発奮(こんちくしょう)と容(かた)

 

朝の志向

 日々の暮らしの中で

 

 

 

 

                            発奮(こんちくしょう)と容(かた)

 

 

 夕べ久しぶりに父と二人で酒を酌み交わした。今年中に山登りの話を聞きたかったからで、こんな押し迫ってからやっているお店なんてないが、新橋にある父の友人宅の料亭に、父が特別に席を設えてくれたからである。従って出て来たお料理はお正月の仕出し用料理のようなものにちょいと手を加えたものばかりで超可笑しかったが、さすがにどれも美味かった。普段無口な父だが、僕は健康上の理由からお酒を控え目にしてて、男芸者になって次から次へと父にお酌をしたせいでもあったのだろうか、こんなことをしたのは殆ど覚えがないが、夕べばかりは思い切り父は炸裂した。山の名を端から端までアトランダムに言われてもどこの山だっけとか、どうもピンと来ないのだけれど、父が話しただけで充分その様子全体が分かったし情景もはっきりと浮かんだ。実に具体的に楽しそうに喋ってくれて、山々の話に歯止めが殆ど利かずとめどなく面白かった。新田次郎全集をコンパクトに纏めたような話のようだったのかなぁ、色々分かったことがある。初めの一つは、歩く歩幅はどこへ行くにも平地でも普段から変わらないように訓練すべきで、父が歩く速度も歩幅も、よく見ると確かにそうなっているようである。準備するのは余分目にし、それは勿論合理的であらねばならんが、持って行ったものは持ち帰らなければならず、ついでに目にした山に落ちているゴミは知らん振りをせず必ず拾って持ち帰ること、もし食料品など余ったら山小屋とか避難小屋にキチンと包んでどうぞ食べてくださいと書き、賞味期限や中身などを参考までに必ず記しておくこと、頂上に登ったら、喜びの馬鹿発散は決してしないこと、ひたすら感謝の心を石や岩に耳や唇をこすりつけ態度で示し表現すること、お山は万物の神の化身であり、徒や疎かにすれば忽ち反撃を食らうこと、危険予知能力は磨いても磨き足りないことだし科学的な裏づけばかりではないこと、日常生活では天衣無縫で自説をまげない勇気を持つ人物であるべきだが、山だけは時には自説を疑う勇気を持つこと、すると不思議に嵐や突然の大風や大雨や霧や靄までも味方をしてくれ、今何をどうすればいいか自然にちゃんと誘導してくれるという、山に来た以上はお山の都合で日程は決まるもので、決して地上の日程を念頭に置いてはならないとも、更に辛抱強く時を待つ勇気も絶対に必要だと、そうして幾ら一緒に命懸けをした山の友だとしても、その出会いや別れは常に寡黙であっさりとしているということも、これからも名もなき山を一つ一つ楽しんで登りたいとか寅さんの歩いた道をたどりたいとか、酒や食い物は口に入れる資格があるかどうかじっくり自らを問いつつ、各細胞の隅々にまで行き渡らせるようにして感謝して黙ってゆっくり飲み食いすること、当家の家風は元々武人であったのだから、品よく人を思い遣る生粋の野蛮人であるべきだと、野蛮人であるからにはお洒落には特別に気をつけて、いつも同じようなものを着ていること、誠実とは黙っていることで、そんなのは人の評価でアテにならず、真正面から粗野にして精一杯であればよしとすること、「発奮」と書く時は、何が何でも「こんちくしょう」と読めと、まぁまぁ色々な可笑しな話題にまで至って、あっと言う間に時間が過ぎた。三時間ほどだったが、約八割以上は父の独壇場であり、父は余程嬉しかったのか、又話させてくれよと言う最後タクシーで帰る時の一瞥は妙に愉快なものであった。そして別れ際生涯初めて、ほどよく酔った父とハグをし、背中をパンパンと叩かれた。70をとうに過ぎているのに背筋が真っ直ぐで、酔ってもしっかりとした足取りをしている、いかにも父らしくストイックでカックいい爺さん(?)である。僕にとって初めて経験であった父とのハグに、心はしっとりと泣き濡れていたのだと思う。父を見ていると、僕が若かりし折、何故あんなに反発したのだろうか不思議でならなかった。多分同じDNAが流れているからだろうか。母があんな形で、急にいなくなったと言う哀しみを、二人とも同じ量の分ずつ共有していたためだろうか。僕が人の親になったためだろうか。いずれにせよ、永年の溜飲が下がったのだろう。帰って来てからも上気した興奮がなかなか冷め遣らなかった。

 僕は趣味で永年やっていることがある。一噌流の能管のお稽古を月二度(36年になる)、世阿弥の『世阿弥の伝書・全二十一部集』(僕が主宰して現在16年目になる)を読む会を月に一度、裏千家流の茶道を月一度(15年になる)、民俗学研究会(私的機関)は不定期でも10年は過ぎた。仕事を省いてもなかなかに忙しい身の上で、これらの基本は今後とも続けて行きたいと念願しているが、本社の仕事は血反吐を吐くような思いをしてやって来たと思う。海外事業が多いからでもあるが、今のCEOにはこの金融危機が襲って来たついでに思い切って縮小してみたらどうかと進言している。別にあたふたしなくとも社員全員が食って行けるだけの基本がある会社だからである。そんなこんなの多忙を極めていたのは、亡き主人が守勢の仕事を極端に嫌った結果であって、彼と一緒にやっている時は夜寝ることも惜しんで執行していた。結果主人は心不全で若くして死に、つい最近僕までが危ういところであった。担ぎ込まれるのが少しだけ遅くて主人は死に至り、運良く直ぐ病院に担ぎ込まれたから、僕は短期間で回復し後遺症も全く残らずこうしてピンピンと生きているだけの差である。生死紙一重の仕事は、最早妻子を持つ我が身として責任ある身体であるはずであり、断じて無理な部分を断るところはしっかりとしなければならない。財団の仕事も今まで並行してあったことだし、そうしてこのブログも相当にきつかったのだとつくづく思い返すのである。記事もそうだが、お返事も半端にはしたくなかったし、多分土台無理なことだったのかも知れない。それでも啓蒙か専門分野かにするのか、ブログは甚だ中途半端な中身になってしまって、読者諸氏には非常に申し訳ないことをしたと猛省している。財団の櫻の仕事は、今後僕の人生ではたったの二十数年しか関われないであろう。土地が主人の思惑通りに行かないのであれば、遠慮せずに軌道修正し、僕が担当する部分は基本中の基本とすべき部分であろう。従って現在具体的に活動しているのは、全国の櫻の名所に少しずつ補植して行くことと、苗場の充実と、小さくとも中核となる起点作りなのである。そして最も大切なことは人の教育と育成であるのだろう。

 

    奈良・春日若宮御祭りにおける『巫女参堂』

 

 

   世阿弥元清の教えに「型より入り型より出でよ」と言う言葉がある。地べたは広い、空はもっと広い、宇宙空間は限りなく果てしなく、時間もまた限りなく遠くだだった広い。だがもっと広く深遠で底なし沼なのは、時空をも遥かに超えた、人の心の中の闇である。迷いは当然のことだから、先ず「型」から覚えなさい、そうして永年の修行の結果「型」から信念を持って脱してもよいと、字面から読むと世阿弥の意図はそう読める。道元禅師は、「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう=型を整えることが仏法の悟りに最も近い)」と説き、永平寺での修行は過酷を極める。多分世界のあらゆる刑務所の生活より厳しいだろうと断言出来るが、厳しい型の規律と戒律のもとに発心し朝起きて寝るまで修行三昧の日々、都の権威・権力から遠く離れ深山幽谷に入るべしと帰国に際して諭した高僧の存在があったからだろう。越前の冬は長く厳しい。九頭竜川の海から渡り来る寒風は安易な人を全く寄せ付けない厳しさがある。道元は貞応2年(1223年) 明全とともに博多から宋に渡って諸山を巡り、苦節五年、ようやく曹洞宗の「天童如浄」より印可を受け、そして安貞2年(1228年)に帰国し、比叡山や公家たちから様々な迫害を受けつつ、権威や権力を一切拒否し、只管打座(しかんたざ=ひたすらに座禅し修行に専心すること)をするために態々彼の辺境の地を選んだのである。家庭の絆や身分の上下や金銭のあるなしに関わらず、安直に道を求める人を、一切拒絶し命掛けの修行をするのが雲水である。名前も要らなかった、永平寺には永平寺という看板すらない。総本山とか大本山とかの形容もない。雲水たちの道を真剣に求めるために、山門には「日本曹洞第一道場」と書かれてあるだけである。千利休居士侘茶(わびちゃ)の世界もまた、世阿弥の説く「型」より入りて「型」より出でよとの教えや、道元の厳しく「威儀即仏法」と説いた教えに、飄然一体となって相通じている。徹底して型を学べば自ずから中身が付いて来るというのである。否、寧ろ型を知らなければ、何一つ分からないであろうと言っていることと全く同じことなのである。

 僕は今後、僕自身の「型」を持って生きようと思う。坂村眞民先生が大切にした「寅の一刻」を、僕も最も大事にして、地球はどんなことでも知っていなさるのだから、地球の鼓動や呼吸に直接耳を傾け、花や鳥たちとともに生きて行こうと思うのである。櫻の苗の生長に目を細め、次第に増えるであろう僕たちの活動の輪や幅が、世界の平和や生命の尊さに真から通じ、生きる歓びに、皆さまとともに繋がって行きたいのである。永い活動になるであろう僕たちの活動の成功か否かは、厳しい型の構築から始まるのであろう。僕は新しく僕の型でありたく、あえて「型」を「容(かた)」と表現し、父から戴いた「発奮」と書いて「こんちくしょう」精神でありたいと念じております。そしてこの中途半端なブログに永年お付き合い戴きましたことを心底から感謝申し上げます。硯にゆっくりと、水が沁み通って行くが如く、我が許容範囲をしっかりと認識し把握し、そしてこれから千年後の方々へ、この活動が広がり伝えて行くために、一心に頑張る所存であります。花が咲いたら、きっとアイツらがどこかで頑張っているだろうと思っていて下されば尚幸いです。いずれ人々に知れ、日本文化の象徴として多くの櫻の花が咲くとしたら、望外の歓びとなることでしょう。本当にどうも有難う御座いました。皆さま、どうぞよいお年を!南無大師遍照金剛菩薩!合掌!

 

イメージ 35

       主人が最晩年に撮った櫻の写真 『夕刻の円山公園の枝垂れ櫻』

 

 

 

 今日のBGMは 秋川雅史の歌で 『千の風になって』

 

 

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