峰の花折る小大徳~再びシドモア女史について~

 

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まだまだ満開にはほど遠い寒い日々ですが、樹幹には可愛い染井吉野の花びらが咲いていました

 

 

 

         峰の花折る小大徳

                           ~再びシドモア女史について~

 

 

 寒の戻りと申しましょうか、花寒とでも申しましょうか、拍手喝采があった靖国での開花宣言の後、寒い日々が続いております。東京の櫻はまだ一分か二分といったところでしょう。前記事のシドモア女史の論考はシドモア研究者で第一人者の外崎克久氏の多くの著作によって書かれたものです。氏は『ポトマックの櫻~津軽の外交官珍田夫妻物語』(1994)、『エリザ・シドモアの愛した日本~ポトマック櫻秘話』(1996)、『ポトマックの櫻物語~太平洋の虹とならん』(1998)など多くの著作がありますが、幕末から明治の頃に活躍した多くの方を発掘し、私たちに詳細にご紹介を戴いている方です。そして今日再びシドモア女史のことを書かねばと思うに至ったことがあります。明日3月27日は何故サクラの日なのか、それはシドモア女史をおいては語れないからです。その日(明治45年3月27日)こそ、ワシントンで櫻が移植された歴史的な日だからです。植樹式にはタフト大統領夫人と日本大使珍田夫人とシドモア女史によってホワイトハウス近くのポトマック河畔に植樹されたのでした。私たち主従は、その記念すべき日・ワシントン・ポトマック河畔の櫻の植樹式に対して深く敬意を払いながら、お許しを賜ひつつ、敢えてその好き日に、花と散った数多くの夭折された方々へご供養をする日(櫻忌)とさせて戴いております。財団法人日本さくらの会では、その日を「サクラの日」と取り決め記念日となされていらっしゃいます。

 シドモアさんを偲び、清らかな信念の人である彼女への愛着の念を籠め、昭和62年に「シドモア桜の会」が発足されました。共立薬科大学の恩地薫先生が「横浜シドモア桜の会」の代表でいらっしゃって、今年もワシントンから里帰りし、シドモア女史の墓標を守るようにして咲く花を見る有志のお姿が見られることでしょう。恩地先生は「シドモア女史と日本の桜~日米親善の架け橋となったシドモア女史」という文章の中で、改めてシドモア女史のご遺徳を書かれていらっしゃいますが、もっともっとシドモア女史の志や業績を知って戴きたく、恩地薫先生の文章を参考にさせて戴き、もう少しシドモア女史をご紹介したいと思いました。

 シドモア女史は日本を愛し、櫻の花を愛でる日本人の心を最も愛した方でした。彼女こそ、日米交流をサクラを通して、真に実現した方です。1856年(安政2年)、米国アイオワ州クリントンで生まれました。大学を卒業するとワシントンで新聞記者として修行時代を送ります。その間当時未開のアラスカへ取材旅行を切っ掛けに、ヨーロッパ各国やアジア諸国を頻繁に訪れ、新聞・雑誌などへの寄稿や講演などで数多くの紀行記録を発表し、次第に紀行作家としての地位を確立して行きました。初来日は1884年(明治17年)、シドモア女史28歳の時で、母キャサリンや外交官であった兄ジョージが日本に滞在していた関係もあって、文明開化で活気に満ちた日本全国を、紀行作家の目で隈なく見聞していました。明治24年(1891年)にはその時の印象を一冊の本にまとめた旅行記(Jinrikisha Days in Japan)を出版、当時の日本を生き生きと広く欧米に紹介しました。中身は、今の時代と異なり、小さな船で難破などの困難に立ち向かいながら、淋しい太平洋横断し、やっと上陸した横浜の描写から始まり、東京・関東一円・東海・関西・瀬戸内そして九州まで公域に亘っています。行く先々で女史は庶民の生活から宮廷社会の内部まで鋭い観察眼で、今や知る由もない一世紀以前の昔の日本人の姿を活写しています。特に自然の風景や花々、植物には多大な関心と興味をよせ、日本人が花を愛でる心根や習慣を讃え、春の杉田の梅林から、亀戸の藤の花、池上本門寺の牡丹、堀切菖蒲園、そして秋の川和の菊や団子坂の菊人形など、四季を通して小まめに観て廻り細かく描写しています。

 中でも日本の櫻の美しさには心を魅かれ、上野の始め各地の櫻の名所を訪れ、土手沿いに延々と続く向島の櫻並木、水清らかな隅田川に浮かぶ無数の小船、そして幸福感に満ち足りた行楽客の織り成すお花見風景などの描写には特別に力を注いでいます。この時の思いが「母国アメリカにもこのような美しい櫻並木を」という長年抱き続けた夢となり、後年ついにそれを実現させたのです。

 

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今日、皇居の縁に諸葛菜の花がひと足先に満開となって咲き乱れていました

 

それから約20年後、シドモア女史は既にアジア通のジャーナリストとして著名な旅行作家であり講演者となっていました。ワシントン社交界の花形的存在で、当時のワシントンは都市計画案がやっと完成したばかりで、ポトマック河畔は未だ造成中の殺風景な埋立地であり、そこを大公園にすることが喫緊の課題とされていました。そうした環境美化事業の頂点にいたのが、前年秋に当選したての新任大統領タフト氏のご夫人であるヘレンさんでした。1909年(明治42年)4月、当時52歳のシドモア女史は、かねてより旧知のヘレン夫人と歓談した席上「日本の櫻を大量に移植し、ポトマック河畔を東京の隅田川のような素晴らしい櫻並木にしたらいかがでしょう」と提案しました。それ以前にもハドソン河畔に櫻並木をと希み、その計画実現に奔走していた高峰譲吉博士や、日本の櫻の移植に熱意を注いだフェアチャイルド氏など、同じような考え方を持っていた方は何人かはいましたが、今を時めく大統領夫人に直接直談判をしたのはシドモア女史が最初でした。彼女の熱意は両国政府や世論を動かし、櫻をめぐる壮大な日米友好のドラマが始まりました。

 アメリカの新聞各紙は「ポトマックに日本の櫻を」と大見出しで報じ、ニューヨーク総領事は、日本の外務大臣宛てに、シドモア女史の手紙を沿え「この機会に東京から櫻をワシントン市に寄贈し、櫻堤が出来ればアメリカの対する日本の友情の記念になる」と進言しました。駐米大使も外相に打電して応援したのです。そうして、この計画は日に日に実現へと向かうのでした。

 明治42年8月、東京市議会は、タフト氏の日本訪問に対する答礼と大統領就任の祝賀の意を込めて、櫻の苗木2千本に寄贈を決定しました。当時の日本は日露戦争の直後で、国民の意気は高揚しており、尾崎行雄東京市長はその前後の事情を「日露戦争の際日本に示した多大の好意と親切に対し相当の謝意を表したいと思う心は日本人の中にはかなり強かった。タフト大統領夫人がポトマック河畔に櫻を植えたいと計画しているので良い機会であるから先方には買わせず、東京市が寄贈することにしようと考えた」と伝記に書き残しています。

 「友好の苗木」は横浜港から日本郵船(船賃無料を買って出た)の貨物船で太平洋を渡りシアトルまで運ばれ、そこから特別仕立ての貨車に積み替えられ、雪のロッキーをはるばると越えワシントンに着いたのが、翌1910年1月13日のこと。ところが到着の苗木に病虫害が発見され、やむなく2千本すべてを焼却されるという予想だにしなかった事態が発生しました。この悲報は日米両国双方の関係者に大きな衝撃を与えました。だがその挫折から立ち直りが早く、東京市は櫻の再寄贈を同年4月に決めています。早速専門家の手で苗木の選択と育成が開始され、植物病理や昆虫学者の協力を得て慎重な出荷準備が進められました。そうして2年後の1912年(明治45年)3月26日、待望の健康な櫻3千本が無事ワシントンに到着し、検疫も無事終了しました。翌27日ポトマック河畔で行われた植樹式では、第一樹が大統領夫人ヘレンの手で植えられ、それを見守る人々の輪の中に、珍田駐米大使夫人とシドモア女史の晴れ姿がありました。このようにしてサクラ移植の提唱者としてシドモア女史は大きな役割を果たし、20年来抱き続けた夢をここで実現させたのです。

 シドモア女史は真の親日家で、国際人でした。1924年アメリカ議会が「排日移民制限法」を通過させると、憤然としてワシントンを去りスイスのジュネーブに移住しました。広大なシドモア邸には世界戦争を防止する人びとが数多く訪れ、国際的な談論の場となっていました。その中には国際連盟事務局で活躍していた新渡戸稲造博士の姿もありました。女史はそのまま母国に帰ることなく1928年(昭和3年)11月3日に72歳の生涯を閉じました。ニューヨークタイムスはその死を大きく報じ、現地の追悼式には吉田公使がベルンから駆けつけ追悼の辞を捧げました。でもよかった、第二次世界大戦の、あの酷い日本の軍部(関東軍)の有りようを知らなくて・・・・・、そう思っています。

 翌昭和4年の秋、女史の遺骨はその死を惜しむ日本政府の配慮でスイスから日本に迎えられ、横浜山手の外人墓地にある、母と兄の眠るシドモア家の墓に埋葬されました。納骨式には、冷雨降りしきる中、内外の知名の士及び百名が参集し、埴原前駐米大使の司会により、新渡戸稲造博士が英語で弔辞を述べ、幣原外相のメッセージも代読されました。11月27日付けの東京朝日新聞は、「奇しき米婦人、遺骨を日本の土に」という見出しで、彼女の死を惜しみ、日本で手厚く埋葬されるに至った経緯を報じています。シドモア女史は対日理解の促進に貢献が大きかったとして、明治41年に、日本政府から勲六等宝冠章を授けられました。

  

横浜外人墓地のシドモア家の墓標 現在里帰り“シドモア櫻”が4本咲いています

 

  しかし時は流れ、かつての親日家一族の墓は兄妹共に一生独身であったことからシドモア家は途絶え、今は無縁の塚となっております。外人墓地をファッショナブルに訪れる人は多いけれど、シドモア女史の墓前に立ち止まる人影は少なく、日米友好の櫻を見事に咲かせた彼女の功績は年月と共に忘れ去られています。ワシントンの櫻と聞くと、尾崎行雄の名前を連想する方は多いものの、その陰には、日本の櫻を愛し、日本とアメリカの間に櫻の架け橋を渡そうとした一人のアメリカ人女性がいたことを、是非広く知って戴きたいものだと存じます。でも嬉しいことが一つだけありました。アンジェラ・アキさんが去年この墓地にピアノを持ち込んで、シドモアさんのために熱唱したのでした。サクラ色の歌でした。

 残念なことに、外人墓地は公的資金が一切使われておりません。かつて明治のご維新の際、岡倉天心と共に日本美術を再評価し、日本のみならず世界にも発信したフェノロサの墓地もあります。外人墓地とは、異国情緒溢れる素敵な場所でしかないのでしょうか、管理など一切は私人のボランティアによって支えられています。雑草一つすべてが民間の手によるものです。その殆どが日本を愛し、近代日本の建設に多大な貢献をした方ばかりなのに、横浜市も神奈川県も日本国も見て見ぬふりをしています。僕は国立墓地にしたっていいじゃないのかと憤怒の思いをもって、この記事を終わります。

 

  本日のBGMは TAMさん作曲の『栄華の墓所』

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