白洲正子なら上杉鷹山をどう書いただろうか

 

上杉鷹山

  九代目上杉藩主・上杉治憲 後に鷹山と号す

 

 

 

          白洲正子なら上杉鷹山をどう書いただろうか

 

 

 本日は、ちょうど10年前の本日、暮れの忙しい喧騒のうちに、ひっそりと白洲正子が亡くなった忌日である。白洲正子は西行の足跡を追って旅をされたり、琵琶湖周辺の湖北や湖西や京都の山国などを度々尋ねているし、西国三十三箇所の巡礼もしていた方であった。もし白洲正子ならどう書くだろうとか、どのような評価をするだろうかと、そんな風に彼女の厳しい視点に、いまだに学ぶことが多い。今朝も仏壇に、ハウス物ではあるが、啓翁櫻(けいおうざくら)の花ひと枝を古伊万里の花器に入れて、白洲正子を偲び捧げ、般若心経を読経させて戴いた。不図上杉治憲など、白洲正子にかかったらどんな風に料理されるのだろうと深い興味を抱かせた。藤沢周平の力作で彼の絶筆となった『漆の実のみのる国』文芸春秋社刊)にも明らかなように、上杉鷹山は恐らく江戸時代に生きた藩主で最も偉大な藩主ではなかっただろうか。

 日向高鍋藩(三万石)出身の幼名直丸が10歳の時、八代目上杉藩(=米沢藩)当主・上杉重定の養子となり、江戸上杉藩にて元服し、名を治憲と改める。折衷学者の細井平州に学び、徹底した藩主教育を受ける。九代目上杉藩主になると、その時の藩の状況は大変な状況にあり、藩を幕政に返却しそうとするまでに逼迫していた。上杉藩は会津百二十万石から改易され、三十万石として米沢に落ち着き、しかし大なる石高の時から、藩の人を一人ともリストラすることがなかったため苦しく、更に三代目の時お世継ぎ問題で十五万石まで減らされていたから、半端な窮状ではなかった。治憲は、どこからも借金すら出来ない藩の事情をよく知り、ここで思い切った藩政改革をする決断をすることになる。国許で冷や飯を食っている連中だけを特に集め、江戸藩邸内で五ヶ月に及ぶ改革案を作らせた。そしてその改革案を江戸藩邸で二年間実験した後、17歳にして愈々初めての米沢・国許入りとなった。それから『一汁一菜』や着るものは『木綿』だけだと細かく定めた藩政の改革案を次々に断行して行くのだった。無論古い重臣たちから大変な抵抗に遭うが、大殿・重定はこれを棄却、治憲を徹底して庇い後ろ盾となった。政治は民の為にあり、民が楽になるようにするのが政治を預かるものの責任であると明言し、雪国の地で育つ植物・作物を奨励し、原材料の輸出だけではなく、原材料を使った製品を量産する一大産業革命をするのだった。政治をわたくしするものを断罪し徹底してひるむことなく改革の成果があがるまで一切の妥協を許さなかった。この改革は物流のみの改革にあらず、藩内で生活するすべての者に目標を与え、学習効果とその成果を得る人間改革の道でもあった。米沢に恩師・細井平州を招請し、藩校興譲館を再興させ、武士・町人など一切の身分差をなくして開かせたことも特筆出来る。ここであえて詳細に書くのは止めておこう。ただ一つだけ、家督は、義父・重定の実子(治憲が養子に入った後に出来た子)を養子としていた上杉治広を十代目藩主として譲り、その座を退き、52歳にして剃髪し名を鷹山と改められるが、改革はひと時も途切れることはなかった。その後の藩主にも行き渡っていたからである。その中心となすことは以下の鷹山の「伝国の辞(でんこくのじ)」という教えがあったからである。

 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した三か条からなる藩主としての心得のことである。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日  治憲 花押
    治広殿  机前

 すべての基礎は民人にある、民人とともに国は存在するという意味である。そうして改革前十万両以上もあった借財が、鷹山亡き一年後ようやく五千両のプラスに転じたのであった。鷹山の生き様を、今目先の政局に汲々としている政治家たちにどうしても勉強して貰いたい人であるが、果たして現実の政治家には耳の痛いことばかりであろう。今日の、100年に一度あるかないかの経済危機の中で、グループ闘争などしている場合ではなく、今この危機をどうするかが一大事なのであって、頭の中は選挙のことでいっぱいであろう。そんな小者だけでは現代の正体すら見えていない。来年NHK大河ドラマで主人公として出て来る直江兼続こそ、上杉景勝から家老職として命じられ、この米沢藩を築いた最初の人物である。突然で恐縮だが、直江兼続の治水事業や、あらゆる農業施策など、治憲の目指した改革の基礎は既にこの時に萌芽していたとも言えるだろう。「越後の虎」或いは「越後の龍」として、自らを毘沙門天転生であると信じていた上杉謙信公を始祖とする上杉家であるが、実質の最初のカウントとしての藩主は上杉謙信の養子となった景勝から数え、幕末まで十三代続いたことになり、上杉神社には各藩主の廟所が並んでいる。但し治憲(鷹山)は本来上杉家の血筋ではないがために、摂社の松岬神社に移され現在に至っているが、今もって米沢の方々は鷹山だけに「公(こう)」をつけ特別に扱われ尊敬されている。

 

雨に濡れた赤い実

   赤い冬の実

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