黒澤明監督の夢の続き (没後満10年の本日に)

 

          黒澤明監督遺影   黒澤明監督の現場   黒澤明

 

 

 

          黒澤明監督の夢の続き (没後満10年の本日に)

 

 映画監督・黒澤明(享年88歳)が亡くなって、今日でちょうど満10年になる。今頃、鎌倉・安養院には墓参の方々が大勢押し掛けていることだろう。私たちに提供してくれた珠玉の作品は全30作。どの映画も大好きであるが、常に寝床にまでシェイクスピアやドストエフスキーの本をうずたかく積んで暮らしていた誠実なこの監督は、私たちの中ではまだ全く亡くなっていないのである。人は社会派のヒューマンな方だと評価するが、晩年側近の方にポロリと漏らしたことは、「私はセンチメンタリストである」と言われている。そんな断片を晩年の作品に垣間見ることが出来る。私は特に好んで晩年の映画を何度も繰り返し観ている。最期の「まぁだだよ」は一体何度観たことだろう。松村達雄演じる内田百閒先生の人柄が実に素晴らしく描かれている。大学の先生でここまで多くの弟子たちに愛された先生は実際はいるのだろうかと疑いつつも感動してあまりあった。この時弟子として出ていた所ジョージって人は何て天性の明るさを持った方だろうと大いに驚愕させられた。妻役になる香川京子も弟子役の井川比佐志も見事な演技であった。黒澤作品の集大成であるのだろう。場面は弟子たちがなかなか死にそうにない敬愛する先生を迎えて「摩阿陀会(まぁだかい)」を主催する。会が重なって既に17回目、弟子たちにも白髪交じりになっている。そこで「仰げば尊し」を全員で合唱するのだが、「仰げば 尊し 我が師の恩 教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ) 思えば いと疾(と)し この年月(としつき) 今こそ 別れめ いざさらば」 この一番の歌の最後の行「今こそ別れめ いざさらば」は映画の中で歌われることがなかった。黒澤監督はそこだけは断じて場面に出したくなかったと。つまり監督は私たちにまだまださらばをしていないのである。

 

安曇野

  この映像は、四十にも近い私が大学生の妻と初めて一緒に旅をした松本~上高地~安曇野での思い出の地の映像である。ここは安曇野の大王わさび園内の水車小屋で、ここで本来は最期の作品になるはずであった映画「夢」が撮影された場所であった。国内では、凝り性でうるさく途方もなく映像化に執念を燃やす黒澤監督に、遂には資金提供をする会社がなく、黒澤を師匠と呼び大変に尊敬していたアメリカの映画監督スチーヴン・スピルバーグがバックアップして製作された曰くつきの映画であった。オムニバス形式のこの映画には監督の言いたいことがてんこ盛りにつめられていて、夢とは何ですかとの問いに「これからの日本を作り変えたい」と大いなる夢と野望を語っていたと思う。そしてこのわさび園は私が妻に初めて愛を告白した場所でもあった。他に大好きなちひろ美術館碌山美術館にも訪れたが、やはりここでの思い出は決して忘れ難いものになっている。無論日ごろ散歩したり植物に慣れ親しんでいる東大付属小石川植物園に、江戸時代小石川養生所があり、園内の井戸はその当時のままの井戸であるが、そこをモデルにして撮影された黒澤映画最大の力作「赤ひげ」も、若き医者保本登(加山雄三)が、赤ひげこと新出去定(三船敏郎)について次第に成長をして行く黒澤ヒューマニズムの頂点を示す映画である。よく私は保本と重ね合わせていたものである。原作者である山本周五郎をしてさえ、原作より素晴らしいと言わしめた素晴らしい出来映えの映画であった。私は感動のあまり何度泣かされたことだろう。多分多くの医師たちも、この映画を観て医者になった方が多かったのだろうか。

 

     京の宿   横浜 元町「梅林」

 写真左は京都の片泊まりの宿「京の宿 石原」で、妻の実家にほど近い場所にある。最晩年の15年間ほどこの宿で脚本を執筆することが多かった。今でも監督が持ち込んだ机やベッドなど保存したままになっている。今だに、ここで執筆されているように思われてならない。先ず出て来る人物を創造する。するとその人物たちは勝手に意欲し動き回るのだと言う。朝9時から夕方の4時まで、それらの人物たちに追い回されるように、猛烈な勢いの筆致で書いていたと。書き込み用のわら半紙と2Bの数十本の鉛筆を準備したり、その時専らお給仕のように部屋づきで付き添っていたのが小泉尭史であった。そして最期まで脚本を書き続け、黒澤はここで倒れている。最期の脚本の「海をみていた」は熊井啓監督によって映画化され、又同様にここで書かれた「雨あがる」は愛弟子の小泉尭史によって黒澤組全員の集結で作られた。黒澤監督のもとで「まぁだだよ」と「八月の狂詩曲」などに助監督を務めた小泉は、「雨あがる」のその後「阿弥陀堂だより」「博士の愛した数式」「明日への遺言」など現在旺盛に発表し続けている。この宿でもそうであるが、私は黒澤監督が行っていた場所や趣味や嗜好などを聞くと直ぐにやってしまう変な傾向がある。写真中央は横浜・元町の端にあり外人墓地に上がって行く途中にひっそりとあるのが「元町 梅林」である。右写真のお造りのように、惜しみなくいい食材をふんだんに使い新鮮で極上なお食事やお酒を提供してくれる名店であるが、監督は新年会や忘年会は必ずここで行っていた。「梅林(ばいりん)」というお店の看板の字は黒澤監督の直筆の字でもある。大変なグルメであった黒澤監督をも充分に唸らせる料理であったのだろう。一度このお店で、飲んだ後にオニギリを頼んだことがあった。そしたらびっくり仰天!赤ちゃんの頭ほどで食べきれないほどの馬鹿でかいオニギリ一個が出て来て腰を抜かしたものである。こうした部分での話題には事欠かないが、おいおいお話申し上げましょう。

 

七人の侍

 最近NHK衛星第二放送で、没後10年黒澤明特集が上映されているが、今日の命日には最も人気が高く世界の映画界に多大な影響を与えた「七人の侍」が夜8時から上映される。2月の一番寒い日に、真っ黒な墨を混ぜ込み大量の人工雨を作って降らせ、そこで怒涛の撮影がなされた戦闘場面が最も有名で、飯を食べられるだけで、民百姓の味方になった七人の侍。不思議と言えば不思議なモチベーションの映画であるが、七人の侍たちは皆個性豊かで、映画「生きる」以来大ファンである志村喬に毎回惚れ惚れとして観ている。ニヒルな凄みのある侍役の宮口清二にも毎回しびれる。七人の役者全員が既に鬼籍に入られておられるが、黒澤明監督とともに、心からご冥福を祈るものであり、それら七人の方々と同様に、黒澤監督もまだ亡くなった気が全くしないのである。監督の夢である「日本を変えたい」という強い意思は、私たちに生き物として受け継がれているのだから。

  明日は白露(はくろ)。白露のうち最初の五日間は初候で「草露白し」。次の五日間は次候で「鶺鴒(せきれい)鳴く」。最後の五日間は末候で「燕去る」。それから漸く秋分の時候(秋のお彼岸入り)に入るのだ。本来なら秋模様が一段と感じられる時季であろうが、日中まだ蒸し暑く、少々その気分ではない。この間9月9日は陽の節句となり収穫が既に始まっている証拠となる。9月14日が今年でいう旧暦の8月15日の満月の日で「中秋の名月」となっているが、「芋名月」とも言われる所以は、これも収穫と深い関係があるからだろう。毎年黒澤明監督のご命日(9/6日はいみじくもクロ)の頃は殆ど上弦の月で、弓張月(ゆみはりづき)とも呼ばれ、監督には如何にもそのほうが似つかわしいように思えてならない。既に満ち足りた満月の状態より、多くの人々に益々素晴らしい示唆や啓示を与え続け、これからも弓張月のように満月に向かって歩み続けて行くだろう。

 

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黒澤明監督の夢の続き (没後満10年の本日に) への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    昨夜は「七人の侍」を観ていました。もう何度目になるでしょうか。それこそ、硯水亭Ⅱさんが「まあだだよ」を観られた回数に匹敵するかも知れません。黒澤作品の偉大さは改めて述べるまでもありません。「七人の侍」の如き映画は、日本ではもう二度と再び制作されることはないでしょう。前にも書きましたが、私は黒澤作品の全部をビデオで録画しておりますものの、例のベーターのため今や機種は風前の灯です。DVDで買い直すか、今回のような放映を待つか、余生との勝負みたいなものです。過去の黒沢作品の評価はさて置き、私にとって忘れられないのは「黒澤一家」と呼ばれた俳優(脇役・端役)の出演を楽しむことでした。数ある役者の中では、主役級の志村喬は別格として、やはり高堂国典の存在感が随一でしようか。次いでは、藤原釜足・渡辺篤・左卜全・東野英治郎・千秋実・三井弘次・宮口精二・上田吉二郎・清水将夫・中村伸郎・小杉義男・菅井一郎・田中春男など。準主役級では土屋嘉男・加藤武・木村功・加東大介ら。脇役女優では、三好栄子・千石規子・本間文子・中北千枝子・菅井きんらです。そして、何といっても毎回楽しみだったのは、ほんの少しだけ顔を出す脇役達です。大村千吉・佐田豊・清水元・小川虎之助・堺左千夫・谷晃・沢村いき雄・桜井巨郎・高木新平・大友伸・千葉一郎・・・彼らは時にはセリフさえ無い場合がありましたが、それでも登場するだけで「黒澤映画」なんだ、と再認識して嬉しくなったものです。少し横道へ逸れましたが、こんな観方もあったんだ、とご容赦ください。

  2. 文殊 より:

                  道草先生
     
     昨夜僕も観ました。確かにこの映画も何度も観ましたが、観るたびに新しい発見があって、面白いものだと常々考えます。最初に観たのは僕が中学時代でしたから、1954年に封切になってから遥かに経ってからですからね、最初驚きましたねぇ。日本にもこんな映画があったんだと。小津安二郎や溝口健二などの名人もその頃に観たような覚えがあります。母が亡くなる直前でしたでしょうか。母と観たものですからよく覚えています。先生のおっしゃる通り名脇役の方々がたくさんおいでですね。「七人の侍」で、村の長老・儀介役になったのが高堂国典で、水車小屋で「やるべし」とうなるように言ったのを昨日も確認してその演技力を改めて驚いておりました。利助役の土屋嘉男は出ずっぱりで、志乃役になった津島恵子、利助の妻だった島崎雪子、農民役の左ト全や藤原釜足など、盗人になるのが東野栄治郎、それから天下の恩賞を狙う鉄扇の武士に山形勲、更に若き日の仲代達也や宇津井建なんかも通行人の武士で見ることが出来ました。最近の映画ではこうした名脇役がしっかり固めるのがとっても少ないのでしょうね。
     
     今日の午後1時から4時半まで、杏をあやしながら(妻は勉強しに出掛けましたから)、ずっとクロサワ・アーカイヴをNHKで観ていました。七人の侍がどうして出来たかを10年ぐらい前にやった再放送でした。先日亡くなられた赤塚不二男さんもファン代表で出ていました。自分が飼っていた猫に「菊千代」と名付けていたことなど、可笑しかったです。まさに先生がおっしゃる通り、こんな映画はもう2度と出来ないのでしょうね。淋しいです。今日も有難う御座いました!
     

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