佛も昔は人なりき~女人絶唱

 

klimt_接吻

 Gustav Klimt 油彩『接吻』 (ベルヴェデーレ宮殿オーストリア美術館所蔵)

 

 

 

 

                    佛も昔は人なりき~女人絶唱

 

 

 俵万智の短歌は発行当初から大反響で、現代の私たちに絶大な支持を受けていると思う。一時「サラダ記念日」は社会現象になったほどである。次々に短歌の出版が続き、それらが幾種もの文学賞を受賞されていらっしゃった。エッセイもなかなかなもので、僕は結構読んだ部類に入るかも知れない。彼女が書いた唯一の小説『トリアングル』中公文庫)は自伝的な処女小説なのだろう。ご本人も2003年に未婚のまま男児をご出産なさっておいでで、その前後に、この小説『トリアングル』は読売新聞に日々連載され、当時センセーショナルな話題を提供したものだった。ご出産の翌年出された俵万智唯一のこの小説は、ご本人の実生活とダブルかのように極めて暗示的で濃厚な中身に出来ているが、でもうっかりしたことを言うべきではない。今から3年前、阿木燿子監督により、その小説は、映画・『TANNKA 短歌』(2006年公開)として発表されるに及んだのだが、テレビ・ドラマ制作や監督、及び女優業など、今更に言わずもがな多くの歌手に作詞を提供している女性として極めて稀有な存在の阿木燿子によって視覚化され、女性特有の肉体に宿り、微妙に揺れ動く心の内面を映像化されたものだった。才気溢れる二人の女性の合作と信じられたほどであった。

 

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   Gustv Klimt 作画 油彩 『Danae ダナエ』 (個人蔵)

 

   あっと言う間に2週間の夏休みも終わり、来週から再び仕事に復帰する。この間ずっと一緒だった我が妻に今更驚かされることが多く、女人の不可思議さを思う。妊娠も不可思議なことだけれど、女人すべてを把握し理解するのは到底困難ではなかろうかと、不図そんな風に感じられる。分からない部分があるからこそ、いつまでも新鮮で活力に満ち溢れたパワーをくれているのだろう。そして多くの女人たちと僕は徹底抗戦するわけじゃあるまいし、不可思議な部分は不可思議なままで存在したほうがいい。高村光太郎も、頻りに妻・智恵子の不可思議さについて幾つもの愛の詩を書いている。いやいや『智恵子抄』には、根底にそれがあるからこそ時代が過ぎ何時まで経っても不朽の名作として今日まで、そしてこれからも読みつがれて行くのだろう。

 折角、映画『TANNKA 短歌』の話題を出したので、劇中に挿入されている俵万智の短歌全十二首をご紹介しておきたい。

 

        幾千の 種子の眠りを 覚まされて 発芽してゆく 我(われ)の肉体

        唐突に 恋は始まるものだから さぁもう一度 いえもう二度と

        渡されし 青銅色のルームキー ずしりと手に 重たき秘密

        朝刊のように あなたは現れて はじまりという言葉 かがやく

        水蜜桃(すいみつ)の汁吸うごとく 愛されて 前世も 我は女と思う

        ふと宿り やがて心の染みとなる ユリの花粉のような ジェラシー

        うしろから 抱きしめられて 目をつぶる 君は荷物か翼か知らね

        ビールなんかじゃ酔えない 夜のなか 二人は寂しい 二人は苦しい

        家計簿を きちんとつけているような 人を不幸にしては いけない

        八枚の花びらを持つ コスモスの いつも「きらい」で 終わる占い

         きつくきつく 我の鋳型をとるように 君は最後の 抱擁をする

         散るという飛翔のかたち 花びらは ふと微笑んで 枝を離れる

                              (以上 映画『TANNKA 短歌』より抜粋)

 

  無論これらの短歌は、小説『トリアングル』からだけではなく、彼女多くの短歌集から編纂されて取られているが、俵万智の凄さを推し量れるものとして充分であろう。映画は決して大ヒットしたものとは言い難く、若干か弱い面がないこともないが、出演した役者がツワモノ揃いで見応え充分であった。やっぱりご自身でもスペイン・フラメンコなどを観せる店舗を、赤坂の一ツ木通りで、レストラン&ライブ「ノヴェンバー・イレブンス 1111」として直接経営なさっている阿木燿子ならではの、精神と肉体の葛藤のテーマであり、映画初監督として存分に満たされていた。又彼女は、鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコ舞踊団とともに、「FLAMENCO曽根崎心中」を,夫・宇崎竜堂の音楽担当で手掛けているので、ダンス場面には実績充分であった。ヒロイン薫里役には黒谷友香が扮し、見せ場のベリー・ダンスは色気でムンムンとして挑発的に充満していた。最初の相手役で熟達した年上の男性Mには村上弘明が演じ、愛する年下の圭役には若手俳優の黄川田将也が出た。更にバー・『オーク』のママ役に高島礼子、バー常連の岡本役で出ていたのは映画ひさかたぶり出演の西郷輝彦で渋い演技を披露していた。脇がしっかりした映画は嬉しいものだ。本映画は極最近『日本映画専門チャンネル』で観たばっかりであり、我が妻も一緒に観たのだが、何故(R-15)指定を受けなければならないのか全く理解出来なかった。愛すればこそのラブシーンで、少しも下品な感じがしなかったからである。

  映画の荒筋は簡単である。年上の男性との関係で、女として性に目覚めて行く。妻ある男性とはその関係以上に発展しようがない絶望性を秘めている。ヒロイン薫里は若者と生活をともにするようになる。しばらく経って、女は、この若者のために別れの時機がやって来たと判断する。若き男は最後にもう一度抱かせてくれと懇願する。ところが役立たずで頭を抱える始末だったが、全裸のヒロインは紫の薄いベールをまといベリーダンスを始める。その後、最後の愛が交わされ、男は静かに去って行く。ヒロインは清々し、女として自信に満ちた顔をして、大きくなりつつあるお腹を抱え、大らかに出社する場面でさらりと終わる。大人のラブストーリーであろう。

 

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 Gustav Klimt 作画 壁画 『ベートーヴェン・フリーズ 第三場面ー歓喜・接吻』 (オーストリア分離派会館所蔵)

 

   朝、僕は妻より2時間早く起きる。5紙の新聞に目を通し、朝食の支度に取り掛かる。その後BSでやる「日めくり万葉集」の時間(朝6;55~7;00)に妻がベッドからようやく起きて来る。寝起きの妻の顔は当然スッピンで、無心な童女のようでメルヘンチック、可愛い。日中文机に向かう有様は、室生寺の十一面観音菩薩さまの表情のようにキリッと締まっていて怖いくらいで、夕食後は殆ど娘・杏と遊ぶことに費やされている。そんな夜の表情は、岩船寺から浄瑠璃寺に向かう途中の道すがらお逢い出来る微笑佛にそっくりで何とも微笑ましい。長く細い脚は、端唄のキリギリスのように何故にチックリか曲がっている。殆どスッピンでいる時が多いが、偶の外出時に、唇へ薄い紅を注す。いつも着ているモノはお出掛け時とそう変わりはなく、普段着程度でいるのがいい。取り分け和服が一番落ち着くようだが、特別なお洒落をすることを好まない。自分のルーティーンをきっちり守るタイプだ。小学校高学年から同年齢の者や少ししか離れていない先輩・後輩などどうでもよかったと妻は話す。相手は幼くてヤンチャで何を話しても駄目で詰まらなかったらしいが、それの後からずっと本の虫となり、寡黙な妻は一層寡黙になっていったらしい。自宅でも普段寡黙で、二人になった夜の時だけが二人だけで猫のようにじゃれあう。杏だって負けていない。ケラケラ大笑いしたかと思えば、さらっとして余所見し、平然たる表情だ。母娘二人の性格はよく似ているようで、杏も妻のような素質が充分で、妻の要素の萌芽は既にしていると言っていい。当家には寡黙なニャニャンが二匹いるかと言う印象で、男一人では太刀打ちが出来ないし敵わないったらない。僕たち二人、物事を伝達するのに、目と目で充分に間に合っている。沈黙ほど雄弁なものはないらしい。静かな普段の生活で、それでたっぷりと満たされているようだから、これも不可思議な一つなのだろうか。

  男性と女性は、全く交わることがない深い溝のような一線がありそうである。尊厳に満ち、神秘的ですらある。生理的にそう出来ているのだろう。不可思議は不可思議のままでいい。付き合い始めて既に10年近くなる僕たちにも日々発見することが多く、妻の内的なパワーに大いに助けられている我が身である。僕は、妻を一切束縛しない。拘束すれば、僕もきっとそうなる。お互いしたいようにすればいい。そう信じている。妻が出掛けるんでも、一々詳細を聞かない。ベニシアさんと梶山正さんのご夫妻のような適度な距離感を好む。白洲次郎・正子だってそうだったし、宇崎竜堂・阿木燿子ご夫妻においてもそうであるだろう。お互いに敬慕しつつ適度な距離を保つがよろしかろうと僕は思い込んでいる。短い人生のはずだが、妻とのいい感じの距離感が知的であるように、日々結構永く楽しめるようでならない。一瞬にして泡沫のような人の生涯でも、永遠にさえ感じられる。女人は女人の道をひた走ることによって、男より一歩先んじて佛の悟りに近いのだろう。かく言えば、またぞろ盲目的だと揶揄されるに決まっているが、それが一生涯続けば又別であるに違いない。今日は一遍上人の忌日につき、捨聖(すてひじり)のご遺徳を偲び、二人で話すことが多く長い夜となるだろう。そうそう坂村眞民先生の話題も当然出すべきで、坂村先生は一遍上人に深く帰依しておられた。さぁてそろそろ夕餉の支度にでも掛かるとするか。

 

表題源流(『梁塵秘抄』第二 232) 「佛も昔は人なりき 我等も終(つゐ)には佛なり 三身佛性具(ぐ)せる身と 知らざりけるこそあはれなれ」

(上記詞章は 23日づけ読売新聞2面 「四季 長谷川櫂」の欄に全く同じ詞章が取り上げられ 奇しくも偶然であったことにひどく驚いている!)

 BGMは Chopinの『Piano Sonata』

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佛も昔は人なりき~女人絶唱 への2件のフィードバック

  1. (Kazane) より:

    おはようございます。日に日に朝の空気が涼しくなっていきますね。硯水亭さんは、奥様と知り合われてから10年近くになられるのですね。いつまでも新鮮さを感じられるって、とっても素敵☆お互いにそれぞれが魅力的だからこそなのでしょうね。硯水亭さんがご家族と過ごされる光景は、どこか物語の中の一場面のようで、そこだけ違う空気が流れているように感じることがあります。何だかいいな~。>お互いに敬慕しつつ適度な距離を保つ確かに、心地いい距離感てありますよね。寡黙なニャニャン二匹との暮し、これからもず~っと楽しんでくださいね^^

  2. 文殊 より:

         風音さま 今晩は!今日は久し振りに、オフィスに全員が揃いまして、義母がいるこをいいことに、夜は会食して戻って参りました。全員真っ黒な顔をして元気いっぱいだったので、安心しました。今日は久し振りにスーツを着ていったのですが、涼しかったので大助かりをしました。秋の実感ですネ。 僕たちは正確に申し上げると、9年に3ヶ月足りませんが、結構永かったような気でいます。それでもどうでしょう、彼女は真剣に勉強していたかと思ったら、和服に着替えて、僕を喜ばせてくれたり、あれでも大変気を使っているようです。でも自分のルーティーンを変えたりしません。ここのところ大好きな井上陽水が連続四日間、教育テレビであるものだから、珍しく宵っ張りしてますが、珍しいことです。僕も陽水が好きなので、杏を何とか寝かせて、楽しんでいます。義母が来ているのも大きいでしょう。 予定日が月末と迫っているせいで、義母が来たのですが、まだその兆候はありません。本人が一番暢気にしています。でも僕にとってはマジに義母がいてくれるだけで安心してオフィスに出られます。 距離感と言うと大袈裟ですが、お互いに邪魔しないされない関係かなぁと思っています。同時に妻がしたいことを、僕は誰が何と言おうとトコトン応援して行く所存です。普段は静かなのですが、義母が一人で賑やかにしてくれていますから、今時分にはちょうどいいのでしょうね。風音さまご夫妻も、大変素敵なご関係でいらっしゃいます。お互いにおきばりましょう。今日は本当に有難う御座いました!!!!

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