Le Vie (それが人生さ) 断腸亭日乗・永井荷風のあとさき

 

 

 

「断腸亭日乗」には庭先の些細な景色まで細やかに描写されている マルハタチツボスミレの押し花

 

 

 

                Le Vie (それが人生さ)

       断腸亭日乗・永井荷風のあとさき

 

 JR本八幡駅南口直ぐ近くに、愛すべき星野道夫の実家があった(現在のご実家は真間にあり)。このJR本八幡駅北口から現在無料発着のバスがニッケコルトンプラザまで出ていて、そこで今月22日まで、「星野道夫写真展」が開催されている。大変な人気であるようだ。京成八幡駅より、JR本八幡駅のほうに行ったところ、つまり元のご実家の反対側の北口方面に、星野道夫が通い慣れた喫茶店がある。 「Café 蛍明舎」という貸しビルの二階にある小さな喫茶店で、写真で表現出来得ない部分、つまりモノ足りなくて文章を綴り、人生を賭した珠玉のエッセイを数多く書き遺した。その殆どはこのカウンターの一番奥で仕上げとして原稿用紙に清書として書かれたものである。一方何の関わりもないが、京成八幡駅の北側に、永井荷風が住んだ転変とした「断腸亭」(正確には新宿余丁町から<断腸亭>と称した)があり、常に外食をした永井荷風が通い詰め、死の前日も食事した日本料理屋の「大黒屋」が荷風の自宅直ぐ傍にある。京成八幡駅繋がりという一見何でもない繋がりを考えてみたい。今日は永井荷風の話題を少々出したい。アラスカ州シシュマレフ村に20歳のケイオー・ボーイの時3ヶ月ほどイヌイットと生活を共にして以来、単に動物写真家で終わらなかった星野道夫の頂点は、アラスカ先住民の底流を追い掛け、狩猟民族として、シベリアへ渡り、そうして遠く日本の中のアイヌやマタギまでの浪漫を生涯賭け、自分の立ち位置を追いかけた人であった。

 そんな星野道夫を、壮大な過去と未来の縦の歴史の証言者であったとするならば、奇しくも京成八幡駅を南北に分かれて住み、生涯を終えた永井荷風は、西洋文明に最も早く溶け込み享受し、あの戦争の最中でも堂々と背を向け、時流に一切迎合することなく時代を常に睥睨してモノを観、書いた永井荷風であった。一方では江戸趣味に走ったとは言え、言わば横の関係(その時代)の偉大なる予言的先哲ではなかったか。半藤一利は荷風を亡命者と表現しているが、それには僕は反対で、彼特有のダンディズムがそう見えたのだろうと思えてならない。早くからアメリカやフランスの内情を知っていた荷風に、日本軍国主義がオモチャのように思え、さぞ可笑しかったからに相違ない。画家・音楽家・文学者や詩人まで、あの軍国主義の荒波に飲まれていったのに、そんじょそこらを徘徊し、あの2;26事件でさえ見物に行ったぐらいの荷風は、ただ一人大所高所から日本を見続けた人であったのだろう。「独りきりで生きる」「近代文明の否定、特に昭和は破壊の時代であると反骨する」「処女や素人の女性は相手しない。子を為せば、もしその子が悪者でもなったら、余が世間に済まないことをすることになるから、一切子は要らぬ。必ず避妊具を使うべし」・・・・・・・。最も偉大な部分は近代化への反逆であったろう。荷風若かりし折は確かに可笑しい。落語家を目指してみたり、歌舞伎の戯作者へ入門したりで、彼の奇行の源泉はすべてこの頃から現れている。文京区小石川の育ちで、アメリカ・フランス渡航の後は、新宿・余丁町、そして麻布区市兵衛町(現在の六本木)に転居。本来は総武線沿線など縁がない人であるが、戦災で、自宅・偏奇館(へんきかん=ペンキを塗った家という意味)を全消失した。戦後谷崎潤一郎を頼って、岡山を訪ね、一時岡山で非難生活をし、そこで終戦を知った。再び上京後、身内を頼って、市川市本八幡の住人となる。その近場を転々とするが、身内と言っても間借りであるために、本来の書き物は出来なかった。そこで友人・相磯凌霜の別宅が空いてあったから、その場所・船橋市海神を主な仕事場とし、戦後の大半はここで書かれている。色々と書きたいことはある。今では八幡の商店街に、荷風通りもあるぐらい、八幡は市川市の中心として、そして偉大な文人・荷風を見届けた町としても、この町に何か特別な愛惜の気持ちを禁じえない。八幡の隣町の菅野には幸田文もいたのだから何とも面白いものである。

 

      大黒屋の女将さん    大黒屋店内風景    荷風散人の指定席

 

 

荷風セット 亡くなられる前日もこれだったとか 女将さんが出したという その時の女将は30歳手前ぐらいかなぁ

「荷風ノ散歩道」 どの店舗にもこうした荷風の似顔絵が描かれたフラッグがつけられていた

 

 (写真説明  荷風先生が浅草や花柳界などに、ここ京成八幡駅から出て行った。死の前日も通った駅近くの大黒屋。

荷風先生の似顔絵が描かれた「荷風の散歩道」と表現された散人が愛した商店街のフラッグ。この奥に幸田文も住んでいた。

荷風の散歩道は幸田文の道でもあった。親切な大黒屋の女将さん。荷風先生の指定席を教えてくれて、僕の顔を見るなり、

「荷風セットですね」と、何も言わなくても、生前先生が愛したカツ丼と熱燗のセットを出してくれた。

蜆汁が付いていたのが嬉しかった。アメリカで、荷風研究をされているアメリカ人の新聞切り抜きや

市川を愛した多くの文化人の話をしてくれた。店内風景写真と最後の写真は荷風先生指定席の窓際の席で、

僕はここに座って食べた。昼間からの一本の熱燗は、僕の全身を火照らせた)

 

 

 明治・大正・昭和と書き続けた荷風に、最も重要な作品は「断腸亭日乗」である『荷風全集』(岩波書店刊)の第19~第24まで収録されているが、批評論文としては川本三郎畢生の名著・『荷風と東京』 (都市出版刊)が最も優れたものであろう。呆け老人、エロジジイ、耄碌ジジイと何とでも形容出来ようが、普段座る時も正座していたぐらいの明治人の気骨があったのである。無論文章にも然りである。日記文学は日本文学の一ジャンルとして古くから伝統としてあった。室町中期に、亡き主人の先祖・萬里小路(までのこうじ)定房によってかかれた全漢文の日記『看聞御記』は、具注暦の余白に書かれたもので、特に人に読まれることを意識したものでないだけに、時代背景を実証するためになくてはならない第一級の資料となっている。明治~昭和まで書かれた『断腸亭日乗』は残念ながら、人に読まれることを意識して書かれてあり、資料的価値がないわけではないが、出来事に対する荷風の旺盛な思い入れが書かれてあるのだから、歴史書としては読んでなるものではない。でも日本の近代歴史を背景に書き続けられたものであったから、その点高く評価すべき作品なのだろう。飽くまでも荷風自身の文学的。発露が遠慮なしに書かれてあるところに面目躍如といったところである。読者の多くは、男女の機微を歌った「墨東綺譚」をして評価されておいでのことだろうが、「すみだ川」や「つゆのあとさき」や「腕くらべ」など、急速に去ろうとする江戸への名残を名文に認めた素晴らしい反骨の作家であった。どのような淋しさや哀しみにも、荷風散人独特の強さがあるし、老獪な一面もあったが、横の、その時代を平然と独りきりで生きた人であった。

 

(上の写真説明 大黒屋の女将さんが見せてくれた新聞記事 荷風没後50年にしてアメリカで見つかった荷風の家とある。

荷風はアメリカ・ミシガン州の小さな人口3万足らずの町・カラマズー市に。1904~1905年まで住んでいた。

カラズマー・カレッジに通っていたと、ウェスタン・ミシガン大学准教授であるジェフリー・アングレスさんが

日経(2009・2・26 文化欄)に書いた記事で、その家を保存する運動をしているようである)

 

 そもそも1917年、荷風38歳の時から始められた「断腸亭日乗」は、最初から遺言のようなモノいい方で書かれてあるが、若くして常に死を意識していた。そして何度遺書を書いただろう。これもダンディズムの一つなのだろうか。その後実に42年間も書き続けられた膨大なもので、荷風の作品中最も評価されて然るものである。日本的伝統の日記文学の線上に置いていいものだろう。1952年11月に文化勲章受章し、1954年1月に、日本芸術院会員に選ばれる。 1959年に79歳で自宅で孤独死を遂げたが、前日まで「断腸亭日乗」は書かれてあった。死因は胃潰瘍。下記の遺書は、最晩年の荷風の気骨を語っているいい証拠で、実際は東京都豊島区・雑司ヶ谷霊園に眠っているが、故人の遺志があった通り、南千住の浄閑寺に、知友有志が建立した詩碑と筆塚が立っている。あれほどヨレヨレの姿をしたご老人が、現在の時価で3億円も所持していたというから驚く。今は死ぬ14年前に、親戚の杵屋五叟の次男永光を養子としていてよかったのではあるまいか。34万で買ったという死に場所となった八幡の自宅には、永光氏が住んでおいでかどうか、その表札が千社札の小さなモノで、今は人気がなくひっそりとしていた。庭先には柘榴の花が漸くはじけ始めていた。(注 浄閑寺とは幾多の遊女が死後、ボロのように捨てられて無縁仏となった遊女最期の寺となっている)

 

    永井荷風 最期の遺書

 

      浄閑寺の塋域

       娼婦の墓

       乱倒れたる

       間を選びて一片の

       石を建てよ      

       石の高さ五尺を

       越ゆるべからず

       名は荷風散人墓

       五字を以って

       足れりとすべし

(永井荷風終焉の家 養子の永光氏相続せり 大黒屋真裏に位置し 駅まで徒歩1分であった 僕は飄然として後にした)

 

 1959年(昭和34年)4月30日に没し、多くの美しい文章と日記とたくさんの思い出を残して逝った。荷風は東京を一番散歩して歩いた人で、僕は下駄履きとは行かないが、時折荷風散人の見た下町の風情を追いかけることがある。根岸・千駄ヶ谷・浅草、でも少なくなってしまっている。荒川区の尾久辺りだったら、あの宮ノ前の三業地辺りにも少しは風情が残っているのかも知れない。まして江戸情緒を探そうにも探しようがなくなっている趨勢である。浅草にも下谷や根岸や、あの向島などの東京の花街は観光用としてのみ残り、江戸の風情はどこかに行ってしまったのだろう。荷風散人があの世に一緒に持って逝ってしまったのだろうか。花のお江戸はどこへ向かっているのだろうか。文明とは可笑しなものに違いないと思いつつ、今度是非、「日暮里の夕焼けダンダン」にでも行って、真正面に見える夕焼けを見たり、庶民の台所である谷中商店街で買い物などをして江戸の名残を少しでも探したいものである。

 

(東京の下町の雰囲気をかもし出す「荷風の散歩道」 荷風の似顔絵が描かれてあるフラッグがあちこちにあり 

幸田文も宗左近も、北原白秋や草野心平や田中清光や鈴木久佐雄も、水木洋子も通った道であった)

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