静御前に捧げ給へる序の舞の笛

 

愛知県より吉野の櫻に憧れ 吉野に移り住んだ日本画家・井上喜斎さんの絵「静御前」

 

 

 

 

     静御前に捧げ給へる序の舞の笛

 

 七夕を終えると、心中深く沸々と蘇るものあり。静御前のことである。厳冬の吉野で、義経と惜別した静御前が捕らえられ、鎌倉へ。4月8日 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝した時、静御前に舞を行うよう控えの間から、廻廊に召し出される。以前から命じられていたとは言え、病気の故と称して断り、我が身の不遇を一切言う事ことなく、豫州(義経)の妾として晴れの場に出るのは恥辱であると渋り続けていたが、政子が「天下の舞の名手が偶々この地に来て、近々帰るのに、その芸を見れないことは甚だ残念なことだ」と頻りに頼朝に勧め、「八幡大菩薩に備えるのだから」と言い、静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じさせられた。静は、死を覚悟して、

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

 

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

  と、堂々と義経を慕う歌を、切々と唄いあげ、あろうことか兄・頼朝を至極憤激させたのだが、妻の北条政子は「私が御前の立場でも、あの様に謡うでしょう」と取り成し、何とか静御前の命が助けられた。『吾妻鏡』では、静御前の舞の場面を、「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。ところが既に静御前には、義経の子を身籠っていた。真に惨いものである。女ならばよし、オノコならば直ちに殺すべしと。閏七月二十九日、静御前は男の子を出産する。頼朝が家臣・安達清恒が赤子を受け取ろうとするが、静御前は泣き叫んで離さなかったようだ。母の磯禅師が赤子をようよう取り上げ、清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜の海に沈められ殺された。哀れんだ政子と大姫(頼朝の長女)が、子供の命だけはと嘆願したが、全く聞き入れられることはなかったようである。頼朝は天下の体制のために、非情に徹し、静御前はその後何とか政子や大姫の庇護があったものの、どこでどう亡くなったものやら、後の静御前の様子は全く判然としていない。ただ僕は、静御前と言う女人の大いなる凛とした覚悟を観じ、哀しい限りだと思えて堪らない。

 そして今、西行の『山家集』が目の前にある。夏編は数少ない歌であるが、ただ一つ「かきわけてをれば露こそこぼれけれ浅茅(あさじ)にまじる撫子(なでしこ)の花」が、妙に気に残って堪らない。

 

 撫子

何故か 僕が大好きな大和撫子 

 

  僕は腹を据え、序の舞の笛を、食後の家族の目の前で、一笛吹いた。娘の杏も、妻・倭文子も静かに聴いていた。嬉しかった。また今月は何かと各地で御祭が多く、静御前のことは殆ど忘れがちである。静御前の長子が殺され、行く末儚きとしたおぼろげなる御月でもある。折角生んだ子を、直ぐさま死に追いやられなければならなかった静御前の御心が痛ましく、何年経とうが哀しみは消え去ることはない。歴史とはかくも過酷なものであろうか。我が家では、もう直ぐ撫子が満開となることであろう。新しい生命にも預かれるであろう。皮肉にも何とも言いようがない。あらゆる生きとし生きる衆生へのご多幸とともに、不遜にも逝った方々のご冥福を祈るのみである。

 

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静御前に捧げ給へる序の舞の笛 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    静御前はいかにも佳人薄命を彷彿とさせます。ただ、亡くなったのが22歳とも24歳とも謂われ、その終焉の地と称する場所が25箇所もあるとか。数百年も遡れば真実は闇の中で、それでいいのかも知れません。『吾妻鏡』にしても北条氏の権勢の誇示による曲筆だとの節もあるものの、我々がその真偽を云々するのは筋違いでしょう。美しいものは永遠に美しくあるべき。それでいいのだと思います。静(倭文?)が舞ったとされる本歌の「古(いにしえ)のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」も、絶世の美女を彷彿とさせる哀しくも美しい調べです。後半に撫子の花が登場しますが、「草の花は、なでしこ。から(唐)のはさらなり、やまと(大和)のもいとめでたし」(清少納言『枕草子』)。大和撫子は死語となったのでしょうか。いえ、決してそんなことはありますまい。ちゃんと生きている所には生きて存在していること信じたいものです。硯水亭さんがかくまで愛でられる撫子の花は、もしかして、静御前の生まれ変わりなのかも知れませぬ。「野末の雲」 柳田国男野末のくもよ、しばらくは日影にかくれ、思ふ子がはかにたむけて我が帰るたゞ一もとのなでしこのあまりはかなく枯れなむに

  2. 文殊 より:

         道草先生 確かに『吾妻鏡』は、北條氏側にたって書かれてあります。でもその中でも政子や大姫が京の都に帰った後も、少しですが、禄高を与えている記述があります。夫・頼朝の、余りの公家嫌いが、義経さえも騒動の中に巻き込んだのですから、義弟・義経に対する「あはれ」を痛切されたのだろうと存じます。静が舞った本歌は、先生がおっしゃる通り、静と倭文織をかさねたものでして、倭文織の糸を手繰り寄せたいとの思いが入っています。豫州とは公家から与えられた当時の義経のいわば官位と役職名ですが、義経の権勢も、西国中心に相当高かったのでしょう。そんないい時に戻せないのねと嘆いた歌でした。我が妻の名に通じる白拍子の御歌です。吉野においでで櫻の絵を描いている井上喜斎さんの静御前像がどうにも気に入っております。どこか妻にも似た風情がありそうで、勝手に想像するだけです。 撫子の花も随分少なくなって参りました。京都のオバンザイも、京都の中でさえ少なくなり、近年極端に食生活が変化しているように思われます。でも古きよきものは、決して喪失されることはないと、深く信じています。撫子の花も、そして倭文織も。確かに撫子の花が息災でいると、静御前のように思われてなりませんね。先生!今日もおいで戴き、有難う御座いました!

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