星野道夫 短い人生に、大切な瞬間はそんなに多くないんだよと去って逝き

 アンカレッジ湾

    アラスカ・アンカレッジ湾港にて

 

 

 

           星野道夫 

        ~短い人生に、大切な瞬間はそんなに多くないんだよと去って逝き~

 

 

 亡き主人は、子供の頃からシートン動物記にご執心で、いつか天地の広いアラスカの大地に立ってみたいと小さい頃から頻りに希望して父親に懇願していたらしい。確かに、主人は南方志向ではなく、北方志向の人間で、彼が中学に入った頃、お父上さまはアラスカ・アンカレッジ空港から200キロ離れたマッキンリー山麓に、山荘を買い与えた。そこはデナリ国立公園の中にあって、国立公園になる前から住んでいた方から譲り受けたもので、その方の名をそのまま継承し残してある山荘である。今や懐かしきマクドゥガル・ロッジ。僕は、主人のお供で何度もそこに行っている。主人は学生時代から、アラスカで、ブッシュ・パイロットになるんだという我侭気侭で勝手な妄想を抱き、ハワイで猛特訓を受け、既に学生時には飛行操縦の資格を取得していて、自家用飛行機を一機持っていた。機材を交換するだけで水上用にもなるし或いは氷上用にもなった。アンカレッジに買い物に行くにも、広大なツンドラ地帯に行くにも、あのマッキンリー山麓に行くにも、自由に天空を駆け巡っていた。無論アラスカのその山荘には、2台の米軍仕様のランドクルーザーもあったが、主人は自分の飛行機を特別に愛し搭乗するのが好きだった。管理人の方は、マクドゥガルさんのご子孫の方で、いつも綺麗にしてくれて、人懐こしく、僕たちをトコトン愛してくれた。僕たちは、それに臆することなく甘えた。主人はマッキンリーやフェアバンクスや反対側の海洋に出てるのもとても好きで、世界中どこに行っても仕事のことは忘れなかったが、ここアラスカに来た時だけは、すべてから開放され忘れられると言って、心から無心に遊んだ。短い夏の日も、ブリザードが吹き荒ぶ厳冬の時も、アラスカは彼にとって全くの別天地であったのだ。冬空に出るオーロラは信じられないくらい不思議な世界だった。僕と主人はひと晩じゅう見続け、呆然とした。

 北斗七星のアラスカ州旗とオーロラとキングサーモンゲット!!         

 

 主人の山荘には多くの著名人が登場しているが、中でも星野道夫さんだけは突出して忘れられない人物である。僕は三度お逢いしているが、彼の魅力は、特別に素敵な目にあった。いつだったか、多分直子夫人と一緒になる前だったから、1990年前後になるだろう。いつものように、僕たちはお客の接待に明け暮れていた。中に、ハネムーナーがいらっしゃって、山荘にお招きする時は特別に気遣いをしている。そんな時に、星野道夫はひょっこり姿を現わした。無論主人が迎えに行ったのであろう。その頃の星野さんは週刊誌の連載で忙しい時期であったが、彼は主人のお招きを快く受けてくれたようである。何よりも日本食を食べられるのが嬉しかったに違いない。当然、僕がいれば僕がシェフであり、ウドンやラーメンや手巻き寿司とか納豆餅とかズンダ餅とか、如何にも日本風の味噌汁や雑煮餅や豚汁などを作ったが、どれも好んでお腹一杯に食べて戴いた。あの美味しそうにしていた人懐こい星野道夫さんの笑顔、まったく昨日のようなことである。それから翌朝全員でキング・サーモン釣に出掛けた。6月がキング・サーモン解禁の月で、月毎に種類が違って、7月はピンク・サーモン、8月以降はシルバー・サーモンである。しかもあれは駄目だこれは駄目だと厳しい管理規則が付いて廻った。キング・サーモンは、兎に角でかい。主人はアラスカでだけは釣をする人で、他では全く見たことがない。そしてユーコンの支流であるが、その支流の数は多分万を越すのかも知れない。目の前に、巨大なキング・サーモンがうじゃうじゃ真っ黒になっている。数万匹はいるのだろうか。簡単に釣れると思いきや、それがそう簡単には釣れない。それぞれ工夫を凝らした疑似餌を使ってルアーで釣るのだが、一日中掛けても殆ど引っ掛かりもしなかった。釣のガイドにハネムーナーに釣らせてやってくれと、主人はこっしょりと数ドルを手渡すと、ガイドはウィンクをしてイクラをくれる。ハネムーナーはそれを餌にして釣ると、何とあっさりと釣れてしまうのだった。大歓びする新郎新婦。サーモンはイクラを直ぐ隠す習性があるから直ぐに食い付く。従って逆にイクラを使用した餌の場合、パトロ-ルに見つかると高額な罰金の対象になる。ハネムーナーたちは持ち切れないほどの、ひと抱えある大物をゲットして二人は抱擁を交わす。辺りには大型の蚊が大量に発生して僕らの行く手を遮る。夏の日々は短く、白夜である。陽は殆ど沈まない。薄暗くなる、地平線の彼方で落日し、それもズッボリと落ちるのではなく、寝そべるような落ち方である。時間は僅か2~3時間ぐらいなものであろうか。夏の間、地表には色とりどりな可愛い花が咲き乱れる。印象的なのはワタスゲやワスレナグサ、星野道夫が大好きだと言っていたワイルドクロッカス。コケモモもある。うっかりすると気付かない花々である。逆に冬は零下50度にもなり、暗黒の世界である。僅か2~3時間ぐらいちょっぴりと薄く陽が射す。そんな真冬2月に、犬橇(いぬぞり)大会がある。数千キロを犬と人が一体となって争う厳しいレースで、世界各国から集った多くの選手と過酷なレースが争われる。主人がお付き合いをしていた千葉県流山市においでの、毎年犬橇大会に出場する方のスポンサーもしていたから、真冬でもアラスカに行った。過酷であればあるほど、主人が逆に燃えた人だった。樹氷を見るがいい、過酷であればあるほど、より一層美しさを増すのだと。アンカレッジ空港から200キロ離れた距離の高速道路にも、僕はよく参ったものだ。アスファルトではなく、すべて砂利道で、途中岩のような石が露呈している。主人の最期のアラスカ行きは、僕は行かなかった。その最期の6月、急遽仕事で行けなくなった僕に代わって行ったのが、丸の内界隈を流して売り歩くお弁当屋さんであった。主人は人柄が大好きだった彼を指名し、主人は意気揚々と連れて行ったのだが、帰路、彼はその岩にレンタカーをぶつけて大破し路肩深く転げ落ちた。丸の内でいつも世話になっていたお弁当屋さんは呆気なく即死した。岩に衝突後、車が横転し、下敷きになった。社員のみんなから、僕が行かなくてよかったね、行っていたら死んでいたよと、僕に言うもんだからずっと参っていた。飛んでもないことで、それからレンタカーからの保険が降りるまでそれこそ三年以上も掛かった暗闘の日々であったからだ。米国の保険制度の厳しさは遥かに想像を超えていた。亡くなったお弁当屋さんは若干28歳、半年後に結婚を控えていた。それで主人はどんなに自分を責め続けたことだったろう。その後主人は高野山で出家した。彼の心中がグジャグジャであったのだ。頭を丸めたのがせめてもの供養であると信じた。主にお掃除専門の僧として修行に明け暮れる日々が続いた。東京で留守を預かっている期間、僕にとっては非情な日々であったように思う。

 

 

 

    星野道夫残像 懐かしき懐かしき人 もう新しい本は一冊も出ないのだろうか

僕を星野ワールドに引きづりこんだ本は福音館出版の児童書「アラスカたんけん記」であったが 今はすべて読み

又何度でも読み返している 「アラスカ 光と風」も好きな本の一つである。

 

  今では東京からアンカレッジまでの直行便は出ていない。シアトル経由か、韓国から出ている直行便で行くしかないが、僕たちの星野道夫さんにしたら、僕らの愚行というか蛮行も、彼はにこやかな顔をして許してくれた。夏は短いからと言って、主人を促し、水上飛行機に搭乗しどこぞかに去って行ってしまった。主人は時々星野さんのブッシュ・パイロットを何度か買って出ていた。その別れ際、星野道夫は「夏も短いけれど、人生はもっと短いからね、そして大切な瞬間はそうはないんだよ。その一瞬を捉えないとねぇ、やることがたくさんあるんだ」と告げて飛んで去って行った。あの美しい輝きに満ちた瞳の持ち主・星野道夫の死亡記事を読んだのはそれから7年後の夏のことであると思う。8月8日、その日の衝撃は決して忘れない。忘れられるものではない。

 そんな予感がなかったわけではない。千代田区立今川中学で同級生の中に富沢裕二がいたが、彼と本当の友達として、将来二人は探検家になることを夢観ていた。海外渡航するために一緒にアルバイトもやった。星野にとっては唯一無二の親友であったのだ。山に一緒に何度も登ったこともあったが、星野が確か学生時代だと思う。妙高山が突然爆発し噴火したのだ。その火砕流に飲み込まれ、富沢は遭難して帰らぬ人となった事件があった。星野はどんなに衝撃を受けたのだろう。そんなことって普通にありうるのだろうか。星野道夫のエッセイの中で、大切な友人を山で亡くしたという記述が何度か出て来るが、星野道夫最初の処女出版になった「グルズリー」の巻末に、この本を富沢祐二に捧げるとある。どんなに哀しく辛かったのだろう。同時に、死も恐れぬ冒険家としての資質と死生観がここで得て生まれたのかも知れない。
 

 星野道夫は主人と同じようにシートンを読んでいたと後で知った。彼は19歳の時、シシュマレフ村で暮らすアラスカ原住民とともに過ごし、その経験のキーワードが最期まで星野道夫を導いた。アラスカ州旗にあるように、星野道夫が北斗七星として、じっと動かず僕たちを天界から見続けているのだろう。アラスカ大学に入学する為に、シアトルでじっと待機していた時間があった。英語の語学力試験(TOEIC)が最も重要な入学の条件であった。挙句たった30点足りなかった理由でアラスカ大学フェアバンクス校から入学を拒否された。でも黙っている星野ではなかった。担当教授のもとへ直談判に出掛けた。熱心な星野の勢いに押された教授は渋々その場で入学を保証してくれた。歓び勇んでアラスカ大学へ。慶応大学を卒業して、夢に見たアラスカへ。野生動物管理学部への入学。考えて見ると、父親は星野を枠にはめるような人ではなかった。いつも星野の行動や考え方を束縛はしない。中身だけを問い詰めた見事な父親であった。だから友人と始めたバイトの数々。それでも足りなかった時、父はすっぱりと出した人だ。そして試験的にアメリカ縦断の旅にも出て練習を重ねていた。そうやってなるべくしてなり、アラスカの大自然の中に星野は解き放たれたのだった。広大なデナリ国立公園内での新しい発見の日々。マッキンリー山(6194m)への憧れ、氷山の見学、そしてカリブーやグリズリーの大群に出逢った。アカキツネやオオカミやリスにも遭遇している。星野は懸命に写真を撮り続け、生涯撮った写真は実に10万点を越える。このオトコには休みは一切なかった。夢に魘されるように、ツンドラ地帯や氷山に行く。やっと星野の姉さんの紹介で直子さんと出逢ったのは40にも届く時であった。僕たちも何度か訪れた星野の小さな丸太小屋。乱雑に散らかっていて、入ってと言われても勢い躊躇したほどだった。フェアバンクス郊外に、その小さな家があった。結婚してからそこで3年間、この丸太小屋で17歳違う若い直子夫人と一緒に過ごしている。結婚後翌年一人息子・翔馬君が生まれた。今年で中学生になったであろうか。そして3年後の8月8日未明朝、ロシアの撮影クルーとカムチャッカ半島でテントにいた星野は、ヒグマにただ一人だけ狙われ食われながら、ツンドラの彼方に消えた。何と言うことだろう。ヒグマによって自然へ見開かされ、ヒグマによって天然自然の輪廻の彼方へと消えたのだ。星野が残した沢山の写真を抱え、ご夫人は星野道夫事務所を運営していらっしゃるが、未だに翔馬君を抱いていとおしく思い続けておいでのことだろう。美しくもあるが、自然の輪廻の厳しさは如何ともし難いものである。死ぬには余りにも若過ぎた。主人もそうだが、本当に悔しい思いでいっぱいである。

 

ブッシュ・パイロットとしての主人の愛機 この飛行機に多くの方々が搭乗された

星野をツンドラ地帯に運び、彼はそこ一箇所にテント暮らしをし、カリブーの通過を待っていた

主人は約一ヵ月後同じ場所に迎えに行くのだが、一月も誰とも喋らないと、一人ごとで喋るらしかった

 

 僕たち主従は、星野さんを特別扱いはしていなかった。全く構わずとも、彼は常に穏やかで、それでジョークを飛ばし朗らかで明るく、マイペースにしてていつも心に信念を持っていた。黙々と和食を平らげた。そこにマグマのようなエネルギーがあったのではと今になって僕は思う。このごく普通の人・星野道夫に僕はいつも畏怖を感じていた。何故なら、彼は単なる写真家ではなく、優れたエッセイシトでもあったし、その文章に彼なりの深い哲学を秘められていたように思う。「人のこころは深く、そして不思議なほど浅い。きっとその浅さで人は生きて行けるのだろう」。トーテムポールの脇に同じ木の種であるトウヒが新しく伸びていた。白熊に食われるもの、その白熊を獲るもの。アザラシを狙う白熊、子を育てる白熊。生きとし生きるものすべてが大きな輪廻の渦中にあるかのようだ。イヌイット(星野はエスキモーと表現しているが、僕たちは差別用語として嫌った。Brave Manとして言われるイヌイットの表現を好んで使う)の伝説の世界に心からはまった。それは生き物すべてがお互いを助け合って生きているのだということを。カリブーの大群を待つ星野、グリズリーに迫った勇者、小動物も決して見逃さなかった星野、彼は僕たちひぃひぃしながら現代を生きる者たちに限りない愛惜のパワーを与え続けている。あの純粋な瞳を持ったオトコは最早、天界におり、それでも僕たちは彼を身近く感じ生きている。主人は星野さんが淋しいと思ってか、彼亡き後数年後彼岸の世界に行き、今頃星野さんのブッシュ・パイロットでもなって、二人して北の大空を駆け巡っているのであろうか。人のイノチははかないものであるが、大地は永遠に悠久である。特にツンドラの真下にある永久凍土は冷たく永遠に溶けることはないのだろう。

 

限りなく愛した氷河 この氷で飲むバーボンのロックが大好きであった 氷がカランカランとなってなかなか溶けない極北の氷

氷河の氷はブルー色に輝き カチンカチンに堅く やや塩っ気があり 氷上では飲料水も造った 確かにロックは抜群に美味かった

 

 主人の山荘には、野田知佑さんや、椎名誠さんや、そして忘れられない御仁のトップに、星野道夫さんと、それと植村直巳さんがいらっしゃったのである。あのマッキンリー登頂の最期の場アタックを間近で見ていたのは、他ならぬ若き主人であったのだから、尚更感慨が深かったのである。とても大切な方ばかりで、野田さんとは一緒にユーコン支流のカナナ川に出て、カヌーのご教授を受けている。冬場、素人の方はくれぐれもカヌーで漕ぎ出さないようにねと警告を受けていた。気温マイナス50度で、海や川の中にすべりこんだら、もうそれっきりだと言う。でもあの野田さんこそ稀有に寡黙な方で、滅多に口を利くことはなかった。それでも傍にいると、何故なんだろう、はんなりとして来るような素敵な御仁であるように思う。今頃どこでカヌーを漕いでいらっしゃるのだろうか。野田さんとお逢いした時は愛犬ガクはいなかった。だからきっと椎名さんに預けて来てたのだろう。野田さんと椎名さんと夢枕獏さんと、このお三方は実に仲良しで、椎名さんの仕事場がある麻布十番辺りで、時には三人で焼酎でも飲み交わす時間があるのであろうか。開口健先生がいらっしゃったら、その傍らに必ず天野礼子さんがいらっしゃったはずで、その五人とも堅い絆で結ばれた戦友と言ってもいいのかも知れない。開口先生が亡くなられてから既に久しい。今日は星野道夫さんのお話だけで、又別稿としよう。 

  何故アラスカの話題を水無月にしたか、それはキング・サーモン解禁の月だからである。僕が主人と行った最も多い月は6月であったのである。あの人口たった20万都市のアンカレッジに、ハワイ・オアフ島のアラモアナ・ショッピング・センターのような大型店が実に20もの巨大センターがあるから驚く。アラスカ全土から買出しに来るのだが、四季春秋のすべてのものが展示販売されている。真冬にだって葡萄が食べられるのである。如何にも殆どユダヤ系のお店と思わせるものだが、でも納豆一つ600円、インスタント・ラーメン一個800円と途方も無く高額であった。日本食は何でもあるが、バカバカしいほど高額で、必要なものは日本から持ち込むしかなかった。主人はアラスカに行くとなったら、それはそれは大変で一ヶ月以上も前からあれやこれやとオサオサ怠りなく準備しているのだった。あの姿も星野道夫も、今は天空の世界にいるのだろう。それもこれも、少しずつ遠い思い出となりつつある。情けなや。

 

 今夜のBGMは Kokiaさんの鎮魂歌 『Ave Maria』です

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