愛しきモディリアーニと妻ジャンヌ 

 

  「ユダヤの女性」 いつもパリ派が集合する部屋に掛けてあった

 

 

                     愛しきモディリアーニと妻ジャンヌ 

  

 

 どうですか、パリの櫻は。あちこちで素敵に咲いている頃でしょう。今年の日本列島は温暖かと思いきや何と寒冷前線がどっかり居座って寒く、開花宣言から10日経ってやっと満開になったんですよ。こんなにって、十数年前にもあったと記憶していますが、櫻好きには堪らない嬉しさです。お陰で各地の櫻も永く存分に楽しめそうです。そんな折を見てパリのあなたへ、再び書かせて戴こうと思いました。今日の話題はアメデオ・モディリアーニと妻ジャンヌ・エビュテリヌのお話です。もう100年も前に活躍した画家たちなのに、彼ら二人とも、いまだに生きて僕たちに問い掛け、そして僕の胸に熱い思いを点し続けている画家なのです。前回でも書きましたように、この奇妙で美貌に恵まれ天賦の才があって、お互い磁石のように魅かれあった者同士の二人、モディリアーニとその妻ジャンヌのお話が僕に生きる勇気と熱情を与え続けてくれています。

 

最も有名なモディの油彩 「つば広帽子をかぶる妻ジャンヌ」

 

 言うまでもなく、アメデオ・モディリアーニは多くの方々から愛され続けています。生涯・350枚もの油彩の肖像画を残しましたが、以外と少ないとお思いでありましょう。実は彼は彫刻家に憧れ、必死になって石材と対峙していた若き日のモディリアーニでした。22歳でパリに出て来た時は半分彫刻を諦めかけ、一から出直しのモデリィアーニでした。モディリアーニは18、イタリアのトスカーナ地方の港町リヴォルノに、ユダヤ系イタリア人として生まれています。パリで画家を目指し、パリの異邦人(エトランジェ)となります。最初に出会ったコレクターは、ポール・アレクサンドルで医者で美術を限りなく愛する男でした。彼はパリのデルタ地帯のモンパルナスに芸術村を作り、そこには画家のみならず、作家の卵や詩人なども大勢屯していました。貧乏な絵描きは皿洗いや運送の手伝いをして糊口を漱ぐのですが、モディリアーニは純粋に絵だけを描き、持って生まれた美貌の彼には多くの女性がついて廻り、そして酒や麻薬に手を染めたモデリィアーニは雑誌社の特派員だったイギリス人ジャーナリストのベアトリクス・ヘイスティングスなどと浮名を流し、酒場では誰彼なくデッサンをして酒代を稼いでいました。その中にパブロ・ピカソもいましたが、モディリアーニはピカソ以外殆どの芸術家を軽蔑していました。芸術村「エコール・ド・パリ」には、野心と希望に溢れた無名の前衛画家が集まり、モイズ・キスリング、マルク・シャガール、藤田嗣治、ハイム・スーチン、そしてパブロ・ピカソなどなど。友情と嫉妬の中、彼らは毎晩のように酒を酌み交わして鬱屈を吐き出しました。

          ドクター・ポール・アレクサンドル

                ジャン・コクトーの肖像                           ポール・アレクサンドル博士の肖像(一部分)  

 

 その中で浴びるほど酒を呷り、麻薬に溺れ、醜態と狂態を晒していたのがモディリアーニでした。この前後のことは1958年に発表された映画『モンパルナスの灯』(ジェラール・フィヒリップ主演)で明らかな様子です。 友情と嫉妬の中、彼らは毎晩議論し口角泡を飛ばしていました。そのサロンにはアレクサンドルの計らいで、いつもモディリアーニの『ユダヤの女性』の絵が掛けてありました。モディリアーニが描き続けたのは肖像。「生きた人間が前にいないと、何も描けない、だって自然の中で人間ほど尊厳に満ちたモノはないし、その人物の中に入って、その人物から垣間見れる人間の神秘を描くんだ」と言って、彼は盛んにに、や女、詩人を描きました。彼が描いた『パブロ・ピカソの肖像』の絵の左肩には「SAVOIR(知ってる)」と書き込まれています。この言葉には、モディリアーニがピカソを知る、ピカソがモディリアーニを知るという2つの意味がありました。 二人には堅い絆で結ばれていました。ピカソを通じて、セザンヌを知り、そしてジャン・コクトーですから、当時の最も偉大な人だけを頼りにしていたようです。ピカソの方は皮肉混じりに「酔いつぶれたモディリアーニを見かけるのは、決まって人目をひく街角だ」と言っていましたが、モンパルナスの貴公子として跋扈していたようです。ピカソはそんなモディリアーニにボヘミアン気取りを見抜いていたかも知れませんが、ピカソはモディリアーニには一目置いていました。

 

    モディとピカソ  コクトーが写す

                               パブロ・ピカソの肖像(savoirと見える)              モディリアーニとピカソ(ジャン・コクトーが撮影したもの)

 

 いつまで経っても不遇と貧困の底にいたモディリアーニ。しかしポーランド人の若き画商・レオポルド・ズブロフスキーが1916年、展覧会の片隅にあったモディリアーニの絵に釘付けになります。いわく「ピカソより2倍良い画家を発見した!」運命の出会いでし。芸術村に居辛くなったモデリィアーニにとって、救済の神のようなズブロフスキーでした。彼はモディリアーニのために自分の住まいをアトリエとして提供し、家財を売り払って給料450フラン与え、絵の具も買い与えるという熱の入れようでした。ズブロフスキーはいつも穏やかに、忍耐強く画家を見守りました。モディリアーニはズブロフスキーの肖像画を7点残しています。尊敬と希望の証のように、全体を明るい色が覆います。

その頃19歳になったばかりの画学生ジャンヌ・エビュテルヌとモディリアーニが出会います。アカデミー・コラロッシのデッサン教室でした。敬虔なカトリックの家庭で育ったジャンヌは、無頼で奔放な異邦人であるモディリアーニに心奪われます。半年後両親の大反対を押し切ってジャンヌはモディリアーニのもとへ参ります。彼女は献身的で従順な愛を捧げます。そしてモディリアーニはジャンヌを描くことで、自分の独特な絵のフォルムを完成させました。長い首、傾げた顔、アーモンド形の青い瞳、なで肩。写実を超えた、モディリアーニの肖像画の特徴です。 ベアトリクスは麻薬と酒の影響で、こうしたフォルムが出来たのだと言いますが、彼女だって、モディリアーニを常に励まし描かせた立役者でもあったのですが、誰あろうモディリアーニに大麻を教えた張本人でもあったようです。モディリアーニは妻ジャンヌにぞっこんで、一人のモデルでは最大の20枚を描いています。

 

目のないモディの絵の特徴 

モディリアーニが 自らの絵の特長を形成するにあたって重要な過程になる絵

           

 モディリアーニは、女性画廊主ベルト・ヴェイユの進めで一回だけ個展をやっています。1枚の衝撃的な作品を携えて初めてでしたが、その1枚は警察署長をカンカンに怒らせるに充分でした。毛が描いていると卑猥だったのでしょう。キャンバスいっぱいに横たわる裸婦、彼は古典的な画題を独特のフォルムで描ききりました。挑むような官能と柔らかな肉体、その体温が伝わるような杏色を帯びた肌色。しかし警察には敵いませんでした。風紀を乱すとして絵の撤去を命じられ、生涯ただ1度の個展は、1枚の絵も売れないまま幕を閉じたのです。気の毒に思ったベルト小母さんは一枚購入したようです。

 

古典や古いサロンと対峙し新たに自らの芸術性を追求するために裸婦は絶対に必要なモチーフであった

 

 大量の酒と麻薬、破滅に向かうモディリアーニ。ズブロフスキーは彼に、パリを離れて南仏・ニースへ行くことを勧めます。穏やかな暮らしの中で、ジャンヌは娘(1歳で後に両親とも失う結果となる運命の子~名前はジャンヌ・モディリアーニでした)を産みます。モディリアーニはそのことの喜びを隠そうとしませんでした。しかし平凡な幸せを重ねながら、画家としての焦燥もあったのです。やがて、パリでモディリアーニの作品が評価され始めたという知らせが届きます。1年に及ぶ療養生活を終え、モディリアーニはパリに戻る決心をします。パリ・モンパルナスのアトリエに戻ると、モディリアーニは制作に自身の命の持分を意識したかのように絵に没頭しました。僅か1週間で油彩1点と、4~5点のデッサンを描き上げてしまいます。とにかくモディリアーニにはデッサンの数はおびただしく、その凄まじい枚数は彼の真骨頂だったことでしょう。この時期に彼の傑作が集中していると思われます。モディリアーニは画壇を駆け上がり1919年、ロンドンのマンソード画廊に出品された絵の1枚には1000フランという展覧会の最高値がつきました。長い不安と失望から解き放たれたはずのモディリアーニですが、以前に増して酒と麻薬に溺れていきます。宿痾の結核、そして腎臓炎も確実に進行していきました。

    

              妻の出産と自らの養生のために行ったニースからパリに帰ると 時を惜しむがごとく制作に没頭し 幾つも傑作が生まれた

 

            

                                              愛する妻ジャンヌの肖像画 最も多く(20点)描き モディリアーニを啓発してあまりあった

 

     

                   友人ハイム・スーチンの肖像                庇護者の一人ズボルフスキーの肖像             力を入れた裸婦 これは習作

              

人生 たった一度でたった一日の個展 恥をかいたようだが 断じて裸婦の制作はやめなかった             

 

 残された時間を悟り、静かに動く絵筆が描いたのは『自画像』。お気に入りのコーデュロイのジャケット、小粋に巻いた青いスカーフ。しっかり握ったパレットは彼には少し重かったかもしれず、かすれた抒情が漂います。結核性脳膜炎により1920年1月24日、モディリアーニは35歳の若さで世を去りました。その2日後、ジャンヌもアトリエの窓から身を投げました。パリの異邦人として不遇と貧困の中、酒と麻薬に溺れながら、独特のフォルムを完成したアメデオ・モディリアーニ。ボヘミアンの画家が死期を悟って描いた『自画像』は今、遠くブラジル・サンパウロの美術館にあります。

 

 

  自画像 最期のモディリアーニ (油彩の自画像はこの一点のみ)

 

 映画「モンパルナスの灯」では、妻ジャンヌに死を知らせず、勝手に絵を買い上げて行った悪徳画商(リノ・バンチュラ)が出て来て、ジャンヌは絵が売れることに大はしゃぎをして歓ぶ場面が最後に出ていましたが、実際のモディリアーニは劇中の路上ではなく病院で亡くなっているようです。最晩年のモディリアーニと三年以上ともに生活し、ジャンヌ・エビュテリヌは大人しく気品に満ちて寡黙の人でした。そのジャンヌがその時、9ヶ月の身重の身体でしたが、モディリアーニの死後たった2日後に思い出深いアトリエの窓辺から投身し後追い自殺をしてしまうのでした。何たる哀しみでしょうか。永い間エビュテリヌ家ではジャンヌのことは一切タブーでした。モディリアーニの眠るペール・ラシェーズの墓地に入れて貰えたのは、その後10年の年月が経っていました。そして永い間封印されていたジャンヌの絵が公開されたのです。それはジャンヌも素晴らしい画家で、もし長生きしていたら、今頃大画家の道を歩んだかも知れませんし残念でなりませぬ。ジャンヌも又モディリアーニのように、キュビズムや今日の絵画の先駆者であったに違いないのですから。

 

              アメデオ・モディリアーニ近影        ジャンヌ・エビュテルヌ CIMG1853 の補正

            愛すべき僕らのモディリアーニ     花に喩えれば睡蓮 宝石だったらエメラルド しなやかな立ち居振る舞いの美の化身・ジャンヌ

 

             CIMG1773 の補正  CIMG1774 の補正

                  最愛の妻ジャンヌのデッサン(このデッサンだけが娘ジャンヌに残されていた)と、つば広帽子のジャンヌの油彩

 

                         ジャンヌ自身の肖像画  ジャンヌが描いたモディリアーニの肖像画     

                  妻ジャンヌが描いた自画像と、ジャンヌが描いた愛する人モディリアーニの肖像  大変な才能の持ち主であった

 

モディのデスマスク

モディリアーニのデスマスク(長年娘のジャンヌのところにあった) 安らかに!

 

同時に両親を亡くした一人娘ジャンヌが40歳を過ぎて意を決して書いた父の評伝『伝説なしのモディリアーニ』 と記憶にない母の写真

この本の末尾に、娘ジャンヌは父のことを「モディリアーニは星の子で、この世の人ではなかった」と結んでいる

 

 

 今日のBGMは 平原綾香が歌う『今 風の中で』 

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