紙衾(かみぶすま)

 

  亡き主人の絵日記より 銘に『放浪 薩摩路』とあり

 

 

                              紙衾(かみぶすま)

 

 

  人は誰もが旅人である。花咲くまでずっと待っていたのに、あっと言う間に櫻の花は散ってしまった。花も又旅人であるのだろう。カタチあるものはすべてが旅の途中でやがて必ず終焉をむかえる。松尾芭蕉が春浅き江戸を出立し、凡そ六百里(2400km)、155日間の『奥の細道』を終え、終わりの地(結びの地と表現している)である大垣に旅装を解いたは初秋の頃であった。殆ど弟子の河合曾良が同道していたが、腹を病みて途中の山中(やまなか)から故郷のツテを頼りに伊勢に帰ってしまった。「行き行きてたふれ伏とも萩の原」と書置きを残し離脱した曾良に、翁も繰り言を書いている。“行ものゝの悲しみ、残ものゝのうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、「今日よりや書付消さん笠の露」”と。その後奥の細道では唯一の独り旅となり、全昌寺・汐越の松から天竜寺・永平寺と巡って福井の等栽(とうさい)がもとに身を寄せ、而して敦賀から種の浜を廻り、そこから最終地の美濃・大垣まで約二十km、途中から門人の一人露通(ろつう)がお供になって大垣に入った。何と大垣には旅のいとほしき弟子・曾良が駆けつけいて、懐かしい面々の顔ぶれが揃っているではないか。“越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入集る。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其外したしき人々日夜とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる”と、よっぽどほっとして嬉しかったに違いない。又現在の大垣・水門川には芭蕉翁とともに船問屋を営む大垣の豪商・谷木因(ぼくいん)の銅像が立っているように、俳句上での弟子・木因もやって来て、更に大垣藩300石の城代家老・戸田如水(じょすい)や俳句を嗜む武士たちも大勢尋ねて来たという。如水も、句を嗜む武士の筆頭で、南蛮酒一樽献上したと「如水日記」には書いてある。翁の印象を、如水は“へつらわずおごらざる有様”と表現し、一瞥して相当な御仁であると感服したようで、十日ほど大垣に留まり、“長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」”の句を残して最終地大垣を去って行った。生と死の間をいつも旅枕し、生死の整理をつけないまま、常に大宇宙を感得し傍に置いて生きることが出来た希に見る人ではなかったか。そんな翁を慕って、大垣市正覚寺境内には忌日入りの芭蕉翁の塚が凛と立っている。同じ漂白の人生と言っても、道中は今で言う俳句の言わば通信ネットが助けたわけで、漂白と言えど今日で感じうる種田山頭火のような漂白ではなかったが、芭蕉翁にとっては逆説的に至極悠然として豊かな人生であったのだろうと思う。この年、元禄二年のことだから、芭蕉の齢・四十六歳の時であった。芭蕉が大好きな「時雨」いまだしと言った季節。

  この大垣で、生死をともに旅をした曾良にとって口惜しく、酷く存念の残ることがあった。当時旅には紙衾(かみぶすま)と言って、分厚い和紙で作った寝間着(丁度東大寺お水取りの際に、錬行衆たちが着る別火精進の和紙で出来た着物のようなもの)を必携するものだが、それを最も大切に携行していた芭蕉翁は、何とヒラの門人の一人でその日、初対面の若き竹保(ちくほ)にアッサリと遣り与えた。すべてを意志力で歩む翁らしい逸話だが、「あとくされなく生きる」のが翁の真骨頂なのだろう、衣食住を誰にも頼らず生き、憂き世ともサッパリと別れを実践してみせたとしか言いようがない。よっぽど悔しかったに違いない曾良は、「畳目は我が手のあとぞ紙衾」と自らの心情を句に叩きつけている。

 

  旅が大好きだった亡き主人の絵日記 銘に『青森 西目屋村にて 卯月終わり』とあり

 

  芭蕉翁は、元禄七年十月十二日申の刻(午後4時)、大阪御堂筋が花屋二左衛門宅内の貸し座敷で最期病没した。没年五十一歳。死の四日前の夜更け、病の床で詠んだ句が、「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の名句である。この句は何も辞世の句ではなく、病中吟とでも言うものでしょう。二日前の晩方から容態が悪化したのを覚悟し、芭蕉は兄半左衛門宛て、自書としては最期となる遺書を認めている。曰く、「御先ニ立候段残念可被思召候。如何様共又右衛門便二被成、御年被寄、御心静二御臨終可被成候。至爰申上る事無御座候。市兵へ・次右衛門・意專老を初、不(残)御心得奉頼候。中二も十左衛門・半左殿右之通。はゝ様・およし力落し可申候。以上 十月十日 桃青 松尾半左衛門様 新蔵ハ殊二骨被折忝候」と。最期も又旅の途中であったが、小さく短い言葉を、巨大なものにした俳聖・芭蕉らしい文章である。市兵へは故郷・伊賀上野の人で貝増氏。俳号卓袋(たくたい)。芭蕉の死に際しては土芳(どほう)と伊賀の門人を代表して出向き、遺髪を義仲寺から携えて帰り、愛染院に故郷塚を営んだ人。次右衛門も伊賀上野の人で岡本氏。俳号は苔蘇(かいそ)で藤堂家藩士である。意専老(いせんろう)とはやはり伊賀上野の人で窪田氏。俳号猿雖(えんり)と号し、元禄二年仏門に入り家督を子に譲って、意専(いせん)と改号し俳諧に精進した。十左は山岸十(重)左衛門と称した芭蕉の姉の夫で陽和のことか、またはその子・半残ではないだろうか。半左は兄の通称名・半左衛門のことで服部土芳であり、伊賀上野藩の藤堂家に仕えたが、後に浪人し俳諧に生涯を託した。芭蕉の遺風を伝え、所謂「三冊子」を残した人。はゝ様とはばば様のことで兄嫁のことであろう。およしは芭蕉の末の妹のことである。桃青とは芭蕉翁の別号で、末尾但し書きにある新蔵とは、この人も伊賀上野の人で片野氏と称し俳号は望翠(ぼうすい)。屋号を井筒屋と言い、芭蕉の一の妹の夫であった。この遺書で大切な点は「お先に逝きますが、残念に思わないで下さいネ。“如何様(いかよう)とも又右衛門を便(頼)りになされ、御年寄られ(長生きなさって)、御心静かに御臨終なさるべく候。爰(ここ)に至って申し上ぐる事御座なく候”」と認めた翁の心の優しさである。又読みようによっては、御心静かに御臨終とは自らに言い聞かせた文言であったかも知れない。「不(残)御心得奉頼候」とは、「皆によろしくお伝えくださいネ」と書いた心の清らかさ優しさである。最期の最期まで、自分に厳しく相手には心優しき気遣いをし、前日の朝から食事を一切取らず、所謂不浄断ちをしたのであった。実にサラリとした覚悟あるご最期で、如何にも芭蕉らしさが垣間見れるのではなかろうか。そしてこの芭蕉翁のご臨終に際し、去来・基角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛などの弟子たち十名が立会い、そのうちの支孝に代筆をさせ、思い当たるところ皆それぞれに遺言を遺したが、亡くなりし其の日の夜半、ご遺骸と皆ともに淀川を遡り、十四日には同じくご遺言なされた現在の大津市にある義仲寺に芭蕉は埋葬された。

 

 

枝垂れ櫻と俳句

 

  これも亡き主人が麻布の帯芯に絵を描き、芭蕉翁の櫻の名句「里人は皆花守りの子孫かな」を表現したものであった。字も主人の自筆である。開花宣言からずっと待ちに待っていた櫻が、あの家族五人で出掛けた日を今を盛りに、鮮やかに瞬時に櫻花は散ってしまい、未だに清らな薫りや美しい残像が残って幾らか感傷的になっているのだが、このような櫻の散り方を見るにつけ、爽やかに逝った芭蕉翁のことがしみじみと思い出されたことである。芭蕉の散る潔さは櫻の散るがごとし、鮮やかにして時代を超えて語り継がれて行くことだろう。まだ開花もしていない北国の方々には甚だ申し訳ないことだが、あれこれ思いながら葉櫻の中を散策し、今年の櫻花の余韻に何処かでドップリと浸りたいものだと願っている。

 

 注 (芭蕉の没年51歳にして「翁」という表現は今の時代では全く妥当ではなく可笑しいが、当時の日本人の平均寿命(40歳?)から考えて当然のことであったろう。医療もろくすっぽない時代では、例えば京都・東寺の立体曼荼羅などに、すがりつきたい程の深刻な信仰が一般的であったのではなかろうか。今日のような私たちの寿命が延びたことがいいか悪いかは別にして)

 

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