「こと納め」と「こと始め」

  

    室生寺・十一面観音菩薩kumaちゃんの鎮魂歌針供養

      室生寺・十一面観音菩薩          亡き主人に献じられた絵葉書               蒟蒻(こんにゃく)へ針供養

 

 

 

            「こと納め」と「こと始め」

 

 

 12月8日は「こと納め」の日でした。何が「こと」かと申しますと、主に農事のことであります。その暮れて、正月を迎え、「こと始め」になるのは2月8日です。その時同時に「針供養」が行われます。「針供養」は実に大切な行事です。実は「納め」の行事としても数々残っています。いわゆる「こと納め」と「こと始め」の象徴のような習慣・習俗だからでしょう。12月はあちこちで納めの行事があります。昨日は「納めの薬師」でした。明日は「納めの金毘羅」です。更に「納めの水天宮」に始まって、「納めの観音」とか「納めの大師」とか「納めの地蔵」が立て続けに満載であります。そして最後は28日の「納めの天神」との後、大晦日を迎えるのです。

 日本人はとっても幸せな民族だと思います。一年一年を区切り、おのおのの年に決着をつけ、真新しい新年を迎えるのですから。海外ではそうした習慣をみつけることは出来ません。新年を迎える大晦日の晩はほとんど花火が打ちあがって、その年は終わります。新年とてさほどの行事はありません。多分キリスト教の文化圏が多くを占めるからでありましょう。僕にとって目立つのは、アメリカ・カリフォルニアのパサディナで派手なお祭りの「薔薇祭り」ぐらいなものでしょうか。アメフトのローズボールとともに最も有名です。気合を籠めて新年を迎えることの出来る日本国民はとっても幸せだと思っています。

 今日は京都・了徳寺さんを始めに、今頃あちこちの御寺で「大根炊き」が行われ、味のよく沁みたホッカホカの大根は善男善女にふるまわれていることでしょう。これも霜月にあった各所の「お火焚き」の行事の意味があるのでしょうか。伏見のお稲荷さんを始めとして、この時期京都市中でも盛んに行われています。僕が大好きな記事で櫻灯路の「筆供養」がありますが、それも、この納めの行事の一種なのでありましょう。又先日の針供養について、このブログでは「末期の眼」として取り上げました。終いがあれば、始めがあるのは当然のことです。興味深いのは、「納め」は12月8日で、「始め」も2月8日であることです。同じ日に、「針供養」どこでもありますが、地方によって月日が違う習俗があります。僕は全く別な意味だと悠長な意味ではないと思っています。今は農事のことは薄くなっていますが、農事の苦労さんの代表として「針供養」が「女性のご苦労さまの日」になっているのでしょう。そう解釈したいと思っています。

 

okerano

京都大つごもりの日 家の旦場集が八坂さんに挙って集まり、

この火縄に火をつけグルグルまわしながら自宅に持ち帰り 初雑煮は主人自らが造ります

 

  写真は京都・八坂神社の「をけら祭」での写真ですが、大晦日のこの行事があるまでまだ時間はあります。そこで今年最後の二十四気節である「冬至」は夜が最も長い日になっているので、ここからは次第に日は長くなって行くからと言い、希望に満ちた縁起のいい日とされています。素敵な「一陽来復」の言葉がある通りです。

 毎年同じことばかり言っていては仕方がありませぬ。年ごとに、何もかもブッツリと切れてしまうのではなく、実は新しいものと古いものとが融合して行くことを是非知っていて欲しいと思うのです。何を遺すか、或いは何を捨て去るのか、毎年の命題として日本人に突きつけられているのです。裏千家の家元である千玄室さんが言っておられる言葉に、 「流水無間断」と言う言葉があります。家元曰く「水は生命の源、文化の泉です。『流水間断(かんだん)無し』という言葉がありますが、水は毎日使い続けていないと、水脈が枯れてしまいます。一度途切れてしまったものを元に修復することは大変なことです。 貴船神社における水信仰をみれば分かるとおり、いかに昔の人たちが水を大切にしてきたかが理解できます。」とあります。そこで新年のお身内衆だけで執り行われる新年の茶会で、先ずご自宅の若水取りが行われるのですが、若水は邸内の「麩嘉の井戸(ふか)」の井戸から取られます。そして若水だけを尊重するのではなしに、去年の古き水を半々にして若水とされています。お水の引継ぎのようなものでありますが、ここに実に深い意味が隠されているでしょう。引継ぎものと、新しいものとの融合する世界にこそ、新年最初の茶会の意味があると思って間違いないようです。「今日庵」の基本的な考え方はそうして古いものでも大事にしていらっしゃるのだと、毎年感銘を受ける瞬間であります。

 「こと納め」をし、そして来るべき「こと始め」の日を迎えるにあたって、新旧同時の中から新しい創造と、良き伝承や伝統を育まれて来たのでしょう。私たちは、日頃の何を捨て何を引き継ぐのか、暮れからお正月に掛けて真剣に考えて行きたいことであります。しかし京都は多くの場所で名水が溢れていることがよく知られていますが、お水は染物や、漬物や料理など、全部根本的に欠かせないものの代表です。エコはお水にとっては極言しても言い得るモノかも知れませぬ。 (ところで現在放映中の「だんだん」に出てくる祇園では、12月13日が『こと始め』でありますが、芸妓さんや舞妓はんたちは全員が舞踊・井上流のお弟子さんにあたりますから、井上流宗家の五世・井上八千代宅に赴き、お師匠さんにご挨拶後、五世から直接新しい舞扇を手渡しされます。その後日頃お世話になっている各御茶屋さんにご挨拶をして廻るのです。花街としての特殊事情を反映してのことでありましょう)

 

穴八幡の『一陽来復』

 冬至の重大行事 冬至の際の「年末供」

 

運盛

 運盛り 「あ」から「ん」までつく野菜などを盛り付け 運気をあげる

 

  今年は12月21日に、「一陽来復」とともに、「運盛り」も密やかに取り行われ、皆さまには来年も又良い御年でありますように、心からお祈り申し上げています。又「年末供」と申しまして、「阿吽」の言魂(ことだま)の通り、最初から最後まで祝い、そうして邪悪なものを退散させる行事が行われているのです。

 

年末供

     「年末供」として お飾り

 

  今から少々早いのですが、皆さまのご来期に向けて必死にご多幸を心からお祈りたてまつらいたいと存じます。お元気で頑張って参りましょう!希望に満ちた日々でありますように!

 偶々本日は「漱石忌」、漱石の言ったことを思い出して、少ないがそれを供養としよう。「実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶(でく)の坊と同じ事だ。」 漱石先生にはまだまだ教えられることばっかりですね。今日は作曲家・遠藤実氏の告別式があった。ついこの前阿九悠さんも逝った。いかにも昭和の時代が遠のいていった感じは現実的に否めない。何となく心淋しい思いがするのは、僕だけだろうか。でも何があっても明日に向かって向上しようという私たちの心意気が、故人となられた方々へ供養の意味も含めて、大変重要で不可欠なことでありましょう。

 

  お詫び:9日の記事なのに 10日に跨ってしまいました。心底からお詫び申し上げまする!

 

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