悲恋・七夕伝説と七夕供花

 

七夕

 歌川広重筆『七夕祭』 国立博物館所蔵

 

 

 

 

                            悲恋・七夕伝説と七夕供花

 

 

  皆さん、愈々七夕さまの日が近づいてまいりましたが、どのようなご計画でいらっしゃいましょうか。晴れたらいいなぁ、天の川を観て、一年経ってたった一度しかない逢瀬をかなえてあげたいなぁと思われながら、恋人同士ロマンチックなご気分になられていらっしゃることでありましょう。京都などでは京野菜が盛んになる日とされ、盆に京野菜をたっぷり乗せて、お月見のように七夕さまにお供えをしてお迎えに方々もおられるようです。でも残念ながら、牽牛・織女のデートは今月の7月7日には叶わない上、皆さまのご希望に残念ながら添えないのです。その2つの星は正確には旧暦7月7日(今年は新暦8月7日の立秋の夜)に最接近するのですが、新暦ではまだまだ遠く離れたままです。大きな夜空いっぱいに広がる天の川(地球から見える銀河系の一部)をはさんで、その上のほうに織女星(琴座の主星ベガ)と、下方に牽牛星(鷲座の主星アルタイル)がひときわ光り輝いて対峙しているのですが、その二つの星が遠く離れているときと、著しく接近して見えることから、これを男女の恋物語にみたてて、そうして見上げた人々によって創り上げられたメルヘンが七夕の本質なのかも知れません。何も青筋を立てて申し上げる必要はありませんが、どうせ御覧になられるのでしたら、最接近する宵に是非観たいものですネ。ちょうどその折に、仙台市の七夕や青森市のネブタや秋田市の竿灯など祭りがある宵で、そんな夜は最高ではないでしょうか。

 最接近する宵でも、天の川は二つの星を永遠にさえぎっています。中国の古詩に「たがいに脉脉(みかわ)せども語らうを得ず」と歌われ、決して一つにはなれないとその悲恋を歌い上げているのですが、一方「烏鵲(かささぎ)、河を填(う)めて橋を成し、織女を渡らしむ」(前漢時代の『淮南子<えなんし>』、「織女七夕、まさに河を渡るべし。鵲(かささぎ)をして橋を為(つく)らしむ」(唐時代の『歳華紀麗<さいかきれい>』)などのように、あえて悲恋の男女を結び付けてしまう鵲伝説(かささぎでんせつ)が生まれました。鵲が群れ飛ぶさまを、下から見上げればちょうど天の川に橋がかかっているように見えたところから、こうした温情あふれる伝説が生まれたのでしょう。どうでしょう、ほっとされましたか。

 ところが日本では、古来七夕の行事はお盆の行事の一端であったんですよ。七夕さまの禊から始まり、お盆の先祖供養まで全く一つで、すべてが一連の行事でした。それが外来文化の影響によって、幾度か変質を余儀なくされてまいります。七夕の行事は畑作・稲作の感謝をし来るべき秋の五穀豊穣を祈念するために、それぞれの祖霊(それい=ご先祖さま)をお迎えしお祀りする禊(みそぎ)の行事でした。七夕さまの行事は、いわばお盆の先頭をきる行事だったのです。七夕からお盆まで一連の流れる行事だったのですが、それが仏教が伝来して以降、仏教の要素の影響を甚だしく受けてから先ず第一の変質がありました。それまでは女の子は髪を掬い、町屋では硯を綺麗にし、神に供える食器類を洗い、チガヤやマコモで作った『七夕馬(たなばたうま)』を屋根にあげ、祖霊をお迎えすると言った単純で素敵な習俗だったのです。お盆とともに来臨する神々のために、衣つくりとして選ばれた神女が、村を離れて、海浜や池や湖などの水辺のほとりで作られた「棚(たな)」「機織(はたおり)」を致しておりました。そこから「棚機(たなばた)」として、今日では七夕(タナバタ)と書かれる語源になったと考えられます。つまり本来はお盆の行事の一端であった何よりの証なのです。

 ところで、仏教行事が色濃く反映され、人々の生活習慣に濃密に関与するようになってまいりますと、お盆はあたかも仏教の専門行事だという印象を与えるようになってまいります。従ってお盆の行事に『七夕』だけがぽつんと取り残されてしまったのでした。平安時代になって、古代中国伝来の「星祭」である「乞巧奠(きこうでん)」「姫・牽牛伝説」が、日本の宮廷に急速に流布されるようになりますと、『七夕』の儀式だけが、お盆の行事とかけ離れて独立するようになったのでした。

 乞巧奠(きこうでん)とは、旧暦7月7日に起こりました中国の伝統行事で、『巧(こう)』とは女性たちの願いであったお裁縫が上達することで、それを『乞う奠(まつり)』のことですが、中国では牽牛が農事に従事する星で、織女は養蚕や糸針の仕事につく星と考えられておりました。今でも中国では庭先にテーブルを持ち出し、お菓子7品・お針7本・五色の絹糸七筋をお供えし、星祭をすると聞いています。改めて星祭りといっていることから、単なる男女の恋物語で終わっていないのかも知れません。キラキラと輝く星に、様々な思いやお願いをしたのでしょう。分かるような気がしますね。

 乞巧奠が日本の宮廷に伝来してから、清涼殿の庭に、長筵を敷き、その上に朱塗りの机四脚を揃えて、モモ・ナシ・ダイズ・ウリ・六角豆・干し鯛・薄アワビなどを揃え ヒサギの葉に五色の糸を通した金銀七本の針を指し、琴を鳴らし、お香を焚き、星を眺め、歌を詠むと言った優雅なものでありました。中国のとは似ても似つかないものです。つまり我が国の場合は裁縫が上手になりたいと言う婦女のつつましい希求ではなく、七月七日の七に因んだ七種のお遊びをし、七調子の管弦に興ずる遊びの要素の強いものであったのでした。

 一方庶民の間では営々と独自の発展を遂げております。七月七日の七夕の夜牽牛と織姫の二神が束の間の逢う瀬を楽しみ、翌日は天空の帰って行くと信じられていました。その際、禊(みそぎ)を行い、穢れ(けがれ)を持ち帰って貰おうと言う考え方でしょうか、七夕竹を流す風習が出来ていったのです。七夕には竹に、五色の紙短冊など手習いの文字を書き、神へのお願いをしたため、人形(ひとがた=人の形をした紙細工)を竹に結び、お祓いを致します。そして川や海に短冊のついたまま七夕竹を流してしまうのが一般的でありました。これを七夕送りとか七夕流しといわれ、地方地方によって幾らか異なっていても同じような行事をするようになったのです。

 

             七夕七夕

伊勢湾・神島における8月7日の行事・『ナヌカビ』 笹竹流し

 

 今でもお雛さまの日には流し雛という行事があちこちに御座います。紙で出来た人形(ひとがた)の雄雛雌雛の一対に、その子の身体の弱い部分か悪い部分にこすりつけて、穢れを祓って貰おうというものでしたね。米俵の蓋・タラバス(丸いふたのこと)に、ひとがたのお雛さまを乗せ、川や海に流してしまいます。この一般の民間信仰による流し雛も七夕も、考え方はまったく同じ考え方で出来ています。更に疫病にかからないように、疫病を流すと言う意味で、素麺を食べた風習があり、それが「流し素麺」」のもとになったのでしょう。いずれにしましても一般民間信仰の七夕さまは、七夕竹にささやかな民間人の願いを籠め、穢れを流す習慣であります。今では神道臭いと言われがちですが、祓いと清めが庶民の強い希求の行動に他ならないものでしょう。仙台の七夕や今日から始まった平塚の七夕や、千葉県茂原市などでは、大きな七夕飾りを競うように誇って飾られてありますが、それは商店街の人寄せのためであり、本来の行事とは全くかけ離れたお祭りであると断言しても過言ではないでしょう。益々華麗に華美になって行きまして人目を引き、それら大型の七夕飾りは川に流されたりすればまだしも、あちこちの七夕を企画する商店街へ転売されるというのですから、更に驚きですね。さすがに仙台の「七夕祭り」だけでしょうか、七夕さまを水神さまとして、商店街にしっかりと御祀り申し上げている御祭は。ささやかな庶民の夢をもうちょっと知るべきでありましょう。

 

        <七夕供花(たなばたくげ)>

 もう一つお話しなければならないことが御座います。今から600年前、後崇光院の日記であり、萬里小路(までのこうじ)家に伝わる伝承の話(現在は東京大学史料編纂所に在中)でもありますが、七夕供花(たなばたくげ)のお話は大変大事なことでありました。伏見宮・萬里小路定成(までのこうじさだふさ)親王が具注暦の余白に、御自分の心覚えとしてすべて漢文で書かれた日記『看聞御記(かんもんぎょき)』という本がありますが、応永年間から約33年間の永きに亘書かれており、時代の重要な要素の記録が数多く残されておりまして、室町中期の時代背景や習俗・習慣などにとって、第一級の資料となっております。中でも七夕供花のことが、毎年書かれて御座いまして、室内に屏風を立て唐絵を飾り、そして違い棚には瓶花を飾ると書かれてあります。この七夕の行事に行われた飾りは、七夕さまの後も取り払われることなく一般に公開されたようです。座敷はそのままにしてありまして、瓶花は常時交換されたと記録されてあります。実はこのお花を一般公開する行為こそ、華道の始まりの源とされているのです。次第に単に七夕飾りの花としてだけではなく、一年中飾る花であり続けたようであります。花を見せる、ただそのことによって、人心に寄与し華道が始まり、嵯峨野御所(大覚寺)や曼殊院や仙洞御所に永く今まで伝わり、今日の隆盛につながった華道源流の記録として、ここにご紹介だけにしておきましょう。そして更に、その御心を後の世の方々にお伝えすべく、これからの私の人生があるのでしょうや。

 七夕に関する色んな話題を出しましたから、頭の中がゴッチャになってしまわれたことでしょう、申し訳ありません。でも浪漫あふれる七夕の夜 あなたさまは何をお考えになられるのでしょう。牽牛・織姫の伝説を信じていらっしゃって、真夏の夜空に熱き思いをおとどけするのでしょうか。それとも笹竹流しをして厄流しの物真似を見よう見まねでしてみるのでしょうか。暑さに向かう折の大切なメルヘンの宵です。今はまだ旧暦の夜空ではありません。今年の立秋・8月7日、二つの星の距離がウンと縮まったとき、愛する人と静かにお過ごしになられるのでしょう。もちろんお二人のお幸せが一番大事ですが、お願いごとの片隅に、地球温暖化防止や世界平和を祈念すること、少なくとも痛ましい戦争や見にくい政争の犠牲者である難民や酷い飢餓などがなくなることを、ちょっぴり入れて戴き、皆さまとともに深く御祈念申しあげたいものです。

 

天の川

  天の川』 国立天文台より

 

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悲恋・七夕伝説と七夕供花 への13件のフィードバック

  1. 道草 より:

    七夕の由緒伝説を興味深く拝見致しました。私の子供時代の田舎では、特に七夕祭の風習は無かったように思います。長じて子供が娘2人なものですから、ある時期には我が家でも笹の葉に短冊をぶら下げてそれらしき行事(?)をしました。短冊には、「キティちゃんにあえますように」「ジェットコースターにのれますように」とか、「パパとママがながいきしますように」など、娘らの幼い文字でそんな他愛ないことが書いてありました。私はと申せば、〝祭り〟の名にかこつけて、その夜は一献多目にかたむけたものです。不謹慎でした。京都では、北野天満宮に「御手洗祭」に続いて「七夕祭」が開催されているようです(ひこ星の行(ゆき)あひをまつかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ/菅原道真)。私としましては近くに居るのですから、一度は行かねばなりますまい。それにしても、こうした伝説伝承は実に悠久の生命を感じさせてくれます。萬里小路家の伝統を守り伝えるべく引き継がれた硯水亭Ⅱさんの使命や大、とただ敬服するのみです。文化の習合と申すのでしょうか交配と呼ぶのでしょうか。中国の道教の古い伝説と我が国古来の仏教的信仰が見事に習合して現在の七夕伝説へと発展したとのこと。異種交雑は優れた形質を出現させる、と提唱したのはトインビーでしたか。まさに、七夕は異質な文化の融合なのでしょう。更に、硯水亭Ⅱさんが指摘されます如く、民族紛争・宗教紛争・イデオロギー紛争など、異種文化の習合により如何に人類は融合し合えるか、との大命題にまで意識を進展させねばならないのでありましょう。我が国の人工衛星が、確か「ひこぼし」と「おりひめ」と命名されていたかと思うのですが、これなども、現代の七夕物語りの始まりが古代のロマンを再現させ融合させる、一つの新しい試みとなる可能性を持っているのかも知れません。本年、私は旧暦の七夕を愉しむことに致します。
     
    「迢々たり牽牛星」
     
    迢々牽牛星   迢々たり牽牛星 皎々河漢女   皎々たり河漢の女 繊々擢素手   繊々たる素手をもって 扎々弄機杼   扎々と機杼を弄ぶ 終日不成章   終日織りて章を成さず 泣涕零如雨   泣涕零ちること雨の如し 河漢清且浅   河漢清くかつ浅し 相去復幾許   相い去ること復た幾許ぞ 盈々一水間   盈々として一水を間て 脈々不得語   脈々語ることを得ず

  2. ただ今カフェで読書中 より:

    硯水亭様
    おはようございます。
    こちらで七夕伝説のことをたくさん学ばせていただきました。どうもありがとうございます。
    片山広子さんの『燈火節』の冒頭の「或る國のこよみ」の七月は、"二つの世界にゐる。八月は、"色彩"、とあります。このこよみについて片山さんは、「ケルトの古い言いつたえかもしれない」と書いていらっしゃいましたが、硯水亭様がお書きになっていることを拝読しながらこの「或る國のこよみ」をそこに重ねていました。七夕がお盆の行事の一端であったと知ると、7月が『二つの世界にゐる」という言葉がさもありなんと思えて来たり。
     
    私も夜空を眺めるとき、夜空に祈るときは、地球温暖化防止や世界平和を祈念することも忘れないようにしたいと思います。
    どうもありがとうございました。

  3. 文殊 より:

            道草先生
     
      古来七夕は既出の記事のように、日本古来の伝統でもありました。農村部にまいりますと、いまだにその例が見られます。特に養蚕の産業が盛んな場所が多いでしょうか。棚機信仰がそもそもは中国古来の伝承と結び付き、それがいつしか日本独自の民間信仰になったのです。7月7日の七夕の夜、牽牛星と織女星の二神が来臨すると信じられていたのです。そしてそれ以前の女性神が水の周りで機織をしました。結果養蚕関係者にいまだに信仰があるのでしょう。
     
     七夕には笹竹を立て、五色の短冊をいっぱいつけて、そこに歌や手習いの字を書かれた伝統は永かったようです。特に面白いのは、サトイモの葉っぱに貯まった露で墨をすって、短冊に習字をして書くと、字が上手になると考えられていました。とても素敵な習慣ですね。更に天の川を渡るに際して、船をこぐ楫(かじ)が必要でしたね。そのために五色の短冊が使われる以前の短冊は、ハートマークが確か三つぐらいありそうな梶(かじ)の葉に、思いの丈の字を書いて笹竹につけていたようです。楫と梶は同音であったので、このような習慣になったのでしょうね。調べれば調べるほど、なかなか素敵な洒落たことをたくさんやっていたことがわかってまいります。おもしろいですね。
     
     華道が確立したのは東山時代にさかのぼりますが、この頃花瓶に花を立てる、つまり立花の習慣が美の重要な要素となってまいりました。しかしどうあっても立花の記録はこの『看聞御記』が最初の記録なのです。茶道の家元や所作のすべては、すべてが千利休に始まるのに対し、華道の家元は数千もあるといわれています。萬出小路(まりこうじ=里とも書きますが、ご維新で東京に出てから、出は使われなくなっています) そのために立阿弥のような名人が生まれたり、曼殊院にはお手本となる素晴らしい立花図の多数伝承されております。京都・池坊(六角堂頂法寺所有のお堂の一つ)の寺僧から専慶という偉大な人が出て池坊派の開祖になったことはご承知の通りです。仏前に立花するのがいつしか観賞用になった瞬間でしょう。それも室町時代中期に書かれたあの御本以来です。今日もおいで戴き、こころから感謝申し上げます!
     

  4. 文殊 より:

                   Hayakawaさま
     うぁ~~っ!実にお久し振りにお伺いするお名前です。片山広子(筆名 松村みね子)は美貌の歌人で、若い日に読みました堀辰雄の「菜穂子」や「聖家族」を思い出しています。どんな方だったのか、それらの堀辰雄の作品を読んでただただ想像するしかありませんが、芥川龍之介との交流など少しだけ仄かに想像できようというものでしょう。芥川龍之介の一方的な片思いであったということが痛切ですが、一方片山広子に「かげもなくしろき路かな信濃なる追分のみちのわかれめに立つ」と、佐々木信綱に師事していたことをうかがわせるにたる歌が残されておりますから、彼女とてギリギリのところまでいっていたのではないでしょうか。でも「夫と子にさゝげはてぬるわが身にもなほのこるかな少女の心」という歌を作っている人でもありましたね。素敵な方だったのでしょう。この「燈火節」は昭和30年に日本エッセシト・クラブ賞を戴いた名作でしたが、この本はなかなか入手困難な本で、私は婦人雑誌で記載されてあって読んだ記憶があります。ある国とは彼女が得意としたアイルランド(鈴木大拙夫人はアイルランド人で彼女とのお付き合いが深かったようですね)のことなのでしょう。
     
     さて横道にはずれてしまいましたが、そのようにHayakawaさんからお言葉を頂戴すると大変嬉しいものです。ケルトの民俗に7月は二つの世界があると。日本でも今や此岸と彼岸の二つの世界を行ったり来たりするのが7月ではないでしょうか。7月を文月と一般的には申しますが、七夜月とか早秋とか7月の異称があることも事実でありまして、なかには七夕月とか愛逢(あいぞめ)月とか女郎花月とか、ロマンチックな異称も御座います。そしてこの七夕は日本では全く珍しい星まつりでありまして、女性の手技の節句とも言われておりました。民間信仰を入れると結構意味が豊富にあるお祭りで興味尽きないことなのです。今年の私の七夕は、世界平和を祈るとともに、杏を真ん中にして、無事息災に大きくなって欲しいとの祈りもこめようかと思っております。今日もおいで戴き有難う御座いました!
     

  5. (Kazane) より:

    こんにちは。今日も暑いですね。
    先ほどから、こちらは急に曇ってきました。一雨くるのでしょうか…。今回も、七夕についていろいろ学ばせていただきました。
    ありがとうございます♪ そう、残念なことに平塚の七夕祭りは趣に欠けるんですよね。元々は、大空襲の後の復興祭りとして行われたものが偶然7月だったこともあり、その後商店街の人たちが七夕祭りとして行うようになったと聞いたことがあります。子供の頃は楽しみにしていて、父に肩車されて眺めた記憶もあります。
    成長するにつれて友達同士で出かけるようになり…。でも、最近はすっかり足を運ぶことがなくなってしまいました。今は不景気で、七夕祭り用の飾りにかける予算も少なくなっているようですから、
    逆の発想で、本当の竹飾りにしたら、素敵なのに…なんて思ったりするのですが。 私も道草さん同様、今年は旧暦の七夕を愉しみましょう。自分の小さな願いと、世界平和を願って…☆

  6. 文殊 より:

            風音さま
     ハイ、実は現在京都にいます。ビッコひきひきまいりました。ホントに今宵は暑い夜でして、クーラーが嫌いな妻のもとではやや辛いものがあります。でも先ほど杏をお風呂に初めて入れました。こわごわで大変だったんもですが、何とか終わりました。今、杏は深く寝入っているようです。気持ちがよかったのでしょうね。
     
     平塚のみならず、庶民の七夕は江戸時代からありました。でも次第に信仰が失われてゆき今では単にショーにしか過ぎません。それがいいか悪いかの問題ではなく、七夕の関する一般の方々の意識が萎えてきたことが大きな問題でしょう。今では殆ど七夕はいわば死語のようになっています。残念ではありますが、仕方がないことなのでしょうね。
     
     風音さんの夢を壊すようで嫌なのですが、平塚の七夕は仙台のお下がりであるらしいです。平塚から、更に茂原に行くようですが、単純に商店街のお飾りであるのなら、風音さんのように、古い単純な七夕か、大宇宙の中の一片の雲を眺めていたほうがいいのでしょうね。
     
     風音さんがおっしゃるように、手近かな七夕が愛らしくていいでしょうね。僕も賛成です。梅雨があけきらぬ7月より、8月の旧暦のほうが遥かに夜空ははっきりと見えるのでしょう。是非楽しみにしてくださいね。明日の朝早く東京に帰ります。今日もおいで戴き有難う御座いました!
     

  7. Unknown より:

    こんにちは。
    やはり今夜は曇か雨のようですね。私も皆さんと一緒に旧暦で。こちらでは福生の七夕祭りが有名ですが、旧暦で行われますので、たいがい良い天気です。
    実家は中野ですが、バスで10分くらいのところに大宮八幡宮(杉並区)があり、確か乞巧奠というのが行なわれるはずです。こちらに来る前に一度くらい見てみたかったです。
     
    冒頭の広重の絵、初めて見ました。何という躍動感 ! しっとりとして、涼しげな七夕のイメージとはかけ離れていて、面白い絵ですね。とっても素敵で、何度も見返しました。何だか元気が出るような楽しさを感じます。
     
    そうそう、Hayakawaさまのコメントに「燈火節」のことがあって思い出しました。アンを再読したくなったきっかけが村岡花子さんのエッセイ。その中に「K夫人」が登場する文章があるのですが、少女の頃読んだ時には誰のことか全く知らず読み飛ばしていたのです。
    ところが今回読み返したらすぐに分かりました。ちょうどその少し前に「燈火節」を読んでいたので。
    年を重ねるのも楽しいと実感した出来事でした。片山広子さんと村岡花子さんはお知り合いだったのですね。
    アンといえば・・・杏ちゃんは日に日に人間らしく(笑)、しっかりされてきたのでは ?きっと硯水亭さんも日に日にパパらしくなっていらっしゃるのでしょうね♪

  8. 文殊 より:

             夕ひばりさま
     こんばんは、やはりあいにくのお天気になってしまいましたね。どこに行っても蒸し暑くて堪りませんね。僕は七夕を特別旧暦でとお薦めしているわけではないのですが、多分晴れるであろう旧暦の方がきっといいのだろうと予感があるからです。住宅街のど真ん中にある大宮神社で、いまだに乞巧奠が行われていることにひどく感動を覚えます。参道のケヤキ並木にフクロウが住んでいるとか、いつかテレビで見たことがありました。さすがに素敵ないいところでお姉ちゃまがお生まれになられたのですね。
     
     歌川広重のこの絵は珍しい絵です。安藤広重で有名でしょうが、絵描きとして歌川で呼ぶのが正解なのでしょう。歌川一門で修行した身ですから。特にゴッホやセザンヌやアールヌーボーに影響を与えた人でした。歌川のブルーが特に有名で、フェルメールのラビスラズリのブルーと双璧であるように、ヒロシゲ・ブルーと堂々と呼ばれ特別に有名ですね。この絵にはブルーは少ないのですが、いかにも江戸時代には庶民の中に、この七夕の星祭が庶民の文化として定着していたかと思わせてくれますね。しかも自由な発想があって、面白い絵だと常々思っています。お姉ちゃまから、広重が誉められると特別に嬉しいです。ほんに元気が出るような絵ですね。
     
     片山広子をご存知で嬉しいです。筆名松村みね子は歌人でありましたが、僕はどちらかというとエッセイシトとして評価したい方です。芥川からラブレターをもらい、芥川と親交が深かった堀辰雄によって小説にされ、何故あそこまであの方を好いておられたのか、たった一つの理由ではなかったでしょうか。それは片山広子は尋常ではないぐらい謙虚な方でした。室生犀星をして「クチナシ」の人と呼ばせました。決して人の悪口をいわなかったらしい理由で、クチナシと評されたのです。僕の実家の近くに片山の実家があります。森鴎外や夏目漱石が借りたこともある由緒あるお宅なんですよ。ニューヨークの総領事を務めたこともある実父はやはり偉大な方でした。佛教思想家・鈴木大拙の奥さんでアイルランド人のビアトリスからの影響も大きくあったのでしょう。アイルランドの戯曲など、アイルランドの翻訳も多数残されています。仰るとおり村岡さんとも交渉がありました。でも彼女は文壇の先頭に立つことを極端に嫌い、常に楚々として暮らしました。そのことが僕などに最も深い印象を与えています。芥川ならずとも好きになったかもと。お姉ちゃまと似ています。
     
     Hayakawaさんのブログは大好きなブログです。こんな素人が書いてはいけないのではないかと思うくらいいつもカキコをさせて戴いておりますが、彼女の文章にいつもどれだけ元気を戴いているか、本当に素敵なブログです。
     
     杏はまだまだ首が座っていませんし、赤ちゃんそのものです。でも日に日に顔つきが変化して参ります。女人の神秘を思わせるような感じなのでしょう。ぬるいお風呂に一緒に入りました。おっかなびっくりだったのですが、どれだけ幸福を感じたことでしょう。都内に帰ってきても、杏のことで頭がいっぱいです。お陰でこころは満ち足りています。多分この子の写真の公開は8月末ころになるでしょうか。もうちょっと経ってからの方がいいかなぁと。
     
     
     

  9. 銀河ステーション より:

    お久しぶりです。銀河ステーションです。うちは、結婚したての頃からずっと単身赴任が続いているので、よく『七夕夫婦』と言われてからかわれていました。カササギならぬ飛行機や新幹線につないでもらっての縁ですが、七夕の歴史に、こんなに深いものがあるとは知りませんでした。ひとつひとつの習俗に、それぞれたくさんの人たちの想いがたくされているのでしょうね。同じ星空を見上げても、そこに思い描くドラマは人の数ほどあるのでしょう。最後の文章にもありますが、涙をためて星空を見上げている難民や飢えた方々がいることも、忘れてはいけませんね。せめてもの救いは、彼らの見上げる星空と、僕らが見上げる星空が確かにつながっているということ。ささやかな祈りが、天空の巡りにのって、彼らのうえに届きますように。今は大阪なので、ほとんど空を見上げる事はありませんが、ちょっと田舎に出かけて星を見上げたくなりました。実は、もともと天文部、宇宙大好き少年なのです…。

  10. 銀河ステーション より:

    あと、今、過去記事を読ませていただいて知ったのですが、遅ればせながら、お子様の誕生おめでとうございます!生まれてきた女の子はしあわせですね。硯水亭様のように素晴らしい方がお父さんなんですから。もちろん、お世辞じゃないですよ!

  11. 文殊 より:

            銀河ステーションさま
     
     有難う御座います。僕も人の親になりました。不思議ですが、嬉しくてねぇ、堪らないのです。まだまだ壊れそうなちっこい女の子ですが、一緒にお風呂に入ったり寝かしたりオムツをかえたり、一応父親らしいことをしていますが、銀河さんと同じで東京と京都に離れ離れになっておりますから、今後一層の努力が必要でしょう。でも嬉しくて嬉しくてね、何をさておいても娘です。名前を杏と書いて、アンと呼ばれるようになっていますが、明るく、いつでも前向きで創造性豊かな子になってもらいたいと願って名付けました。
     
     七夕は当て字です。棚機(たなばた)が正解なのですが、現代では何でもすぐ買えるし、改めて機を織ることもないのでしょう。でもホントに淋しい思いをしています。何でも使い捨ての時代です。それがどうしても嫌なんです。でも一人がいうことではないでしょうが、意識だけは何とか自前の何かを失くしてはいけないと考えています。
     
     銀河さんがおっしゃる通り、空も大地も世界全部が一つに繋がっています。星を見るのもどなたにでも同じでしょう。現在サミットが行われておりますが、反対運動を何故かとお思いになられるかもしれません。でもそこにはちゃんとした理由があります。主要国の中には世界中の武器の90%を輸出している利権を手放さなさない国があるのです。いつも世界中のどこかで戦争をやっている国のことです。その国は僕も大好きな国の一つですが、石油利権と武器利権は、どんな大統領がなっても果てしなく捨て去ることはないでしょう。それが哀しいのです。アフリカ各国は今我々より遥かな食料飢饉に陥っています。原油の値上げによって、食料が暴騰し貧困世帯は極端に食べることに事欠いています。我々だって、何もかも値上げで、困難な時代に突入しています。何とかならないものかと今回洞爺湖に固唾を呑んで見ています。
     
     そうでしたか、銀河さんは宇宙少年だったのですね。僕は渋谷にあったプラネタリウムで少年時代を過ごしました。ハワイ島の日本国・天文台にも何度もお邪魔しています。どこまでもロマンを感じる以前に、生命の不思議を感じるからでありますが、太陽を大日如来さまとする真言密教を信じるものにとって必須の事かも知れません。太陽を中心に何か運命が決まっているように、人の人生は儚いものでありますが、その儚さに抗うようにしっかりと生きて参りたいと常々思っています。
     
     銀河さんの秋田のご自宅はどちらでしょうか。秋田は結構広いですね。八郎潟を真ん中にするとしたら、県南はお祭りの宝庫ですし、県北は大自然の宝庫です。あの風が強い寒風山を思い出します。マールや男鹿半島で獲れるハタハタのゴムのような卵の歯応えも、懐かしいです。主人とよく廻りました。
     
     本日で会社は退職となりました。清々しい気分とともに、学生時代から25年間も務めた会社に少々愛着があります。まだ非常勤の役員として残りますが、新しい門出に、こうして銀河さんにコメ出来る幸せを感じています。今日もおいでいただき有難う御座いました。またそちらにお伺いしますね!
     

  12. みつえ より:

    涙雨となりました七月七日電気を消して世界の平和や地球の温暖化防止のためにお祈りなさった方もおおございましょうね。上の娘は仙台で八月初旬生まれましたので七夕にご縁があるでしょうか星祭の本来の姿こそ 日本人の感性にぴったりですのに
    今の暦の弊害は いろいろな意味で大きいですね。七夕のこと 又たくさん学べました。ありがとうございます。

  13. 文殊 より:

              野の花さま
     
     わざわざのお越しで恐縮です。いやぁホントに雨で祟られちゃいましたねぇ。涙雨でしょう。野の花さまがおっしゃる通り、暦の問題は大きいですね。その上最近では土日に祝日があたると、その次の日がお祝いの日になってしまったり、どうなっちゃってんだぁと改めて深く考えさせられます。その意味や精神性が極端に疎んじられているようで、不愉快ですね。お金と物質だけが人類の進歩なのでしょうか。笑ってしまいます。そこに隠された高い精神性こそ、小泉八雲が絶賛した日本人独自の文化であるはずなのに!そんなことを平気で罷り通っているから、教育現場では変な先生が横行するのでしょう。まったく情けない話です。こういうことが色んな間違いのもとになっているのでしょうね。
     
     七夕の文化は、日本古来のモノと中国伝来の行事と仏教からの影響と色々とゴッチャになっていますから、やや複雑ですが、節分のときの星祭と違い、圧倒的に素朴で素敵な行事です。特にその中でも、日本古来の「穢」を流す習慣が一番素敵な考えだと信じています。7月1日に七夕飾りをして、7月7日に川や海へ流すのですが、現在その古い習俗は、三重県の神島にある「ナヌカビ」の行事だけしか残っておりません。七夕の神は海の向こうから海面に平行してやってくる平行神だと聞いております。平行神としては歳神のお正月さまと同じ考え方なのでしょう。新しく魂が生まれ変わる行事だったのでしょう!
     
     上のお嬢様は仙台のお生まれでしたか。仙台では一番奥に水神さまをお祀りし、少なくてもそれだけで何となく救われる思いがいたします。東北の三大祭は、みな元はといえば星祭がその原型になっていると断言される方もいらっしゃいます。七夕から直ぐ屋根にあげた棚を下ろし、盆棚とし、ご先祖迎えをしたのが日本人の七夕の原型でした。素敵ないい時季にお嬢様が誕生されたものですね。暑くなる折から、野の花さまも是非お身体をおいとい下さいましね!今日も有難う御座いました!
     

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