六月の朝の目醒め アールグレイ茶と薔薇ジャムと   「少女の友 創刊100周年記念号」によせて

 

 

 

 単行本仕上げの「少女の友 創刊100周年記念号」の本体、カヴァー、函  

 

 

 

 

          六月の朝の目醒め  アールグレイ茶と薔薇ジャムと

       「少女の友 創刊100周年記念号」によせて

 

 

 今朝は妙に朝早く目醒めた。今朝は湿度がやや高いものの、弱い朝の光は優しくいじらしい。杏のベットを見ると、お目目がくりっくりっとさせて、手足をバタバタさせ、泣きもせず元気いっぱいに笑っている。杏のオムツを取替え、僕は特製の白湯を作り哺乳瓶で杏に与えた。特製とは、先日某所で採ったドクダミを乾燥させておいたので、それに生ミントの葉を少々をサッと煮しめ、その後大目のハチミツとを入れた。試飲してみると、ドクダミの味はどこか微かであったので、これなら杏にもイケルと思い、そんなドクダミ白湯にしてあげた。まったく嫌な顔一つせず、杏はグイグイと飲んだ。お水が余ほど飲みたかったに違いない。更に蜂蜜の味は随分以前から気に入っている。着替えさせリヴィングに連れて来ると、既にお気に入りの白いラッコや人形の縫いぐるみと笑い転げながら遊んでいる。うふふ、超可愛い!昨日叔母が今年も薔薇の花をかき集め、薔薇ジャムを作り持ってきてくれた。何とも素敵な芳香を放っている。どれだけ多くの薔薇の花弁を使ったことか、そしてどれだけの労力と時間を掛けたのだろうかと、頭が下がる思いだ。年々腕を挙げていて、どのお店も敵わないほど完璧に仕上がっている薔薇ジャム。僕は、これでアールグレイ茶を飲む。薔薇ジャムの、ほんの少し残る渋みがまたいい。独りで遊ぶ杏を見てて、何だか久し振りに「忘れんぼのバナナケーキ」を焼こうと思う。偶にしか作らないから“忘れんぼケーキ”という代物なので、妻もバナナ好きだから、多分いっぱい食べてくれると思うなぁ。

 妻の朝の目醒めは大抵「日めくり万葉集」が始まる時間の頃だから、まだ少々先になる。でも今朝土曜日はお休みだから、ビデオに録り貯めておいたのを流してあげよう。ところで、先日本屋に行った時目に付いた一冊の珍しい本を買って来た。 「少女の友~創刊100周年記念号」(実業之日本社編)とある。伝説の少女雑誌が、たった1号だけ100号記念として復活したというものだ。僕には、全く少女趣味はないけれど、昔母がよく古本屋から買い集めていたような思い出があったからで、だったらどんなことが嘗ての少女たちを魅了したのだろうと興味本位で買ってみたのだ。ところがいやいや、なかなか面白い本だった。瞳の大きな少女の絵が先ず特徴なのだろうか。中原淳一という画家によって描かれた少女の絵が中心となっていて、当時の少女たちをどんなにワクワクさせたことだろう。他に「少女倶楽部」なる強敵の雑誌もあったらしく、当然誰にも当て嵌まるものではないかも知れないが、一大ブームを起す要因や素因がいっぱい満載してあった。川端康成の連載や吉屋信子の連載物にも、きっと少女たちは胸をときめかせ、小さな心をたっぷりと満足させたのだろう。母はどの箇所がどう好きだったか、今や聞くよすがもないが、一通り読んでみると、当時の少女たちに多大なる夢を与えたに間違いないと思えた。雑誌の編集目標が至極前向きな姿勢であり、よき女性になるための素養や感性を磨くように出来ているから、多分熱狂的に支持されていたのだろう。あっ、ここで朝粥が仕上がったようで、後ほどこの続きを書きたい。一旦休止。

  蜆の味噌汁に、夕べ漬けたきゅうりの浅漬け、スクランブル・エッグ、浅草海苔の焼いたん、梅干、それに堅めにトロミを付けた餡で若狭粥にし、しかも凝って干し椎茸で優しい味付けにした。食欲旺盛な妊娠中の妻が、本来パン好きなので食べてもいいように、雑穀入り食パンを2枚レンジで焼いて出しておいた。洗面所で顔を洗い出て来た妻、スッピンの顔が何とも美しい。売れ行きが悪く残りそうだった若狭粥に、夕べの野菜スープと、茹でてからスピードカッターで微塵切りにした鳥のささ身に少しだけ味付けし、一緒に混ぜて杏に上げたら、これまた食欲旺盛!観ている余は満足じゃった。妻の顔のほうは見る見るうちに、朝のいい顔になり、朝焼けのように輝いていた。そんな遣り取りを繰り返す二人とも実に楽しそう。僕も毎度嬉しかった朝御飯で、こうして僕は二人からいつも元気を貰っている。

 

 この本をお贈り申し上げた亡き母の絵本の先生から戴いたお礼状と、妻が買ってくれた浴衣地の夏用シャツ

 

 さてこの本は何と1908年(明治41年)に実業之日本社から創刊され、昭和30年まで発行され続けた稀有な雑誌であり、戦後やっと女性にも参政権が渡されるまで、少女たちにどれほど大きな影響を与えたことであったろう。夢みる少女を取り上げ、現実との板挟みになっていた多くの少女たちの確かなルートとなっていたものと考えられる。決して夢を与えるだけではなく、現実をもしっかり指導する着眼点があることに驚く。特に本書の充実ぶりを見せたのが、五代目編集長として担当した内山基の時代だった。即ち昭和6年6月号から昭和20年9月号までの期間が抜きん出ていた。主筆内山は、当時19歳で全く無名の中原淳一を起用し、後に一大ブームを起すことになった。また詩句の欄の充実ぶりは目を見張るものがある。でも全盛期を支えた内山時代でも、決して平坦な道ではなかった。遠藤寛子(児童文学作家)氏の解析によると、① 前代をうけつぐ ② 個性を発揮する ③ 近づく嵐の中で ④ 圧力に耐えて輝く ⑤ 戦禍の中に努力空しくと明解に分析されておいでだった。先ず注目されるのは当時一般的であった「良妻賢母主義」に対する反骨であろう。新渡戸稲造が、栃木の女子高で演説した際「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。」という演説を聞いた吉屋信子が感激し、発奮。教師生活を経た後作家に転身し、後にこの少女の友に殆どを寄稿し、川端康成とともに全盛期を支えた、多分全篇その編集方針が一貫していたことが、心地いい。内山基が、そんな暗くなる一方の時代背景を、実に見事に捉え、阿ることなく立派に結実した雑誌であった。

 川端康成が書いた「乙女の港」は中原淳一の挿絵で大好評を博したようだが、如何にも少女向けな文章であるものの、今の僕が読むと不思議に抽象絵画を見ているようで実にしっかり書かれている。吉屋信子の「小さな花々」は寧ろ男性的な語り口で爽快ささえ感じられた。詩人の登場も凄い。室生犀星や神保光太郎や中原中也や堀口大學や高村光太郎や宮沢賢治や西条八十もいたし、内田多美野(内田百閒長女 後の内山主筆の夫人となる)の海外詩人の翻訳紹介や兎に角凄い布陣である。画家も中原淳一をトップに初山滋や松本かつぢや蕗谷虹児など充実している。創刊当時は竹久夢二も協力していたようだ。村岡花子は「友情論」を書き、由利聖子は「女学生気質あれこれ」は少々笑えたが真剣である。そして一大ブームの火付け役になったのは中原淳一の「女学生服装帖であろう。微細にヘアスタイルやそれに合わせたリボンの結び方などを、その時の女学生が求めているものをピッタリと表現しているから驚きだ。今第一級で活躍している芦田淳さんは、この中原淳一が自分の師匠だったというから更に驚いた。海外の絵画紹介も凄い。余り凄いので、村岡花子の「赤毛のアン」は金髪の少女が描かれた表紙になったと裏話もあった。豪華な付録も、どんなに少女たちにときめいたことであったろう。そして極めつけは「トモちゃん会」の存在である。読者と雑誌がお互いに交歓し合うよう、投書を募集し中でも優れた投稿には毎月銀時計が贈呈されたという。今でいう双方向放送のようなものだ。村岡花子の「少女ブック・レヴューも面白かった。16歳で夭折した山川弥千枝の「薔薇は生きている」の紹介記事も、少女が憧れるように書かれてあり、村岡さんのお人柄が分かって楽しかった。但し『少女倶楽部』と熾烈な覇権争いがあった。『少女倶楽部』のほうはやや田舎風な実直な感じに対し、『少女の友』は都会的で洗練されていたのだろう。夢と、それを膨らませる膨大な仕掛けが違っていたように思う。田辺聖子さんの証言にある通り、『倶楽部』に物足りなく、『友』に変更する方が多かったのだと思う。

 でも現代となれば、この種の良心的な雑誌は売れないと思う。いつか週刊誌や雑誌記者などと対談したことがあったが、売れる雑誌はセックスとグルメと旅行なのだそうだ。ポリシーって何なんだろうか。従って現代に出回るとしたら、初体験の時はどうしたらいいかとか、男性を惹き付ける方法はとか、B級グルメ特選とかになるのだろうか。これってとっても哀しく残念に思う。ポリシーがあまりにも卑猥の一語に尽きる。そうしてこの雑誌が果たした役割はもう戻って来ないだろうと思うことにすら腹立たしい。今回この「創刊100周年記念号」が、現代の雑誌の有り方に是非一石投じて欲しいと願わざるを得ない。性はまだまだ女性蔑視の証拠であり、ネットに溢れる性や雑誌に誇大に書かれた記事によって迫害されていると言ってもいいかも知れず、我が娘の行く末をただ傍観して案じるしかないのだろうか。悔しくてならない。

 それから私的なことだが、僕が小学校六年生の時、早稲田大学演劇博物館に、母に連れて行って貰ったことがある。その時にお逢いしたのが内山美樹子先生であった。母は演劇が趣味で、人形劇では特に佐渡の文弥人形に関心が深く、そんな、僕にしては実に退屈な話をしに行ったのである。内山教授は、今では人形浄瑠璃研究の分野で日本一の教授に相違ないが、その内山と言う方は内田百閒のお孫さんだよと言っていたのを思い出していた。何故内田さんの孫が内山なのと長い間疑問となっていたが、今回この本でインタビューに応じていらっしゃって、それで中身をすっかり得心した。内田百閒の長女・多美野さんが、内山主筆に嫁いで、その長女が内山美樹子教授であったのだ。この本で知り得た不思議さを幾つも考えさせられた。その時確かに民俗芸能関係なら本田安次教授がいいことを内山教授から、母は教えて貰ったような気がする。何故か亡き主人は民俗学を特別に勉強されていて、知らぬ間に、僕も本田安次教授と主人と僕と何度も民俗採取の旅をしていた。母はその後事故によって急死し、主人も今はいない。あの懐かしき本田安次教授は1996年に文化功労賞を授与され、2001年に亡くなられている。それもこれも鳥肌が立つほど奇遇であり驚いている。内山教授の写真が掲載されてあったが、母より少し年上だから確か70歳は越えているだろうか。素敵な笑顔がまるで母とすれ違ったような、幻のようで嬉しかった。

 今回の記念号に田辺聖子が巻頭記事で応えている。題して「私、いまでも大人の『少女の友』してるわ」。中に中原淳一の影響が強かったと。「服装帖」が大好きだったことも。そして「私は、人柄の悪いヤツが悪だくみをすることなんか、小説に書いてもさほど価値がないと思うし、『ええ考え方やな』とか、『そうか、こういう思い直し方もあるのか』とか、人生でいっぺん底をついても、『まぁ、そんなこともあるか』と、何か一つ二つお土産をもって小説から帰ってもらう、そんなふうにしてほしい」と結んでいた。イライラしながら、現代は本当に進化しているかどうか、僕には甚だ疑問である。そして60歳以上の方にとっては、宿敵「少女倶楽部」とともに、様々に忘れられないことが多いことだろう。我が母は、一個の独立した人間として父に嫁いで来た。この雑誌を思う時、明るかった在りし日の母を思い出されてならない。今後良心に基づいたいい雑誌を望みたいものである。今宵、少女たちの健やかな成長を願って、もういっぱい薔薇ジャム入りのアールグレイ茶を飲んでから眠ろう。明日に期待しつつ。

 

 

  女学生服装帖より抜粋 (著作権 実業之日本社にあります)

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