佛には花のお香を奉れ

 

 

 

             佛には花のお香を奉れ

                                           其の弐 吉野山 奥千本初花見

 

 朝早くどうしても吉野に行くと告げ、朝7時40分の近鉄特急に飛び乗ったのは聊か強引であった。でも時の移ろいはその瞬間でしかなく、妻の止めたのを僕はどうしても許して欲しいと聞かなかった。独り車窓に映る柔らかい緑の色とりどりは、僕を圧倒してやまない。済まないと心で呟きながら、既に心は吉野に飛んでいた。京都を出る際、吉野観光タクシーに連絡してあったのがよかったのか、9時26分に吉野駅に着き、出口で、僕の名前が大きく掲げられて運転手が立っていた。ちょっと恥ずかしかったが、お陰さまで吉野駅から奥千本の入り口に当たる金峯神社まで一気に一っ走り。辺りは既に初夏の雰囲気で、到底櫻には出逢えまいと思っていた。タクシーの運転手も、先日の風雨でやられたから、上千本も櫻は全部なくなりました。奥千本は行っていないから分からないけれどなどと、情けないことを言う。でも今年も遂にやって来た吉野。奥千本の入り口、金峯神社まで。夕べから脚が腫れ出して不安があったが、僕は坂を登り、そしてすたこら吉野杉の古道を歩き始めた。その道は大嶺山に分け入る行者道で、古代の役の行者の大発声が聞こえるような吉野杉が鬱蒼と生える古道で、まじに櫻は咲いているのか、僕自身も時間とともに不安になって来た。石の道標を頼りに、今度は急峻な坂を手すりを頼みに、延々と降り始める。やっぱり駄目なのかと思われたその一瞬、何と眼下には櫻の海が広がっているではないか。ざっと観たところ、ひと目千本とまで行かないようだが、確かに間違いなく奥千本の櫻の海である。何十回だろうか吉野に来て、未だ奥千本の花盛りに出逢ったことがなかったけれど、こうしてやっと逢えたやっと逢えたねと、膝が笑い痛む右足を感じながら、僕は櫻の根のもとに駆け寄りたい気持ちでいっぱいだった。山櫻と一言で括れたり総括して言えるものでは絶対にない。白いのもあれば紅い色の花びらもある。小さい花びらも大振りの花びらも何でもあるではないか。樹肌もそれぞれに違う。僕は崖をよろよろと下りながら、既に完璧に櫻の夢の中にいた。 

 

 

                        

    櫻の海の中に、ひっそりと奥に佇む西行庵がある。中はたった2畳しかない小さな小屋だ。凡そ800年前に、ここに住んだ西行はこの庵から向かって左手にある苔清水を飲んだ。「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな」。木造の西行さんがいる。僕が最も好きな歌人であるのに、ただ一度も論じることはなかったのは、余りに僕の心血に入り込んでいるためだろうか。こうして西行庵の横手にじっと座り、奥千本の圧倒する見事な櫻の海を眺めていると、西行が吟じた多くの櫻歌が僕の胸に滾々と湧き上がって来る。「吉野山 去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへて まだ見ぬ方(かた)の花をたずねむ」「吉野山 花のさかりは限りなし 青葉の奥もなほさかりにて」「吉野山 梢(こずえ)の花を見し日より 心は身にもそはずなりにき」 歌を心で吟じつつそこから見える山櫻はまさに奥千本の絶景で、こんなところにただ独り西行は何度も脚を運んでいたのだ。櫻を何に見立てたのであろうか、かの悲恋の女御かはたまた御仏か、あれこれ想像を膨らませるが、やはり希代の北面の武士であった西行はどこか人と違った凛とした何かがあったのであろう。芭蕉も彼を慕って、この奥千本に二度も脚を運んでいる。苔清水には芭蕉の句碑が苔生して瀟洒に建って見える。「露とくとく試(ためし)に浮世すすがばや」とあり、高潔な詩人同士の、偽らざる稀有な会話でもあったのであろう。

 

西行庵 

西行の木像

西行庵近影と木造の西行像

 

    僕はどのくらい留まっていただろうか。櫻散る中にいて、妻が持たせてくれたジャコ山椒やスグキを刻んだのが入ったオニギリなどを頬張り、ペットボトルの日本茶を飲んだりしながら、随分と座っていた。吉野の山櫻はみな里人の信仰で支えられている。お花と信仰の結びつきは長い歴史と、深い信頼関係にあり、一言では括れずそう簡単なことではあるまいて。今度の吉野行きだけは強かに我が胸中の己惚れや野心や執着心を真っ向から砕いてくれているようで心地よかった。風が吹く。ハラハラと櫻の花びらが舞い散る。散ったひとひらの花びらの樹幹を見ると、どれも古い樹肌で、細く見えていたものでも、圧倒する風格と威厳を兼ね備えている。多くの文人や歌人、そして吉野で果てた南朝の後醍醐天皇、義経と静御前が最期の行き分かれとなった場所で、静御前が鎌倉に囚われて行き、頼朝や政子の命により鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を舞う。その時歌った歌が「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と東国(平泉)に落ち延びたであろう恋しい義経に対する明らさまな恋慕の情を歌ったものであった(古今集・冬歌にある壬生忠岑が詠んだ<み吉野の山の白雪踏み分けて 入りにし人のおとづれもせぬ>が本歌取りになっている静の歌なのだろう)。又「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」とも歌いあげ、静が自分の名を織物の倭文(しづ)に重ねて吟詠し、昔=義経の治世であったならばという歌で、兄・頼朝を激怒させた。政子から“女の私なら、私もあのように歌うはずよ”と窘められ、寸でのところで静御前は斬首を免れている。中千本の吉水神社にはまるで小学生が着るような、小さな義経着用の鎧が残されている。吉野の歴史は古い。古事記や日本書紀にも記述があり、万葉集にさえ出ているのだから。日本独特の修験道は、絶大な信仰を一般民衆から集め得たが、この吉野には役小角(えんのおずの)という修験行を確立した人が、中千本にある蔵王堂のご本尊としておいでで、その木像は櫻木で出来ており、そこから御神木として櫻木が崇められるようになったのである。大嶺修験道に続き、熊野三山への修験道でもある吉野の櫻古道。僕はあれこれ思いつくまま、ぼぉ~っとしていると、既に30年以上も手放さずに読んで来た西行畢生の名書「山家集」からの歌がふつふつと沸きあがって来るのだった。僕にとって吉野は特別な櫻の聖地で、僕はここで完全に僕自身が芯の芯まで浄化されて帰れるのである。最後に、役の行者さまつまり神変大菩薩さまにお願いし、吉野にご縁があった先人・先哲を心で拝し、般若心経を花を観ながら大声で唱え、花の霊とともにご供養申し上げ奉らむとぞ思ひつる。

 

           苔清水に建つ芭蕉翁の句碑     奥千本への道

                  「とくとく~」の芭蕉の句碑                       大嶺山に通じ熊野三山まで行く修験の古道

 

山櫻はどれも古木で、樹肌は苔生して立派だ でも吉野も補植が必須になることだろう

 

 こうして僕は再び急峻な崖を登りだし、奥千本の入り口にあたる金峯神社を目指し過酷な山歩きが始まる。病み上がりの僕は、後から来る人たちから「お先にぃ」と何度も声を掛けられつつ先にやり過ごし、杖を頼りに必死になって歩いた。歩行は堪らなく遅く、脚はやっぱり徐々に悪くなっているようだ。吉野駅午後5時29分発京都行きの特急までまだまだ時間があるはずだが。(蔵王堂や竹林院群芳園や中千本、上千本のお話はまた別稿にて)

 

                                                  平成廿一年四月十七日午前

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