襲(かさ)ね着る~ 白洲正子へ

             

         CIMG0927 CIMG0935 の補正

 白洲正子著「かくれ里」 少々古くなっているが 大事にしている本の一つ

 

 

 

        襲(かさ)ね着る~ 白洲正子へ

 

 

  ウトウトして夢の中、御車返しの櫻のもとで、僕は白洲正子と厳しい論議をしていた。梅若実さんに鍛えられた正子だけに、能の談義は確かに鋭い実践者としての見識で満ちていた。だが話は一変し櫻の話に及ぶと、「御車返し」には櫻の花が満開に咲いていたと言い張って聴かない。僕はアレはもう老木で枯れてしまって、花は一輪も咲かなくなってるんだよ、子樹は育っているけれどネと説得するのだが、ガンとして正子は「そんなことはない、あなたの頭が変なのよ、わたしの『かくれ里』を読んで御覧なさい、ちゃんと櫻花の写真が載ってる筈よ!」と激しく罵られた。するとその一瞬に道成寺の鬼女を見るかのような、ヒラリと正子は、吉田の少将本人にぶつけるような物狂いに変身し斑女(はんじょ)となって、急の舞を乱舞し始めた。驚いて、僕はハッとして眼覚めた。汗が、額にウッスラと浮いている。直ぐに書庫に入って父から貰った「かくれ里」を久しぶりに手にする。何故かやっとひと息ついて、思わず正子の霊魂に向けて一声が出、『襲(かさ)ね着る 藤のころもをたよりにて 心の色を 染めよとぞ思ふ』と西行の歌だが、右大将公能(きんよし)が父の喪中のうち母まで亡くした時、その胸中を慮って高野から追悼して詠んだ歌だ。それを高歌放吟して漸くやっと顛末は収まった。「かくれ里」をぱらぱらとめくる。すると確かにそこに常照皇寺の写真があって、櫻の花が今を盛りと満開になっている写真が載っていた。この本は昭和48年 第七冊発行とある。この時から今日まで既にあのような古風で逞しい幹でも、今は昔で無残と言えば無残でもう巨木の棒っ杭だけになってただ佇んでいるだけだが、白洲正子の思いは分からんでもない。

  この本は僕が小学校の最後の年に発行されたものだ。実際に父から貰ったのは大学入試の勉強の時で、父が僕の国語力を心配してのことだった。確かにあの時は渋々読んだと思うが、白洲正子はそれほど好きではなかった。余りにも白洲正子の好みや目のつけどころが僕と近かったせいでもある。でも亡き主人との出逢いの後になろうか、民俗探訪の旅に出る時主人はその本を持って来いと言われてからが本格的に読んだのだと思う。その時、花背で、「松あげ」の火祭りを確かに見た。それ以降何度繰り返して、この本を読んだことだろう。手垢が付き、僕にとっては古い蔵書の部類に入る。           

 

     渡岸寺(向源寺)の十一面観音菩薩 渡岸寺十一面観音菩薩      原地の松あげ

       渡岸寺(どうがんじ=向源寺)の十一面観音菩薩 横と真裏の像               花背 原地の「松あげ」

 

  松岡正剛という方がいる。彼が「かくれ里」の評を書いているが、偉い人の割には何一つ分かっていないのではないかと思えて来る。彼の書評に時々ガッカリさせられることが多いが、少なくとも白洲正子は何を本気で、現代に生きる僕たちに、或いは将来に向けて書き残して逝ったかを具体性を持って書かれていない。戦後民主主義が曲がりながらも定着し、結果、利便性中心にあらゆるモノの開発・開拓が進み、馬鹿のように大都市一極に人が集中し、その時イヤ待てよ、明治のご維新の辺りからだろうか本格的に文化文明といきり立って来たのだが、何を遺して何を捨て去ってもいいのかを白洲正子は真剣に考えた重要な人であったのだろう。そこらじゅうを廻って新発見などという悠長な時代ではないことは明らかである。正子が遣り残した部分だけは、真剣かつ真摯になって、この本を読み解くべきで、これは今僕たちに突きつけられた大変に重要な本なのである。このままなら日本は駄目になるという鬼気迫る執念を、この本で読み取るべきである。

  山奥ではなく、無論由緒正しき偉人や伝説の人がいるところには決して非ず、正子風に言えば「真空地帯」で見つけた数々の習慣や、埋もれたモノを探す「韋駄天お正」の旅は焦らねばならなかった。「真空地帯」の中にこそ、これから生きるすべがあるのだとそう示唆してくれている。又白洲正子自身言っているが、例えば日本人の精神の基盤である神仏を考えた時、「本地垂迹説」が本当なのだろうが、樹木や山々はモノを言わぬ神であるが故に、実証が出来ないと無念さも。そういう偉大な提案を、細かく数多く発しているのである。「かくれ里」には多く遺すべき、或いは勉強すべきモノが隠されているのだと。今後の創造の原点があるのだと。今まであったその土地土地の伝説や習俗・習慣までも今や死にそうで、明らかに絶えようとしている。親子や祖先の関係を縦糸とすれば、現在生きとし生けるもの皆すべてが横の関係であるのだろう。どうも人間関係がうまくいかないなぁと既に気づいているはずなのに、お墓参りの一つもしない。これから産まれ来る子孫の心配どころの騒ぎではないのだろうか。そもそも昔は普通であれば自宅で死を迎えたものであったが、今は殆どが病院であり介護施設である。子供たちは誰もが「死」を身近にした経験に乏しい。従って人の死もゲームでしかなく、隣近所の挨拶ナンテ~~チャッチャラ可笑しいのだろう。実に厳しく淋しい状況になり、正子の、文章の奥にヒッソリと潜む大切なモノを、僕たちが必死になって更に探りたどっていかなければ、やがて日本も、そしてその美しい魂までもが滅亡するに相違ない。

 

    白洲正子近影  カネノナル木

           武相荘の白洲正子                              僕のベンケイ君に花ひらき

 

  白洲正子の夫・白洲次郎は我が尊敬する優れた男性の一人である。実は白洲次郎のほうが書きやすいぐらい僕が若かった頃から何かと模倣して遊んでいた。これも我が父のせいだ。わざと一張羅で通してみたり、背筋をしゃんとして歩いてみたりで様々だが。彼のダンディズム、白洲ご夫妻には、今を生きる僕に、限りない刺激を与えてくれる。次郎は米軍の誰しも、従順ならざる唯一の日本人と言わしめた男である。30歳も年が離れていても吉田茂とはタメの友人関係であった。このご夫妻には天与の才を与えられた何かがある。つまり例えば墨書なぞはひと筆ひと筆真剣に書かなければ一気に書き上げられないはずで、そこんとこの真剣味がこの二人にはある。忍耐することも充分に知っている。パソコンをパタパタ打って上手に書けたような気分には本来なれないもので、『本気』とはそう易々と手にすることは出来ないものだろう。

  又正子が著書に『世阿弥』がある。「初心を忘るべからず」の初心の意見は、僕とほぼ似ている。先ずは、初めて演技した頃の拙い芸の位置を念頭に置くこと、その後の己の成長の度合いが分かるという意味で、決して夢や希望を述べているのではなく、目指す稽古そのものを指して言っているのだと。幼き時は、何の演技をしなくともただそこにいるだけで花があるが、年老いてからは衰えてこそ似合う芸がある、「五十有余ヨリハ、為ヌナラデハ手立無シ」と。逆に言えば老齢であるからこそ出来る芸があると言っているようなものだ。正子はそうこうして分かりやすく解き明かしてくれている。梅若実に師事し、友枝喜久雄を好んだようで、四十年間稽古に励んだ気合がどの文章にもあるのだろう。明恵西行についても然りである。単なる趣味の世界ではあるまい。

  この記事を先月貞任峠で、阿部貞任首塚を見つけて下さった山国在住の、ブログ「北山・京の鄙びの里・田舎暮らし」藤野さまに、心より敬意を表し捧げます!(首塚発見は藤野さまのグループの方々で見つけ、現在は街道近くに祠を設け、大切にしているそうです。藤野さんのような地元密着型の熱心な方が一人でも多く増えてくるようなら、まだまだ日本も捨てたもんじゃないかも知れませぬ)

 

 今日のBGMは Sarasate作曲 Michael・Rabin ヴァイリン演奏の『Zigeunerweisen』

 

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