上杉治憲(鷹山)公 忍辱(にんにく)衣を身につけて

 

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 上杉家御廟 正面神社形式の社殿は謙信公の御廟で、そこで二手に分かれ それぞれの藩主の御廟がある

 

 

 

        上杉治憲(鷹山)公 忍辱(にんにく)衣(ころも)を身につけて

 

 

 米沢に行ってから既に10日も過ぎてしまった。膨大な写真を整理しながら、あの感激をどうどのように表現したらいいのだろうと考えたが、なかなかまとめようとしてもまとまらない。それはそうだった。上杉御廟を前に佇むと、戦国から明治まで十二代の藩主、その中心に謙信公の御廟がある。これだけの時代をまとめるのに、そう簡単にまとまるはずがない。そんな風に覚悟をすると、何故だか書き出しがするりと出て来た。やっぱり九代目藩主・治憲(鷹山)公の話を切り口にするしかなかった。「天地人」の物語には出て来る藩主ではないが、現代の米沢に、最も多くその陰を落としていたからだった。初代景勝公と兼続主従の影を米沢の印象から推し量ると、多分三割ぐらいだろうか。後の七割は治憲(鷹山)公の影、いや影というより表面に出ていた方であったように思う。そして足したその十割を、すべて全部包んでおられる御方は他ならぬ謙信公であったと確信されてならなかった。謙信公の「上杉家訓十六ヶ条」は、佛教の影響を深く理解し得た凛々しいもので、初代から始まって十五代目まで、この家訓によって上杉家は存続し得ることが出来たと推測出来る。米沢は確かに凛々しい街であった。一人も召し放ち(リストラ)をすることなく、家臣団は一群となって、越後から会津(120万石)へ、そして米沢30万石へと減封されてやって来た。兼続が存命中はまだよかった。景勝のご息女を幕藩の大老・本多家へ嫁がせ、様々な点から実際の石高は50万石近かったようだ。二代目藩主は景勝の側室・四辻氏に産ませた定勝である。定勝の娘・富子は、あの吉良上野介に嫁いでいる。三代目・綱勝には男子が誕生しなかった上、急死してしまい、家督を継ぐものはなかった。お家断絶の危機に瀕し、保科正之(綱勝のお舅で、徳川家光の実弟)が奔走し、吉良上野介が一子・綱憲を養子縁組して四代目とした。但し知行は半石の15万石に尚も減封されるに至った。その後何代か過ぎ、八代目・重定の時代に又も男子が誕生することがなかったので、遠縁に当たり秋月藩の治憲公が九代目の跡目を継ぐことになった。四代目藩主・綱憲の娘・豊子が嫁いだ先の跡目の孫に当たるのが治憲(鷹山)公である。決して上杉家とは無縁であったわけではない。その上、家督問題を拗らせた結果、治憲公が入藩する時にはその半分の15万石に減封され、ただでさえ苦しいお家事情、旧家臣団にはそれでも高禄を出さざるを得なかった。江戸の町方衆でも一切お金を貸すことがない窮状で、九州の小藩・秋月家の次男であった治憲公が米沢入城した時は見るも無残な状態であった。その改革をしようというものである。容易さらざる覚悟で、治憲公は覚悟を決めていた。

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上杉謙信公の銅像 上杉神社境内にて

 

 米沢では初代を景勝公になっている。上杉家御廟では左右違いちがいに各藩主が、入母屋作りの御廟で並んでいるが、中央には謙信公の御廟が神社形式の建物の中に入っている。但し越後から会津へ、謙信公の御遺骸を持ち歩き、初代景勝公入城の際は、今は伊達正宗誕生の地と小さな標があるこんもりした御山に祀ったらしい。無論謙信公は決死の覚悟で、高野山で出家しようとしたぐらいで、今でも高野山には立派な謙信公の御廟があり、高野山には分骨して置かれてあるとされている。甲冑を身に纏い武者姿で漆で塗り込められた御遺骸の甕は、上杉神社本殿か、上杉家御廟かはっきりはしなかった。聞き書きした米沢の方さえ知らないと言う。ただ同じ上杉神社境内には謙信公が書いた「家訓十六ヶ条」の石碑が照りつける強い太陽も下に凛として建っていた。

 

       宝在心 (謙信公が書きしるした上杉家の家訓)

      一、心に物なき時は心広く体泰なり

      一、心に我儘なき時は愛敬失わず

      一、心に欲なき時は義理を行う

      一、心に私なき時は疑うことなし

      一、心に驕りなき時は人を救う

      一、心に誤りなき時は人を畏れず

      一、心に邪見なき時は人を育てる

      一、心に貪りなき時は人に諂うことなし

      一、心に怒りなき時は言葉和らかなり

      一、心に堪忍ある時は事を調う

      一、心に曇りなき時は心静かなり

      一、心に勇ある時は悔やむことなし

      一、心賎しからざる時は願好まず

      一、心に孝行ある時は忠節厚し

      一、心に自慢なき時は人の善を知り

      一、心に迷いなき時は人を咎めず

 

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 上杉神社本殿 三葉

 

 九代目藩主・上杉治憲(鷹山)公からいきなり、米沢には、生前何の所縁もなかった謙信公の家訓の話をしたか、それは僅か40歳にして亡くなった謙信公の影響は後代までずっと続いたことと、この家訓を最も愚直に守り抜いた人は米沢初代藩主・景勝と家老・兼続ではなかったかと言うことである。代を重ねて行くにしたがって家訓は形骸化し、高々の禄高に多くの高禄を食む人が群がっていたことが一層窮乏化して行く原因となっていた。治憲公は先ずその諸先輩の方々と対峙しなければならなかった。過酷なことであったろう。でも上杉神社境内にある通り治憲公は自ら率先して田畑に入り、武家屋敷にただ池だったのを鯉の養殖をさせた。先日の記事でも紹介したが、「かてもの」の栽培を奨励し、民政ただひと筋に生きた。民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)や財政に明るい莅戸善政らを重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら質素・倹約を相努め、果樹も勧めるための土地を耕し、全武士の帰農を奨励し、多くの種類の作物を育てるなどの民政事業を徹した。更に兼続に習い、学問を奨励し、江戸から細井平洲・神保綱忠によって藩校を再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。会津の日新館や鶴岡の致道館などと並び称された。これらの施策で破綻寸前だった藩は漸く立ち直り、明治の世まで続く結果に繋がったのである。タクシーの運転手から聞いた話だが、米沢をABCと憶えて戴ければ有難いと。何故かと問えば、AはAppleで、BはBeefで、CはCarpだそうである。そんな時代まで米沢牛が遡るのか、聊か疑念があるが、米沢の人たちにとって、そのぐらい治憲公は偉大である。それは初代・景勝公や兼続に学んだことであり、謙信公の心得を会得した瞬間だったからだ。義に生きた謙信公は、専ら佛道だけ注目されるが、民・百姓のことを最も大事にした武将であったのだと。従って最も有能だった智将・兼続の兜の前立ての「愛」の字は、愛染明王や愛宕権現ではなく、「愛民」であったと頑なに米沢の人たちは信じていた。然も約20年近い執政の後、治憲公は出家し「鷹山」と号し、家督を我が子・顕孝にではなく、治憲が養子となって米沢に来た後に、先代・重定公に出来た息子・治広公に譲り、70歳で亡くなる時まで、藩政をバックで支えつつ、大借金を三世代目でやっと完済している。でもあの天明の大飢饉の時だって、米沢ではたった一人の餓死者も出さなかったのだった。米沢の人たちから治憲が如何に尊敬され愛されたか、それは明治の御世に、上杉神社が別格官幣社に昇格するまで、治憲(鷹山)公は上杉神社の祭神として、謙信公とともに二体が奉ぜられていたことによっても分かろう。明治時代に、上杉神社境内に建つ摂社・松岬(まつがさき)神社に分離されるまで続いた。今は春日大神四柱と、景勝と兼続とともに七神として祀られている。

 

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上杉鷹山公の有名な「なせばなる~」の石碑

 

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     鷹山公の銅像                   松岬神社                 特に奨励したヤマウコギ

 

 更に驚くことに家督を先代の子息に預けるに際し、「伝国の辞(でんこくのじ)」を認め、藩政を預かるものの心得を書き遺した。この遺言は明治を過ぎても上杉家には伝わったと聞く。現代のヒョウロク玉のような私腹の肥えた政治家どもに是非とも叩き付けたい思いでいっぱいである。 

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事

天明五巳年二月七日  治憲 花押

治広殿  机前

 運転手に連れて行って貰った田んぼがある。治憲公が御自らモンペ姿でお田植えをした「藉田(せきでん)の碑」であった。注連縄で結界を仕切られたこの田んぼは、今でも上杉神社で大切に拝礼されていると言う。更に夏場は、漆黒の色をした牛を飯豊山の放牧場に放つ牧舎にも行って、米沢牛の美味いわけは、その自然放牧にあったとか伺った、そしてどの武士にも手仕事として奨励した笹野一刀彫(現在は専業家で成り立っている)の民芸品の工房や、景勝の正室である菊姫(菊姫は京都で自刃して亡くなったらしいが、お墓は米沢にあった)が最初に始めたとされる米沢織物、蚕や桑畑や絹糸や、紅畑などから成り立つ草木染の染料のもとになる様々な植物なども観て廻った。米沢興譲館高校(藩校がもとで作られた優秀な人材を輩出している)や明治時代建てられた旧工業高等学校の旧舎など、実に立派で、松本の開智小学校を彷彿とされ、胸にツンと突き上げられるモノを感じた。今は山形大学工学部になっているが、往時を偲ばれてならなかった。日本で最も少ない少年犯罪率や重犯罪の少なさは絶対に誇っていいことだ。そんな土壌は、こうした地道な上杉家の奮闘と、相重なって見える。古くから伝えられた人には欠かせない倫理が生きているのだろう。そう言えば会津でも「什の掟」があったようにである。米沢の武士たちが、鷹山公の法号名に掛けて、主に鷹を彫ったという笹野一刀彫のモニュメントでさえ、紺碧の天空に凛々しく聳え立っているように思えた。

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  藉田の碑とその田んぼ        お鷹ぽっぽの笹野一刀彫看板       旧制工業高等学校の建物

 

 僕は景勝・兼続主従の終焉の地・米沢に真冬、雪灯篭祭りで行ったことがある。まさに豪雪地帯で、山形市は30センチの積雪だとすれば、米沢市はその5倍はあろうか。このような辺鄙な土地柄で、上杉謙信の一党はその精神性を高め、ゆるぎない信念を貫いたからこそ、今は一地方都市ながら、どこか堂々としていて、去り難かった。僕は杏を抱き、妻に、全国的に評判である牛肉弁当の「どまんなか弁当」を人数分四個買ってもらい、薄暮、梅雨空で曇天で蒸し暑い東京の自宅に帰り、皆で黙りこくって美味しく食べた。杏には米沢特産の蜂蜜入り山葡萄液をタップリとあげた。濃厚な牛乳も購入して来たが、杏は実に美味しそうにゴックンゴックン飲み干した。見事な食欲で、今回は娘のために行ったはずだが、いつしか杏のお世話役がいてはることをいいことに、愈々お腹が出て来た妻の様子に合わせながら二人で充分に堪能するまで廻って歩いた。最後は少々脚に負担が来て、ヤバイと思い途中から車椅子などお借りしながら慎重になるべく多くを回れた。その米沢の感動が後を引いて堪らなかった。翌々日京都の義母は帰ったが、帰り際杏から泣かれて困っていた。京都の義母は何処と無く嬉しそうにして微笑んで、ヒラリと帰って行った。

 (但し「伝国の杜(でんこくのもり)」と称する大きなハコ物の上杉美術館はテレビドラマで、役者さんが身につけた衣装や刀などばっかりで面白くなかった。それより上杉神社宝物館である「稽照殿」のほうが遥かに勉強になった。妻は古文書を読みとき、懸命にメモに写した。花押だけはどうにも写しようがないが。上杉神社横にある上杉伯爵邸も実に素敵だった。そこで「かてもの料理」を戴けて楽しかった。「稽照殿」には謙信公や景勝公や兼続の、国宝指定になっている直筆の「上杉文書」がズラリと多くあった。背筋が寒くなるほどの感動を憶えた。それと駅近くにある「宮坂考古館」は是非お勧めしたい。何故なら前田慶次と言う加賀・前田利行公所縁のカブキ者が、兼続の部下になり、最上勢との戦で大活躍をしたからであり、大河ドラマの後半にはきっと出て来るのかも知れない。慶次の甲冑がカブキ者らしく、実に見事で素敵だった。兼続の所有物は、多く東京のサントリー美術館などに貸し出ししていて、全部は見られなかったが、でも想像するに充分であり、米沢の奥深さが分かって大変に勉強になったことである。タクシー会社では、2時間コースとかお昼御飯をはさむコースなど様々にあり、7500円コースから20000円コースまで色々だが、お手ごろに見られると言えばそうかも知れない。僕たちのような素人衆には、とかく便利であろう)

 

 CIMG4421   僕の荷物   CIMG4426

山形のお米は山地の寒いところでとれる米を「どまんなか」と言い 平地のお米は、「はえぬき」と言うそうである

   牛肉どまんなか弁当と             僕の荷物と           駅構内にある米沢牛の模型か 

 

<副題の出典は『梁塵秘抄 100』  「慈悲の御室(みむろ)に住みながら 忍辱衣(にんにくころも)身にかけて 忍辱衣は色深く 慈悲の室(むろ)には風吹かず 諸法空を御座(みくら)して 人には教(をし)へ持(たも)たしむ」からの一節でありました ご了承のほどを>

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上杉治憲(鷹山)公 忍辱(にんにく)衣を身につけて への2件のフィードバック

  1. 良枝 より:

    なせば成る~って、彼の言葉だったんですね。私の父が口癖の用に言っていたので、いつのまにやら、私もそらんじて言えるように成っていました。なんだかんだでつい口をつくと気持ちの引き締まる言葉ですね。

  2. 文殊 より:

           りんこさま そうそう、そうなんですよ。日本全国を廻ってみると、まだまだ捨てたもんじゃないことが結構ありますね。お父上さまから伝授されていらっしゃったなんて素敵なことですヨ!今見つめなおし、きちんと日本人の骨格を捜す、或いは身につける、そんなことが大事じゃないかなぁと思っています。今しがた、久し振りに自宅から持って来たお弁当を食べました。鷹山公にならい、米沢の「かてもの」に負けないような生ドクダミをたっぷりきざんで炊いた炊き込み御飯です。今朝自宅敷地内で、採れ立てのドクダミを刻んで餅米入りで作りました。妻はその匂いを嗅いだだけで卒倒しそうになりました。(爆笑)でもこれもお手製ですが、木の芽とジャコを炊いたんと、一緒に食べると、平気平気!!結構な苦さで、オトナの味に仕上がっておりました。何だか元気が出そうです!おいで戴き有難うさんでした!

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