坂村眞民先生の忌日を「たんぽぽ忌」と呼びたくて

 

         蒲公英DSCF3809平山郁夫

                  ご自宅名「たんぽぽ堂」            坂村先生のご親筆       平山郁夫画『入涅槃図』

 

 

 

          坂村先生の忌日を「たんぽぽ忌」と呼びたくて

 

 

 本日12月11日は、御仏さまを念頭に置かれ多くの感動的な詩篇を遺して逝かれた坂村眞民先生の忌日です。今からちょうど二年前ですから、今日は三回忌ということになりましょう。先生は大変朴(ほお)の木を愛されました。朴の木から教えられることがたくさんあると日頃からおっしゃられて、実際終の棲家になった松山には多くの朴の木があります。先生曰く「まごころというのは本当に大事な世界です。どんな猛獣でも、大事にします。ああいうものを見ると知恵だけで生きている現代っ子というものは心を失っているように思います。真心というものがいちばん大事だと思います。だから、テーマは『誠実であれ』というのです。朴の花ことばというのは、『誠実な友情』というのです。朴というのは、花言葉の中でいちばんいい『誠実な友情』というのです。僕は朴の木に教えられる。『真心を失ったらだめだ』ということを神様に代わって教えてくれる」と。そして他にも「真の心、誠実さというもの。自分が葉をしげらせると周囲の木が影になって迷惑するのではないかということで、なかなか最後まで芽を出さないというぐらい思慮深いということです。檜と違って、朴の木はたとえば、下駄の歯などがそうです。朴葉の下駄だというのです。下駄の歯だけ換えたらまだはけるというのです。だから、朴歯の下駄をはいたものです。人を支えるために・・。人の支えになる。それから大きな旅館の調理台は刃物を使って、骨を切ったりする。ああいうところで檜を使っても刃が折れるというのです。折れた刃も一緒にして調理に出したら大変である。その時のまな板に朴の木を使います。見えない世界でなくてはならない存在になる。なくてはならない人間になる。そして、アジアをもって世界のいろいろな人を助けていく。そういうものが、朴の木のもつ他の木にない特色だと思います。そういう意味で地球上に朴の木をどんどん植えようという運動をしています」と、そんな理由で朴の木をいかに大切に思われていたかということがありますから、僕は朴の木を材料にして、先生の忌日名を何度も考えました。先生は毎夜中12時ぴたりに起きて、只管打座(しかんたざ)をします。その後恐らくは禅寺風に言えば朝課諷経(ちょうがふうぎん)として観音経般若心経を唱えてから、やっと詩作に入られます。それから午前3時半、この刻限を先生は「寅の一刻」として最も大切にしていらっしゃいました。弘法大師さまや道元禅師さまがやられたことと全く同じことなのですが、外に出て先生は空気清み水澄むこの瞬間に、頭を土に直接つけ、地球の鼓動や呼吸を新鮮に肌身で感じながら、祈りを捧げていらっしゃったのです。日常の生活も非常に質素で必要最小限度に止め、恐らくは禅風に言えば「朝粥(あさがゆ=朝食のこと」「午斎(ごさい=昼食のこと)」「薬石(やくせき=夕食のこと」と、お食事も1500キロカロリー以下の大変ご質素にお過ごしになられたのでありましょう。人々に説法をする場として朴庵という、ご自宅のたんぽぽ堂とは別な場所に、その名も「朴庵」があり、ご法話や例会がそこで開かれ、そしてそこに朴の木がありましたから、どうしても朴の木が頭から離れないのです。例えば「朴忌」であっても「朴の木の忌」でも全く語呂合わせも悪いしホウキになってしまったり変なのです。単純明快に、親しみを籠めて「シンミン忌」であってもいいかなぁとも考えました。あれやこれやと。でもやっぱりお嬢様が作られたホームページ『坂村眞民の世界』で最も有名になられた先生のご自宅名『たんぽぽ堂』の名に由来するのが一番相応しいのではないかという考えに至りました。実際先生の詩にたんぽぽの詩が登場しています。僕はそんな風に思うようになっておりまして、眞民先生の忌日を『たんぽぽ忌』とお名付けしたくご献上申し上げたいと存じておりますが、皆さまにはいかがお考えにありましょうか。先生は勝手なことを言うでないとお叱りのお顔をされているのでしょうか。シンミン先生らしく黙って微笑んでいてくれるのでしょうか。だって忌名は後の人からつけられるのでしょうし、ネットで幾ら探しても同じ忌名がないからでもありまする。

 

           『タンポポ魂』

 

            踏みにじられても

            食いちぎられても

            死にもしない

            枯れもしない

            その根強さ

            そしてつねに

            太陽に向かって咲く

            その明るさ

            わたしはそれを

            わたしの魂とする

                     坂村眞民 詩

 

     坂村眞民先生DSCF3825眞民さんのお墓

       生前のシンミン先生      皇學館大学に残された先生のご親筆       先生の歌碑 同時に墓碑となっておりましょう

 

  先生は既に今から40年以上前に、ご家族に当ててお書きになられた遺言を残されています。そこには「妻と三人の子に呼びかけた詩がある。わたしは墓のなかにはいない。わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる。だからわたしに会いたいなら、わたしの詩集をひらいておくれ」と。

   妻よ 三人の子よ わたしは墓の下にはいないんだ 虫が鳴いたら それがわたしかも知れぬ
   鳥が呼んでいたら それがわたしかも知れぬ 花が咲き 蝶が舞うていたら それがわたしかも知れぬ
   墓のなかなどに じっとしてはいないことをわたしはいろいろな姿をして とびまわっているのだ 
   どうか知っておくれ

 そうして二年前の本日を迎える七日前に、お嬢さま方が支え持つ色紙に円相を描かれたのが最後のご遺墨になったようです。「葬儀はしない、お香典やお供物も一切無用」と常々おっしゃられておいででした。お嬢さまの真美子さまがおっしゃられるには「松山市の三津浜港から船で瀬戸内海に出て、約束どおり海に散骨をしてきました。おだやかな海に向かって、家族それぞれが思い思いに、散骨することができました」 と。つい命の永遠を思わずにはいられませんでした。先生の詩篇を傍に置き、先生の意味することを観じながら、今尚深い繋がりを感じざるを得ませんのです。殆ど日に一度は眞民先生の詩を読む時、先生の書かれたお言葉が生き生きと躍動して、心の裡の『頑張れ』の部分にこだまし、ビシビシと響き、染み渡って参ります。そしてご存命中から、全国に780基(海外に33基ある)ほどの歌碑を、ファンの方々によって建てられました。これって実に信じられないことなのです。そして今それぞれの歌碑の中に先生はいらっしゃるのでしょう。65歳で永年の教員生活を辞めてから詩作に転じ、97歳までの生涯に1200号以上もの詩集を毎月自費で出版され、すべて無料で配られました。そんなことって、普通どうあっても考えられないのです。先ず続けられませんのですから。愚挙と紙一重ではないかと思う人があったように伺っています。でも間違いなく、そうして一遍上人とおんなじに、御仏さまの功徳を振り撒かれた方なのだと思います。第一こんなに永くお人さまの魂に向け、こんなことを続けてやれましょうや。

 小学校の校長をやられていらっしゃった先生のお父親は、先生が8歳の時突然死亡なされました。突然のことで、当時の風習から五人兄弟の長男として、母親を助けて必死になって頑張ったのです。苦学の連続でした。皇學館大学国文科に入学し、それから朝鮮に渡って先生になりますが、帰国するのは、学校で授業中に終戦を知ったずっと後でした。朝鮮から帰る時は石持て追われるようなご心境ではなかったかと拝察されます。帰国してもなかなか職に就けず、シタタカなご苦労があったようです。「たんぽぽ堂 坂村眞民」と書かれてご検索なさいますと、亡き主人のブログ『櫻灯路』と不肖僕の『硯水亭 Ⅱ』の、坂村先生に関する記事が四つもご検索に出て参りますから、その後の先生のご履歴のほうはそちらでどうか御覧下さりませ。但しここで申し上げておきたいことは、先生の多くの著書の中に、幼少期のことや戦時前・戦時中・戦後と掛けてどこにも苦労話(自慢話)や愚痴っぽい話は一切出て来ないのです。逆に、人々の心にストレートに、心して生きる勇気とたくさんのパワーをくださる偉大な方でした。

 

    念ずれば花ひらく 念ずれば花ひらくと 唱えればいいのです ただ一心に唱えればいいのです 

    花が咲くとか咲かぬとか そんな心配はいりません

    どうかあなたの花を 心田に咲かせてください 必ず花はひらきます 

 このような「念ずれば花ひらく」のフレーズで一躍有名な詩人になられた方でしたが、実はこの言葉に凄いことが隠されています。それは「不言実行」という意味が籠められています。先生がおっしゃる「不言実行」とは、 「あれこれ考えずに、黙して良いことを信じて実行する」という意味です。実に単純で、でも難しいことです。そうしてこう結ぶのです。「お釈迦さまがお通りになると  花たちが次から次へと開いて  喜び迎えたという  それだけ聞いても  お釈迦さまがどんなお方であったか  おわかりになるでしょう  わたしの信仰は単純で平凡だが  宇宙は大きな蓮の花だと言われた  そういう詩心に心から感動するのです  蝶を見ては合掌されたという  お釈迦さま  鳥獣虫魚すら  悉く皆成仏するとおっしゃられた  お釈迦さま  本当に偉大な詩人です」。どうぞたんぽぽ堂のホームページを開らかれて、先生の詩篇を直接お読みになられるか、多く出版もされておりますので、是非お手許に置かれて下さりませ。

 先生は神道の大御所の皇學館大学で国文学を学ばれました。でも戦後一遍上人に帰依され、帰国してから先生の生誕地・熊本に行きましたが、間もなく四国遍路を志し、ご家族ともども四国に移り住み、挙句の果て転変なされた末、一遍上人の生誕地である伊予(愛媛県松山市)に落ち着かれて、佛教への信仰を深められました。何故神道から佛教への問いに、先生はこともなげに言っています。佛教には差別がないからと。佛教発祥の地インドでは未だにその多くはヒンドゥー教徒が多いのですが、ヒンドゥー教にはカースト制が生きております。いつの時代になっても現代でも、厳しい差別の上に立っているようなものです。佛教徒は圧倒的に少ないのが不思議でならないのですが、差別される側は己を律することを要求する佛教に「オイオイ今それどころではない、明日の食うご飯が大事だ」と反発するし、支配する身分の側は「何でもあり」の宗教にそれでいいのだと言うだろうし、今日まで千年掛かっても何一つ解決していないじゃないでしょうか。差別を、最も嫌う佛教は、まさしく眼の上のタンコブだったことでしょう。先生がご経験なされた戦争中の嫌なことで、多分国家神道を敬遠なされたのだと信じます。神道は国家権力に利用されたのです。本来の神道は「清め」と「祓い」だけの、極めて世界に類例のない清潔な信仰です。僕の場合は神道も佛教も差別はありません。無論神々を信仰していますが、伊勢の神宮の天照大神以前の神道こそ、日本独自の民族の神道だと心から信じているからであり、神道総本家のあの聖徳太子さまご自身が佛教を取り入れた張本人ではなかったのではないでしょうか。今どの寺院に行っても実際に神道の神々が、各寺院をご守護なさっていらっしゃいます。そこで坂村先生が一遍上人をご信仰なされた事実は、誰にでも「生きる目処(めど)」を、佛教は実に分かり易いのだとご説法した最初の人が一遍上人だと信じたからに他なりません。差別がないこと、それが先生の心の重要なキーワードの一つでしょう。ご夫妻は又、生涯ひと時も休む時間はありませんでした。雲水のような生活をして、皆さまに、現代で最も重要なメッセージを届けきったのですから。

 ところで先生亡き後、奥さまの久代さまは先生が亡くなられた時ご病気でしたが、先生と連れ立って逝くように、その1年4ヶ月後の、櫻の花がハラハラと散り、春も暮れようとする日のことで、眠るようにして逝った実に平穏な死でした。享年91歳。下記のように、「たんぽぽ堂」のホームページの巻頭に次の詩が掲載されて御座いますが、厚かましくもお断りもなしに改めてここにも掲載させて戴きます。

 

     『こ の ひ と』
                 平成 20年 6 月 8日

    このひとと共に歩いて四十六年
    坂ばかりの道であったが
    今やっといくらか
    平らかなものとなった
    このひとは生まれながらに
    良いものを持ち
    それが年と共に
    豊かさを加えてきた
    わたしは妻としてでなく
    女としてこのひとを見
    老いてますます
    駄目になってゆく自分と比べて
    どんなにしても勝てっこない
    このひとの素質の美に打たれ
    世阿弥の言う
    散らで残りし花を感ずる

 

 眞民先生のお人柄がこの一篇の詩で充分にお分かりでありましょう。ご家族の皆さまとて、この詩篇にご家族の御方々の思いとお人柄が実によく出てるじゃありませんか。人はよく先生を佛教詩人だとか癒しの詩人だとかおっしゃられるようですが、僕にとっては生涯の心の師であり、ひと言で表現するとしたら『眞に愛の詩人』であったと思えてなりませぬ。どうか皆さまに取りましても、先生のような、いつも良い一日で、良い行いで、良いご生涯であられますように、心底から「南無阿弥陀仏」と読経申し上げたく存じまする。きっと今頃先生と奥さまは、風や雲と共に流れてご一緒に全国や海外を行脚され、光溢れる「踊念仏」でも見知らぬ皆さんと賑やかになされていらっしゃることでしょうねぇ。自然と共に、きっと先生ご夫妻は今でも生きておいでだと心から信ずる次第であります。南無阿弥陀仏!合掌!

 今日の良き「たんぽぽ忌」僕個人が本日から勝手に呼ばせて戴いており恐縮至極につき)に、先生に、先生がご信仰され最も愛された一遍上人のお言葉をお捧げ申し上げまする!

  • 旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき (時宗宗歌となっている)
  • 身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ
  • 生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり   (発信先 Wikipedia)

     

    坂村先生が愛された伊予市五色海岸の夕暮れ

    坂村ホタル?

     先生が愛された伊予の国 五色浜海岸の夕陽と小野谷のホタル 何だか先生がそこにいるかも知れないですねぇ (先生のHPより)     
       

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