藤沢周平 一人娘への手作りバッグ

 

 

映画

映画『山桜』より 野江役の田中麗奈

 

 

 

     藤沢周平 一人娘への手作りバッグ

 

 

 藤沢周平の短編小説集に、新潮文庫から出版されている『時雨みち』というのがある。その11編の小品集に『山桜』が入っていて、今年5月に、その映画が封切されたようである。僕は未だ観ていない。正確に言えば観るのが怖いのである。どうしてこのような、山桜のように馨しく美しい小品が、普通の映画になるのだろうか不思議でならないからだ。短編らしく、このブログにも少しは収録出来そうだから、関係者諸氏に敢えてお断りもなく、以下冒頭の部分だけ掲載させて戴くことにした。

 

   『山桜』 

                                藤沢周平 作

 

 花ぐもりというのだろう。薄い雲の上にぼんやりと日が透けて見えながら、空は一面にくもっていた。ただ空気はあたたかい。もうこの間のように、つめたい北風が吹くことはないだろうと、野江は思った。

 墓参りをすませて寺の門を出たとき、野江はふと、左手に見える野道を歩いて帰ろうかと思った。曲がりくねった丘の下を通り、その先は丘の陰に消えている。はじめての道だが、歩いて行けばいずれ町はずれに出るだろうと思った。

 丘の斜面から一ヵ所、道に覆いかぶさるように花がしだれているのが見える。薄い紅(べにいろ)をふくんだ花は、ひょっとしたら桜かと思われたが、桜が咲くにはまだ早い気もした。野江は、今年の桜をまだ見ていない。あるいは紅梅の残りかも知れなかった。

 薄日のあたたかさと、遠くに見える花に誘われるように、野江は丘沿いにのびる道に降りて行った。いそいでもどることはない。もどれば、母は婚家に気を遣って、はやく去(い)ねとせき立てるだろう。母は娘が婚家と肌が合わずに暮らしていることをわかっていて、じじゅうそのことを気にやんでいる。

 野江はかすかに眉をひそめた。自分が暗い顔をしているのがわかる。野江は五年前の十八のとき、津田という家に嫁入ったが、二年目に夫に死なれ、子も出来なかったので実家にもどされた。

  いまの磯村の家に再嫁(さいか)したのは、一年ほど前である。だが、その再婚が失敗だったことは、骨身にしみてわかっている。磯村の家風とも、夫の庄左衛門とも溶けあえなかった。むろん嫁の身である。野江は必死になって溶け合おうとつとめたのだが、そうすればするほど、自分の立場がみじめになることに気づかされるだけだった。

 勘定方に勤めるれっきとした家中(かちゅう)なのに、磯村の家は、一家挙げて蓄財に狂奔しているような家だった。城下の商人を相手にひそかに金を貸し、夜になると舅夫婦が額をあつめてそろばんをはじく。そういうことは、嫁入って来てはじめてわかったことだった。

 ある夜は、借金の言いわけに来た男を、舅がすさまじい剣幕でおどしているのを見た。その舅は脂(あぶら)ぎった大男で、市中に妾を囲っていた。はやく隠居して、家督を庄左衛門に譲ったのは、蓄財に専念するためだったかと疑われるほどだった。

 あさましい話だったが、家中に金貸しをしている家があることは、ほかにも話に聞いたことがある。そういう家に嫁して来たのが不運だったと、あきらめるほかはなかった。

 がまんならないのは、磯村の家の者に、野江を出戻りの嫁と軽んじている気配がみえることだった。彼らは、時どき不用意にその気配を表に出して来る。

 心外だった。出戻りの身分は十分承知のうえで、そのひけ目の分まで婚家につくすつもりで来たのである。だからもらってくれと頼んだわけではない。のぞまれて嫁入ったのである。だが磯村の家に、どこか冷たく自分をへだてる空気があるのを、野江は感じとらずにいられなかった。

 野江の父は百二十石を頂いて、郡(こおり)奉行を勤めている。家禄六十五石の磯村家からすると、上士の部類に入る。磯村の家で欲しがったのは、自分ではなく実家との縁組みではなかったかと、野江は思うようになった。

 「そのようなことを考えるものではありません」

 実家の母にそう言うと、母は少し暗い顔になりながら、たしなめた。

 「辛抱なされ、ここがわが家と思って、ご両親、旦那さまにおつかえしているうちに、出戻りの何のということは、双方が自然に忘れて行くことです」

 そう言う母は、前に野江が、磯村の家は金貸しをしていると訴えたときにも、やはり暗い顔をしたのだが、それより再婚した娘が、またしても離縁などということになりはしないかと、ひたすらにそのことを恐れているのだった。

 だが、母の心配にもかかわらず、野江は、自分はいずれは磯村の家を出ることになるのではないか、と思いはじめていた。

 三月ほど前から、野江は夫の庄左衛門と同衾(どうきん)することを拒んでいる。ある夜の床の中で夫が出戻りの過去を貶(おとし)めるような言葉を洩らしたのがきっかけだった。いまも野江は、夫と同じ部屋にやすむ時刻になると、身体が嫌悪感に総毛立つのを感じる。

 破局が見えていた。だが磯村の家を出たら、さっき墓参りをして来た叔母のようになるのだろうか、と野江は思う。叔母は行かず後家のまま死んだ女である。死んでもしあわせ薄そうな、小さな墓だった。

 物思いにふけりながら、野江はゆっくり歩いて行った。道は、田仕事の百姓が使うだけのものらしく、雑木の斜面と、丘のすぐ下まで耕してある水田にはさまれて、ところどころ途切れるほどに細くなったり、また道らしくひろがったりしながらつづいている。

 丘が内側に切れこんで、浅い谷間のようになっている場所に出た。谷間の奥には、まだ汚れた雪がへばりついていて、そこからにじみ出た水が道を横切って田に落ちこんでいた。ぬかるみを渡りそこねて、野江は少し足袋を汚した。

 だが、人影もなく静かな道だった。枝の先が紅くふくらんでいる雑木の奥から、小鳥の声が洩れて来る。

 ――――おや。

 やっぱり桜だった、と野江は眼をみはった。道から丘の斜面に、六尺ほど上がったところに太い桜の木が生えている。地形のためにそうなったのだろうか、木は少し傾いて、傘のように道の上に枝をひろげていた。花弁のうすい山桜だったが、その下に立つと、薄紅いろの花が一面に頭上を覆って、別世界に入ったようだった。花はようやく三分咲きほどで、まだつぼみのほうが多かった。

 やはりこの道を来てよかった、と野江は思った。

 清楚な花も、これだけ折り重なって咲いていると豪華な趣きがある。花はかすかに芳香をはなっていた。

 見上げているうちに、野江はひと枝欲しくなった。折り取って帰り、壺に活けたらさぞ美しかろう。主のある花ではないから、ほんのひと枝持ち帰るぐらいなら、許してもらえるのではないか。

 そう思いながら、頭上の枝に手をのばした。ところが、遠くから眺めたときは地上にとどくかと思われたほどの枝が、いざその気になって手をさしのべると意外に高い位置にあった。わずかに手がとどかない。

 野江は、下駄のまま爪先立ったがとどかなかった。場所を変え、低い枝を目がけて、また爪先立ってみる。

 そうして花に心をうばわれている間に、野江は、今朝一日ひまをもらって婚家を出たとき、このまま帰らなくて済んだら、と思ったほど、胸に痼(しこ)っている煩いを忘れていた。指先にふれた枝があった。だがわずかにつかめない。野江はよろめいて、もう少しで下駄の緒を切りそうになった。そのとき、不意に男の声がした。

 「手折って進ぜよう」

 その声があまり突然だったので、野江は思わず軽い恐怖の声を立てた。

 男はそんな野江の様子にはかまわずに、無造作に頭上の枝をつかんだ。二十七、八の長身の武士である。いつの間にか、丘の陰から出て来たらしかった。

 「このあたりでよろしいか」

 武士は振りむいてそう言い、野江がうなずくのを見てからぴしりと枝を折った。

 

 以上が、藤沢周平の「山桜」の冒頭の部分である。この時、桜の枝を「手折って進ぜよう」と声を掛けられ出逢った主は、手塚弥一郎という若い武士で、同藩の者であった。一度嫁入りし、僅か二年で夫の病死により寡婦になってしまった野江は、実家に戻されているうち、しばらくすると幾つか舞い込んで来た再婚話があり、弥一郎はその中に上がった再婚相手候補の一人でもあった。弥一郎は母一人子一人の身の上、剣の使い手であると知るや、野江は逢わずとも、弥一郎がもし暴力的な男だったらと内心危惧し、一度も弥一郎に逢わずに、その話を断っていた。弥一郎は以前から野江を知っていたが、従って野江は知るよしもなかった。その後野江は別な再婚話にのり、既に二度目の結婚をしていた。だがいざ婚家に入って見ると、家族全員が金貸しの金の亡者で、どうにも野江にはその家風は合わないし馴染めなかった。一年は経っていた。野江には破局が近いことを既に肌で感じ取っている。或る夜の床で、出戻りの過去を貶められ、野江は夫と同衾(どうきん=一つの夜具に一緒に寝ること)することを拒んでいた。婚家は、野江との結婚が目的ではなく、禄高の遥かに多い野江の家柄との縁続きが大事なのであって、野江当人にはどうでもよかったと、普段、家族全員の言動から透けて見えていた。婚家にことわり、一日だけ実家に帰って来た今日、僅か三十歳で亡くなった叔母のお墓参りに出掛けた帰り道で、偶然、山桜のもと弥一郎に出逢ったのだった。叔母は行かず後家で儚く生涯を終えている。何故そうだったのか、野江は母親に執拗に聞くがはっきりしたことは言わない。ただ母親は野江が破局でもして再び実家に帰されることを恐れていた。そんなことがあった年の暮れ、弥一郎は城内で、悪名の頗る高いエリート武士・諏訪を刺殺した。当然切腹のお沙汰が下るものと周辺では評判が立っていたのだが、なかなかそれが実行されない。執政たちに結局結論が出来ず仕舞いで、藩主が帰国するのを待ってご裁断を仰ぐことになっていた。それも獄舎での評判は頗るよく、小説では書かれていないが何らかのお沙汰が下ったとしても、弥一郎の命だけは助かるのではないかと暗に匂わせている。そんな折、夫は弥一郎の所業を一笑に付し「一文の得にもならんのに」と含み笑った、たったそのひと言で野江は夫にプツリと切れてしまった。ご老母はどんな暮らし向きをしているのだろうかと不図案じられた野江は、弥一郎の自宅に老母を訪ねて行く。見ると通常の罪人扱いではなく、人の出入りがないものの、ひっそりとした暮らしぶりを感じられた。来る途中、百姓に頼んで採って貰った山桜の花を抱え、野江は弥一郎の老母と初対面する。すると老母に、ゆっくりと微笑みが浮かんで来た。そして弥一郎からしじゅうあなたのことを聞いていたと言い、萎(しおれ)るといけませんから言って山桜の花を受け取ると、「どうぞこちらへ上がってください」と懇願される。野江は不意に土間に蹲(うづくま)ったまま、眼から溢れ来る熱い涙を禁じ得なかった。取り返しのつかない回り道をしたものだ、この家が、わたしが、お嫁に来るべき本当のところだったと。弥一郎の母は、「あのことがあってから尋ねて来る人が一人もいなくなった。さびしゅうございました。ひとがたずねて来たのは、野江さん、あなたがはじめてですよ」と言う最後の文章に仄かな余韻を残し、この小説は終わっている。文庫本でたった23頁ほどの短編小説である。

 冒頭の小説の、僕の引用は、弥一郎が山桜の花を「ぴしりと枝を折った」で留めたのは、藤沢周平のどの小説にも、何気ないキリリとした表現で占められていて、こうした美しく抑制の利いた表現の特徴は、藤沢周平のどの作品にとっても、又作家個人の人となりにしても、普通に言い得て妙だからである。

 

      fujisawa img002 周平

 

 作家・藤沢周平は、山形県鶴岡市にある農家の出身で、本名を小菅留治と言い、名前からして農家の後継ぎではない。だが山河麗しいこの農村での影響は最期まで一切絶えることはなかった。昭和2年生まれだから、もしご存命であれば今年81歳になろうか。だが晩年、肺結核の手術の際仕方なく使った輸血の後遺症で肝炎を患い、入退院を繰り返し、平成9年1月ついに帰らぬ人となった。享年69歳、未だ早い死で、既に今から12年前にもなる。現在は八王子霊園に、小菅留治として、霊園の隅っこに静かに眠っておられた。戒名は「藤澤院周徳留信居士」と号し、藤沢周平という作家の俤(おもかげ)は、戒名の中に確かに垣間見えるのだが、他のお墓とちっとも変わらぬ同じ形態の墓石で、先妻や死産の子のお骨とともに静かに眠っていらっしゃる。僕が、何年か前、藤沢周平のお墓参りをしたこの時、雲一つない青空で、崖下からちょうど激しい蝉しぐれに出逢い、滴る汗を拭い拭いしながら、この類稀で清冽な作家の残像を見る思いがしたのだった。

 幼少時の留治少年は農家の子供らしく兄弟とともによく手伝う子供であったが、田畑の仕事がない風雨の強い日など、日がな納屋の中で一人、漫画や子供向けの小説や雑誌などを熱心に読みふける子供であった。決して裕福な家庭環境ではなかったが、お蔵の中から、時には友人たちからと、本は探せば無尽蔵にあったと言う。そして小学校の登下校時も、かた時として本や雑誌を手離す子供ではなかったようだ。同時に四季折々に千変万化する付近の大自然の山々や、すぐ前を流れる小川に少年の夢想が広がる一方で、少年の心の豊かさや感受性が、この山野の光景にどれほど育まれ磨かれたことであったろう。15歳で旧制鶴岡中学の夜間部に入学し苦学する。鶴岡を始めて出たのは山形師範学校入学する19歳の時であった。当時を振り返り面白可笑しき学生時代は小説家になりたての頃、当時の山形市民誌に詳細に連載してあったが、学校をサボって映画鑑賞に、はしごしてまで観るほど熱中していたようだ。半自叙伝「半生の記」に、この前後のことは詳しく書かれてある。22歳で師範学校(現山形大学)を卒業すると、すぐ郷里に帰って、湯田川中学の国語と社会の教師として赴任する。若かして運命とは皮肉なものである。たった2年後、留治24歳の時、集団健康診断で肺結核の診断が下され、休職を余儀なくされる。縁あって東京都東村山にある保生園に入院し、右肺上葉部と肋骨5本切除という大手術が行われた。それから丸7年余闘病生活が続くが、この時期に海外の小説などを読み耽り、将来の小説家としての素地が出来たようである。そして時に刊行されていた俳句雑誌に盛んに投稿する、その俳誌の名が「海坂(うなさか)」だったことも意味があろう。俳号は北邨と号し、彼の有名な俳句に「軒を出て 狗(いぬ) 寒月に照らされる」(小菅留治)と言う句が残っている。どうにもならないのが人生だと言う俳句が多いが、淋しさの中にも何処か一本強い筋目が感じられる凛とした俳句が殆どであった。

 永い闘病生活後の30歳に、故郷・鶴岡に帰り、再び教壇に立てるよう必死に教師の道を模索するのだが、当時の結核患者にはたとえ治癒した後だとしても、容赦のない冷たい断りの返事しかなかった。その上通常の仕事ですら労咳(ろうがい)と揶揄され見つからず、故郷での就労の道は閉ざされた。農家の跡取りではない以上、さっさと就労し生きなければならない。そこで再び療養生活を送っていた当時の西武鉄道沿線に移り住み、漸く業界紙の記者として就職をする。ところが業界紙の世界は世間の好景気不景気にすぐ反応を余儀なくされ、何度も小さな新聞社がつぶれ、業界紙を転々と渡り歩く事になるのだが、鬱々とした何かを日々感じながら、最も苦しかった時期ではなかろうか。それでも留治32歳の時、8歳年下で同郷の三浦悦子と結婚をする。「私たちの結婚は、いわゆる恋愛結婚とはいえないものだったが、長い見合いの末結婚したような、平凡だが、気ごころの知れた安心感のあるものだった」らしい。そしてその翌年、作家生活を決意するまで勤続することが出来た㊑日本食品経済社に入社し、主に食肉関係の記者として忙しくも安定した生活の糧を得たのだった。ただ文学への夢捨て難く、日々書く新聞記事は生活のためだけで、そんな仕事を終えると、すぐ自宅に飛んで帰って、黙々と小説の習作を書いていた。留治36歳にして、読売新聞短編小説賞の選外佳作として『赤い夕日』が入選したが、内容から言ってこの時期は多分純文学を目指していたのだろう。一人死産によって子を喪っていた夫婦に、ちょうどこの年、長女・展子が誕生した。ところが何と悲惨なことなんだろう、その8ヵ月後の10月、妻・悦子(28歳)が突然癌で死亡してしまう。やり場のない哀しみの中、絶望しながらも、でも留治は男手一つで長女を育てる決意をし、たった一つの希望の星であるかのように特別に娘・展子を可愛がったようだ。一方、日々忙しい記者生活に追われ、夜中に書く小説は救いようのない虚無的な小説ばかりで、その頃の回想に「私が小説を書き始めたころ、暗い色合いの小説ばかり書いていた。そういう小説になったのもむろん理由があって、それ以前から、ひとにはいえない鬱屈したものを抱えて暮らしていた」とある。それでもその翌年からオール読物に、アルバイト半分のつもりで投稿を始め、留治38歳前後の頃から「藤沢周平」のペンネームを使い始めた。「藤沢」とは28歳で夭折した先妻の実家が、鶴岡市藤沢出身であったこと、「周」は可愛い甥の名前の一字で、「平」はただ何となく平凡な生活を渇望してのことだった。そうした必死な生活の5年後、周平42歳にして高澤女和子と再婚する。それは一人娘・展子が幼稚園の卒園と小学校に入学することに照準を合わせての事であった。再婚時の誓いとして、再婚相手には展子を我が子として可愛がってくれること、子供は一切作らないこと、すべてが普通であることを誓って貰った。先妻に、一人世に出ることがなかった子がいたからでもあり、展子のことが一番心配であり、折角掴み掛けた小説家への道を、そっと暖かな眼差しで見ていて欲しいと念願してのことであった。そうして漸く孤独な苦闘と別れを告げ、長女と後妻と三人の家族となり、周平44歳で、ついに 『溟い海』で、第38回オール讀物新人賞を受賞し、直木賞候補となるも落選するのだが、翌年45歳には『暗殺の年輪』で第69回直木賞を受賞を果たしたのだった。暗い鬱屈した時代小説ばかりで、当時のことを周平が振り返って「時代劇という気安い設定の中で、思い切り私小説を書いていたかったからだ」と告白している。それでも読者からは新進気鋭の時代小説作家として認知されるようになり、この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋社より刊行し、更に周平47歳にして、14年勤めあげた日本食品経済社を退社、本格的な作家生活に入っていったのである。従ってあの膨大な量の創作群はたった20年間ですべて書き綴られたことになる。遅いデビューであった。

 

  周平さんの全集 12 fujisawa_pic01

 

  最初は真っ暗な印象の小説ばかりであった。昔のワル餓鬼たちからの評判も「暗い」と悪く、それではドラマツルギーにはならないのではと自身の反省もあって、『用心棒日月抄』前後以降、市井の中にあるユーモアの部分も数多く取り入れることにし、肩肘の張らない時代小説が次々に誕生し、次第に絶大な人気を誇る作家になっていった。時代物であっても、現代のサラリーマンにとって、アレッ立場が全く同じではないだろうかとの共感を勝ち得たのであった。時代劇だからこそ、現代に生きている自分たちの立場が分かり易く書けたに違いない。市井物・武家物・捕り物控え物・用心棒物と立て続けに発表し、司馬遼太郎と山本周五郎と並び称され、藤沢周平は、三大時代物小説家と褒め称えられるようになったのだ。その後、僕が大好きな評伝物を描き、『一茶』や、生涯独身で孤高の歌人であった長塚節の評伝・『白い瓶』や、遺言と称して発表された『漆の実のみのる国』で、あの苦労を重ね民に富をもたらせた上杉家中興の祖・上杉鷹山を描き、確かに周平の全人格を、上杉鷹山に深く投影させ、出来たものだったに相違ない。農家出身の作家として、今後の農業の周辺に熱いメッセージが籠められている。そしてその本が、藤沢周平の絶筆となった。

 

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                    普段よく持ち歩いている藤沢周平の文庫本 無論他にも殆どの藤沢作品を所蔵している

 

 長い記事になってしまったが、実は本当に書きたいことはまだここからで、もう少々お付き合いを願いたい。永い闘病生活の後、再び教師になろうと故郷に帰ったが、その夢は無残にも適わなかった。散々な就職活動後、故郷を去る時「今に見ていろ」と心に強く刻んだ藤沢周平は、大変な苦労の末念願の作家になることが出来たが、故郷・鶴岡を決して恨むことはなかった。寧ろ作品の中では常に故郷の風合いで満ちている。海坂藩7万石の架空の城下は、真剣に俳句を投稿した思い出の俳誌名であったこと、それが美しい名前だと周平は気に入っていたことが一番だが、明らかに故郷の城下町・鶴岡周辺をモデルにしているし、山河もみな鶴岡近郊がベースになっている。作家になった後、乞われて、鶴岡の、あの懐かしい学校の教壇に立って講演会をしている。当然昔の教え子も来ていたが、周平は時にはゲンコツもくれるスマートで姿勢のいい教師であったらしい。回顧録に、以下の記述がある。「会場の聴衆の前列にそのときの教え子たちがいた。男の子も女の子も、四十近い齢になっていた。それでいて、まぎれもない教え子の顔を持っていた。私が話し出すと女の子たちは手で顔を覆って涙をかくし、私も壇上で絶句した。おそらく彼女たちはそのとき、帰ってきた私をなつかしむだけでなく私の姿を見、私の声を聞くうちに、二十年前の私や自分たちのいる光景をありありと思い出したのではなかったろうか。講演が終わると、私は教え子たちにどっと取り囲まれた。あからさまに『先生、いままでどこにいたのよ』と私をなじる子もいて、『父帰る』という光景になった。教師冥利につきるというべきである」と。これをして周平自身どんなにか教師として復職したかっただろうかと今更ながらに思う。でもお蔭さまで作家となり、今や多くの人々に感動や共感を与え続けてくれるのだろう。浅田次郎のような、泣かせ屋の物書きではなく、キリリと抑制された文章が、深く静かに沈潜して来るような作家の思いが沁みわたり、どなたさまにとっても藤沢文学の奥深さにきっと魅了されることだろう。

 家庭での藤沢周平は、大変な子煩悩で、一人娘の展子をどんなに愛したことだったろう。あのクソ忙しかった頃、展子との、たった二人だけの生活の5年間、明日は幼稚園で運動会があると言う前夜、徹夜して展子専用のバッグを作っている。何事にも決して器用ではなかった周平が、慣れない指先で手縫いによって作り、翌朝に平然と展子に手渡したのだった。子供の展子にはその時そうされたのだと分からなかったらしいが、後年確かに父は手縫いで何か作っていたと思い出している。僕は、この父娘のエピソードこそ、藤沢文学の最も大切な中核になっているように思われてならない。山形の庄内地方の農家の女性に、ハンコタンナと言う農作業の仕事着があるが、ハンコ=半分、タンナ=帯ということになる。展子は成人してからも、よ~~く覚えていたことがある。周平父娘が帰省する際や、普段の時だって、周平の背広の上から真っ赤なタンナで括られオンブし背負われていたことを。展子には父の背中から発せられる父の体温が、展子の生涯にわたって決して忘れることがないのだろうと思う。我が子を本当にいとおしむ周平であった。不器用ながら我が子への手作りのバッグと、人目も構わず真紅のタンナで我が子をオンブする、この二つのエッセンスを秘めたエピソードは藤沢周平という作家の本質を見る思いがするのである。何を守って、何のために闘って書いたか、端的に分かり得るのだ。藤沢周平が生涯を掛けて、膨大な量の叙事詩を書いたのは、ただこれだけのためであったのかと。だから人は感動のあまりさめざめと泣き、腹の底から笑い、人生のたった一片の切り口から藤沢周平の爽やかな応援歌を聞く。藤沢文学には一貫して、愛くるしい信念に貫かれていることを知るのである。

 又八王子霊園に行き、先妻のお墓参りの際、「私と結婚しなかったら悦子は死ななかったろうかと、私は思う。胸にうかんでくる悔恨の思いである。だがあれから三十年、ここまできてしまえば、もう仕方がない。背後で後始末をしている妻の声が聞こえる。二十八だったものねえ、かわいそうに。さよなら、またくるからね。私も妻も年老い、死者も生者も秋の微光に包まれている」と、いつものことであった。自身も又ここに眠ろうとは、多分幸せに違いなかろう。36歳で不遇の最期を遂げたアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌは、2度目の妊娠で、9ヶ月の身重だったにも関わらず、モディリアーニの死後2日目に、2階から飛び降り自殺を遂げた。救いようのない絶望感がそうさせたのだろう。ジャンヌ、22歳の時であったが、藤沢周平にしたって、ジャンヌに負けないぐらいの無垢さがあった。妻・悦子は癌による死亡で、悦子の死後、どれほど悩み苦しんだことであったろう。「あの世という別世界にたった一人でやるのが可哀想で、一緒に逝ってやるべきだと真剣に考えました」と本人も吐露している。だがそこに展子がいた。幼い展子と、一緒に生きて行こうと決心しただけの差であった。当時の手紙には自殺願望の意思を伝える中身が多かったようだが、展子を育てきる勇気も又巨大なエネルギーを必要としたのだろうか。生きることを選んだ周平は、しみじみと展子の顔を見る。そして後年展子自身も述懐している。最もよく私のお話を聞いてくれたのは父以外にいなかったと。僕はいつも思う。藤沢周平と言う人はそう言う人なんだと。実直に、誠実に、現実と向き合って生きた証のすべてが作品となって、それを取り巻く鬱屈したすべてが爆発させ誕生したのだと。

 又いつも家族には「普通がいい、普通でいなさい」と、自らに対しても、相当きつく言明していたようだ。考えて見ると、それまでの藤沢周平の半生は怒涛のような日本海の荒波に似た人生ではなかったか。普通でいたくとも普通にしていられなかった苦渋、「普通でいい」と言うただその一点があの美しい文章を生んでいると容易に察せられる。お金が入って来るようになっても、飄然として貧乏だった時代と同じ質素な暮らしをし、無論文壇とのお付き合いは一切しない。付き合えないほど、書くと言うか吐き出すと言うか、そこに時間はいっぱいいっぱいで、常に全力疾走していた。何事にも一所懸命だったのである。何しろ出版社との約束の時間に、原稿が間に合わなかったことが全くなかったようで、約束通りピタリとした時間には出来ていて、これとても何とも凄いことではなかろうか。いつも朝の散歩から一日が始まる。少々の雨でも出掛けた。藤沢は未だ畑が多く残り、武蔵野の残像のような公園があったから、清瀬や東久留米や練馬など、西武線沿線に好んで住んだ。文士の住む館などには一切見向きもしなかった。当時の西武線沿線は恰も故郷の鶴岡とよく似た光景があって、故郷の山河のイメージを大切にしてのことだったのだろう。自宅のすぐ脇にキャベツ畑などがあると、余程ほっとしていたはずである。娯楽と言えば、駅前まで出掛けてお茶することと、文春の編集者と一緒に駅前の碁会所で囲碁を打つぐらいなものである。けれどとても面白い証言がある。元編集者が語るには、藤沢周平の囲碁は大変な喧嘩碁であったと。ネネッこれって可笑しいでしょう!散歩がてらのそんなひと時が、小説を書く今日の分の一番のヒントになったようで、散歩によって必ずそれを得ていたようだ。きらびやかな世界が大嫌いで、下積みの人に、より人間的なモノを感じると言って憚らなかった。そう言えば、藤沢周平の小説にはスーパーマンのようなスターの存在はいないのである。決闘で勝ったとしてもどこか心に傷ついた人間が、研ぎ澄まされて書き遺されている。普通でいいと言うこと、逆説的に言えば普通にしていたいということ、色々な場面で見える。出版社から作家名が印刷してある特上の原稿用紙を作らないかと幾ら誘われても、頑として断り、生涯既成のコクヨの原稿用紙を使い続けたものだった。どこに引越しをしても、近所の児童が行くような文房具なども売っている普通の本屋に、欲しい本を大量に頼んでいる。或る本屋の証言によれば気象関係の本が好きだったらしいが、元はと言えば農家の出身だったこと、生涯意識していたせいだろうか。それと江戸の町の、夥しい量の古地図の購入。八百屋お七の時の大火事の跡など、江戸の町や道路は始終変化していた。小説に、時代設定をする際、藤沢の時代考証は正確無比で、現代の地図と見比べた僕は何度舌を巻いたことだったろう。金ピカな派手なことは大嫌いで、周平を知れば知るほど、山形県人の、「ねずっこい=粘りがあり質素倹約なこと、義理固いこと」の性格の、最もいい部分を存分に保っていた。そんな普通のことを、平然と徹して生き、ここから藤沢周平の抑制された美しい文章が生まれたのではないかと確信している。

  結局若い時に受けた肺結核の大手術で輸血のせいで、68歳で紫綬褒章を受けられた後、特に血液性の肝炎で苦しまれた。その前「オール読物新人賞」「直木賞」「山本周五郎賞」「吉川英治文学賞」「芸術祭選奨文部大臣賞」「菊池寛賞」「朝日賞」「東京都文化賞」など各賞を多数授与されておられるが、果たして藤沢周平は鬱屈したすべてを残らず表現しえたのだろうか。それともあの体調で、精一杯駆け抜けた充足感で満ちていたのだろうか。ヨレヨレになるまで、藤沢周平の誠実で清冽な文章まだまだ読み足りない思いが残り、堪らない哀しみで、未だにがんじがらめである。同じ山形でも、内陸の上山出身であったから育った風土はやや違うが、あの畢生の大歌人・斉藤茂吉(親しみを込めてモギッツアンと呼ぶ)は、まさに山形県人らしく誠実さに横溢された方であった。だが待てよ!藤沢周平全集(全23巻)を何度繰り返して読んでみても、或いは海外に出る時に携行する数冊の単行本のどれを読んでみても、藤沢周平周辺の実生活を覗いてみたって、その誠実さと義理固さにかけては、斉藤茂吉のお人柄に一歩も引けを取らないのである。地元の鶴岡では、当時の鶴岡市長・富塚氏が名誉市民になってほしいと要請したのだったが、何と肝炎で苦しんでいる最中のことで、病没するたった2年前のことであった。以下は富塚市長に対する周平の渾身の返書である。「啓復 主義主張でせっかくの栄誉をおことわりするほどえらくはありませんが、私はかねがね作家にとって一番大事なものは自由だと思っており、世間にそういう生き方を許してもらっていることを有難く思っておりました。市長さんのおしゃる名誉市民ということはこの上ない名誉なことですが、これをいただいてしまうと気持だけのことにしろ、無位無官ということでは済まなくなり、その分だけ申し上げるような自由が幾方か制限され(る)気がしてなりませんので、せっかくの打診ではございますが、辞退させていたただきたいと思います。しかし、作家としての考えもあるのからとおっしゃる市長さんの打診のお言葉は、ご自身市の広報にコラムなどを書かれている方ならではの理解あるおっしゃりようで、よくあるお役所的な一方的なおっしゃり方ではないことに感銘し深く感謝している次第です。有難うございました。啓白 平成六年十二月二十八日  藤沢周平  鶴岡市長富塚陽一郎様」と結ばれている。藤沢周平の人柄をよく表現して余りある渾身の手紙であった。平成9年1月26日の惜しまれながら、ご他界なされたが、ご遺骨は先妻と水子さんが眠るあの同じ八王子霊園の墓石の中へ。最期の出版は、この没後4ヶ月目に第一刷が出た大作『漆の実のみのる国』であった。ちなみに山形県はこの後で、山形県栄誉賞を出し、鶴岡では鶴岡市特別顕彰を出している。故郷とはそのようなものである。忌日は『寒梅忌』と称され、周平の墓参や法事とは全く別に、地元にいる教え子や熱心なファンの方々を中心に鶴岡市で毎年開催されているようだ。中田喜直が作った名曲「雪の降る町を」の歌のモデルになっている町がこの鶴岡で、僕は、忌日のすぐ後にある厳粛なお祭りの春日神社の黒川能は生家からほど近いはずである。「黒川能」の中から、寒梅忌には「敦盛」でもひとさし舞って戴けないかと、心底から乞い願う。だって周平も若くして亡くなられたからと勝手に解釈をしているのだから。

 

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 藤沢周平 絶筆になった本

 

  更に周平は映画化にされることを極端に嫌っていた。映像化されては、あの美しい抑制の美学に満ちた文章は理解し難い。堪能することも無論不可能である。「たそがれ清兵衛」も、「隠し剣 鬼の爪」も、「武士の一分」も、そしてあの名作「蝉しぐれ」も、「山桜」でさえ、毒牙にかかったように映画化されているが、どれも寸足らずで気に食わない映画ばかりであった。どうも映画人という人種はストーリー性だけを追求し判断するように思われてならない。藤沢周平の文学は表現そのものや間合いが素晴らしいのであって、精々よかったのは内田聖陽と水野真紀コンビの、NHKで連続ドラマ化されたテレビ版「蝉しぐれ」が最もよかったように思う。おふくと文四郎の最期の場面での蝉しぐれの一時、文章に書けない「間」を、この作家はどんなに大切にしただろう。何故かと言えば、周平自身最も大切にしたのは、二人の関係の今生にはあり得ない静けさの中の蝉しぐれの「間(ま)であったり、切り合いの際の一瞬の「間」であったり、文字によって及ばない部分の表現である。文章の限界を知りえた作家のみが書ける、文字以外の刹那に、小説として醍醐味が隠されているからである。映像人は文字に表現出来ない苦衷と苦心の部分を、重大に受け留めつつもっと知るべきである。NHKのそれは読み深められていて、たっぷりと間合いが取られていたようでよかったのだ。2時間ぐらい短時間で終わる映画では、どうにも相応しくないのが、その間合いである。テレビでも数多くの映像化がなされているが、どうせ作るなら、以前NHKで撮られた「清左衛門残日録」のように、たっぷりと時間を取り、色々な間合いをきっちりと取られた映像化を望みたいものである。それと極限まで削ぎ落とされ徹底し簡略化に成功した風景や情景の描写の妙のことである。今の映像作家たちは、藤沢周平のこうした緻密で濃密な美的描写力には到底及ぶまいと思う。ご本人自身終生2度しかテレビ出演することはなかったはずで、藤沢周平の、一連の一切は、凛とした抑制の効いた美学を是非堪能して貰いたいからに他ならない。

 ところで愛嬢・展子さんの近況は、無論ご結婚され、小菅展子から遠藤展子となられて、現在「藤沢周平文学記念館」を創設するために日夜頑張っておられる。僕も、何らかのお役に立ちたいものだ・・・・・。館庭に、山桜の古樹一本でもと、感慨は深い。尤も未だにピンピンしておられる山形の同級生たちも黙ってはいまい。藤沢周平に、最も似つかわしく飄々として、派手ではなく質素に、心豊かな記念館が出来て戴きたいと念ずるのみである。思い上がりもいいところで、こんなに長い記事になってしまった。思えば「硯水亭 Ⅱ」始まって以来、最長の記事である。心からお詫び申し上げまする。又ここまでお付き合い戴き、再度心底から感謝申し述べまする。有難う御座いました!

 

 今日のBGM 東宝映画「蝉しぐれ」のイメージソングとして歌われた 一青窈の歌・『かざぐるま』

 

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藤沢周平 一人娘への手作りバッグ への8件のフィードバック

  1. ジバゴ より:

    はじめまして。鶴岡市民ですが恥ずかしながら藤沢周平のことは概略程度しか知りませんので一気に読み感慨を深めたところです。ありがとうございました。こちらではブームと呼べるほどに数年前から藤沢周平研究者の講演、地元撮影による映画化、ツァー客の増加などが目に見える程顕著になって、現在は市主導で鶴岡公園内に文学記念館の建設工事が始まっております。しかし、氏は生前この種の記念館の設置を何度も断っていたと聞いておりましたので経緯が不明で意外に感じた事も事実です。市民と市では温度差もありますが将来に期待したいものです。

  2. 道草 より:

    今日は所用があって今まで外出しておりました、熱き藤沢周平論を堪能させて戴きました。私は氏の小説は「暗殺の年輪」を読んだだけで(邪悪さに満ちた社会を描いた溟い内容だった記憶が僅かにあります)、今回の記事をただ真摯に拝読する以外に、門外からか口を挟む失礼は避けさせて戴きます。一人の作家をかくまで追われる読者は希であり、私などかつては、高橋和巳・真継伸彦・開高健、比較的最近は車谷長吉等少しは追い駆けましたもののそれだけで過ぎてしまっております。最近は推理小説なら何人か読破を続けておりますものの、所詮は娯楽物そんな戯言は横へ擱きます。出掛けに知りました「山桜」を帰路の本屋で立ち読みしました。梗概は硯水亭さんが述べておられます通りで、走り読みながら、人間の生きていることの歓び、生きようとすることの素晴らしさに胸を打たれました。そして、読みながら不覚にも涙を流してしまいました。店の女の子に見つからなかった自信はありません。これまでの不勉強を恥じて、少しずつでも藤沢本を手にしたく思います。

  3. 文殊 より:

          ジバゴさん
     
     こんにちは!拙ブログにおいで戴き、大変有難く存じております。今朝から何度も書き足し書き足ししているものですから、
    とうとうこんな長い記事になってしまって、かえってご迷惑ではなかったでしょうか。特に地元の方においで戴き感激しています。
    さすが鶴岡には熱心な方がいらっしゃって、海坂藩研究所なるグループがいらっしゃるようです。海坂藩研究所(ここをクリック!)
    こちらは庄内探訪コース! そうでしたか、やっぱりそういう動きでいらっしゃるのですねぇ。僕は、土門拳記念館のように、あんなに
    立派なお仕事をされた方でも、記念館が地元に作られるのはどうかと、実は常々考えていました。ましてや周平さんの小説は間違いなく
    海坂藩の出来事が多いことは事実ですが、江戸街中の小説も実に多いのです。なるべく地元で囲わないで、広く日本人の心に問いたい
    方なんですよ。幾ら新幹線が出来たとは言え、鶴岡は他の多くの方々には遠すぎますし、冬場の地吹雪の時は、土門さんの記念館の
    ように閑散としていることになるでしょう。僕は、それが嫌なのです。鶴岡が嫌ではなく、広く公開すべきだという観点から考えました。
     
     鶴岡は周平さんの心の遠きところに、花静かにある場所です。一番大切な場所であるがゆえに、もそっと静かに出来ないのかなぁと、
    そんな考えです。その建設はご遺族さまが納得されていらっしゃるのでしょうか。もしご納得されていらっしゃるのなら、致し方ありますまい。
    無論鶴岡に、何らかのカタチが残っていて欲しい一方では、周平 もとえ 留治さんに関しては、市の行政は最高に冷たかったのです。
    御蔭で、留治さんは小説家になって成功しますが、分からないものですね。午後から鶴岡の名誉市民要請の記事も書き足してあります!
     
     又是非遊びに来て下さりましね。今日は本当に有難う御座いました。ペコリ!!!!
     

  4. 文殊 より:

          道草先生
     
     言え言え、足跡を残して戴いただけで、それはそれは有難いことです。アクセス数の割には、元よりカキコの極端に少ないブログですので。先生が読まれた「暗殺の年輪」は初期の小説でして、妻を亡くし、茫然自失の時代の産物です。そんな小説を書いていた頃、師範学校の同級生に感想を聞いてみたそうです。10人が10人とも暗過ぎるよと異口同音に言われて愕然としたとか、本人の弁です。でも再婚し、安定して来てから、次第に笑いの要素を取り入れていったのでしょう。その境目は「用心棒日月抄」のシリーズからだと思います。その出版を契機に、藤沢周平の名前がようやくやっと認知されるようになったようですから。なかなか面白く、少年時代に、胸をときめかせて土蔵の中で日がな読み耽った経験がモノを言ったのでしょう。そしてその後驚くほど大量生産されたようです。第一次円熟期とか第二次円熟期とか、人はそれぞれ勝手に想像しているようですが、短編にしろ、なかなかいい読物が多いんですよ。殆ど海外の支社には藤沢周平の本を常備してあります。僕が、好きな理由、たったそれだけのことですが。
     
     周平さんは朝の散歩を欠かしたことがありませんでした。周平さんのことを考える時、いつも道草先生のことを思い出します。きっと周平さんと同じようにしてエッセイの構想をお散歩しながら練られているのだろうなぁと。「山桜」の立ち読みのお話を伺って、嬉しかったです。こんな長い記事を読んで戴いた上、本屋さんまで行かれて立ち読みをされたことが、凄く嬉しかったんです。野江の不憫さは、やはり相手はなかなかいないもので、様々な経験のもとに出来上がって来るのでしょうね。老母に山桜を渡し、上がる場面がぐっと来ますね。でもあんな短い小説が何故映画になんかと不思議でならないのです。果たしてあの短編の良さを充分にアッピール出来たものでしょうか。怖くて観に行けませんのです。
     
     家族を思い、死んだものまで丁寧に大事にしていた方でしたからこそ、あのような立派な小説が書けたのでしょうね。長塚節のことを描いた「白い瓶」、これが僕のイチオシでしょうか。終生お付き合いをした歌人の清水房雄の影響もあったのでしょう。コラナのある雑木林の描写は映像を観ているようで、とっても素敵なんです。それと最期の遺言のつもりで書かれた「漆の実のみのり国」は極貧に喘いでいた米沢藩を新しい産業を興して、鷹山が上杉藩の中興の祖になるお話ですが、これから先の日本の農業に、明るい光を点してくれたものだと周平さんに感謝感謝です。まさに周平さんは鷹山に、ご性格的にも、死後の日本を託したのでありましょう。書評は非常に少なく、多分多くの批評家は迷っておいでなのでしょう。と、同時に、純文学と大衆小説の区別はどうつけるのか、僕にはさっぱり分かりません。今日もおいで戴き有難う御座いました!
     
     

  5. (Kazane) より:

    こんばんは。今日は雨のわりには、それほど寒さを感じない1日でしたね。
    以前から、「藤沢周平」について書くと宣言されていましたので、楽しみにしていました。私は、藤沢周平さんの本はほとんど読んでいないのです。今回硯水亭さんが紹介してくださった『山桜』も。でも、ここまで読ませていただいたら、続きを読まないわけにはいかないですね。近いうちに読んでみようと思います。硯水亭さん、いつも記事が長くなってしまって…とおっしゃっていましたが、長い上に中味が濃いのですから! 素晴らしいですよね。藤沢文学に魅了されている硯水亭さんの思いが、伝わってきました。硯水亭さんが、道草さんへの返信で、「純文学と大衆小説の区別はどうつけるのか、僕にはさっぱり分かりません」 と書かれていますが、私も同感です。そんな区別は必要ないのではないかと、思ってしまいます。山のように並んでいる本の中で、自分の心に響く作品に出会える喜び、大切にしていきたいですよね♪

  6. 文殊 より:

          風音さま
     
     もしや、これを全部読まれておられるのですか。ヒュヤァ~~~~!愈々いい加減なことは書けませんねぇ。
    ここに書いた中にはまだお知りになられていないことを、自信を持って取材したりして書きました。四日間も掛かっちゃって←ププッ
    アップした後も嫁に出した娘のように、あれこれ書き足してしまったり、可笑しいですね。藤沢の時代物は、ひょっとして実際に現代物に
    見えてくるんです。だから多くのサラリーマン諸氏は、海坂藩の組織の武士になられたご錯覚で、多分読まれた方が多いんでしょうネ。
    中身は決して濃いはずはないのですが、下書きまでしてから、あれこれ最後までよく調べて、まだ読むべきモノがなかったかとか、
    よく反省するのですけれど、ただ余りよく知られていない秘蔵の内緒話を極力書くように頑張っています。実は今回、別なつけたかった
    題名がありました。「一人娘への手作りバッグと真紅のタンナ」しようかと。タンナって、お話も結構面白そうでしょう!
    でも藤沢周平だけ、どこかに棚上げするのも妙に可笑しいし、ついつい題名も気を遣いっちゃいましたッネ。ツギハギです。ぷぷぷ!
     
     純文学も大衆小説も、その分類の根拠がどうもね、胡散臭くて好きじゃありません。
    僕たちはあらゆる本=純情文学として、読んで行くことにしましょうよ!ネッ!エイエイオ~~~~~~!!
     
     歩けない僕のために、僕の代わりに行って戴いたような小石川植物園だったのこと、何故もっとちゃんとした御礼を言なかったのかと、
    ずっとずっと気にしていました。だから、改めて、ここで恐縮ですが、深く御礼を申し上げておきますネ。ホンマに有難う御座いました。
    春撮った吾亦紅の新芽があったので、もし吾亦紅が咲いていたら、二つ並べたりしながら、アップを出来たのにと、つい思い立ってしまって。
    そんなのテメェでやんなきゃなぁ!と常識的に怒られてしまうのが当然ですものね。来年を待ちましょう!
     
     BGMも午後から、ショパンから一青窈さんが歌ってた「蝉しぐれ」のイメージソングに思い切って代えちゃいました。「かざぐるま」!どう!
    お気に入って戴いていたでしょうか。少々心配です。そそう、最後に言わせて下さい。夕ひばりさんにも書きましたが、夕べ松本侑子さんの
    『美しい雲の国』 周平を終わってずっとハートが重かったので、ちょうどいいチャンスやと思い読みました。メチャお奨めですやん!ホンマ!
    (アンを読んでる時と同じで、遊び半分でも楽しく読んじゃいましたですよ。貴女に絶対きっと多分お似合いです!
    題名も貴女に捧げたいっす!あああ楽しかったなぁ!)
    きっとお気にめされることでしょう。いつも貴女から教えてばかり貰ってますから、今日は僕がコッショリと教えちゃいましたなぁ、ぷぷぷ!
    お互い、好きなモノを読み、好きな人と逢い、好きなモノを食べ、好きなように生きていたいですね。今日もおおきに!夕方チビたちが
    帰ってしまったんで、今夜は、両方の膝小僧を抱いて寝ることに致しましょう。どうも有難うしゃんしゃんどした!ペコリ!だんだん!!!
     

  7. 良枝 より:

    こんばんわ。
    山桜 いいお話ですね。
    読みながらついつい涙がこぼれました。
    私は
    バブルな世代で踊り狂いたかった
    と、いろんな人に言っているんです。
    波に乗って時代に踊らされる時代を謳歌したい と 笑
    では、その時代を生きて実際にそうなったかしら?というと、
    私も心のそこから「平凡」という事を愛していますので、
    そうはならなかったのではないかしらと思います。
    ひととようさんのかざぐるまは
    歌詞がとても好きなんです。
    「ただ通り過ぎただけ」
    それなのにこころにひっかかる事ってあるんです。
    しんみりとしちゃうのに、ちょっと笑っちゃうような気分になります。
    あぁ、なんかいい時間いただいた気がします。
    ありがとうございました。

  8. 文殊 より:

           りんこさま
     
     有難う御座います。りんこさんの「あぁ、なんかいい時間いただいた気がします。」
    このひと言を戴いて、すっかり嬉しくなってしまいました。四日間掛けて書いて、アップ
    した後も、アレコレと書き足してしまって、こんなに長くなって、申し訳ありませんでした。
    お蔭で、何だか嬉しくて、飛び上がるような嬉しさでいっぱいです。遠藤展子さんは今も
    自分の父親を、父の「誠実と普通なこと」を、よく言われておいでです。僕は、そんな
    普通の父親になるのを憧れます。娘からそう言われるような人に。ただそのためだけの人生
    であってもいいぐらいに思っています。誰よりも、どんなお世辞よりも、きっと心の篭ったいい
    言葉だと信じます。りんこしゃんの言葉からすると「平凡」でしょうか、いいことですね。
    バブルで、あんなに大儲けをした人や馬鹿騒ぎをしていた人は今はどうされているのでしょう。
    僕の傍にもいっぱいおりましたが、トンと姿を見掛けません。人生は「通り過ぎただけ」の儚い
    ものなのでしょう。だから細かなディテールも大切にいとおしんで生きていたいです。
     
     今日もりんこしゃん!有難う!一番素敵な山桜の小枝を貴女へ!しゃん!エイエイオ~~~~!
     

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