中也忌

 

Nakahara_Chuya

東京に出たての頃 銀座の有賀写真館で撮影されたポートレート 詩人の魂というべきか

 

 

 

 

                  中也忌

 

 

 今日10月22日は中原中也が若干30歳の若さで亡くなった日です。あちらこちらで特別に、中原中也を偲んで『中也忌』なる祭事や会合があるとは全く伺っておりませんが、それが逆に中也らしくていいのではないでしょうか。でも僕たちが春先に挙行する『櫻忌』に入っていらっしゃる方なので、本日を敢えて勝手に『中也忌』と命名し話題に出したいと存じました。

 中原中也の話題の前に少々付け足しておきたいことがあります。今日の京都では京都三大祭りの一つで、華やかに「時代祭り」が行われております。義母は既に友人と見に行ったらしく、小雨のパラつく中を祭りの行列があったと、先ほど電話で確認致しました。平安時代から明治のご維新まで、各時代を再現しそれぞれの衣装に着飾った方々が、京都御所から平安神宮まで行列をなしてパレードをするというものです。中には、京都の街中で生まれた道草先生が戦中疎開していた地先で、Mfujinoさんが現在お住まいになられている山国地方の義勇兵団である鼓笛隊(「山国隊」)も、時代祭りの行列に出ていたようです。明治のご維新の際、すわ天皇さまにとって一大事であるとして、官軍に参戦した農民部隊の「山国隊」は鳥取藩とともに、北は仙台まで出掛け勇猛果敢に闘った部隊であったと聞いています。戊辰戦争後、錦の御旗とともに京都に凱旋したようで、今でも山国祭りは土地の誇りとして代々受け継がれているようです。Mfujinoさんのブログに「山国フェスタ」としてたくさん紹介されていますので是非ご参照賜りたく。但し今日の行列の中でひと際目立っていたのはミスインターナショナルの各国の美人たちだったみたいで、隊列の中に一緒に参加されていたと言いますから、何とも今日的でよろしいのではないでしょうか。時代祭りそのものが古来からあるご神事に基づくお祭りではなかったのですから。ところが同じこの22日に行われる重要な京都のお祭りがあります。鞍馬の由岐神社火祭りで、京都三大奇祭とも言われております。元々京都御所の内裏にあった由岐明神さまを、時の天変や平将門の乱などをご心配なされた朱雀天皇が、天慶3年(940年)御所北方の鞍馬山に、ご神具ともども明神さまをお移し(ご遷宮)なさり、北方の守りの要とし、天下泰平や万民幸福を請い願ったご遷宮でした。長さ1キロにも及ぶ大隊列のご遷宮の儀式は、鞍馬の民びとにとって大変な喜びであったようです。その行列の足許に灯りを点し、全戸でお祝いを申し上げたのがこの勇壮な火祭りの起源とされています。出町柳の駅から叡電鞍馬線の電車で僅かに30分で終着点の鞍馬です。永い伝承あるこの火祭りのご見学も、案外お手軽に行けるご神事ですから、是非お奨め申し上げたいところです。この火祭りが終わると、京都に赤々とした錦秋の時季になって来るのでしょう。

 

鞍馬の火祭り

鞍馬の火祭り 150本近くもの大中小のお松明が出て 赤々とした京都・秋の奥山の光景になります

(本写真の著作権は和田義男氏に帰属します)

 

 中也のことをお話するのに何故京都かと言いますと、中也の忌日のこの日に、多分中也も見たであろう京都のお祭りの話題は、可笑しくも大変に楽観的ではありますが、恐らく中也から許されるかなぁと思ったからで、「NPO法人中也京都倶楽部」というように新しい団体が漸く立ち上がり、京都での中也の再評価が始まったばかりでもあるからです。先ず京都以前にお話を戻しますが、中也の生誕地は山口県の湯田温泉です。中原家として半世紀ぶりの待望の男児として生まれた中也は、幼少の頃から軍医である父の期待や周囲の希望に、実際はいささかは遠い存在でした。中でも最も大きな事件は中也8歳の時、中也が最も愛していた3つ違いの弟・亜郎の突然の死で、多感な年にあたる11歳の時の種田山頭火にとって、母親が自宅井戸に入水自殺をしたショックは生涯続き、最期まで付き纏っていたこととほとんど同じことだったろうと思えます。夕暮れになると時々野辺に咲く花束を抱え、可愛い弟のためにお墓参りに行く中也少年を数多くの方々から目撃されています。その証拠は中也の回想録「詩的履歴書」の中に、亜郎の死が詩や短歌を歌う最初の動機で作品であったことが出ています。そうして、軍隊という組織でしか生きられない父親と世間通りの期待を寄せる母親とは次第に乖離(かいり)して行き、自己の精神世界にどっぷりと没入して行くのでした。この父親からの仕送りだけで生涯を終えた中也にとって、矛盾だらけであり、詩作への苦悩とともに続いて行くのですが、11歳の時には既に中也の詩作の原点が見えています。「芸術を遊びごとだと思つてゐる その心こそあはれなりけれ」と、何と11歳の時の中也の、未だ拙い短歌です。13歳の時には「婦人画報」や「防長新聞」にも投稿し、ちらほら中也の短歌が掲載されていました。結果益々文学かぶれになり、中也16歳の時、旧制山口中学を余儀なく落第します。そこで両親が心配し、まっとうに勉強し、まともに大学まで行って欲しい一念で、京都の立命館中学3年に編入させます。特に父・謙介は医者であっても軍隊の中では学歴で苦労した人でした。「大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」と中也自身が嬉々として述懐しています。京都は伏見区にある立命館中学ですから、深草辺りに住んでいるかと思いきや、後年東京でもそうであったように、たった2年間で8箇所に移り住んでいました。親と離れ、思い切り文学を深く追求したかったのでしょう。友あり、その近くへ住もうなのでしょうか。当初北区小山上総町に住んでいましたが、丸太町橋脇の古書店で、この時高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」を手中に収め、次第にダダイズムに引かれて行きます。更に大将軍界隈に移り住み、そこで広島出身で3つ年上の、女優志願だった長谷川泰子と知り合い、行くあてのない泰子を軽い気持ちで同居を誘ったのでした。ここから二人の同棲が始まりました。中也17歳の時です。又同時期に、下鴨付近に住んでいた画家で詩人の富永太郎と知り合いになり、フランス文学への道が開かれたのです。その影響があってか中也はフランスの詩人たちに夢中になっていました。それが縁で、中也と泰子は富永の住まい近く、今出川中筋通りという鴨川西の下宿屋(今でも現存しています)に引っ越しするのです。中也にとっての京都は父の望む学業目的ではなく、詩人としての出発になる重要で自由な起点であったのでしょう。中也が主に住んだ山口~京都~東京~鎌倉(終焉の地)の4都市の中で、絶望と希望と、友情と裏切りと、神と愛と、新しい智識や智恵などなどに一気に目覚めた時期でもあったようです。立命館時代ただ一人の友人である中村吉郎が証言しています。中也のこの時期の愛読書はダンテの「神曲」であったことを。そう言えば生涯350編ほどの詩作の中に、「空」という言葉の数も然ることながら、ダンテの中に出て来る中身に数多くのサジェスチョンがあると思われます。泰子はまさかダンテにとってベアトリーチェのような存在ではなかったろうか。既成概念に一切束縛されることがなく、絶対的な何かに恒に憧れ望み、立命館を中途にして、やがて中也は愛憎渦巻く東京にやってくるのでした。

 僕は文学の評論家ではありません。僕は中途半端ですから、多くの中也の評論は他の偉大なる先哲にお任せ致しましょう。今日は主に京都時代までをその中心話題に致します。僕が十代の頃、御茶ノ水のアテネフランセに通ってフランス語を学びましたが、何と中也も又、昭和元年にアテネフランセに通っていたのでした。理学系統を専攻した僕は中也をそれほど好きではありません。でもとっても気になる人でした。今日の悲惨なる若者の精神状況を見るにつけ、中也をもう一度読み直すべきだと叫びたくなる衝動に駆られる時があります。イジメや引き篭りになられておられる人にはもっともっと読んで貰っては如何でしょう。少なくとも仲間意識を共有出来る筈です。又僕のように、或いは意に沿わない仕事で忘我の人にとっても、中也の哀しみは、存分に乾いた心を芳醇な心境にさせてくれるでしょう。可笑しなことに、中也に性的要求をされるとは思いもしなかった長谷川泰子がいみじくも証言しています。「わたし、中也の詩は読めないわ。だって直ぐに泣きたくなるんですもの」と。彼女の心奥をお察し戴きたいのです。ここでその後の彼女の動向だけお知らせしておきましょう。中也が早稲田の予科に入ろうと、泰子は中也と一緒に東京に出て参りました。早稲田近くの下宿屋に住まいするのですが、中也に素晴らしい友人が出来ます。当時東大生だった小林秀雄ですが、近所に住んでいました。殆ど泰子を構わない中也と違い、小林秀雄は細やかな神経をはらって泰子目当てに下宿屋に通っていたのです。そこで或る日「私、小林さんのところに行きます」と突然言われ、中也はそうかと言うしかありませんでした。中也はきっと罵詈雑言を発したかったに違いありませんが、自分を「口惜しい人」と表現し、女からだけではなく大東京から捨てられ虐められたのだと思い詰めてしまうのでした。一方その後泰子は小林秀雄と同棲するのですが、やがて小林のもとも去り、泰子は映画女優として一本立ち致します。今のように、女性が強くない時代に、或る意味では凄い人だと思えてなりません。又彼女を通り過ぎた人も皆それぞれに一定の名を残したのですから。

 東京での中也は悲惨でした。さまざまな友人を頼っては引越しを20回近くも繰り返し、愛や神についてトコトン議論するのですから、近くにいる人はいい加減に嫌になるだろうと想像されます。相変わらず親の仕送りで過ごしていました。尤も生涯自分で働いて暮らしたことはなかったのですが、或る飲み屋ではそんな中也が常駐し議論する相手を待っていたのですから、お蔭でお客が来なくて潰れたと言っているくらいです。それでも中也の無垢な精神放浪は続きます。「絶対的な神と芸術に徹底的に奉仕すべきだ」と非日常的なことを誰彼構わず議論するのですから。そんなこんなでやっとこさ初めての詩集「山羊の歌」が出版されたのは何と27歳の時でした。その前年心配した両親は遠戚の上野孝子と結婚させます。その年は東京外国語学校卒業したてで、「ランボウ詩集」を出版した年でもありました。29歳の時定職につこうとNHKを受験するのですが、いつもぼんやりと外の景色を見ていられるようにと受付がいいと面接でハッキリと言う始末ですから当然入社出来るはずもありませんでした。その年長男文也が突然亡くなります。あのいとおしい弟・亜郎の二の舞でした。どんなに悲嘆にくれたことであったでしょう。翌年憎しむべき恋敵・小林秀雄を頼って出版を願い「在りし日の歌」を清書します。自分の息子に死なれた衝撃は予想以上に中也を強か打ちました。秋10月に故郷移住を決めていた矢先に、結核性脳膜炎で中也は鎌倉で彼岸に旅立ちました。若干30歳です。可笑しなことに、亜郎も文也も中也でさえ○○性脳膜炎で、皆突然の死でした。中也の死の際、中也の第二児は、既に妻のお腹の中でした。生まれながらにして詩人であった中也の生きられるすべてはたったの30年、これでしかなかったのでしょうか。あはれでなりません。でも時を経て尚多くの人々に、純粋無垢な中也の詩魂は、生きる希望や最後に踏み留める勇気を与え続けてくれています。

 

薔薇・シティーオブヨーク

今宵、23日に明けてしまいましたが、中也に捧げたくて シティ・オブ・ヨークの白薔薇を!

南無放光院賢空文心居士!

 

 尚、このブログは啓蒙的なブログにつき、早稲田時代に、大岡昇平や河上徹太郎などと起こした同人誌・「白痴群」(全6号まで1年で終了。中也が余りにも熱心だったから、他の同人は離れていってしまった。この詩はその哀しみを読んだ詩です)の中から、最もよく知られた「汚れちまった悲しみに・・・・」を掲載することにしました。同人が寄稿しなくなった悔しさや無念さがうかがい知れます。東京では散々苦労し、疲れ果て、うら悲しいことだらけでした。多分中原の反逆は大いに嫌われたのでしょうか。残念かなもう既に23日、仕事の関係でこんなに遅くなってしまいました。でも中也はわかってくれると密かに信じつつ!

 

      「汚れちまった悲しみに・・・・・・・・」      中原中也作  (白痴群から)

 

      汚れちまった悲しみに

      今日も小雪の降りかかる

      汚れちまった悲しみに

      今日も風さえ吹きすぎる

 

      汚れちまった悲しみに

      たとへば狐の革裘(かわごろも)

      汚れちまった悲しみは

      小雪のかかってちぢこまる

 

      汚れちまった悲しみは

      なにのぞむなくねがふなく

      汚れちまった悲しみは

      倦怠(けだい)のうちに死を歩む

 

      汚れちまった悲しみに

      いたいたしくも怖気(おじけ)づき

      汚れちまった悲しみに

      なすところもなく日は暮れる・・・・・・・

 

 故郷・山口の湯田温泉には中也の記念館があります。中原中也記念館

 今日のBGMは Chopinのノクターン9番です

 

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中也忌 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    昨日は久々の雨でした。時代祭りは小雨の中となりました。華やかに都大路を練り歩く祭典も今年はミスユニバースが参列するなど、一味異なる行列に賛否両論。でも、賛成票の方がかなり多いようです。時代も変わりました。ただ、先頭の鼓笛隊は今は本家の「山国隊」ではなく、市内の朱雀保存会の参加で、旋律もやや異なっているとか。この当たりはmfujinoさんが詳しいと思います。夜の鞍馬の火祭りも小雨の中であり、天は夭折した中原中也を偲んで泣いていたのでしょうか。毎年の鄭重極まりない「櫻忌」に加え、硯水亭Ⅱさんのこれだけの追悼の辞を記してもらえば、中也も幸せと申すべきです。今日もまた一日雨でした。私は小学校の先生が出展されている書道の展示会へ午後から出掛けて来ました。夜になっても雨は止まず、中也を悼む雨なのかも知れません。胸打たれるばかりの京都での中也の詩です。
     
    「ゆきてかへらぬ」   中原中也      -京都ー僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々を揺(ゆす)ってゐた。 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車は、いつも街上に停ってゐた。 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)もなく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事だった。 さりとて退屈してもゐず、空気の中には密があり、物体ではないその密は、常住食すに   適してゐた。
    煙草くらゐは喫(す)ってもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕ししたことが、戸外でしか吹かさなかった。
    さてわが親しき所有品(もちものは)は、タオル一本。枕は持ってゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子(はぶらし)くらゐは持ってもゐたが、たった一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。
    女たちは、げに慕はしいのではあったが、一度とて会ひに行かうとは思はなかった。夢みるだけで沢山だった。 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進(うなが)し、目的もない僕ながら、希望は旨に高鳴ってゐた。          *      *林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分からぬ言語を話し、僕に分からぬ感情を、表情をしてゐた。
    さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

  2. 文殊 より:

               道草先生
     毎回素晴らしいご投稿を戴きまして、いつもながら大変痛み入ります。今日の東京も朝から、イヤ昨夜からですが、時雨のような雨が降っています。22日の午後に、杏の「ハフハフゥ~~」という声を聞かせて頂きながら、折りしも自宅にいた義母に時代祭りの様子を伺ったばかりでした。小雨がぱらついたとか、せっかくなのに見学者の方々も大変だったことでしょう。又時代祭りに出ていた「山国隊」は朱雀地区保存会の方たちだったというご指摘を有難う御座いました。でもいずれにせよ、山国本隊をご顕彰された意気込みではなかったのではないでしょうか。でも後ほど少々手を加え、訂正をさせて頂きたく存じます。
     
     中原中也にとっての京都はたった2年間の在住期間でしたが、僕は中也にとって大変に重要な時代ではなかったかと想像しています。ですから今回は京都時代を中心に書かせて戴きました。学校の方はと言えば、中也自らの言で「本で読めば1ト月で済むものを、学校では1年もかかって教える」と反発していたようです。たった17歳で、まるで大学生か一般人のような振る舞いは、旧制中学での授業より、精神的な内なる闘争と新しい文物への貪欲な吸収と、遥かにしのぎ大変に忙しかったのでしょう。両親や学校や軍隊や国家や、そんな色んな外的な要素は、中也の内的闘争に比べたら全くたいしたことではなかったのかもしれません。京都時代最も愛読し影響を受けた本は、ダンテの「神曲」でした。内的な求心力を決定的につかんだ瞬間であったのでしょう。その先には神との対峙の問題や彼岸に対する飽くなき希求として、中也の精神を独占していたのかもと思うのです。その神は、中也の詩の中によく出て来る「空」という言葉で、空の表現は全く一元的ではありません。どの空も、それぞれに異なった意味を有しています。東京に出てから多くの友人に恵まれるのですが、中也が徹底論議を臨むものだから、中也の近くにいた人は皆閉口したようです。そしてそれらのことはよくよく調べてみると、中也の方が遥かに圧倒していたようです。その原点になる京都時代は多感なる中也にとって何よりも重要なことだったのでしょう。その無視し、反抗した父親の庇護を受け、終生生活をしていたわけですから、正論と矛盾と、中也の心にはいつも嵐が吹いていたのかもと想像されます。又今回中也の京都時代の詩編をどうも有り難う御座いました。瑞々しい感性に溢れて、思わず泣けて来るようになってしまいますが、長谷川泰子との同棲していたことも事実ですから、詩編の内容には若干の相違点があるのも事実ではないでしょうか。シャイな中也の虚構としての詩編であったのかもしれないですね。京都時代は2年間で8箇所に引越しをしましたが、東京ではまだましな方で、約10年の期間に18回の引越しを繰り返しています。理由はすべて近所に知り合いがいるという理由でした。自ら希求する何かと全くおんなじで、そうして自己の求心力に忠実であったのでしょう。せっかく先生から素敵な中也の詩を頂戴しながら、大変失礼にあたるかもしれませんが、中也の真正直な自己追及の勢いはこの京都で決定的に身についたものであったように思われてなりません。本日もお越し戴き、大変有難う御座いました!
     

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