直江兼続 米沢春秋物語

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側室を持たなかった直江兼続と妻・お船の方の墳墓 

同じ大きさで 同じ意匠で 如何に仲がよかったか表現して余りあり (米沢市春日山林泉寺にて)

 

 

 

                     直江兼続 米沢春秋物語

 

 直江兼続が豊臣秀吉から拝命を受け、伊達政宗の後に米沢入りしたのは、兼続38歳の時であった。無論上杉景勝は豊臣家重臣・五大老の一人として、北方に睨みを利かせるため、越後から加増移封され、会津120万石の城主となった時で、景勝から米沢の所領を預かり、山形藩・最上義光に対抗するためでもあった。景勝の正室・お菊の方と同様、京都・伏見にある上杉藩邸に、言わば人質になるようにして行っていた兼続の正室・お船の方も、兼続とほぼ同時期に米沢入城をともにしている。一方お菊の方は生涯京都に行ったきりで、景勝の側室・四辻氏が二代目定勝を生んだことへ嫉妬の余り自刃して果てたと言う説があり、それが歌舞伎・『本朝二十四考』の八重垣姫のモデルになっているらしいが、いずれにせよこの二人の女性は幸不幸、糾える縄の如くであったのだろう。

 米沢は山形県内でも有数の豪雪地帯である。一年の殆どが寒々とした中にある。まだ上流である最上川は細い川幅だが、暴れ川で、土石流も多く、それほど肥沃な土地ではなかった。兼続は入城当初先ず街じゅう何処からでも見られる兜山(かぶとやま)に登り、そしてそこで米沢の道路計画を策定し、城内を固めるのに奔走したのだった。現在の米沢市内でも、何処からでも兜山が見えるが、特に南北の走る道路はこの兜山を目指して走っている。この経験は既に新潟で実践済みで、用地灌漑が何よりも必要なことだと考えたのであったろう。謙信公伝来の青苧の栽培やウコギの栽培など、米沢藩中興の祖として名高い九代目藩主・上杉鷹山公入城以前にも既にあったようである。寧ろ鷹山公は兼続の方法を厳粛に踏襲し実現したことになろうか。更に驚くべきことは、越後から会津へ、そして米沢へと没落するように減移封されても、景勝や兼続は家臣の誰一人も、召し放ち(リストラ)をしなかったことである。後に藩政が汲々として来る原因の一つになったことであるが、家臣一行は皆付いて廻ったことに驚く。それだけに義によって結束が固かったのであろうか。

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米沢市内どこからでも見える兜山

 

 直江兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれ、僅か23歳にして山城守と名乗り、景勝の家老となって、内政・外交を一手に引き受けた。そして元和5年12月19日、江戸藩邸で満60歳で亡くなるまで波瀾に満ちた生涯を生きた、僕は、それを妻と二人でしっとりとして見たかった。あれほど熱心に、秀吉から近習の誘いを受けても、ガンとして義を貫き、景勝のお傍要人として生涯を終えた兼続は、ただ単に義を通しただけなのであろうか。だがそれは僕にも一脈通じるものがあった。亡き主人のお傍にいた時は本当に幸せであったし、あれほどの人間に仕えた僕は誰よりも幸せだと今でも思っているが、兼続の心情はどことなく分かって胸が苦しかった。人に仕えて光る人間もいれば、人を使って生きられる人間がいることは充分に知っているからだ。それであの「愛」の兜は、上杉神社宝物殿の稽照殿に密やかに、その存在をヒカリと示していた。愛染明王か愛宕権現か、いずれにもしても判然としなかったが、戦国の世を生きた人の紋章であるに違いなかった。

 

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ウコギの生垣がある武家屋敷 意外に質素な佇まい 農家と見紛ひし

 

  戦国の世を生き、安土桃山時代から太閤の天下へ。そして大阪夏の陣や冬の陣から江戸幕府へと移行する渦中の兼続である。一つ間違えれば、いつでも首が飛ぶ時代である。本当に一本の道をひた走りに走れたのだろうか。不可思議とも思える兼続の短い生涯の出来事ばかりが目に付く。上杉神社(謙信公が祀られている)の傍、伝国の杜では、今NHK大河ドラマ「天地人」放映中の各役者が着る着物や小物が展示してあるが、そこでも兼続の吐く息の跡が見えなかった。あの兜山と春日山・林泉寺にある墳墓だけだろうか。僕と妻は歩き続けた。そうして漸く武家屋敷の通りに出る。尤も武家屋敷と言っても金沢や、他の武家屋敷とは雲泥の差で、まるで農家そのものであったが、生垣にはウコギが生り、トタン屋根のお宅を尋ねると、藁葺き屋根は建築許可関係上一切罷りならぬと言うことであった。僅かに残った藁葺き屋根の武家屋敷。越後から会津へ。そして徳川時代には更に減封されて、景勝は兼続のいる米沢へ。知行安堵されただけでも見っけものかも知れない。僕たちは武家屋敷を彷徨いながら、最上川の突堤に出た。狭い川幅でも、所々に堰がある。如何にも暴れ川らしい。背高のっぽの蒲公英が群生していた。よく観ると「直江石堤」と書いてある。驚くことに、その背後に累々と石積みがしてあった。これが兼続の造った堤防の跡だったのだ。僕たちは、最上川原や直江石堤でいつまでも遊んだ。そこからあの兜山がよくよくと見えた。妻と二人、何故だか手を取り合って僕たちはしゃくりあげ泣いた。自ら率先して地味な出でたちをし、妻と、慕う景勝さまへ、一本道の幾春秋、秋には目映いばかりの紅葉や、冬には毛布のような暖かな雪や、春の芽吹きの美しさ、そして夏はきっと水遊びもしただろうか。三つ年上の姉さん女房のお船の方と地道に努力をすることに決して労を惜しまなかったであろう。米沢はそんな清新な精神性に溢れていた。

 

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直江石堤(谷地河原堤防とも呼ばれ 1,2キロ続いていた (実際は3キロ作った記録あり)

 

  僕たちは、いつのまにか兼続所縁の法泉寺と文殊堂に迷い込んだ。兼続が漢籍や多くの書物を集めた小さな古屋があった。参禅したと言う場所もあった。境内をお散歩している老女に訊ねると、兼続さまはご立派な方で、三才を兼ね備えていると言われる。さすれば三才とは何かと問えば、「詩・文・武」だと仰られる。エッと驚く。もう一度三才とはどのようなものでしょうかと言うと、兼続さまのポエムを知らないなと言われる。あの方のラブレターは清くて凄いものであんすよと。確かに兼続には優れた多くの漢詩があったはずだが、そこまで高度なポエムがあって、詩に優れた御仁であっただろうかと改めて驚く。それから老女は、あの池の向こうに、景勝の母君で、謙信公の姉君である仙洞院のお墓や景勝公のご正室の菊姫のお墓などがあるんだべやと言う。熊笹を掻き分けて池の裏手に行くと、ひっそりと、仙洞院初め、景勝ご正室の菊姫さまや定勝ご正室の市姫さまや、四代綱勝公のご夫人である媛姫さまや、九代目鷹山公のご側室・お豊の方さまの方々の御墓があった。実にひっそりとしていて、静謐そのものであった。夏の日のような極端な暑さの中で、僕たちは深くお祈りをした。でも爽やかな雰囲気の中、枝垂れ梅が小さな梅の実をびっしりと落としている。それを5個ほど拾って、僕たち二人は、馨しい馨しい梅の実の香りを、佇んでずっと楽しんでいた。
 
 

  直江兼続は上杉神社境内にある松岬(まつがさき)神社(大正時代築造された神社)に、春日四柱大神や景勝公や鷹山公とともに鄭重に御祀られている。無論景勝公や鷹山公は上杉家御廟に主に安置される場所に眠っているが、かくなる祀られ方は、兼続の功績を後代の方々が特別に褒賞してのことだろう。尚今回宿泊した白布高湯温泉の近くには直江兼続が密かに鉄砲を作らせた跡があった。碑銘は「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」とあり、智将らしくここまでくれば、なるほど密やかに作れたはずだと思えた。上杉家二代目藩主・定勝は、菊姫亡き後直ぐに、実母の四辻氏も亡くなったため、直江夫婦は定勝の育ての親となった。直江兼続亡き後、お船の方は直ぐ剃髪し引き籠ったが、定勝に多大な影響を与え、その後も高禄を戴いていたようである。よく言われることは、頼朝にとっての、北條政子であるような存在であったと言わしめたほどであった。上杉の行く末を先々まで見届けつつ、江戸で81歳の生涯を終えると、兼続の墳墓の真横に仲良く入ったのである。

 

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春日山・林泉寺に咲く花々たち きっとこの花々は春夏秋冬いつも供養しているのだろう

 

あまりにも書く事柄が多く 上杉神社や上杉御廟や鷹山のことは明日以降の稿に改めたいと存じます!

 

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