母の日に わが子は二十(はたち)に成りぬらん

 

竹籠に和紙を張り絵を描いた吉野のお土産と原了郭の黒七味

 吉野土産の竹細工 和紙が貼ってあり彩色が施された直筆の絵 それと京・『原了郭』の黒七味(これって大好き)

 

 

 

             母の日に   わが子は二十(はたち)になりぬらん

 

 

 オフィスに出たいけど、まだ医者の許可が下りていないから外には出られない。仕事は専ら電話連絡で済ませている。今朝、早くから娘と遊んでいたら、妻が、とっくに勉強する時間になっているのに、キッチンで矢鱈なにやら一所懸命にやっている。上を下へと忙しそう。ニヤニヤしながら、何しているのというと、「ううん」と応えるばかり。僕は相変わらず、飽きもせず我が子可愛さだけで、杏の「立っち」の練習をお手伝いをしている。こんな風な家族の普通の光景を、僕はずっと忘れていたと思いがら、特別にスローな雰囲気を楽しみつつ、しばらくすると、ぷぅ~~んといい匂いがして来る。バニラエッセンスの匂いやら、カシューナッツもあるか、ショコラもあるだろうか、いずれにせよバターの香りが間違いなく漂っている。結局何だよと言ってキッチンの妻の手許に近づくと、何と言うことだろう、レシピを見ながら、妻は懸命にクッキーを焼いていた。しかも驚くほどいっぱいある。娘はまだ食べられないのに。形は格好悪く、でもキツネ色をしてて何か美味しそうに匂った。

 先日配達日指定で、日本橋・高島屋から、母の日のプレゼントを京都の妻の実家・義母宛てに、ちょっとした衣類とカーネーションの鉢植えを、オフィスの女の子にお願いして既に手配済みだが、「それって母の日のプレゼントかなんかで焼いてるの?」と聞いたら、「ぅん、ウち料理下手やし、練習せんと上手になぁ~んにもならへんから、今朝のお食事終わってからずっとレシピを見ながら練習しとったんよ。これって三度目やわぁ、焼いてるんやけど、なかなかうまいこといかへんのぇ」と神妙な顔つきだ。「母の日って、もしかしたら貴女、自分自身へのプレゼントなの?」と、彼女の顔を窺って聞くと、「ぅうん、これは、あなたの叔母はんにあげんのんどすぇ」、「だって叔母はお嫁に行っても、子供は出来なかったから、たった一度も母親になったことがない人なんだよ」、「だから逆に返って母の日に改めて、ちょっとでもいいさかいお祝いしてあげたいねん、普段何かと杏を見てもらったり、お世話になっていはるさかいに、そしたらこんな日ぃしかチャンスがないよってにぃ」、「ふ~~ん、そうかぁ」と言ったっきり、僕は押し黙ったままでいた。型抜きも使わないし、何やら変な形になっている数個を、ただじっと見つめていると、これを受け取る叔母の顔をふと想像した途端、急に胸に激しく突き上げるものがあった。「そいから、お母はんのお仏壇にいつも白い花って、それ差別やないのん。そいやから真っ赤な薔薇でも買うて行きまひょ」と。いつしか僕の眼に大粒の涙が溢れて出ていた。

 今様や歌謡を、物狂いするほど大好きだったかの後白河法皇が編じた「梁塵秘抄」は、西行「山家集」とともに、僕は片時も手放さず、いつも手許に置いてある。特に「梁塵秘抄 巻二 三百六十段以下」の下りは、まさしく母の心そのものを、切々と歌ったものが多く、所謂雑歌の一種であろうか、母親の心がこちら側にキッチリと迫って余りある。どんなお囃子でどう歌われていたんだろうとか、舞や踊りがあったんだろうか、あれやこれや想像が完遂しないまま、それでも真に胸に迫り来る歌謡ばかりだ。母の心とは、洋の東西を問わず、古今もまた同じなのであろう。

 

     『梁塵秘抄』より

 

        ○ 遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の聲(こゑ)きけば 

     我が身さへこそ動(ゆる)がるれ (359)

   ○ お前(まへ)に參(まい)りては 色も變(かは)らで歸(かへ)れとや 峯に起き臥す鹿だにも 

          夏毛冬毛は變(かは)るなり (360)

   ○ 甲斐の國(くに)より罷(まか)り出(い)でて 信濃の御坂(みさか)くれぐれと 

     遥々(はるばる)と 鳥の子にしもあらぬども 産毛(うぶげ)も變(かは)らで

     歸(かへ)れとや (361)

   ○ 媼(おうな)が子供は唯二人(ただふたり) 一人の女子(おなご)は二位中將殿の厨(くりや)

     雑仕(ざうし)の召(め)しゝかば 弟(おとと)の男子(おのこ)は 宇佐の大宮司(だいぐじ)が 

     早船(はやぶね)舟子(ふなこ)に 乞(こ)ひしかば 奉(また)いてき 神も佛(ほとけ)も

     御覽ぜよ 何を祟りたまふ若宮(わかみや)御前ぞ (363)

   ○ わが子は十餘(じゅうよ)に成りぬらん 巫(こうなぎ)してこそ歩くなり 田子(たご)の浦に

     汐(しほ)ふむと いかに海人(あまびと)集(つど)ふらん 正(まさ)しとて 問いみ問はずみ

     嬲(なぶ)るらん いとをしや (364)

   ○ わが子は二十(はたち)に成りぬらん 博打(ばくち)してこそ 歩くなれ 國々(くにぐに)の

     博黨(ばくたふ)に さすがに子なれば憎(にく)かなし 負(まか)いたまふな 王子(わうじ)

     住吉(すみよし)に西の宮 (365)

 

  博打打ちになり果てた我が子を思い、神々に祈って、願わくば勝たせて下さいという、そこまで徹した母の心情が痛々しい。いずれの歌謡も、庶民感情いっぱいで、子に対する切迫した愛情で溢れた歌謡である。後白河院の評判はともかくとして、このように、どこの誰兵衛か分からぬ歌までかき集めて戴いたことは、後世の僕たち、更に後の世の人に、どのようなカタチで生きかえるのであろうか。僕は様々な発想や着想を戴いてばっかりであるが、又別個の楽しみがきっとあるに違いない。
 
 

真紅の薔薇

 

 母の日の日付の設定は、世界各国によりまちまちでそれぞれに違う。日本では1931年(昭和6年)、香淳皇后の誕生日である3月6日を「地久節」とし、その日を母の日としたが、結局戦後アメリカに倣って5月の第二日曜日を母の日とされたようだ。そもそもアメリカの母の日は、教会で日曜学校をしていた母アン・ジャービスが亡くなり、それを偲んで、死後母アンが大好きだった白いカーネーションを、娘アンナがアンを偲ぶ会に出席した皆さんに手渡ししたことから由来(1908年5月10日に470人ほど生徒や母親がアンナの意思に賛同して集った日)している。母への思いの大切さを、その娘アンナ・ジャービスによって始められたというのが始めであったようだ。母の日こそ、亡き人を偲ぶ会であり、白いカーネーションを捧げるのが、本当であったのだ。我が日本でも、何故か当然そうなんだけれど、多感な時期を迷っていた中学生の僕は、母の死後、まともな母の日を送ったことの記憶が全くない。母の日は、母が生きていた頃の、若かったお母さんにやった肩もみやお赤飯づくりや、当家では母への感謝の日というより母さんに対するお祭りでありお祝いの日であったような気がする、そんな幾つもある記憶が、永い間封印されずっと底の底に沈んでいた。そうして母亡き後、その日が来るのが絶対嫌で、ずっとずぅ~~っと確かにどこかいじけていたように思う。曲がっていた僕の芯棒を掘り起こし、今日、妻が、しゃきっと真っ直ぐに矯正してくれたようで・・・・・・・心から嬉しく感謝。今度の日曜に、母のお仏壇に、真っ赤な薔薇の花束を、心を心を籠めて贈ろう。

 

 

  今日のBGMは Kokiaさんの『Current Trip』(潮流)

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