ワシントンの櫻とシドモア女史の日本への熱き思い

 

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         ワシントンの櫻とシドモア女史の日本への熱き思い

 

 

 ワシントンの櫻の季節が近づいて参りました。ポトマック河畔の櫻並木は今やアメリカ国内のみならず、海外からも大勢の観光客が訪れ、すっかり名所になっています。アメリカ国民としても大いに誇るべきことでしょう。さてこの植樹の背景には、当時東京市長の尾崎行雄が櫻の苗木を贈った方で有名で、贈られた側ではタフト米国大統領夫人のヘレンさんぐらいなものでしょうか。あまり当時の実情は知られていないのですが、日米の架け橋になられた熱心な方がおられましたし、多くの方々もそのことには関わっています。亡き主人は自らのブログ・櫻灯路の中で「ワシントンD・C櫻物語」として概略を書き残していますが、最も尽力なされたのは、エリザ・R ・シドモア(1856~1928)女史でした。優れた紀行作家で地理学者である彼女の存在なくてひとことも語れないでしょう。現在シドモア女史は母と兄とともに横浜外人墓地に眠っていますが、今日はシドモア女史が書き残した素敵な櫻物語の全文をご紹介申し上げます。日露戦争の際、ロシア人の捕虜の丁重な取り扱いを松山で観て大感激し、当時の日本軍はいかに立派な侍魂であったことをアメリカ本国に報告したり、タフト米国大統領夫人のヘレンさんを頼って、櫻の植樹を訴え、ワシントンのポトマック河畔やニューヨークのハドソン河畔に櫻の植樹を実現したり、時代は最悪な時期に入り日米戦争になると、途端に日本人の排斥運動が起きたことに対して、大いに嫌気をさし、スイスに逃れたり、シドモア女史の生涯は日本人とその櫻に、彼女の多くが捧げられてきたのです。ご遺骨がスイスにあると知った新渡戸稲造はじめ多くの日本の発起人たちは、お母さんやお兄さんが眠る横浜外人墓地に彼女のご遺骨をスイスから移し、そこで現在永眠されているのですが、そのシドモアさんのご活躍の一端を、彼女の櫻の論考を通して、どうか皆さまに、お汲み取り戴きたいものだと思い、ここに少々長くなりますが、その全文を翻訳掲載させて戴きたく存じます。以下シドモア女史が書かれた「日本の櫻」の論考です。

 

 

シドモア女史

シドモア女史

 

    日本の櫻

     ~歓喜と詩のある季節~

                                  エリザ・R・シドモア 著

 

   (騎士道精神の象徴)

 西洋社会に、たくさんの花々を広く普及させてきた日本は、今や文字通りポトマック川やハドソン川の水辺に美しい並木道を造るために、サクラ数千本ずつ、ワシントンとニューヨークの都市へ贈ったのです。これは世界的に有名な東京の河畔・向島「墨堤(ぼくてい)」の再現です。この贈り物は、その魅力を増しながら、とても上品になり、しかも時機を得たものとなります。一年に一度の美しい櫻の開花は、両国民の友情を永遠に忘れ得ぬものとなりましょう。

 日本人は、彼ら全ての敬愛と憧憬の象徴であるお気に入りの山花・日本の魂(The Soul of Japan)を私たちに贈ったのです。日本人は、ごく普通の会話の中で“とっても見事なサクラ”と親しみを込めて呼んでいます。それは国家の贈り物として届けられた、単に“豊富な花と落葉性のある学名プルナス・プスュード・セラサス(prunas pseud-cerasus)”ではなく、日本人が"世界で最も美しい花”と呼んでいるものなのです。

 世界の中でも、サクラの花ほど、日本の櫻より愛され、褒められ、崇められている花は外にはありません。それは単なる国花としてではなく、清廉と騎士道と名誉の象徴であり、少なくとも二千年の間、はためく情熱をもって尊重されてきた春の祭典の紋章なのです。

 

   (帝の国の櫻まつり)

 日本の国花サクラは、菊よりも広く偏在し、奈良・京都を囲む"本州”の中心、大和地方の山腹に成育しております。この小さく白い山花は、尊敬もされず歌われもしなかった中国大陸から渡来したものではありません。その花は、新しい宗教が蓮のシンボルと芍薬の装飾とともに国内に広がる、ずっと以前から人気があり、永い間君臨しておりました。五世紀の早い時期、帝と朝廷は、花見のために“若櫻ノ宮”へ行くのが習わしでした。そこでは、櫻の縁取られた池に船を浮かべ、そして遊覧致しました。園遊会が催され、諸侯・騎士・貴族が全神経を和歌に注ぎ、櫻の花の枝に短冊を結びました。千年、さらに五百年過ぎても帝の園遊会は続いております。富士山と月を除くと、櫻ほど幾百万の和歌のテーマとなり、感化を与えてきたものはありません。進歩や近代化も、全国民の心をとらえてきた櫻を軽んずることはありませんでした。歴代の帝、“百人一首”そして不朽の歌人は、櫻を賞賛してやみません。そして塹壕や退避壕の中で、さらに満州平野の戦場で、兵士たちはピンクの紙切れのついた祭り木(御幣のことか)を作ったり、本国の櫻に最も似た代用品として、花のついた野生リンゴの樹を手にして歓喜します。あらゆる階層と職種の画家・装飾家・デザイナー・美術家そして工芸家たちが、他のどんな木よりも櫻の花と蕾を利用します。40もの花家紋が紋章学の書物の中に見られます。そして菊に重ねた櫻が宮家の紋章の一つになっております。華族学校(学習院のことか)の若い貴族は、帽子や襟の櫻の記章をつけています。春になると、すべての菓子・ケーキそして食べ物の半分は、五弁の花びらであったり、少なくとも櫻の装飾がなされます。八世紀、宮廷は、奈良から京都へと櫻の祭典を移しました。そして移植された大和の樹木は、毎年、内裏や郊外でバラ色に輝きました。

 血と鉄の人であり、櫻を盛んに持て囃す異常な崇敬者である太閤秀吉は、桃山の金堂に一万の来賓を集め観櫻させました(醍醐の櫻のことか)。彼は、かつて吉野の優雅な下ノ千本櫻に同じ数の仲間を呼び出したことがありました(吉野の花見のことか)。徳川将軍たちは、新しい首都を江戸に建設する際、惜しげもなく櫻を植えました。それは永い三世紀間の平和を通して最高潮に達しました。その時、全て高級な芸術が堂々と隆盛を極めたのです。最後の世紀に、櫻は愛撫され甘やかされ、ご機嫌をとられ研究され、宥めすかされ、そして促成栽培がなされてきました。そしてついに130種以上の櫻が認知されるにいたりました。江戸の庭師たちは、この花で最高の業績を成し遂げ、奇跡を行いました。大名たちは邸園で、もう一つのこと、最良の花の写生アルバムの蒐集で張り合いました。それは櫻の花に関する小さな出版物で、木版の至宝といえる色刷りオフセット版の教本です。

 1868年の維新以来、櫻の花には、とても長い時間がかかりました。帝國植物園(小石川植物園のことか)の櫻の専門家ミヨシ教授(三好学博士のこと)は、最も近代的批評的、分析的科学的な植物学上の観点から、日本の櫻に関する徹底した研究論文の原典や図版を集めております。そして他日発表できるよう、かつて貴ばれた花の存在の最後の証言も集めております。

 

   (驚くべき品種改良)

 素朴で一重の小さな野生の山花から、チェロキー族(北米の原住民のこと)のバラのように大きくなり、豊かに広がって2インチの花へ、さらに多重、百花弁、千花弁のバラの大花飾りへと、この櫻の花の進化には、他のどんな造園魔術さえも驚嘆するほどです。野生の山櫻、つまり吉野の台木から始まり、庭師は大地に這って咲く各種の若木を接ぎ木します。その時花弁を広げ、雄ずいを花弁に替えて花弁を増やしてゆきます。これら庭師たちは、梅ノ木になるかもしれない可能性を乗り越えて、カップ状の形によじり、さらに伝統的ハート型の花弁の刻み目に、燕の嘴のような深い切り込みをつけるか、或いは撫子の花弁のような鋸状の刃を作ります。彼らは、この晩生の花を“小菊櫻”と称します。彼らは、雄ずいをよじり広げて、そしてジャンク舟の帆のように垂直に立てます。そしてある場合には、魅惑的色彩の対比としてバラのような花の芯に、淡い緑の二つの雄しべを残します。

 彼らは、さらに枝垂れ、或いは吊り下がった枝を作り、最も美しく上品な花、櫻の花を産み、そして春一番に咲かせます。柔らかくそよぐバラ色のスモモとは対照的に、彼らは私たち西洋式花屋の針金構造物と同じように、そこにある花々を堅苦しい樹々へと進化させます。しっかりとした茎がなく、梅の花のように小枝にピッタリくっついた花、或いは長い花茎に、単一やペアで揺れる花とか、古い西洋山査子の図案にある“小球塊”のように、ギッシリと枝に密集した花もあります。各々の小花がミニチュアのバラとなるまで花弁を二重八重とした後、彼らは白と赤らむピンクから、バラとサクランボの色合いを通して、深いルビーと真紅の色彩へと導きます。

 素晴らしい“鬱金(うこん)”の樹は、長い間京都御所の敷地にしか咲いていませんでした。そして黄金・エメラルドグリーン・淡いブルーとか“水色”のこれらの花が、余所の庭で咲くことが出来るのは、帝への贈り物としてだけでした。今や鬱金は、どこの日本の養樹園でも買うことが出来ます。

 

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鬱金(うこん)の櫻

 

 

   (知恩院の冬ザクラ)

 ほとんど全種類が葉芽の開く前、葉のない枝にそれらの花をつけます。しかし幾つかの櫻は葉芽の穂先によって生じる魅惑的彩りを対照的に見せました。花びらが吹き飛ぶ“空に舞う吹雪”の後、櫻は緑の衣に包まれます。そして安らかな色彩と心地好い色合いの普通の樹となります。やがて厳寒期が到来し、豊かな茶色と黄色の葉が、灰色の繻子(しゅす)の小枝や枝に長く垂れ下がります。春に咲く最初の樹は、一重の白とピンクの山櫻と、百品種以上もの血統全てを継ぐオリジナルな種・吉野ザクラ(ソメイヨシノのこと)です。日刊紙のニュースは、花の蕾の進み具合を記録します。その有様は、西洋世界で競馬とか懸賞金付き格闘技を公表する時の興奮状態と全く同じです。枝垂れ櫻が花の雨を降らせた後は、彼岸櫻(エクィノクス Equinox)が咲き、さらにその後、櫻の花のために究極の言葉があるように、惜しみなく豊富に幾十幾千もの花が折り重なって咲きます。ついでもどこでも、誰もが少なくとも二週間は続く花の饗宴に遭遇するのは請け合いです。

 異なる枝、或いは同じ枝にさえ一重二重の花がつく櫻の変種があり、さらに季節外れに咲き、これにこだわる変種の樹もあります。その最も有名なものが“馬鹿ザクラ”で、京都の円山公園、知恩院境内に至る山門の脇にあります。威厳のある知恩院の僧侶は、それを“冬櫻”と呼んでいます。そして植物学者は、それを“十月櫻”と名付けています。その繊細で白く小さい花星は、薄ら寒い秋風に震えています。その花びらは、初雪の薄片とともに落下します。また年中しばしば咲く“四季櫻”、さらに毎月バラのように咲く“一年中櫻”があります。“十月櫻”は、多く嫌な霜を伴う晩春に近い特有な時期から守られるように作られた櫻です。寒さの凍みた樹がその強さを回復しながら、季節に関係なくその義務を果たして咲くのです。そして一度も間違えることなく、ずっと今も、お馬鹿さんで異常な行動を続けているのです。

 

   (伊予の十六櫻)

 伊予地方の不死の“十六櫻”、ラフカディオ・ハーンが『怪談』の中で不滅なものとした“魂のある櫻”は、陰暦とか中国暦で正月の十六日に咲いたのです。私は新暦の3月1日に、そこへ巡礼したことがあります。私が松山で尋ねた人たちは、誰も有名なサクラについて知りませんでした。それを見つける手掛かりは、『怪談』によるものだけでした。そしてついに“十六櫻”を見つけました。それは大変風変わりな客人にいる寺院の境内で発見しました。旅順の大勝利(日露戦争での旅順要塞陥落)で連れて来られた人質たち、毛むくじゃらで髪の乱れた憂鬱症のロシア人捕虜の一団を仄かに明るくしながら、その枝に美しく咲いていました。これら外国人の面前にもかかわらず、伊予地方の人々は、この“魂ある櫻”へ巡礼しました。そして日本の花に対するのと同じように、孝行心を込めて詩歌をその樹に結んで吊るしたのです。

 その樹に乗り移った魂は、一老人(老武士)の魂なのです。彼は死期が迫ると、慈しんだこの櫻を再び見られるだけ十分長く生きられるように祈ったのです。それは冬の臨終でした。そして梅ノ木だけが生命復活の兆しを示し始めておりました。しかし、神さまは彼の嘆願を認め、その美しい樹はローズピンクの枝々を覆い、幸せな霊魂は屍から抜けてその樹に入ったのです。そして今日までそこで生き続けているのだと、こんな風に伊予の人たちは語っています。

 戦争のある年には、花の色は白に近いほどの淡い色合いとなります。「遥か満州では、こんなに沢山の血が流れた」と寺院の僧侶は語りました。さらに「今年の櫻の花は、白っぽくなっている」と。

 

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櫻に七夕のように短冊をさした絵 彼女の「日本の櫻」の挿絵

 

    (春は曙)

 4月の陽光、さらに月の光ならば一層よく、歌人の語る淡く清い曙の光によって全て最高となり、そんな光の中で咲いた櫻は、自然が見せる最も理想的で驚異的な美しい樹となります。その短い栄光は、悦楽を一層鋭敏で強烈にし、光明が樹から放射します。誰しも、繁茂する緑葉以上に、ギッシリあり余るほど花を積んだ枝の下に立つと、上下周辺全てが柔らかなピンクの電撃光でギラギラするのを感じます。やがて風と雨は、蕾や花びらを乱します。雨は、日本の4月の恒例のお天気なのです。

 花は咲くことを以って、その使命は完遂します。なぜなら日本の櫻の樹は私たちアメリカ人の持つ実用的物質感覚の櫻ではないからです。それは生活のために働き、市場のために作物を生産するものではありません。美の爆発が終わった時、それに期待するものは何もありません。その全能力は、適切に落ち度なく花咲くことに費やされます。そして櫻の樹は再び巡って来る季節まで、平穏のうちに休息をとります。

 ところで、サクラの種類によっては、アメリカの鳥が嘲るちっぽけな赤い小球のサクランボをつけるのもあります。これらのちっちゃなサクランボは食用ですが、誰もこれ以上良いものが手に入らない時には、顕微鏡でしか見えないような中国北部産サクランボだけが食用となっています。幸いにも日本の北の鳥・北海道の政府農事試験場では、私たち米国産リンゴた天候に難しい他の果物と同様に、米国産サクランボにも成功しました。そして、今では私たち米国一般市場にあるサクランボも東京市場へ沢山入荷し、多様性に富んでいます。

 

    (ジョージ・ワシントンと櫻)

 ある日本の友人は「さて、ご存じですか」と声を潜めます。まるでとんでもないスキャンダルに遭遇したかのように話すのです。「あそこの櫻は、とても貧弱で卑しい小さな花で、しかも全く下品で醜いだけです」と。ここにはアメリカの樹木が、単に果物のためにのみ名付けられたり、識別されたり、価値が認められたりすることから、全民族的視点があったのです。日本人は、その樹に咲く花だけを慈しんできたのです。歴史上伝説上の櫻は、帝の国と同じ位に古いものがあります。原住民を征服し驚嘆すべき武勇を発揮した草創期の英雄ヤマト・タケル(日本武尊=やまとたけるのみこと)は武士道(Bushido)つまり“騎士道的教義”の最初の代表者であり模範です。さらに彼はヤマト・ダマシイ(The Soul of Japan)の化身である最も早い櫻花勲章の騎士の一人です。

 武勇・信義・名誉そして忠義の精神は、吉野山へ3年以上も亡命した後醍醐天皇のロマンチックで絵のような生涯を通して櫻花と結合し、これまであり余るほど産まれました。彼は、冒険と勇気を求める華麗なチャーリィ王子(英国スチュアート王家の再興を企てた人)に似て、その個性は櫻の花のように吉野山近隣に充満しておりました。主従、異なった場所の敵陣で捕虜になる際、忠実な家来・備後ノ三郎(児島高徳)が櫻の樹皮に天皇へ宛てて伝言を書いたその場所は、参拝すべき巡礼地の一つになっております。

 いやしくも櫻を手にする者は誰でも、一度は感傷的なお酒の勢いで備後ノ三郎櫻を手に持ちます。そして緑色に茂った沢山の葉と赤い葉芽を伴った白い小さな花を誇らしげに見せるのです。

 私たちもまた、全アメリカ人の中で一番偉い人物と関係する櫻の樹の伝説を持っております。しかし、私たちは、どんな風にそれを論じたらよいのでしょう?どの子供もジョージ・ワシントンと櫻のことを知っております。しかし、それを冗談事、乱暴な遊びの類ととられ、小さな手斧は、単に英雄と彼の行為を連想させるだけです。誰もジョージ・ワシントンから樹木に咲く美しい花を連想する人はおりません。

 櫻草記念日(4月19日)に、櫻草が英国政治家(ロード・ビーコンスフィールド)の思い出を新鮮にするように、ワシントンの誕生日だからといって、コートの襟に櫻の花を付ける者はおりません。誰が、不滅の櫻が茂るウェストモアランドへ聖地巡礼したり、或いは古いワシントンの生家にある櫻の樹木から、接ぎ穂や接ぎ木を探すでしょうか?

 

吉野の櫻と雲海 

吉野山 中ノ千本

 

    (吉野の山櫻)

 日本の至る所、その年のお祭りシーズンは櫻の咲く時です。万事が“菊の季節”よりも遥か前から“櫻の季節”に応対し、話題は次第にその日付へと向かって行きます。その月間中、帝の国全ては九州から遠く北方までバラ色の花環で飾られます。誰もが当然のことして花見に出かけます。誰も、近隣の“魅惑的なサクラ”の名所を見過ごす人はいません。どんなに貧しい人でも、歴史的な樹木を見るために有名な場所へテクテク歩いて行きます。その季節、全鉄道は沢山の特別なお花見団体旅行列車を走らせますが、最低料金を支払うことの出来ない人たちは、こうして徒歩で行くのです。

  イトウ公爵(伊藤博文)は、偉大な帝國の夢の実現として、“錦の海岸”下手にある大磯別邸の、櫻の小径と常緑樹の間に咲く珍しい木々の完全な標本を、とても自慢しておりました。東郷提督は、乃木将軍が行ったように、訪問の記念として櫻をあちこちに植えました。そして二人は、騎士道の花について詩歌を書いております。

 吉野、“日本の中心”である大和、その中心の山脈の頂きにある山村は、櫻の花と同義語です。さらにまた日本中の詩歌や美とも同義語です。帝の国のかつての首都は、今でも一年間のうち二週間を除いて、全く眠っております。そして花の週が近づくと15世紀以上も続いてきたように、大勢の国民が“下の千本”“中の千本”の観櫻に来ます。沢山の節だらけの古木は、その樹齢の全てを物語っております。それらの淡い花の魂は、漂白したリンネルや滝に例えられます。その特別な“下の千本”は、吉野村の家々の屋根の線より上に数マイルの長さに渡って咲きます。そこで偉大な詩的霊界が支配し、書の芸術が知られるようになって以来ずっと、毎春どの樹木の枝にも数千の歌の短冊がはためいています。今までに、その山腹を詩情で包んだ最高の日は、秀吉が一万人園遊会を催した時でした。帝の国の全ての諸侯、大名は吉野行きを命ぜられました(吉野の花見)。そして彼らは花の供揃いで祭りの行列に参加しました。彼らは、儚い山花を熱愛し、塩漬けの櫻茶を茶碗でチビチビと飲みます。誰もが歌を一気に書きなぐり、沈黙の賞賛のうちに枝々へ結び、ヒラヒラさせます。そして太閤の権力を補強し、互いに彼の偉大さと政治機構の堅い団結を確信します。

 

    (円山公園の夜櫻)

 吉野の後、京都は櫻の花の賞賛の中で、祭り一色となります。町の東方を塞ぐ円山の山腹すべてがピンクの花の枝々で覆われます。どこもかしこも、櫻、櫻、櫻、また櫻。そしてまた櫻。円山公園全てが、淡いピンクの雲に変わり潮流となり、羽根飾りとなり、大波となります。さらに、松に対比して鮮やかな真紅に輝くピラミッドに変化します。しかし何といっても、日本の櫻の中で、祇園社(八坂神社)と知恩院門前にある巨大な枝垂れ櫻の古木が、公式な春の前触れとなります。その130年の間中、最初にパッと咲くのです。その枝垂れ櫻は長い間、裏町の迷路の中に閉じ込められ、雑然とした集まった屋根に隠されてきました。それが、祇園の境内に燕の巣のようにくっついた沢山の小さな家々を掃き撫でる時、賞賛される展開となりました。今ではその立派な枝垂れ櫻は、遮るものもなく姿を現わし、新しい公園の円形台地の高い王座に付き、立っております。それは、沢山の柱と突っかい棒によって引き伸ばされ保護された、太い幹と膨大な枝を持つ気高い老樹です。その枝垂れ櫻の天辺全てに花が咲き、ぶら下がった小枝全てから花の滴がどっさりと降り注ぐ時、見物のために遠くから来るだけの価値ある光景となります。日中は旗々が天上へ布告し、日が暮れると提灯、絵のような鉄籠の松明、電光そして色鮮やかな火が、その櫻の品性を高めます。提灯や裸火の明かりによって、櫻の雲海は昼間以上に魅惑的となり、“夜櫻”の名前が、その枝垂れ櫻にぴったりと結び付きます。

 祇園の櫻の後は、13世紀に退位した帝(後嵯峨天皇)が吉野から運び込ませ、嵐山前面を覆う松や紅葉の森林へ蒔いた一万本の櫻が咲きます。京都平野の西端の川(桂川)、その広い鏡に映る嵐山の険しい山腹は、もう一方の日本の櫻と完全に同義語です。京都のサクラを賞賛する舞妓踊り(都踊り)は、町の芸者演舞場で祭りの期間、催されております。

 

    (東京の櫻)

 東京では、最初の祭りが上野公園で始まり、徳川将軍の菩提寺を囲むように人びとの憩いの場があります。日中は老成した山櫻や吉野櫻(ソメイヨシノ)が、空中に聳えます。さらにルビーの火炎竜巻を伴い、見事な松の美観を背景に枝垂れ櫻が咲いております。一週間の後、向島の土手に沿った道には、頭上にかかる枝々で長さ一マイルの花のトンネルができ、夜になるとお伽の国となります。昼も夜も、百万の東京市民全ての行列が、止むことのない河の流れのようになって、花のトンネルを潜ります。乗り物は許可されず、警察官が群集を誘導します。茶店・屋台・店・脇の陳列棚の二重の列が群集を誘います。そして屋形船や大学クルーが、河を別のカーニバルのように演出します。この花見は大衆のお祭りで、何度でもふざけ回れる大変な無礼講となります。数マイルのお伽の国の花にとって、数マイルの酒樽がピッタリお似合いです。このマイルドなお酒ワインは、その醸造過程で争う種子のない品質を持ち、笑いを活発にする愉快な飲み物です。「酒なしで、いかに花見が楽しめようか?」と、1500年前、履中天皇は歌を詠みました。その時、花びらが彼の酒盃に落ちました。

 江戸川(現在の神田川)、小石川砲兵工廠付近(現在の東京ドーム)の運河には、水面に映えて美しさが倍増する1マイルの櫻並木があります。そして小船は、櫻全ての美的効果が最高になるよう、花の道を上り下りします。

 東京市へ供給水を送る小金井の水道堤(玉川上水)は、1735年、将軍吉宗によって吉野から運ばれた一万本の櫻に縁取られています。彼は花の清澄さが、水の純粋さを保護すると信じていました。

 

    (20年来の悲願)

 この日本の国で誰もが、大波や雲や山のように沢山のバラ色に満ちた櫻の長い並木や公園、毎年敬意の払われる象徴的老樹、まさに宝石樹で輝く天国のような光景を目にする時、なぜこれまで、日本のサクラが私たち西洋人の公園や行楽地に植えられなかったのか、不思議に思うことでしょう。それは、20年間、誰かさん(シドモアさんご自身のこと)が、荒野で叫び続けてきた思いと同じです。「私はワシントンの公園へ、特にポトマック河沿い埋立地へ日本の櫻を植えたいと願ってきました。その場所に、何かを植えるならば、毎年花見を出来る樹々がよく、その時、ワシントン全市は家庭的となり、市は大勢の観光客を迎えることになるでしょう」

 公園を管理する温和な陸軍の将校さんたちは、日本の未来のお伽の国の話に飽き飽きしながら耳を傾けましたが、誰も、興奮したり納得するにはいたりませんでした。昨年(1909年)の春、タフト大統領夫人(ヘレン・ハロン・タフトさん)へ直訴がなされました。その時、夫人は毎日午後、ポトマック公園でバンド演奏会が楽しめる社交界全体の集会所建設に努力しておりました。月曜日の朝、日本のサクラに積年の願いを込めた一通の覚書が急送されました。水曜日には、最も近い養樹園から利用できるかぎりのサクラを調達し、直ちに着手命令を出したとの返事がありました。木曜日には、将来ワシントンが向島のようになるとのニュースが、著名な化学者タカミネ博士(高峰譲吉)の耳に達しました。長年にわたり博士は、ハドソン河畔リバーサイドドライブが数マイルのサクラで覆われるのに理想的な場所であることを、ニューヨークの公園行政官に理解させる努力をしながら、時が空しく過ぎておりました。ニューヨーク駐在のミズノ総領事(水野幸吉のこと)とともに博士は、大統領夫人がアメリカの友人である日本から千本ほどのサクラの贈り物を、喜んで受け取って貰えるかどうか問い合わせてきました。土曜日には、申し出でのあった樹々は、手厚い歓迎で快諾され、実行に移されました。

 この麗しい行為が、新聞各紙に掲載されると、編集者は記事の筆頭に“2千本の手斧にとってチャンス”との一節を載せました。また別な編集者は、“カクテル用の木樽にして千個”返礼にしようと仄めかめました。そんな上げ足取り屋さんたちへ、「それでも、諸君たちは、文明人なの?」と問い質されるのも不思議ではありません。

 厳選され、花の咲く10種類の株に接ぎ木された、長さ8から10フィートの櫻2千本が、東京市長から贈呈され、昨年(1909年)11月に日本を出発し、12月には、櫻がシアトルに到着しました。さらに特別な冷蔵車両で大陸を横断して輸送され、3月か4月の植樹期に備え、冬の間ワシントンで農事専門家により保護されます。ハドソン・フルトン祭(河川記念日)開催中での高峰博士の戦略は、ニューヨークのために櫻通りを確保することです。そして日本の恩恵で、首都ワシントンが櫻並木の向島になると同様、大都市ニューヨークもそのようになることでしょう。

 

ポトマック河畔の櫻とワシントンモニュメント

ポトマック河畔の櫻

 

 

  今日のBGMは TAMさんの楽曲・『櫻時』

 

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