心のリアリズム

 

赤鶴作

   金剛流家に伝わる赤鶴(しゃくづる)が打った小面(こおもて) <面は作るとは言わずに、打つと言う>

赤鶴一刀斎吉成は文永弘安(1264~1287)頃の人とする。越前大野住一説に神大夫という近江猿楽の大夫で
あったという。世阿弥の申楽談義には「近江には赤鶴猿楽なり、鬼の面の上手なり」とある(能と能面・金剛巌談) 

 

 

 

 

                          心のリアリズム

 

 

  僕のまだ若き血潮にはいつ何処でも爆発しそうな波瀾含みの何かを持っているようである。でもそれが可笑しなことに、最も激しい現実に直面するや否や、不思議と最も冷静沈着でいられるようだから可笑しい。誰もが常磐線に乗って綾瀬近辺に通り過ぎる頃、オウム真理教のあの一番偉い人がいる小菅拘置所の傍を通る。新しく出来た立派な建物だから直ぐ分かるが、こんな男と同じ空気を吸って生きているのかと思うと大部分の方がブルブル振るえて反吐でも出そうになるだろう。特に今も苦しんでおられる被害者の方々にとっては当然のことだ。でも一方魂の詩人・坂村眞民先生や愛の実践者マザー・テレサやターシャや、他に幾らでも偉い人がいらっしゃっていたし、僕はそれらの側の方々とこの同じ空気を吸って息していたと思うほうがどんなに幸せなことだろうか。今の時代、この真綿で締め付けられるようなヤンワリと効いて来る時代の閉塞感の正体は一体何だろう。益々一個人が抹殺され、地方が極端に等閑にされ、弱者は見事に切り捨てられ、そうしてどこからともなく来る茫漠とした得体の知れない何かによって、飛んでもない方向へ進まされてでいるようでならない。単なる危惧であればいいのだが。

 世阿弥の教えの中に「型より入り型より出でよ」というのがある。先ず覚えるのは型であり、中身とか心などという抽象的なものではないとも言う。型さえ覚えれば中身は自然と伴って来るものだと言う。僕が小学校の入学以前から、父に強制され「論語」の素読を毎日やらされた。それが小学校の卒業まで続いた。最初意味はチンプンカンプンで、正座も嫌で、どんなにブツブツ言っただろうか。母は見て見ぬふりの顔をしているばかりだったから随分哀しかったが、少々暗誦が出来る頃になると、父から大まかな示唆を与えられた。するとははぁそういうことかと漠然とではあるが、咄嗟に分かった気になった。でもその当時はどんなに嫌だったか知れやしない、遊び盛りの腕白坊主にとって死ぬほど嫌な思い出の一つであった。そんな経過からか、でもどことなくあの時の素読の意義がこうして大人になって初めて分かって来るような気がする。素読には「論語」に限らず、「徒然草」や「源氏物語」、更に仏典の「観音経」や「般若心経」でもいいのではないだろうかとも思える。とにかく古典から入るべきで、分からずとも音読し、その音を身体に沁み込ませるだけでも、何かの効果があるのではないだろうか。当家の祖母が生きている頃、近所の大勢の小母ちゃんやお婆ちゃん連中を集めてお大師さまの「講」をやっていて、全員で「御詠歌」を吟唱していたものだ。試しに僕も混ざって声を出して歌ったことが何回かあった。今は全く覚えていないにも関わらず、あの節だけは妙にはっきりと覚えている。温かみのある懐かしい音だった気がする。今時、「素読の勧め」と声高には言えないのだけれど、それはきっと間違ってはいないのだろう。

 

  太鼓大鼓小鼓

                  太鼓                         大鼓                            小鼓

              能管    奈良・金春能楽堂

                                                能管                                能舞台

 

 先日、坂村先生の真夜中の過ごし方で、若干禅について述べた。<只管打座(しかんたざ)とか朝課諷経(ちょうがふうぎん)として観音経般若心経を唱えてから、やっと詩作に入られます>と。更に「寅の一刻」を大事になされ、その清澄なる外気に触れ、諸々を唯一知る大地に耳をつけ、大地の音を聞くことを。これは坂村先生の日常であり、先生の詩作の、言わば型なのでしょう。その型の話をもう少々したく。

 福井の山中、永平寺では真冬気温-10℃以下になるのが普通で、修行僧約150名たちは素足で過ごし、一時たりとも休みはない。朝4時半からずっと修行が続く。そんな厳しさを本願とする山門には、曹洞宗総本山とか大本山などという記載は一切なく、永平寺と言う名前すら書かれていない。看板にはどんな身分の人であっても真剣に命掛けで発心し修行する覚悟ある者以外入れないとだけ書かれてあり、ここは修行の道場で「日本曹洞第一道場」とだけ記載されているだけだ。特に興味を引くのは洗面(せんめんと読む)で、たった一杯の小さな桶の水で、顔も洗うし歯も磨くし頭まで洗う。然も一切音を立てない。食べ物も睡眠も必要最小限度に抑えられているが、山房の「回廊修行(かいろうしゅぎょう)」と言って勢いよくお掃除する時以外エネルギーを発散する場はない、この時以外音を立てるのは一切ご法度であり、「威儀即佛法(いぎそくぶっぽう)」と、道元禅師は厳しく教えられた。容(カタチ)を整えることこそが即ち佛法であると。朝晩、壁に向かって座禅を組むが、このカタチも半眼で1m前をじっと見つめ、しっかりしていなければならぬ、やや崩れを見られるや直ぐ警策棒によって肩を強か叩かれる。御仏さまからの警告ということだと言う。無駄口も一切ない。朝の朝食は、先ずホウ(木盤)によって知らされる。そこから実際に戴くまで15分以上掛かり、「朝粥行鉢(ちょうじゃくぎょうはつ)」と言って食事も修行であり、 「五観の愒(ごかんのげ)」と言う経文が唱えられる。1、この食べ物は自分の口に入るまでに、どれほど多くの人々がご苦労をされているか。2、自分はこの食事をする価値があるか。3、食事も大切な修行である。むさぼりや愚痴や怒りなどの迷いはないか。4、この食事は身体や心の飢渇(きかつ)を防ぐ良薬である。5、この食事は修行の成就のために戴くものである。と、詞や経を唱えながら、皆揃うのを待ってから戴く。一日の食事は、朝粥(粥・たくあん・胡麻塩)と、午斎(ごさい 麦飯・味噌汁・たくあん・オカラ)と、薬石(やくせき 麦飯・味噌汁・たくあん・平=煮物)と三食あるが、これとて道元禅師が決めた「典座教訓(てんぞきょうくん)」と言って食事を非常に大事にしていたことであった。こうした雲水の心得は、多分刑務所のほうが遥かに楽だろうと思わされる。すべて型が支配しているのである。この道元禅師のみ教えが日本文化に深々と定着し、世阿弥や利休など多くの文化人に少なからず多大なる影響を与えたものであったと想像するにしくはない。特に道元禅師は中央の権威・権力を徹底的に嫌った。従ってこのような山深い山中に本山を建立したのであろう。

 何のための型であろうか。人の心はいい加減なもので、中身からとか心からとか、実に言うは易く、行うは非常に難しいのである。従って誰にでも分かる型から入れと教えた世阿弥の本懐はまさに道元禅師の言葉そのものではなかっただろうか。そして老齢になって、身体が動かなくなり初めて、重い老女物(「姥捨」とか「関寺小町」とか)をやれるようになって、型がないようであるようで飄々としているのだが、その一瞬の切っ先の煌きに能の極意「花」が潜んでいるのだろうと思う。いわゆる奔放な己が心根と規律ある共同体として型との葛藤が永遠にして生きる命題となり、「心のリアリズム」となることであろう。

  特に教育問題を言うつもりはないが、永平寺で行われている朝粥の時の心得のように、子供たちは食事をする時に、どれくらい感謝の念を持っているのだろうか。右翼のように言われるから言いたくないが、少なからず何事に対しても感謝の心得は教えてつないで行きたいものだが。

 

能

        源氏物語の六条御休所が主題の霊となる能「野宮」(ののみや=伊勢斎宮に行く時は必ずここで物忌みをする決まりがあった)

 

 

 今日のBGMは 平原綾香の歌 『今 風の中で』

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