父、そして山よ深く登れ

 

伊勢・朝熊山の紫陽花祭り

  紫陽花の便りが届いた伊勢神宮の鬼門を守る御寺・金剛證寺のホームページより (朝熊山の紫陽花)

 

 

 

             父、そして山よ深く登れ

 

  父から誘いを受けた。外で二人一緒に酒を酌み交わそうかと。人生のことでもゆっくり話したいというものだ。僕が若い時に母が亡くなり、その後僕が一切の家事をした。仕事づけで忙しかった父に、僕は何かにつけ反抗ばかりしていた。学生時代、さっさと家を出て、亡き主人の父上さま(故人)の書生となった。小学三年生の夏、数週間を掛け、母と二人で出掛けたヨーロッパ旅行を思い出した。フィレンチェやバルセロナやリヨンやヴェズレーで、教会やローマの遺跡など建築物を数多く観て廻り、僕の将来は決定した。数学が好きだったので、建築家になる決意をした。母はいつも僕に優しかった。僕の後に二度妊娠したらしいが、残念なことに誕生しなかったのである。祖父母同士が仲良しだった関係で、主人の家にいつしか入り浸りとなり、僕はそのまま書生となった。頑なに父と一緒に居たくなかったからであり、書生先のご先代さまは、僕が学生ながら、簡単なハコ物を設計させ建築させてくれた。無論免許を持つ専門家の先生がついていないわけはない。麻布にある男子高校時代から既に設計書や構造計算書を描けるようになっていたし、ご先代は、僕のアイディアの斬新性を高く買ってくれた。構造上、大梁小梁を多用したことにもよる。自然風を取り込む工夫をしたビルも建てた。床加重が1㎡で、2㌧に及ぶオフィス・ビルも幾つか作り得た。有線放送局など、加重が多く掛かるジェネレーター(発電機)や大型金庫が必要なテナントがあったからだ。ご先代が急に亡くなってから、一度出家した亡き主人が会社の跡継ぎとなり、それから建築ばかりではなく、様々な仕事をするように仕組まれた。慣れないし、結構過酷だった。昼夜の区別もつかなかった。僕の家は、白金と広尾と数箇所に、僕の設計で賃貸マンションを建て、父は定年前早めに役所を辞めた。幾ら働いても税金を払うのに精一杯だったと言う。僕の設計料は主人の会社に、父は正当な額の設計料を納め、ゼネコンに直接発注した。僕が30をとうに過ぎた頃から、ああ労働というのはこうも過酷なものかと、日々仕事に没頭する自分を顧み、少しだけ父を見直した。「オトコは辛いよ」なんだろう。僕は主人の祐筆(ゆうひつ)となった。建築以外の勉強をたくさんせざるを得なかった。黙々と、何でもこなした。それこそ何でもである。いつしか、なるべく早く会社勤めを辞めようねというのが主人との合言葉になっていた。主人にフィアンセがいたことはいたが、僕のほうは、女性との出逢いはまるでなかった。その結果インベスト関係の仕事を世界的規模拡充へと、多くの社内規則や社訓や財団法人を作ったまでで、主人はさっさと逝ってしまった。僕は主人が熱心に勧めてくれた品川の、僕の家の土地にマンションを建て、そこに移り住んだ。所謂資産活用というやつだ。それから漸く父と行き来が出来るようになった。東京には化け物のようなお金持ちは幾らでもいる。当家は外見ではありそうに見えるが、毎年の税金を納めるのに四苦八苦していて至って質素なものだ。こんなことから実家や賃貸マンションなどを細かく分筆して、生前贈与という智慧を得た。その税金は今度は僕のほうに廻って来た。ありそうでないのが実情である。ざっとそんな経緯を思い出しながら、銀座8丁目にある行きつけの店に向かう。店のある詳細な地図を描いてオフィスからFaxで実家に送ったが、なかなか父は現れない。やっと父が現れた時、ママは「アレェ~~、やっぱり親子だわぁ。そっくりだわねぇ」と愛想笑いを浮かべた。二人とも背高のっぽだからであろうが、僕は個人的には母と似ていると思い続けている。この店は僅か10席ほどのカウンター式和食の名店で、個室で二人だけでは嫌だったからでもある。父は苦笑いしながら、こんな細い路地の奥の奥にあるなんて、結構探しあぐねたと言い訳をした。

 

鴨のつがい

鴨川 二羽つがいの鴨 我が父と母であったらいいのに 緑葉に映えて美しい夫婦鴨

 

 僕はお酒を断っている。でも何となく飲まないわけには行かず、薄いウーロン・ハイを形だけ作って置いておく。日本酒が好きな父に、僕は僕の好きな銘柄の冷酒を勧め、お酌をしながら、僕から口火を切って話し始めた。最近の家族のことやオフィスのことなど。ところが父って、やっぱり僕とおんなじで、寡黙な人で、向こうを張って論ずる人ではなく、酔うほどにボソボソと話し始めた。日本百名山踏破のお祝い会をやって戴いた時のことや、少しずつ山のことなどを。そして七十数年生きて来て、いつかはきっと我が息子とこうして飲める日が来ることを信じていたらしく、心から嬉しそうにしていた。深田久弥が亡くなったニセ八ヶ岳と呼ばれる茅ヶ岳(1704m)に、最近ちょくちょく登っていると。女岩から山頂へ向かう途中のコル(くぼ地)で、深田久弥は急死した。その山頂近くの一角に、木の柱で出来た「深田久弥終焉之地」と書かれた墓標があるそうで、1971年3月21日最期の登山目標の道半ばで脳卒中で突然倒れられたらしい。享年68歳。山に生きた人だったから、本望だったのだろうか。父は頻りに深田先生より10歳も永生きしてしまったとしんみりと話す。「山の茜(あかね)を顧みて 一つの山を終わりけり 何の俘の我が心 早(はや)も急(せ)かるる次の山」(深田久弥 石碑に記す) 役所を辞めるずっと前から日本山岳会々員となり、後期高齢者になった今でも色んな会員の仲間たちがよくしてくれ、まだ山に登ると初めて聞くことだらけであった。山は、同じリズムと同じ歩幅でしっかりと歩く。そしてその一歩一歩、山の歩みは高みへ行くのではなく、私の心中深く何かが沈潜して行くのだと。どの山の名も美しい響きを持ち、山岳信仰が古くからある日本人は幸せな堂々たる民族だと確信を持って話す。

 「あなたが、私に反抗してどうにもならなかった時、日本の山々を踏破しようと決断した」、そう唐突に話す父。「あなたもそうだったかも知れないけど、私にしたってどんなに哀しかったか。最初春まだき北岳に登りました。峻厳な北岳は容易に迎え入れてくれませんでした。その時、私は死をも覚悟して登ったのです。死を覚悟したのは全部で五回ほどあります。でも山って不思議ものですね、山は完璧に別な異次元を懇々と教えてくれるもの。日頃私たちの生活の他にある、悠久の時を実感させてくれるのですからね。日常生活のあらゆる局面を、遥かに越えていました。時空は、人間社会と完璧に隔絶し、そこにドンと存在してるのですヨ。全く別な次元です。それは私を圧倒し、妻の死の哀しみをも乗り越えられた瞬間だと思って来ました。新婚旅行で、二人で白山に登りました。白山信仰の色濃い山ですが、お母さんは、「こんな大地と空気の中に居られたら、なんて素敵なことでしょう、私きっと頑張れますと、そう言ったんですヨ」って。

 色んな山々の思い出を語る父。ボソボソ話す父をいとおしいなぁと素直に思う。そしてその直後、私に、私の孫を作ってくれて有難うと、殆ど涙目をしていた。僕だけが孤独かと思っていたら、父も相当孤独だったようで、実妹が嫁ぎ先から出戻りし帰って来た時はどんなに嬉しかったのだろう。父は、外交官として世界中を駆け廻り頑張ったが、でもその後、自己を内省する世界に入ったのかも。どうやらそれが彼の山だったような気がする。一歩一歩歩みを踏みしめ、深田久弥が命名した日本百名山を踏破したのだから、もう直ぐ80になるというのに。話を聞いて、僕も何度も泣かされた。私の山は高く登ることではなく、深く登る山であったと。「百の頂に 百の喜びあり」と言った深田久弥の山物語と重なる部分が相当多かったように思う。

 山へ行く時必携の物として、遠くだけ観る双眼鏡ではなく、地上の高山に生きる小さな生き物を観察出来るように、必ずルーペを持って行くことや、僕が中学生の時の写真や幾つになってもちっとも年を取らない母の写真をお守りだと言って、それを懐中から取って見せてくれた。キリストの復活だって、亡くなった人が出て来るのではなく、話に出してあげたり、生前お母さんが望んだような道を歩む人間でありたいと願ったり、そんな僕たちを見守っていてくれることを感謝するのが、本当の復活ではないかなぁと父は話す。自分の命は、何かに捧げる覚悟かが最も大切なことだとも。そんな意味から言ったら、君のやる可能性は絶対に素晴らしい可能性線上にあり、誠心誠意頑張るべきと。意外なことばかりだった。こんな人だとは実は思っていなかったし、若い時想像していた以上に優しく深かった。そうして父を喩えると、大きな白山か北岳か、穂高かそんな山のように、父の存在を感じた。僕は、今までどんなに淋しい思いをこの父にさせて来たか、心の中で泣きながら深く詫びた。これからは、たくさんいる親戚ともお付き合いをするべきだとも父の言い。

 大分酔っ払って、再び母の話に及ぶ。酔っていても姿勢がきちっとしていて姿がいい、「きっと君よりあなたの母を愛したのは私のほうだったよ」とはっきり言う。死して尚ずっと愛していたのだから。僕は、それを素直に頷けた。いつだったか新しい母が来るのかと詰問したことがあった。でもそれは間違ってもありえないことだと断言したいつかの父のキツイ顔を思い浮かべた。そう言えば逢うと、殆どが事務的な会話だけで終わっていたし、母の法事やお墓参りの時やお正月だって、こんな風な会話は全くして来なかったような気がする。たっぷり四時間は居ただろうか。すっかりいい気分になった父をタクシーに乗せ、品川経由で広尾の実家まで帰した。家に帰って見ると、叔母が夕食の支度から、杏の面倒まで見ていてくれて、妻とお喋りの最中だった。お泊りの覚悟であったのだろうか。多分父の言いつけであったに違いない。些細なことで、父と子がはぐれはぐれて、今日まで。やっと何かが氷解し、再び新しい父子関係が出来たような気がする。このことは、僕も人の親になった証拠なのだろうか。後期高齢者に合わせた筑波山とか高尾山とか、近場の山々を巡る山への巡礼が、今後の父の旅となることだろう。厳冬期の山だけは、決して行かないでと注文をつけておいた。でもまだまだ話は多分尽きていない。四種類の、膨大な日記が、あなたへ渡す今生のお土産だと言っていたが、それがどんな内容の日記なのか、どのくらいあるのか、僕にはまだ知る由はない。別れ際、父から軽くハグされ、酒で火照った父の全身の温もりを、生まれて初めて感じた気がした。お父さん、いつまでも元気でいてください。

 

冬の八甲田

  厳寒の八甲田山 ここを一人で登ったと父の言い こんな厳冬の山にはもう二度と行かないで欲しい

 

 

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