よくよくめでたき舞ひたるや

 

蔵王堂のご朱印

 

 

 

 

                 よくよくめでたき舞ひたるや

                   其の参 中千本 竹林院群芳園 蔵王堂など

 

 

 金峯神社を境に奥千本は吉野山の裏側の山肌に当たり、水分(みくまり)神社付近は完全な上千本で咲いている山櫻はホンの少々であった。近くの、歌舞伎「義経千本櫻」の狐忠信で有名な花矢倉から蔵王堂を眺める吉野の全景は別格のもので、でも今は中千本も下千本も櫻木はすべて新緑で光り輝いていた。咲いている櫻は櫻本坊の八重櫻や遅咲きの山櫻などそこそこに極僅か、中千本から見上げる瀧櫻と呼ばれる絶景ポイント付近「火の見櫓」に、笹部新太郎翁の石碑が建っている。翁ご自身が建立されたもので、ご存命中この吉野にも深く関わり、吉野の方々に様々なアドヴァイスをし補植のお手伝いをなされた。翁石碑に曰く頌櫻  花は春を呼び 人は花に酔ふ 花の徳であろう 類なき材質の故に 日本の文字と文化を伝へる母体となった版木に身を刊(けず)ってきたのも櫻である 器材として鼓の胴があり 妙へなる韻(ひび)きに人の心を浄める 櫻をただ春の粧(けは)ひとのみ観て このも一つの櫻の功徳が世に知られてをらぬのを憾(うら)みとし 久しきに亘って我が民族の享(た)けた恵みに酬(むく)ひたいものと ここにささやかな供養の碑を建てる 昭和四十年四月 笹部新太郎」 翁は東大を卒業すると一切就業することなく、櫻一筋に生きて来られた方である。日本のここぞという櫻の場所は殆どが翁の息吹が掛かっているのだ。

 

全写真とも竹林院群芳園での風景

 

 中千本にある竹林院群芳園は櫻本坊手前に位置し、蔵王堂までは吉野の商店街全部を通っていかねばならない。この竹林院群芳園は現在旅館となっているが、古い歴史を持つ旅館で、特に庭園は大和三名園の一つに挙げられ、僕は毎回必ずここに立ち寄る。婚前、妻と何度も宿泊した思い出を持つ宿でもあり、二人で庭園の頂に立って吉野の御山全部を見渡すのを慣例としている。与謝野寛はここで、「み吉野の竹林院の静かなり 花なき後もここに在らばや」と詠み、妻晶子は、「山の鳥竹林院の林泉を樂しむ朝になりにけるかも」と吟詠している。とにかく美しい庭園で、いつどんな季節に行っても何がしかの花があり、樹木は気品に富んだ樹木ばかり、手入れが実に行き届き、いつもこちらの頭の中までスッキリとして来るから不思議な場所だ。遥か眼下、反対側に、南朝宮廷であった後醍醐天皇所縁の美しい御寺・如意輪寺の堂塔伽藍が見える。そこに「花冷えや 扉の文字 かへらしも」(杜雨)の句碑があるが、御寺の御扉に、四條畷の戦(足利尊氏軍との戦)に際し、最後の戦いとの覚悟を決めた上、本堂(如意輪堂)に詣で、ここから出陣した楠木正行(正成の長男)が辞世の句として、矢先の鏃(やじり)で「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」と書き残したことに触れた俳句であろうと思う。御寺の裏山には後醍醐天皇の御陵である塔尾陵がしっとりとした雰囲気の中にあるはずである。五郎兵衛茶屋付近、相叶(おうか)と言う場所には「かさぎ山おきのしま山吉野やま 思ひかさねてぬゝる袖かな」(龍敬)の歌碑もあり、この竹林院を中心に数多くの文学の香りが色濃く漂って来るのである。竹林院で裏山に落ちていた落椿の黒紅色は何とも言えぬ気品で、竹林院の正体を雄弁に物語っているというものだろう。

 さすがに吉野の商店街を歩いていた時は脚の痛みは半端ではなく、やっぱり妻の言う通りだったと心から反省しつつ脚を引き擦り半歩半歩と歩いた。健常者の半分以下の速度である。吉野郵便局手前にあるお米屋さんに立ち寄る。ここのご主人は多く山櫻のボランティア活動をしている中心的活動家で、是非近々の吉野の実情を聞いておく必要があった。ご主人から上千本の更に上に、今年300本の山櫻を植樹したと。櫻基金や植栽のボランティアを募っていることも。吉野も今や危機に瀕しているのだ。僕らも協力することになろう。そこを後にし商店街を尚も歩く。かの有名なダラスケの語源にもなった腹薬の陀羅尼助本舗吉野葛を売るお店や柿の葉寿司を売る商店などをようよう歩いた。義経が実際に身につけた小さな飾り胴などが残る吉水神社は坂を下って又上がらなければならず、今日は完璧に諦めた。そしてどうしようもなく屈んでしまい、そこにちょうど伊豆・稲取の吊るし雛のように、魔除のしるしである唐辛子を模した手製の可愛いらしい吊るし魔除を売る出店が出ていた。漸くそこのご婦人から助けられ、俄か作りの座席で一休み、右膝の様子を見ると、何と膝下から脚首まで左脚の2倍くらいパンパンに腫れていた。然も筋肉痛が半端ではない。痛みが遠のくまでしばらくじっとしていた。でも歩かなければ、この苦行も蔵王権現さまの思し召しであるのだろう、とようよう立ち上がった。目の前に、吉野、取り分け西行を慕って最近名古屋から吉野に移り住んだ日本画家の井上憙斎さんの画廊兼店舗がある。店内に入って見ると見事な櫻図など多くの日本画があり、彼は主に絵葉書と通りを行く人の似顔絵描きで生計を立てていらっしゃると聴く。僕は素敵な数枚の絵葉書を購入し再会を誓い握手して別れた。きっと素晴らしい画家になることだろう。

 必死の形相をしてついに蔵王堂(このHPにライブカメラも装着して御座います)に到着する。さすがにいつ観ても威風堂々!恰も日本民族の背骨のようにがっしりとして観える。堂前の有名な四本櫻はどの樹も花をつけていなかったが、よく観るとただ一本だけまだ開花していない山櫻があるではないか。驚きであった。吉野は山櫻しかないのだ。山櫻しか似合わない。境内の愛染明王さまや菅原天神さまにも詣でた。ご朱印を戴き、神妙に堂内に入りお線香を手向ける。深々と頭を垂れ、我が全身に満ちる櫻への思い=業の深さというものを綺麗さっぱりと祓い清めてくれそうで嬉しくてならなかった。我が娘・杏の健勝と、身重な妻の分は当然無論のことで、しっかりと祈りを深めた。声を出して般若心経を唱和する。神変大菩薩(役小角)さまが真正面にいらっしゃって堂々と受けて下さっておいでだ。二日後19日には櫻のシンフォニーin蔵王堂<吉野乃風にふかれて>があるが残念。堂内の修験者のお一人から今年の花供会式(四月十日~十二日まで)は、上千本まで一斉に花開き、華やぎのうち無事懺法会も女人護摩も終えられたと聞き及び、やはりその時季が一番いいのかと再び家族みんなで参ろうと心に誓った。さてそろそろ急がねばならない。祈り終えると、杖を片手にケーブルのある黒門へと必死になって急ぐ。痛む脚に難行苦行の思いを籠めるべきかとウウウ~~と叫びながら急ぎ、黒門前の門前商店街軒下に下がる蔵王権現さまの櫻の花文様が描かれてある、寺紋の鮮やかな提灯がこんな僕を最後まで励まして下さった。吉野駅17時29分発橿原神宮前駅乗り継ぎの京都行き特急電車へ何とか間に合い、僕はやっとこさほっとした。それにしても山櫻の品性や気品は何者にも換え難い。他の財団は何故性懲りもなく染井吉野のみ植樹なさるのか、殆ど理解不能なのである。染井吉野は白痴美的ベッピンだが、こうも染井吉野だけ突出し国民的に持て囃されると、如何にも現代の日本社会全般を象徴しているかのように思えてならない。倭心(やまとごころ)は山櫻にありと愈々信念・信条を強くした今回の吉野への苦衷の旅であったように思えた。更に二時間足らずの京都までの車中、様々に存念が交錯して仕方なかった。居眠りどころではなく、痛んだ脚での乗り継ぎもひと苦労であったが、すっかり暗くなった京都駅に着くと、近鉄改札口傍の南口出口から出てタクシーに飛び乗り、妻の実家へ。叱られる覚悟はあったが、ビッコをひく僕に怪訝そうに心配して下さった義父母に恐縮して詫びた。パンパンに痛々しく膨れあがった僕の右脚に、妻は何とまぁ優しいキッス!有難うShi~~!今宵も杏とお風呂へ。杏を手早く入れ終えると妻に手渡し、僕は頻りに脚の筋肉部分を湯の中でマッサージしたが、何となく腫れあがるばかり。風呂上りに早速外科用湿布剤を貼り、痛め止めのロキソニンと胃粘膜増強剤のムコスタを飲んで早めに眠りについた。然し夜半ジンジンと痛みが来て、つい目を醒ましてしまったが、こればかりはどうすることも出来なかった。

 

威風堂々たる蔵王堂本殿 日本人の骨格を見る思い

 

                                                                     平成二十一年四月十七日午後

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