祇園祭と御霊会

 

 

 祇園祭  9

 

 

 

                                         祇園祭と御霊会

 

 

 今日のように医学が発達していなかった時代には、人々はひたすら神仏に頼るしかなかった。生と死は常に隣り合わせで、現代人のように生きることだけを考えることはあり得なかった。佛陀の教えの中にある四大悩みとは「生老病死」のことで、それを如何に克服するかが大きな課題であった。中でも350年も続いた平安の御世が保元・平治の乱で一挙に打ち破られるまで、世界中にあり得なかった一国だけの永い平穏な時代にも、時々大流行した疫病の歴史があったことは明白である。疫病は身分の高下に関係なく蔓延し、瞬時にして多くの犠牲者を出したこともあったである。更に室町幕府の末期、応仁・文明の乱が勃発し、都大路を11年も意味不明な戦乱が続き、京都の町は一気に灰燼に帰した。その後戦国時代に繋がって行くのだが、累々たる屍の先に、東寺の立体曼荼羅などにどれほど多くの方々が真剣な施病のお祈りをしたのだろうか。各神社では「祓い給へ清め給へ」と真剣な祈りが数多くあったことだろう。幸いにも日本古来の宗教の神道などは、新しい宗教である佛教を排斥することはなかった。民間信仰を含めて、多神教とも言える自然の中に存在する多く神々は大らかな八百万の神々となり佛教を朗々として受け入れていた。今でもどの寺院に行っても寺内に必ず神社が存在し、その神社は佛教ごとを深くお守りしている事実であり驚くべきことではなかろうか。又佛教自身も神道を深く敬愛し、相互依存の形が時には神佛混交となって悠久に今日まで伝えられてきた。それであるから、あのバーミアンの大石佛遺跡を一瞬にして爆破し破壊したタリヴァンだけを非難してはいけない。明治のご維新の時世には、愚かにも「廃佛棄却」が声高に吹聴され、多くの佛教寺院や佛像が壊滅的に破壊された愚行があったからである。

 

祇園祭

 神道にとっても佛教にとっても疫病などで大量死することへ宗教的危機感は今では想像以上のことで大変なことであったろう。特に夏場には疫病が多く発生し、そのために敢えて疫神さまをお招きしてご機嫌を窺い、ご気分よくしてお帰り戴きたかったのである。夏祭りの多くの本義はこうした悪い疫神さまを御祀りし、この世で悪さをしない確約を取り付ける必要があった。そうして祇園会(ぎおんえ)とか御霊会(ごりょうえ)と呼ばれる御祭が全国各地で多数類例が見受けられるようになったのである。無論祇園会は京都の祇園祭が本場中の本場で最も豪華で艶やかな祭であるに違いないが、愛知県津島市にある津島祭(全国に三千社も津島さまがある)はこれら祇園・御霊会関係の行事と並んでよく類似していて、典型的な類例になっている。博多・祇園山笠もこの類例の一種である。疫神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀らうための行事で、津島祭は天王祭とも川船祭とも提灯祭とも呼ばれている。おかしなことに、これも明治のご維新の宗教政策で、佛教的匂いがある牛頭天王からスサノヲのご祭神に変わっている神社が数多くあるのも見逃せない事実である。

 

祇園さん

祇園囃子 鉦の房おどる

 

 昨日の午後伊豆山を引き上げ、小田原経由で京都に来て、今私は妻の実家にいる。関東より遥かにむっとする堪らない暑さで、湿度100%(?)でその中に44万人もいるというから恐ろしい。多分観光客の多くの人息れで熱して膨らんでいることもあろう。如何にも京都らしい夏である。特に今年から祇園さんの祭の真っ只中に私がいるのは始めての経験で、大層賑やいだ只中にいる。妻の実家は中京区西洞院通四条上ルというエリア内で、家族総出で蟷螂山(とうろうやま=カマキリ山 山鉾の中で唯一カラクリがあり、カマキリの羽や足が動き人気があるらしい)に関わっている。四条家と由緒正しき地域であるが、現在周囲には多数のマンションが立ち並んでいるために、新住人の方々も数多く参加しているようである。驚いたのはこの家の客人の多さで、入れ替わり立ち代りしながら親戚縁者などが多数集まり、家人は繁忙のただ中にある。私は一々ご挨拶するのが面倒であり、これじゃ来るなという妻の意図もよぉ~く理解出来た。そんな中私たち夫婦と娘の三人は隠れ部屋の中に、ひっそりと潜んでいるようにベッタリとくっついて過ごしている。杏は日に日に可愛らしさが増し、眼の中に入れても決して痛くはない。そして杏が眠っている間、義母がそうしなさいと気配ってくれて言われるがまま、妻と二人で家を抜け出し、近くのカフェに向かった。コンチキチンの鉦の音はいつ聞いてもいいものである。妻は一段とパワフルになったようになったようで頼もしく見える。しっかりと腕を組んだまま、カフェに行く途中山鉾の神の依り代を眺めながらやっとこさ歩いていた。今宵は宵山の夜で、やけに人出が多く、その群集はまだまだ恐怖以外の何者でもない存在で、如何に私の怪我が大きかったかが改めて理解出来たようである。群集の流れがやけに怖い。

 

祇園祭

 

 この記事に祇園祭の詳細を書くつもりはない。ネットで調べれば、京都新聞など多くの記事があり、論考もある。私に今日の記事で書きたいことがあるとすれば、あれだけの群集の中に、古き時代に非業の死を遂げた多くの方々を慮(おもんばか)る人がどのくらいいるのだろうかということである。保元・平治の乱から始まって応仁の乱、京都は殆どが戦乱の主戦場であった。幕末期の犠牲者も数知れない。戦後の民主主義は、ぷっつりと折角の栄光ある歴史を断ち切るように、教育を初め何もが横並び平等主義一辺倒で、それが個性を尊重することであると主張されてきたが、果たしてそれでいいのだろうか。親が子を殺し、子が親を殺す。あり得ないはずの聖職者がする驚くべき犯行は日々これでもかと報道され目にあまるものがある。すべての原因は「タメ(同等)=横並び平等主義」の関係がそうしているのであり、横の関係だけを重視されてきた飛んでもない帰結ではないだろうか。戦後の個性尊重はどこか間違いではないかと思うに至る。そう言えば亡き主人は会社でうまくいっていない子を見つけると、いつもあなたのご先祖さまのお墓参りをしてくるように穏やかに勧めていた。生きとし生きる人間同士はすべて横の関係であり、近い身内の死や遠い存在の先祖の死に思いを馳せてみる瞬間は、縦の関係を考えるいいチャンスであるというのだ。取りも直さずこれから生まれ来る子孫のことも考えることであり、そう言えば弟子と師匠、本家と分家、先輩と後輩など、そして最も身近な親子の関係、それらは一見各種隔絶したように多くの縦の関係が完璧に無視されているのが、今日的なのではなかろうか。個性の個は完全に自分本位の個であって、一切の余人が入る隙間がないのだろう。「生」へ向き合うことだけを教え、真剣に「死」を教えることは全くなかった。ましてや寿命が延びたが故に「老」や「病」を前にしてはオロオロするばかりである。過去から現在へ営々と受け継がれて行く縦の線の一筋の光や道があるのではないかと、もう一度深く考え直すことが、今最も必要なことではないだろうかと思う。どうしても閉塞感がある時に、最も力をくれるのは過去からの学習以外にないのだから。古い民俗を考えたり夥しい歴史の教範を振り返ってみることは、今後の有り様を考える上で是非とも必要であろう。

 今久し振りにターシャの番組を妻と二人で観終えた。何度観たことであろう。辛抱強く待つ楽しみをターシャは楽しそうに淡々と語っていた。赤毛のアンの作者・モンゴメリーとついダブってしまう。その二人に共通する感動のキーワードは堅実勤勉であることだ。夢想の世界にばかりアンがいたわけではない。アヴォンリーのアンから、炉辺荘の中でのアンまでまさしく辛抱強い人で、堅実な人柄の基本を大いに感じさせてくれた。「生老病死」と真正面から向き合ったのが赤毛のアンの最大の魅力であると言ってもいいくらいである。夢だけの世界ではあり得ないのだ。何でも直ぐに携帯電話してしまう現代人には待つことの楽しみや歓びは極端に薄れているのだろう。150年前や200年前の陶器を大切にし、花挿しにしたターシャを感じるがいい。あの美しい庭は一朝一夕では出来ないということも。根を詰めた永い努力があったからこそ、ターシャの庭には美しい花々が咲いているのだ。祇園さんを考える時、そこには多くの教えがあり、ただ浮かれて歩いているばかりではいけないことも!

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祇園祭と御霊会 への6件のフィードバック

  1. 道草 より:

    昨夜の宵山は湿度がかなり低くて、例年よりずっと凌ぎやすい一夜だったようです。いつの間にか京都の梅雨は明けていました。私は所用(芥川・直木賞の初版本を買うのに)で午前中に四条まで出向きましたので、少しだけ山鉾を見て来ました。宵山は混雑しますので昼山で済ませた次第です。西洞院辺りは、さぞ賑やかなことでしょう。「厄除け火除けのおちまきは これより出ます つねは出ませんこんばんかぎり ご信心のおん方さまは うけてお帰りなされましょう おろうそく一ちょう 献じられましょう」。一生懸命に手を伸ばして粽を受けようとしても中々叶わず、狭い通りの家々の2階から見物している人に向って、窓の中へ粽が投げ入れられて、鉾町の人が羨ましく思えたのは遙か遠い昔のこと。硯水亭家は3人で丹後へ避暑に出掛けられるとの由。私も暑い日中を避けて、自宅で巡行観覧と不精をします。祇園祭は別名を鱧祭とも。今宵の一献は一段と美味しくなりそうです。
     
    「鱧まつり」 白川 淑
     
    チンッ 盃をあてる──おかえりやす──殺し文句だね──言葉だけで このひとは殺せないのに
    宵山の お囃子が鴨川(かわ)をわたり 雑踏(ひと)をぬけてくる──祇園まつりのことを鱧(はも)まつりとも言いますのぇ湯引きした鱧に梅肉がちょぼっとのっている──おいしいねとろけそうな男の唇(くちびる)
    さらりと湯をくぐってきた白い肌が青紫蘇の上にまるく蹲っているツンッ 鼻を撫でる梅のにおい京では 鱧の落とし と呼んでいる──おまつりの一番のごっつおぅどすね
    氷の器が 灯りを掬っている男の箸があたると そこだけ溶けて凹む──うちかて 紅い梅持ってますしぃ隠しぼくろのことなど 喋ってはいけないのに言葉だけで このひとは殺せないので
    百の骨を 剪りきざんでほしい白い身を 湯あらいしてほしいそして お味見してほしいとは 言えないけれど
    ──もし おうちが板場はんどしたら  うち 鱧になりとうおすぅ……言葉やわらかに このひとを殺したい

  2. 文殊 より:

                            道草先生
     
     華やかな御祭です。どこもかしこも賑わって大変な騒ぎです。蒸し暑いと思ったのは、多分気温が3度か5度違うような関東にいたせいでしょうか。堪らなく厳しかったように思うのですが、西洞院の通りはムンムンする鼻息の勢いでした。近くには長刀鉾もある関係でしょうか。見物客の多さにはびっくりするとともに閉口致しました。妻の実家では屏風の展示は致しておりませんが、それでも中は人息れで大変でした。京の町屋に住みたいというのは観念の世界だけでしょうか。情けない話です。鉾のある町屋は如何にも大変のようです。それでもそこはかとなく情緒たっぷりのお囃子や提灯はさすがの風情でした。往時の哀しみが伝わってくるような気がしました。我が父にもとっくりと見せてあげたいと思ったほどでありました。明るいうちに着いた時にはまだ長刀鉾が勇壮な姿をしておりましたが、蟷螂鉾は今年ちょうど真ん中に出陣するようで、もう一つ気合が入っていないのか、新住民の方々が多いせいか、僕には全く分からないのですが、大人しい雰囲気でした。でも義兄が出陣する時は家族総出でお見送りしたようです。三代住んで初めて京都人になれるのは、東京で江戸っ子になれるのと同じ習慣のようですが、あの新宿・紀伊国屋書店の田辺茂一さんが永年の夢叶わず、積年の思いを果たすことがなく逝ってしまったことが何となく分かるような気が致しました。やはり幾多の戦火にあっても立ち直ってきた京都人のプライドがそうしているのでしょう。
     
     今は高浜の海鳴りを聞きながら、ゆるりとしています。青葉山と言った山でしょうか、浜から突き出して見えています。漁り火は全くありません。途中鯖街道の周山を通って参りましたが、徐々に妻を説得し、出来ることなら、鄙びの里に住みたいものだと意を強くしているところです。途中朝早く朽木の街道で、昨日の鯖寿司を危ないかどうか議論しながら購入致しました。何の何の大変美味しかった寿司でした。小浜から高浜へ。ここは気付いてみたら福井県なのですね。京都と隣り合わせの町のようです。明後日京都へ帰るつもりですが、それまで朝と筆と夕方、必死に海水に浸かりながらリハビリをしたいと存じます。今夜鱧が出ました。梅雨鱧というらしく梅雨の時期が一番美味いと宿の主人の弁でした。今夜は鱧の焼きから、梅肉での刺身とか色々と戴きました。本来ここら辺はグジの産地だそうです。三方五湖のほうまでそうなんでしょうね。そう言えば、さだまさしの小説で「サクラサク」というのをしみじみと思い出していました。白川さんの「鱧まつり」は凄いですね。如何にも美味しそうに書かれてあります。本来は瀬戸内で採れるのがこんな高浜で鱧が採れるのが可笑しいですね。でも最高に美味しかったです。お陰さまです。今日も有難う御座いました!
     

  3. ただ今カフェで読書中 より:

    青葉山は別名若狭富士ですね。鱧料理も美味しそう・・・
    今日、届いた高柳佐知子さんがターシャを訪ねたときの記事を読んでいたら、高柳さんはこんな風に書いていらっしゃいました。
     
    ☆チューダーさんの暮し方は、女性ならば
     一度はあこがれてしまうようなすばらしいものです。
     (中略)
      しかし誰もがまねできることでもありません。
     自分が大切だと思うことや
     美しいと思うものを
     目新しさや
     便利さなどと
     引換えにしてこなかった
     きっぱりとした
     強さがあってこそという
     気がします。
     
    なるほど、そうだなぁ・・と思いつつ読みました。

  4. 文殊 より:

            Hayakawaさま
     
     海水の中では波があったり流れがあったりして、意外と水の抵抗があり、リハビリにはいいようです。確かに青葉山は若狭の富士なんでしょう。低いのですが、美しい形をしています。ガソリン暴騰の問題で船が一斉休業したようですが、何のこの民宿ではさして影響がないようで、有難いことでした。お料理分だけで、一泊料金になってしまうような安さで、恐縮しつつご馳走になっています。明日からこの周辺での民宿は一斉に繁忙期に入ってしまうようで、明日の朝ひと泳ぎしたら、全員で市内に帰ろうと思っています。お陰で雲間からも漏れる紫外線の影響で真っ黒になってしまいました。
     
     Tashaのキーワードは本人が好きなことだったといつものようにいうものの、過酷な労働の前提がありましたし、堅実で勤勉だったことでしょう。長男セスがいうことに若い頃、何度か酷い窮乏生活を余儀なくされたようです。それでもTashaは意思が強い人でした。まさに男性顔負けでしょう。19世紀の生活に憧れていたということは、貧しくとも心豊かにという意味なんでしょうね。佐知子先生が30年も前にTashaと逢っていたなんて、絶対素敵です。佐知子先生の一言一言が身に染み入るようです。ウィンズローとエイミーによって、あの庭は私たちの期待に応え、これからも続いて行くように思えてなりません。Tashaはそう、生き続けて行く人です。私たちの心に永遠に。主人が初めて英語を教えてもらったのが、母上さまからで、いつも父上さまがアメリカに行くたびに買ってきてくれたTashaの英語版の絵本でした。私たちが行った時はコーギー犬は二頭おりましたが、とても愛らしかったのが今でも印象的です。佐知子先生の素敵なお言葉を有難う御座いました。佐知子先生の感性にも感謝感謝のひと言です。今夜も有難う御座いました!
     
      明日の帰りには花折峠で、鯖寿司を探し、購入して、帰りたいと存じています!
     

  5. より:

    私は宵々山に四条大宮でのイベントに行っておりまして京都市内の真夏の猛暑で汗だくでした。また激しい夕立にも見舞われ散々目に遭いました。美山町のブースでモロキュウを売っていましたが、夕立を避けてテントに逃げ込んでこられた方に、祇園祭のある七月には氏子はキュウリを食べないのよ、と教えて貰いました。一緒に行っていた職場の彩加ちゃん、この激しい夕立はキュウリの祟りだと冗談を言っておりました。

    御霊会と言えば硯水亭さまが避暑に行かれた高浜、ここで繰り広げられる七年祭も御霊会なのですね。昨年初日二日目と見させていただきました。太刀振りは見応えがありました。次の機会には最終日の疫病の神様を海へお送りする浜で行われる勇壮な神輿を見たいものだとおもっています。佐伎治神社に祀られている神様の夫婦仲が良くないことから来るようですね。高浜町観光課の田中さんからは喧嘩祭のイメージが伝わるといけないのでそういった部分は書かないようにと釘を刺されているのですが、そいうわれると余計に見たくなるというものです。

    高浜では海の幸を楽しまれたようですが、私は冬にフグを食べに行きたいなあと思っています。大阪ではフグを食する機会が多かったのですが京都ではどうもその機会が少なくなってしまいました。

    今日の北山は真夏日ですが、戸を開けっ放しての昼寝はなんとも言えません。

  6. 文殊 より:

              Mfujinoさま
     八坂神社は織田信長によって庇護されておりましたから、織田家の家紋をそのまま八坂神社の神紋にされたのか、種々異論があるところです。牛頭天王かスサノヲの神紋も現在の神紋であったとか。その家紋の絵柄がちょうどキュウリの切り口に似ているものですから、この時期京都では食べないことになっています。でも時々お邪魔する村田吉弘さんが大将の菊乃井さんでは、キュウリが一番美味い時に食べなしゃーやいわと豪快に笑い飛ばし、おもてなしには堂々と使っていたのが印象的です。博多の祇園山笠も同じ神紋で、こちらは完璧に食べるようになっておりませんでした。畏れ多くもという気配りからなのでしょう。
     
     高浜や小浜や三方五湖周辺は古い伝承が幾つもありますから、よく観察すると非常に多いですね。高浜七年祭(たかはましちねんまつり・福井県指定無形民俗文化財)は高浜町宮崎に鎮座する佐伎治神社の式年大祭で,御霊会関連の御祭ですね。運良く夕べお宿の女将さんから数年前に娘が屋台で晴れ着を着て乗った話しをされ、着物を見せて戴きました。可愛い着物姿と写真がありました。巳の年と亥の年ごとに6月卯の日から酉の日までの七日間にわたって行われるようで、3基の神輿が氏子区域を遊幸し、太刀振・お田植・神楽・曳山などの芸能がくりひろげられるますね。それぞれの地域内に御旅所が設けられ、初日に神輿はそれぞれの御旅所へ渡御、最終日に浜辺で足洗いを済ませた後、還御します。若者の肩に担がれた神輿は勇壮に暴れ回り、一見喧嘩神輿とも言われる由縁なのでしょうか。子供や若者たちが演じる太刀振・お田植・獅子神楽・曳山(踊りと囃子)などの多彩な祭礼芸能が華やかに繰り広げられているようです。
     
     丹後東部に分布する振物につながるもので、高浜では外題をもつ芝居仕立てのものになっており、特異な発展を遂げたのでしょう。お田植は、若者や子供が歌と簡単な所作で田植えの様子をあらわしており、仮装風流の練物の一例と見ることができるでしょう。曳山は舞台型の曳山で、古くは歌舞伎芝居を見せていましたが、現在は小学生児童の踊りを見せる程度のようです。この祭りの多彩な芸能は、近世都市祭礼を特色づける練物から発展したものであり、地域的特色が顕著なものとなっています。芸能の多彩さに関しては小浜の放生祭と肩を並べ、祭り期間の長さと祭り全体の規模においては、福井県内随一の祭礼と言ってよいものでしょう。
     
     午後から高浜を引き上げてまいりました。周山街道の花折峠で、鯖寿司を見つけ、それと民宿で作られたたくさんの干物をお土産に帰って来たところでした。蒸し暑い京都を後にし、妻と杏を実家から東京の僕の家に、一時略奪して参る所存です。妻が夏休みの間、恐らく9月半ばまで、親子三人で一緒にいられるようです。ご実家のご両親が淋しがっておりまして、明日東京まで我々を実母が送ってくれるそうです。今日の午後宅急便で子供のモノを送ったところです。足りないものは買えばいいしと思っていますが、午後杏の一ヶ月検診は極めて良好でした。これもお陰さまです。今日も有難う御座いました!
     

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