見るに心の澄むものは

 

    CIMG3284 の補正   

           大阪造幣局 一番人気の松月                                    真言宗智山派総本山 智積院 正門

 

 

          見るに心の澄むものは

                              其の四 吉田神社 大阪造幣局 智積院

 

 明後日19日に妻の勉強があって、今日いっぱいで京都を去らねばならない。朝起きて、僕の脚の具合を見た妻はオロオロするばかり、朝食もままならなかった。それでも僕は21日まで大阪造幣局の櫻の通り抜けだから、今日何とかして行きたいと言えば、もうどうしようもない。妻はすっかり厭きれ顔。僕たちは本来年の差結婚であったが、僕は杏に負けないくらい赤ちゃんになって妻に甘えるしかない。何だか、目覚めた杏からも笑われているようで、どうしようもない駄々っ子ねと杏も言わんばかりで、何とか妻が一緒に行くこと、車椅子(故義父祖のもの)で行くことでやっと合意してくれた。10時過ぎ杏を義父母にお願いすると、障害者用のタクシーを呼んで真っ直ぐに吉田神社へ。最初妻はアレッと言った顔をしていたが、こうなりゃどうでもすればいいと開き直っているような塩梅。大変有難く、妻の心なき同意にただただ感謝するばかり。底意地が悪いかなぁ、実際脚には痛烈な痛みが走って、その具合は多分最悪であったのだろう。向かった先の吉田山は妻の勝手知ったる場所で、旧三校の寮歌「紅燃ゆる丘の上~」でつとに有名な小山で、その歌碑も建っているくらいである。吉田神社裏手が吉田山だが、小高いこの丘は割りと人に散策されることはなく、東南に位置する真正極楽寺(通称・真如堂)などがあり、辺り一帯は清浄感に溢れる閑静なところだ。多くの観光客は南東の真如堂に流れて行く。百万遍の交差点から京都大学が始まり、一つ南に下った路地を京都大学の塀に沿って行くと、吉田神楽岡町の吉田神社が見えて来る。10時半から吉田神社例祭が始まっていたが、お目当ては南都樂所(なんとがくそ)が雅楽を奏上と、倭舞(やまとまい)が奉納されることだ。吉田神社のご祭神は奈良・春日大社四神と深いご縁があり、よって古来から南都樂所がこれを相勤めて来られた。車椅子で押され、本殿近くの舞台に近づくと、氏子の方々が車椅子の僕を前へ前へとやってくれた。11時から始まる予定のはずが、15分ほど遅れて漸く倭舞が始まった。奈良・春日若宮御祭りでも観たことがない厳粛な演奏で、南都衆の誇りだろうか、ゆったりと舞手の男性二人が何の飾りもない扇と榊によって、晩春の風に吹かれ清々しい思いが残った。南都樂所はその秘曲の多彩さ故、そして厳重な管理のもと、今日の宮内庁にある雅楽にも少なからず影響を与えているものと見えた。尚「徒然草」吉田兼好は、この吉田神社系統の社人であるが、吉田神社に吉田神道を確立した吉田兼倶は鎌倉末期に活躍した御仁で、吉田兼好より後の室町時代の神職である。直接吉田兼好の血筋であったかどうかは定かではない。でも奈良・春日大社の四神を遷宮させ、京都守護とした本宮を始め、この社殿には幾つものお社があり、瀟洒だが、旧官幣中社として大変な神社であったことに違いはないのである。舞が終わって妻と北白川辺りに立ち寄って、お茶をしながら食事でも出来たらいいのだが、待たせてあったタクシーに急ぎ乗り、京阪線・出町柳駅へ。最近地下鉄は大抵エレベーターが付いているから、こんな時は極めて嬉しいも。それでも所々身重な妻が車椅子を畳んで抱えなければならず、心中穏やかではなかった。既に安定期に入っているから大丈夫という表情の顔の妻に何度も心から感謝した。そして京阪特急で天満橋へと急ぐ。

 たった一時間余で天満橋に到着すると、大川を渡って大阪造幣局(現独立行政法人 造幣局南D棟の南口へ。やはりJRより遥かに便利で近い。だが土曜日であることもあってか、大変な人ごみで、天満橋を渡る群衆の数はまるで軍隊蟻の大行列のようで圧倒される。脚に痛みがあり、何度かロキソニンを飲む。やや目立って来たお腹を抱えた妻は、僕の我が侭のために、時折手押しをしなければならない。僕は極力必死になって僕の腕力で車輪を漕いだ。それでも妻は不平そうな素振りは見せない。諦め顔なんだろう。でもまじにホントに悪いと何度思ったことか。妻の人となりは一旦いいと決めたことに最早モノ申すことはないといつもスッキリした風だ。造幣局に来る来方は色々あるのだけれど、京阪の天満橋駅が最も近いだろう。既に延々と続く大川端の露店が強烈な匂いを放ち客寄せのダミ声を上げ、参る。気分が悪くなる思いの中、造幣局の南口から櫻のトンネルに入る。北口まで約450m、三方に八重櫻が並んでいた。ここの開催期間は関山(かんざん)の八重櫻の満開で決まる。120種類、200本の櫻の通り抜けである。確かに基準木になっている関山が圧倒的に本数は多かったが、北海道の松前で作られた珍しい櫻や東京荒川堤で発見された櫻が多く、これだけ多種多様な八重櫻の出展は他に類例を見ないだろう。妻は櫻の名前のメモを取る。僕は、如何にも大阪っぽい見物人と押し合い圧し合いしながら、左右に動いて、あっちの列こっちの列と必死になって観て廻った。警察官がいなければ、恐らく収拾が付かないだろうけれど、多数の警察官が「立ち止まって写真を撮るなぁ~~真っ直ぐ前へ向かって進めぇ~~~」と拡声器で怒鳴り散らしている。軍隊であるまいし、何もその通りにしてたら、櫻の一瞬の切り取りも出来やしない。でもしょうないことでしょう。笹部櫻や太白や鬱金(うこん)は既に花が終わっていたが、今年の櫻に選ばれたのは京都・平野神社境内にだけ咲く平野撫子(ひらのなでしこ=花びらの先端がギザギザと撫子のように割れていて白く美しい八重)で、その満開の平野撫子櫻の前には大きな看板が下げられていた。確か左右に三本あったようだ。けど、最も人気を得たのは松月(しょうげつ)ではなかっただろうか。一番花の勢いがあって、純白で美しく、確かに松月は図抜けて光って咲いていた。珍しい品種と言えば、あの兼六園菊櫻があった。普通の菊櫻より遥かに小ぶりでも花弁が充分ありそうで、うっとりとして見学した。糸括(いとくくり)や雨宿(あめやどり)大手鞠(おおでまり)や紅小手鞠(べにこでまり)や有明(ありあけ)も、みなそれぞれに美しく咲き競っていた。そして染井吉野かと思った樹があったが、よく観ると天城染井と言う変種で粗方花が落ちていた。緑色の櫻の代表格・御衣黄(ぎょいこう)も当然数本ある。もう夢中になって、妻と逸れたりしながら櫻の花を追った。紫匂(むらさきにおい)と言う香り高い櫻の直ぐ裏手にはイカ焼き屋がいて、櫻の匂いも香りもあったもんじゃなかった。でも多分今日一日だけで十万人は来るんだろうなぁ。こんなちょこっとした通りに、大阪の人たちの、毎年の春の大きな楽しみがあるに違いなかった。期間中(大抵一週間の期間)ここに造幣局作成の櫻の一覧表があるが、妻は妻なりに櫻と名前を覚えようと一所懸命になって花を見、メモを取っていた。昭和7年に撮られた当時の通り抜けの映像を観たことがある。その時の樹木はまだまだ小さく樹の間隔が開いていたが、今や立派な八重櫻ばかりで櫻のトンネルになりかかっている。何やかやとあるだろうけれど、笹部翁や佐野籐右衛門(京都・嵯峨野にある櫻守で屋号・植籐)さんも佐野櫻を提出し、皆さんが後世に残しておかなければとの凄い執念や信念を痛感出来て余りあった。オーバーな仕草がウリの大阪人特有の大声や露店などの雑音はともかく、是非一度は訪れてみては如何だろうか。小規模だが見応えは充分であるのだから。妻はニコニコ笑顔で、やっと87種の名前をメモ出来たと子供のように耳元で告げた。約一時間余あっと言う間の通り抜けで、初夏のような強い日差しのなか、大汗をかきながら北門より大川へと抜けた。それにしてもこのテキヤさんの露店の多いこと、ありとあらゆる露店が集合していて、これは日本一ではなかろうか。更にもっと驚いたのは、山形県の玉蒟蒻屋さんで、地元の遣り方の通り干しイカでダシを取って売っていたから驚いた。そうしてやっとこさ再び天満橋を渡って京阪線天満橋駅へ。(僕はデジカメで2GBのメモリーいっぱい620枚ほど撮りまくったが、本文には事実掲載不能につき、現在右上のスライドショーを御覧あれ!僅かばかりで恐縮に候。最初から二番目と三番目の立て看板がある写真が“今年の櫻~平野撫子”です)

 

御衣黄

御衣黄(ぎょいこう)

 

雨宿

雨宿(あまやどり)

 

糸括

全部下を向いて咲く糸括(いとくくり)

 

 

   今から4年前だったか、この造幣局の辺りも含めて、建築家・安藤忠雄さんによって提唱された市民による櫻の植樹が、その年の1月5日に行われたと記憶している。中ノ島から淀川の分岐点まで大川の両岸・距離7キロに亘って千本の櫻の植樹をすると言う。その本数なら適当な間隔で好ましかろう。完全な市民参加型の企画で「桜の会 平成の通り抜け」だったと思う。借金地獄の大阪府にとっても素敵なことだし、大阪の元気があればきっと大丈夫!そして大阪のこの付近は極端に緑が少ないから、余計に素敵な考え方で、僕も高く評価している。

 京阪線祇園四条駅で下車すると、カンカン照りのお日様で、さすがに疲れが出た。ここから四条大宮までかなりな距離だったから、車椅子もなんだから、午前中お願いをしたタクシーに電話を入れて見るとちょうど河原町三条の辺りで空車客待ちであった。早速お願いをして迎えに来て戴いた。ほっとひと息、その時再び僕の脳裏に何かが着火した。まだ時間があるようだから、ちょっとだけ寄り道してもいい?と妻に囁くと、うんもぉしょうないなぁと言って頷いてくれた。運転手の方に智積院さんを廻って戴けるかと問うた。ああいいですよ、さっきのように待合もしますからと快い返事が帰って来る。まるで熱い夏になったようで、車内にクーラーが入っていた。そして智積院へ。真言宗智山派の総本山で、僕のお目当ては長谷川親子の絵であった。特に久蔵の国宝『櫻図』。受付の直ぐ傍に国宝館がある。車椅子を使わず、ステッキで何とか歩き漸く中に入ると人っ子一人いなかった。僕が大好きな長谷川等伯の国宝『楓図』が左、その右には息子長谷川久蔵の国宝『櫻図』が供に並んでいる。僕は木の板の間にピッタリへたり込んで、じっと見続ける。妻と手を握る。久蔵は父親並みに大層な腕で、この櫻図は若干25歳にして描かれたものだ。これを描いた翌年、久蔵は26歳にして急死してしまうのだが、等伯の哀しみようったら半端ではなかった。思いの丈をぶつけるように久蔵の死後『楓図』を描いている。秀吉の命により、最も庇護してくれた利休もいなくなった。そして利休を死に追いやった秀吉も等伯を庇護していたが、久蔵亡き後の五年後太閤は亡くなり、狩野派全盛が依然として続くことになる。絵師として狩野永徳と覇権を争ったが、秀吉亡き後、時を同じようにして等伯はあの名作・国宝『松林図屏風』を完成させている。時の権力者に阿り、英々と狩野派は続いたが、明治のご維新で狩野派は完全に潰れてしまう。だが仏画を多く描いた等伯、その功徳のためだったか現在で14代目(仲氏)として等伯の血筋が英々と続いている。

 僕は、久蔵が描いた櫻図、しみじみと観ていると、ふいに胸を突くものを感じ、妻に遠慮なくオイオイと泣き出した。櫻の樹は一本ではなかった、二本あり、左右に張った櫻の枝ぶりが見事に均衡が保たれ、実に堂々としていながら至極繊細で美しい、櫻の花の丸みを帯びた象徴的な描き方、所々から垂れ下がる青い(緑)柳の新芽、楓図のような華やかさはないが、花の蕾の位置、金箔の跡、樹の元の柔らかい若草色、全体のトーン(色調)と均整の取れた美しさと凄さ、本当に感動させらてしまったのだった。いつもの年の10%も櫻を観に行っていない今年だが、久蔵の櫻図で今年の僕の櫻は完全に終わったとしみじみと悟った。妻は、傍で、ウチ二人三脚で櫻馬鹿になったげると。

 

 

 平成二十一年四月十八日のことであった

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