名があったり、着付けが思うように行かなかったり致しますが、洗い張りすると何十年でも保ちますし経済的で合理的です。そして着慣れてみると実に単純で簡単です。慣れだけが一番大切なんでしょう。ただそれだけです。それらは、歴史的に延々と続いて来た小袖の文化の現代版なのでしょう。

 それと興味があって、どこがおせんちゃんの着物を提供しているのか調べてみました。やっと見付けました。「B級着物趣味」と称してご提案なさっているPONIAPONさんの店主らふさんでした。勿論全部ではないと思うのですが、通崎さんともご関係がありそうです。私は早速そこから購入してあげるから、要らないかって妻にこのところいつも聞くのですが、妻はおせんちゃんのように目立つのは嫌だから要らないと言って拒否し続けています。もう少し年齢がいったら、欲しいかもとか。今はテレビで充分よとも。そして亡き主人は特別に志村ふくみさんの草木染めで織られた着物を愛されていました。衣紋掛けに飾って観るだけでも充分に大好きでした。でもちゃんとの入った着物を三点ほど購入しておいでだったのです。いつか結婚したら奥さんに着せてあげるんだと意気込んでいました。残念ですがあのままになったままでしょう。私も志村さんは大好きな染織家です。でも主人と同じように購入することは決してありませんでした。安上がりの私の方は殆どの和服は父親譲りか何かのお祝いの折に買って戴いた大島か結城などの紬系だけです。能衣裳(明治以降の能衣裳の柄は殆どが左右対称)は師匠からお借りする不甲斐無さです。で、自分のネクタイの殆どは京都のハギレ屋さんで購入して来て、都内で創って戴いたネクタイです。男の癖に和装小物には特別な関心を持っています。京都の古着屋さん巡りは妻の十八番(おはこ)です。楽しいですよ。特に古いモノに新しい感覚の息吹を与えるのは気持ちのいいものです。そうそう、そう言えば半襟(はんえり)一つで、着物を着た時の印象がガラリと違って来るのは十二単の手法なのではないかと勝手に想像しています。

     ゆかたブランド  ゆかたブランド  ゆかたブランド

 新感覚の浴衣 「ゆかたブランド」より

 

   夏祭りのシーズンには単のスッキリした浴衣でも如何でしょうか。浴衣はお風呂に入る時に着る湯帷子(ゆかたびら)がその原型らしいのですが、小袖の文化の中に入れてもいいのでしょう。浴衣なら簡単に着られますし、着付けのお稽古は浴衣ですることが多いようです。十二単の小袖から始まった日本独自の素敵な文化の流れです。きっと箪笥の奥底に、皆さまの素敵なお着物が隠れていらっしゃることでしょう。億劫で着ないだけではないでしょうか。要するに慣れる、その一点でありましょう。そして唯一つだけ男性の目から見た時のご忠告を申し上げたいことがあります。よく成人式や卒業式などの日に、若い女性で着慣れていらっしゃらないお嬢さま方に多数お見受けすることがあります。着付けの後、特におトイレの後など着付けの手直しが必要な場合があります。前の袷の部分だけ気にしていらっしゃいますが、後身頃(うしろみごろ)には充分なご配慮が必要です。グジャグジャになっていて、直ぐ何をされたのか分かってしまうからです。時に酷く可哀想に思えて来るからで、男の私にはどうしても何もしてさしあげられないのです。浴衣の場合も同様でしょう。着付けて戴いた先輩がたに、それらの手直し方法や注意点を予め充分に伺っておくべきです。私は既婚者ですから、申し上げ難いことを承知で申し上げました、最後に飛んだお話で恐縮で失礼致しました。和服は断じて世界に誇れる日本文化です。日本人として精々素敵なこの文化を存分に楽しみたいものですね。私の場合、洒落て垢抜けして飄々と生きて参りたいと念願しています。

 携帯入れ

携帯電話の和装小物 (もっともワッチ等には無縁です)

 

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気軽に和服を着てみたい への7件のフィードバック

  1. Unknown より:

    私も和服が大好きなんですよ。小さいころ祖母がお針子を仕事としていました。気安く背筋がのびる仕立てと人気があったようです。
    そんな祖母の側でハギレを貰って縫物の真似をするのが好きでした。人様の物を仕立てても、自分や孫のものを新調するゆとりはなかったようです。
    素晴らしい着物を仕立て上げることに喜びを感じていたようです。そして側でハギレでお人形遊びをする私に「こんな着物の似合うええ女の人になりや」と優しい目で遠くを見るように話しかけてくれました。着物を着るとき、そんな祖母の言葉を背中心に感じながら着ます。ええ女には祖母の期待はずれかも知れませんが、私が着物を着るときは祖母を背負っているつもりできています。「ばあちゃん。背筋をしゃきっと伸ばします」ってね。
    夏も時々着ます「夏の和服姿は他人さんに涼をお分けすること」と話していました。もちろん祖母から教わったお針で一重なら仕立てることが出来ますので自分で仕立てています(ミシンで縫えるような安物の反物ばかりですが、それでも祖母が喜んでいてくれるような、私に精神的な1本筋が通ったようなその心を忘れないように(祖母に縫い物の途中に「背中が曲がってる」と鯨尺を背中に入れられたりしましたが(笑))したいと思います。

  2. Unknown より:

    先のコメントの名前なしは、花ひとひらです。名前はどこへ入れるのかしら。PC音痴ですいません

  3. 道草 より:

    着物に関する絢爛たる蘊蓄を堪能させて戴きました。十二単は色彩に関する日本の究極の美なのでしょうか。実際の着物は十二枚は、無かったとも言われて居りますが、そんな詮索は野暮と申すもの。「・・・はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼りつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。・・・千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。」(「智恵子の紙絵」高村光太郎)天下の美男美女硯水亭御夫妻が和服姿で街を行かかれれば、群集に振り返られるのも至極当然。一日も早く御身足の快復を図り、祇園祭前後などにまた京都の町並みを御二人でご散策されますよう。古き佳き時代の風習はそれに相応しい人にこそ保ち続けて欲しいものです。今日から水無月。祇園祭も近付いて参りました。
     
    「祇園まつり」  田中国男
     
    いまはもうあんさんなんですわ昔のことおもうと祇園まつりもかわったもんどすわたしら娘じだいには祇園まつりちゅうたらいちねんのうちでいちばんのたのしみどしたわ祇園まつりちゅうたら着るものなにに染めよかおひるなにを着よかばんなにを着よかゆうてなぼんぼりのところやろそらもうきれいどしたな室町どおりはみな屏風まつりどっさかいそこにうろうろしとおいやすのがそらもう絵巻物みたいなものどしたわなあのころはおまつりとじぶんちゅうもんがひっついていましたけどなもうとおいとおい昔になってしもて祇園まつりがじぶんのすがたやったんどすけどなもうおまつりのよさわからしまへんわ時代のながれどすやろかもう あんさんへえ なんどすわむかしのことはわたしらぐらいの年寄りしかわからせしまへんわからしまへんやろな

  4. 文殊 より:

            花ひとひらさま
     わざわざのお越しを特別な気持ちをもって心から感謝申し上げます。今日の東京はまさに初夏らしいいいお天気でした。まるで今でも夏越のお祭りが始まりそうな感じが致しましたが、朝早くからリハビリをして、午前11時から放送のBS放送の「お~~い、ニッポン、私の好きな京都府」をずっと観ていました。折角ご投稿戴いたのに遅くなりまして本当に済みません。
    お陰さまで、今日一日テレビなどで色々と堪能させて戴き、心地いい一日になりました。最後のラプソディーはよかったです。
     
     花ひとひらさまのお婆ちゃんへの愛惜の思いが和服を通してしっかり伝わって参りました。お婆ちゃんの智慧袋ではないんでしょうが、昔の方々は皆、ちゃんとした根拠を持っていたのですね。素晴らしい和服を作られて、人さまに喜んで戴くのが大好きな方だったのでしょう。人ありて、己ありなのでしょう。ご幼少時代のハギレの思い出はどこか遠く愛情の面影をお感じになられたのでしょうか。或いは一面ではお淋しい思いがおありだったのでしょうか。木村先生の詩の世界を彷彿として参ります。和服を召される花ひとひらさまもすべてと繋がっておいでなのですね。素敵なお話でありました。勉強になりました。
     
     オカリナの行脚を毎回楽しみして読ませて戴いております。花ひとひらさまの心の遠きところ、深淵なる世界があって、皆さんをそういう夢幻の境地にさせていらっしゃることでしょう。それにしても琵琶湖にはオカリナがなんて似合うのでしょうか。考えただけで素敵な気分にさせて戴けます。今日は水無月。そろそろ葛入りの和菓子が出回る季節でしょうね。はんなりと和服を召され、水無月のお豆入りの和菓子を頂戴したい気分です。今日はおいで戴き心から感謝申し上げます。有難う御座いました!
     

  5. 文殊 より:

           道草先生
     
     十二単の存在は間違いなくあった史実がありますが、贅を尽くした和服の文化は武家社会にとって変わられてから、劇的に変化したようです。平安末期から武士に権力もさることながら、経済力も公家社会から武家社会に変動して行ったのですが、まさしく鎌倉時代には十二単どころではなくなりました。事実伊勢の斎院も豪勢過ぎて、いずれ廃止にならざるを得なかったのですから、大変な変わりようでした。六条御息所は新しく斎院になる我が子のために同道致しますが、直ぐ帰らざるを得なかったのは既に経済力の変化が全くないとは言えないのでしょう。但し武家社会になっても、武家と婚姻関係を結ぶ際はそれなりの贅沢があったようですが、益々簡素化して参ったのです。武家社会が安定した徳川時代は又復刻するような雰囲気がありましたが、それは平安絵巻の時代とは雲泥の差があったのでしょう。
     
     十二単ですが、決して美の究極とは考えておりません。それでも襟元の色目襲ねは季節感を盛り込んだ素晴らしい色目でした。秋には紅葉色目で、春には橘色目だったり、先端の流行の時季が源氏物語で代表されるあの和の世界だったのでしょう。そこからある面では日本美の象徴として大きな役割を果たしたように思えてなりません。次第に紅葉して行く状態を表現したり、花橘から次第に芽が出て白い花をつけ、そして実をつけるまでを、あの三角形の袷の部分で表現していたのですから、凄いことをやったものだなぁと考えています。多分遣唐使が廃止になってから、和的なものとして、十二単の文化が成熟し定着したのでしょう。
     
     高村光太郎が発見した智恵子の色目遣いはやはり半端ではありませんでしたね。私も何度も観たのですが、光太郎が聖ゼームス坂病院にやって来た時、光太郎にだけは恥ずかしながら、玉手箱のような缶から取り出して見せていたようです。色の使い方も次第に複雑になって行き、それはそれは素晴らしい作品が実に数千点も出来上がったのですから、あれが智恵子の芸術の頂点だったのでしょうね。
     
     祇園祭までには何とかちゃんと目途をつけたいと考えています。今日の美山町で取れたまるまると太った若鮎を見て、涎が出て堪りませんでした。セゴシ(?)でしたっけ、生きたまま丸ごと縦に薄く切って、酢味噌で食べた方を見て堪りませんでした。鮎の解禁は8日だそうですが、本当に楽しみです。田中國男さんの詩は何て素敵で祇園さんをちゃんと表現しているのでしょうか。今日のテレビの最後に出ていた童歌のような、各通りを読み込んだ詩もよかったです。あれやったら、通りを全部覚えられるのでしょうね。祇園さんの詩といい童歌といい、今日は京都を満喫いたしました。本当に素晴らしい番組でした。学生たちに出した源氏物語のクイズ番組は可笑しな問題ばかりで、もう一度源氏を読んだ方がいいかなと思ったほどですが、瀬戸内寂聴さんが最後をしめてもらってよかったと思いました。お陰さまでさっき飲んだ冷酒がとても美味しかったです。本日もどうも有り難う御座いました!
     

  6. 良枝 より:

    こんばんわ。りんこです。
    着物が着れるなんて
    うらやましいなぁ。
    私の祖母も
    何枚か持っていて
    私も何度かは引っ張り出して
    着てみようかとおもったものの
    昔むかし、
    洗い張りに出した際に
    なぜかしまいこんであった布を
    ざっくりとつめられてしまったそうで
    それはそれは悲しそうな顔をして
    だから、これを直しても
    たけもゆきも合わせてあげることは出来ないんだよ・・
    といわれました。
    新しく買い揃えるのもなんとなく・・
    と思ったままいまの年齢になってしまいました。
    私の父は着物屋さんの営業さんだから、
    先生になってくれる人はいるんですが、
    父と話す機会もなかなかなく。
    父が定年退職した頃が狙い目ですかね 笑

  7. 文殊 より:

            りんこさま
     
     こんばんは!お父さまが和服関係のお仕事なんですか。それは羨ましいお仕事ですねぇ。
     
     普通ほとんどの方は和服を持っていらっしゃられないのが当たり前かも知れませんね。だってそういう環境にないんですからね和服で職場に通える環境でもないですからね。
     でも僕が脚の怪我した時しばらく仕事場に和服で参りました。膝の怪我でしたから、固定器具があってズボンが穿けなかったのです。車椅子で経験した目線も面白かったのですが、和服で会社に行ったのも凄くいい経験でした。滅多にないことですしね。
     
     車椅子の目線では僕の幼児期のことを再体験したようで凄く新しい発見や懐かしさがあって、嬉しくてよかったんです。和服は物珍しさもあったかも知れませんが、でも楽でした。仕事にも支障がないなぁとつくづく実感したものです。
     
     ご実家を行ったり来たり出来ることは幸せへの近道でしょう。お父様におねだりしてみたら、きっとお父上さまが歓ばれるのではないでしょうか。もし僕がそんなことを言われたら、絶対着せてあげたくなります。それから和服は高いものとの先入観がありますが、決してそうとは思えません。終生着られるものですし、流行は多少ありますが、洋服ほど左右されないでしょう。
     
     どうぞチャンスを自らでお作りになられて、お父様と一緒に見立てて戴いて、そういうチャンスがあるといいですね。多分親孝行の一緒かも知れませんよ。そんな日が来ることをひそかにお祈りしています。今日も有難う御座いました。

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