母亡くて何の朝顔・酸漿か

 

朝顔

 

 

                                     母亡くて何の朝顔・酸漿か

 

 

 先日6日は京都の我が妻と娘に逢いに行っていました。東京ではその日から三日間、入谷の鬼子母神さまで「朝顔市」があります。そして今日9日は浅草寺で「酸漿(ほおずき)市」があり、森鴎外の鴎外忌がある日でもあります。この文月は私の大好きなお祭りが目白押しで、本来は好きな月なのでしょうが、でも本日は母の三十回忌の命日で、28日には主人の三度目の命日です。大好きな人との、生爪を剥がされるような辛い別れは、美しい文月を否応なく暗いものにしています。去年も「入谷の朝顔市」のことを書かせて戴きました。大好きな道草先生と、母と同じで風の大好きな風音さまと、母が一番大切にしていた野の花、そのブログの野の花さまに、心優しいコメントを書いて戴きました。それがつい昨日のことのようです。そのときどんなに救われた心地がしたことでしょう。今さらながらに感謝の念が湧き上がってまいります。子供の頃からずっと「母亡くて何の朝顔・酸漿か」とずっと思い続けてきたからでした。

 その後、幸運にも結婚して幸せな日々を送り、また海外で病気になったり品川駅で大怪我も致しました。更に天の思し召しで可愛い娘が授かりました。そして昨日25年勤めあげた会社を退職しほっとしているとともに、今朝たった一人の朝粥はどことなく淋しさがぬぐい切れませんでした。でも「母亡くて何の朝顔・酸漿か」の文言はいつしか柔らかなひだまりの中へ消え去っていました。恩知らずか薄情な私なのでしょうか。今日から真新しい道を模索し夢追いの楽しい日々が待っているからです。グランマ・モーゼスさんのお言葉ではありませんが、グランマが101歳をたった一日だったわよといった表現の、私には45年の半生が、たった半日だったように思われてなりません。多くは辛く哀しんでばかりいたそれまで人生とサヨナラをしたような、ひと皮が剥け、ひと区切りがやっとついたような思いがしているのです。

 母は自転車に乗るのが大好きで、文京区白山の出身でしたから、幼いころから東大の構内などに自転車で出掛け、最も気に入っていた遊び場だったようです。父の話によりますと、を感じることが好きな人のようで、一番好きなことは無論雲を追い駆けながら自転車で散歩すること、それと読書でした。幼い私に読書は人を磨くと口うるさく言っていました。父が論語の音読を小学生の私に強要し、つい母に泣き言をもらすときも私の言うことに一切耳を貸してくれませんでした。その面では二人とも厳しい人でした。仕方なく最初、長編小説を読んだのはトルストイの「復活」で、レマルクの「愛する時と死する時」・ドストエフスキーの「罪と罰」・司馬遼太郎の「坂の上の雲」などを中学に入ってすぐ読んだ記憶があります。当時チンプンカンプンで後年もう一度読まなければなりませんでしたが、母は読書する私を見ているのがよほど気に入っていたのでしょう。読書中に、私がお気に入りのコーヒーなどよく淹れてくれたものです。父と母は大学時代、演劇研究会を卒業したずっと上の先輩の父と現役で後輩の母との恋愛結婚でした。母はシェイクスピアやチェーホフが特別に好きでした。風を感じに、東大付属小石川植物園や潮の匂いがしなくても東京湾の海を見に行くのが好きでした。それと下町の商店街巡りも、彼女にとっては大好きなことであったのです。父は結婚後とてつもない仕事人間になってしまいましたから、母は淋しかったに違いありません。でも自分でそれらを処理する強さがあったように思われます。母の風を感じに、退官後老齢になってから父は日本百名山の登山を始めました。いつも優しかった母が亡くなって、私は数学が得意だったため、よもや建築学部に入るなどと母は想像だにしていなかったことでしょう。最近、道草先生早川さんの大きな影響があって、遅まきではありますが、凄いスピードで文化・文学の図書を読んでおります。少しでも貴女に近づきたくて!

 

夏・自転車

 

  一方主人は本当の意味で心優しい方でした。学問か結婚か悩まれた末、学問への道を選択されたフィアンセとの結婚も出来ぬまま逝ってしまいましたが、彼の多くの遺志を跡継ぎするものが数知れず、こうしている間にも私をしっかりと包んでくれているようです。お立場からどなたともお付き合いすることが叶いませんでした。私はどこへでも付いて廻り、彼個人からしてみれば私は祐筆(ゆうひつ)という立場でしたが、当社持ちビルの半分を新しい意匠の設計と厳格な施工管理を思う存分やらせて戴きました。若造で生意気盛りだったのに。ご父君のときからのお付き合いでしたけれど、私たち主従は実の兄弟のように大の仲良しでした。未だに使用しているこのパソコンは、主人が愛用していた形見です。ここに何故か大切にしまわれているパソコン画の女性像の絵があります。どんな思いで、どなたをお描きになられたのでしょう。今はすべての詳細は謎ですが、本人へのご供養の意味をこめてここで公開させて戴きたいと存じます。

 

佳人像

主人のパソコン画 「佳人像」

 

夏・カサブランカ 1

主人のパソコン画 「夏・カサブランカ」

 

花・憧れ

主人のパソコン画 「花・憧れ」

 

棟方志功・弁財天妃の柵

棟方志功作 「弁財天の柵」 (模写)

 

哀愁・その時薔薇

主人のパソコン画 「哀愁・その時薔薇」

 

 これらの絵はご本人が女性にどんなに深い憧れを抱ていたかという証明でしょう。私と同じようにマザコンだったからかも知れません。現実には一切お付き合いをした形跡はまったく御座いません。会社の役員はよく銀座のクラブなどで接待としてお客さまとご一緒させて戴いておりますが、ご本人は女性がいるところにはほとんど行くことがなく、銀座は少人数しか入れない和食屋さんにしか行きませんでした。私も主人と同じ行動をとっていたので、口さががない人たちの間ではあれはホモだちで、相手は私だというから二人で噴き出して笑ってしまいました。そんな孤高の主人でしたから、主人本人からすれば噴き上がる生きる淋しさを紛らわすかのように、どなたかの写真をもと集中して描かれたのでしょう。描き終わったあとに、パソコン画はつまらないや、色のかさねが出来ないんだからと自嘲気味に笑っておられました。

 でもいつまでもそれら感傷に浸っている時間は全くありません。それらすべてのことが、夕べの会食会で終了したと考えています。時々連絡があれば、会社に出て今後ともCEOの弟君さまの手助けをしなければならないので、夕べの会は特別な送別会にはなりませんでした。今後は財団の専務理事として実質的なトップとなり、主人の夢のあとさきを行動に移して行く所存です。そして私には今までなかった大切な家族があります。妻・倭文子や長女の杏を、我が命を賭して守り抜いて行く覚悟です。家族は何にも変え難い最も大切なものです。早くもこれから午後三時に、ここ品川駅近くのホテルで櫻チームの会議があります。京都の連中も出て来るといっておりました。現在総勢で11名です。最初に全員を招集し、聖徳太子ではないのですが、先ず「和をもって尊しとす」 そこから始めたいと存じます。しばらくリハビリをしながら自宅で静かにして、膨大な計画の全容をもう一度見直しに着手します。今日の会議が終わり次第広尾の実家に帰り、夕刻母の法要に参加するつもりです。それにしても歓びと哀しみは背中合わせであります。生も死もあざなえる縄の如しで、故人の真実の霊魂は私たち夫婦を通して、娘の杏に確実に伝承されて行くでしょう。亡き母も亡き主人も、あの天上高くから観ていて下さるのだから!

 

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母亡くて何の朝顔・酸漿か への6件のフィードバック

  1. 道草 より:

    私の母は96歳まで生きましたから、母に対する想いは硯水亭Ⅱさんとはまるで異なるでしょう。長生きすることは素晴らしいことです。望んで誰もが叶うことではありません。しかし、若くして世を去ることはどうなのか。早世したが故に残したものが大きいこともあり得るやも知れません。私の母は、私が小学校4年生の時に父の蔵書から山本有三の「波」を持ち出して読んだので、心配して学校の先生に相談に行きました。思えば、硯水亭Ⅱさんの母上とは正反対の行動です。私からすれば読書を進めてくれる母親の方が遙かに羨ましく思えます。子どもにとって母は大きな存在です。父とどちらが大きいかを比較するのは無意味でしょう。硯水亭Ⅱさんの奥様も、妻として且つ母としての存在となられました。また、やがては杏ちゃんもその道を歩まれることでしょう。母の存在が男の子だけのものでないことは、我が家の娘らを見ていても重々理解出来ます。この夏は、硯水亭Ⅱさんにとってはまさに激動の時期と申せましょう。怪我のことは余分としても、仕事と家庭の双方で文字通り大きな山の前に立たれました。しかしそれは、大望の横溢した頗る高い山です。生涯敬愛して已まない母上も櫻師も慈愛の眼で見守っておられることと思います。言うなれば人生最高の山へ向って登り始める、正にその時の到来なのでしょう。どうか早く怪我を治癒されて、仕事と家庭の双方為に全霊を篭めて邁進されますことを願って止みません。
    「I was born」   吉野 弘 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄(もや)の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。 女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。    女はゆき過ぎた。 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。 僕は興奮して父に話しかけた。・・・やっぱり I was born なんだね・・・ 父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。・・・I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね・・・その時 どんな驚きで父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。・・・蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね・・・僕は父を見た。父は続けた。・・・友人にその話したら 或る日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂(と)るに適していない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見るとその通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉(のど)もとまでこみあげているように見えるのだ。つめたい光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼は肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは・・・。 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。・・・ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体・・・。

  2. 良枝 より:

    こんばんわ。りんこです。
    櫻が大きく1歩踏み出したんですね!
    計画は私の思いもよらないほどの
    壮大なものでしょうが
    がんばってください。
    美術館がとてもたのしみです 笑

  3. 文殊 より:

                         道草先生
     
     長生きできる方はいいです。夭折とはその家族からしたら、ほとんど耐えられないことです。永く哀しみのみが癒えないもので、大きくなることがあっても決して消え去ることはありません。先生のお母様はそんなに長生きされて素晴らしく、本当に羨ましい限りです。だってもし母が今ごろ生きてたら、孫の杏を抱っこさせてやることが出来ましたからね。それを考えただけで、ひどく気が重くなってまいります。昨日は夜の法要でした。夕べは実家に泊まりまして、突如25年勤務のご苦労さん会となり、父と叔母と三人で夜を通してお酒を飲んだり、つもる話をたっぷりとさせて戴きました。朝早く起き出して、昨日私はお墓参りが出来なかったので、母のお墓参りをして、そして三人で浅草の浅草寺へ。お観音さまに4万6千日のご祈願を致しました。この日ご祈願すると4万6千日の功徳があるといわれている行事ですが、まだ今日まで「酸漿市」をやっておりました。朝顔もありました。そこここに少々の哀しみがあり、ふたたび母を思い出し、三人でしみじみとしていました。
     
     私の父も数学が得意だったので、多分幼少の頃は父のDNAを受け継いだものでしょう。でもやっぱり母の遺伝子も継承しているらしく、特に主人と行動をともにするようになってから、驚く勢いで文学や民俗に目覚めたような気がしています。遅まきながら、今ごろ母の後を追っているような気がしているのです。母は友人たちと絵本の会をやっていて、絵や文章を書いて、自分たちで製本し、展示会を得意にしていました。楽しかったんでしょうねぇ。絵本を私に描いてはよく見せたものでした。いつでしたか、このブログで「あなたにあいたくて」というお手紙をもらったお婆ちゃんのお話をさせて戴いたことがありましたね。その手紙の主は母の友人でして、いまだに、その絵本の会が続いているんです。母の存在はいつまでも大きく偉大なわけです。
     
     そうなんですね、この夏は特別な夏になるようです。将来の基本をこの時期に、もう一度練り直して早速行動に移せるようにしないといけません。今までの櫻チームの成果の検証から始めているのですが、そもそもの青図は主人の青図でして、これがまた壮大で稀有な青図なのです。ですから多くの方々にご協力も戴かなければなりません。このブログのことも考え始めています。一切個人情報を明らかにしないで、今日までまいりましたが、これから先はそうはいかないでしょう。でもある程度の公開でも、「櫻灯路」のときに経験済みですが、あらぬカキコをされたり、最も酷いのはネットストーカーなる方まで出て、大変だったのです。MSNのご協力もあって、その在らぬ誹謗・中傷は完全に強制削除して戴いたり、或いは「櫻灯路」のすべてのカキコを初めから削除したり、いやはや大変な恐ろしい目に逢いました。主人を好いて頂けるのは大変有難いことですが、程度の問題があるのでしょう。それを避けるために、このブログでも私の個人情報を完璧に守秘してまいりましたが、今後はそうは行かないでしょう。従ってブログを閉鎖し、新しく立ち上げつつあるホームページのBBSでの対応にしようかと、現在悩んでいる最中です。でも今お付き合いさせて戴いている方々は滅法素晴らしい方々ばかりなので、その心配は全く要りませんが、このブログの発端は主人が書いた「あづさ弓」からの継続だったこともあって、異常とも言える警戒をしていたような次第でした。今後是非ご相談させて戴きたい大切なことであります。午後帰るなり、よほど疲れていたのでしょう。すっかり眠入っていましたが、妻の電話で起こされ、杏の泣き声を聞き、思わず元気が出たところでした。怪我の治療とリハビリを中心にさざるを得ないのですが、頑張ってまいる所存です。今日も有難う御座いました!
     

  4. 文殊 より:

              りんこさま
     お陰さまで本格的に動き出しました。詳細はまだ発表しておりませんでしたが、今後このブログをどうしようかという問題を含めて思案中です。だって数多くの方々からより多くのご協力を戴かなければいけないからです。いつまでも守秘することはないでしょう。
     美術館って、りんこさん笑わないで下さいね。だって主人の曽祖父から集めた絵が中心で、主人の絵はどうしようか、まだ何も決まっておりません。去年はジャン・コクトーの絵をたくさん購入致しました。前衛的な絵や印象派の絵も多く御座います。一般に開放して観てもらいたいと思った主人のご遺志を尊重したいと思っているのです。今後も素敵ないい作品を収集して行きたいと考えております。櫻の研究所や宿泊施設も考えております。全容が固まり次第発表させて戴く予定です。特に主人の絵の評価は全く別個のものです。
     
     りんこさんはお元気なようで、ほっとしています。どうされたかなぁと心配していました。暑くなります。一人の御身では御座いませんね。是非お身体をお大切にされてくださいね!今日も有難う御座いました!
     

  5. (Kazane) より:

    硯水亭さん、こんばんは。硯水亭さんのお母様も、風を感じるのが好きでいらしたのですね。一緒に並べていただいて、光栄です。ずっと精力的に力を注いでこられたお仕事、一応ひと段落ですね。本当にお疲れ様でした。
    もうすでに新しいスタートを切られているのですね。これからのご活躍、心から応援しています♪きっと楽しみなこともたくさんあるでしょうね。それに、そばで応援してくれる最愛の家族もいるわけですし(^^)ご主人様、本当にいろいろな絵を描かれていたんですね。ふと、硯水亭さんを描いたものは無いのかしら…なんて思ってしまいました。
    硯水亭さんを想像するのは、いつか杏ちゃんの写真を拝見するまで、楽しみにとっておきましょう(^^) お母様、きっと硯水亭さんと一緒に杏ちゃんの誕生をご覧になったと思いますよ。それにご主人様も、硯水亭さんを通して一緒に夢を実現されることになるのでしょう。私も今月末には、父の命日がやってきます。母と一緒にお墓参りをし、父の好きだったお店でランチでも…と考えています。

  6. 文殊 より:

               風音さま
     
     風音さん、おはようしゃんららん!今朝もお元気でしょう!母はどうやら子供向けの演劇をやったり、絵本作家になることが夢だったようです。だからその発想を探しに常に行動的 でした。それも一人で行動するのが大好きで、中でもママチャリが一番の愛用でした。夢は自転車にあり、そして残酷な事故も自転車でだったのですが、母は生きるだけ生きたと今では信じています。勿論当時愛用していた自転車はグチャグチャになっていましたから、廃物になってしまったのですが、当時珍しかった三段ギア付きのママチャリでした。可笑しいのはその行動力で、広尾から、中延の商店街や中野坂上の商店街や日暮里の夕焼け段々まで行っていました。一番遠かったのは多分北千住の商店街だったでしょうか。ゴチャゴチャした中にいると生活感を思う存分嗅げて、大いに劇作の発想の役にたつのよいう信条でした。普段は白金プラチナ通りのスーパーや表参道の紀伊国屋に行くのが普通でしたが、お買い得のモノをたくさん買ってきては、いつも腹空かしの僕にたっぷりと食事を作ってくれました。そしてほとんど仕事の出張やら何やらでいなかった父に、文句の一つも言わず、自分の世界の中にずっぼりと入り込んでいたようです。絵本以外の公表はされていないのですが、残された美しい文章の日記がいっぱいあります。僕と父の宝物です。それを読むと今でも泣けるので滅多に開けません。文中から察すると、もうちょっと生きたかっただろうなぁといつも思う次第です。
     
     そんな風でしたから、今日はどこへ行こうかと、雲の動きを頼りに、風を身体いっぱいに受けて都内を走り回っていました。風音さんとおんなじです。貴女の方がウンと優しいかもしれませんが、でも母は母なりにいっぱい甘い感触を残しています。そんな母のお陰で、僕の半生分の仕事を終えました。そしてこれも又母と主人の後押しですが、ふたたび新しい挑戦が始まっています。風音さんも是非植樹などで、そのうちお手伝いくださいね。あはははははは!僕を描いた絵ですか、実はないことはないのですが、はじゅいのでカットカット!まぁ杏の写真を公表するまでお待ちくださいね!今回杏が誕生し、天上の母と主人が一番歓んでくれていると信じています。そのためにも頑張らないとね。今はやや腑抜けのようになって脱力感があります。朝ゆっくり寝ていられるし、大層ハッピーです。でも京都の妻や娘を思うと、そう楽ちんばかりはしていられません。徐々に仕事のほうは加速して行くでしょう。
     
     風音さんのお父上さまの忌日が来月に迫っているのですね。お元気なお母上さまと楽しい一日になることでしょう。作家城山三郎の奥様だった容子さんが癌で亡くなってから行かれた場所はいつも一緒に来ていた藤沢駅にあるレストラン「つばめ」でしたね。銀座一丁目に本店がある老舗で、たいてい遅れてやってくる奥さんと実に仲良く過ごされていたようで、城山が亡くなるまで、その習慣が続いていたようです。「冴えかえる 青いシグナル 妻は逝く」 城山の深い哀しみが見えてきます。また城山は常々いっていたことに「あなたにとって今日一日、黄金の日でしたか」「春たちぬ 君の帰らぬ 春たちぬ」 城山と容子夫人の愛の深さに打たれます。どうぞ良いご命日でありますように!
     

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