火よ焼き払えよ 疑義よ晴れよと 御神火怒れ!  『吉田の火祭り』

 

yosida himaturi

吉田の火祭りにおけるお松明(町中が火の海と化す)

 

 

 

    火よ焼き払えよ  疑義よ晴れよと 御神火怒れ  『吉田の火祭り』

 

 

 人と火は、欠かせない相関関係にある。まして神事や佛事にも、火はあらゆる意味で畏れられ、崇められ、逆に鎮魂されて来た。お正月から暮れの行事まで殆どのお祭は火と水ともにあると言っても過言ではないだろう。火のほうでは、お正月飾りは15日の小正月に、「ドント焼き(=左義長)」で燃やされ、年神さまにお帰り願う行事である。福岡の「鬼すべ」もそうであり、火がなければ成り立たない行事である。二月に行われる「修生会」(大分県国東半島の岩戸寺など多数、一部では鬼会)、三月には奈良・東大寺で行われる「お水取り」も一種の火祭であろう。高尾山では修験者による「火渡り式」が行われる。卯月四月にも各地で、「火渡り式」があり、宮城県中新田にある大崎神社の「火伏の虎舞」も、この時季に数多くある「火防祭」も火祭りに入るのだろう。五月には「近江八幡の火祭」「小田原の傘焼き」なども入るかも知れない。六月にある「平安神宮の薪能」も火がなければ始まらない。長野の茅野である「火とぼし」もそうだろう。七月には「那智の火祭」には圧倒される。祓いや禊をするために燈籠のついた船を出す「津島祭」もそうだろう。「弥彦燈籠祭」も、「愛宕千日詣」も火に関係する行事である。八月はお精霊さまをお迎えしそしてお送り申し上げる。各地の「精霊送り(或いは流し)」や、「ネブタ」や、「秋田の竿燈」も入るだろう。愛知県の「一色提灯祭」も、京都の一大イベントである「大文字焼き」も入っていいのだろう。先日あった化野念仏寺での「千灯供養」はお灯明の火がなければならず、そして今夜行われる「富士吉田の火祭」は多くの火祭の中でも奇祭の一つに入る。「御燈祭」(和歌山県新宮市神倉神社)、「南部の火祭り」(山梨県南部町)、「オロチョンの火祭り」(北海道網走市)、「愛宕社の火祭り」(富山県魚津市魚津神社)、「鞍馬の火祭」(京都市左京区由岐神社)、「手力の火祭」(岐阜市手力雄神社)、「火柱祭り」(鳥羽市志摩加茂五郷)、「河内火祭り」(鳥羽市河内町・松尾町)、「紀和の火祭り」(三重県熊野市)、「名のり・注連縄切り・火祭り」(三重県志摩市大王町)、「鬼ヶ嶽火祭り」(福井県越前市大虫神社)などなど、数え上げたらキリがないくらいである。

 いずれにせよ、火は水と同様に、人間生活にとって原初的に深く関わっている何よりの証拠であろう。広義的な意味において、夏の花火もそんな側面を持っているのだろうか。真言宗や天台宗など密教系寺院では「お護摩焚き」は悪因縁を消伏させるのに最も重要なご法事となっているし、山伏・修験の世界でも最も重要な修行となっている。

 だが今夜の「吉田の火祭」は、位置づけとして少々他の火祭とは一線を画すと考えられる。山梨県富士吉田市で行われるこの「火祭」は日本三奇祭の一つに数えられ、北口本宮冨士浅間神社と境内社である諏訪神社の鎮火祭で、大松明を燃やす火祭りである。(山梨県指定無形民俗文化財)。今では富士登山の終了時に、「お山終い」として行われ一般的になっているが、ここのご祭神であるコノハナサクヤビメの故事が、諸説の中で最も有力なように感じられてならない。普通は祓いであるのに対し、めずらしく疑義を晴らす業火となっているからである。天孫降臨で日向の国に降臨した天照大神の孫にあたるニニギは、オオヤマツミの娘であるコノハナサクヤビメ(櫻の花姫)と結ばれた。だが一夜にして孕むとはとニニギが疑ったので、本当の皇子であればどんな業火の中でも健康に産めるはずだと、皇子を産む際わざと姫は自分で火をつけた産屋で出産を果たし、ニニギの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリホオリ(山幸彦)の三柱を産んだのであった。(ホオリの孫は言うまでもなく神武天皇である)。ニニギに対しその疑義を見事に打ち晴らしたその故事に則って行われた御祭ではなかろうかと推測している。然しながら御神輿の中にオヤマサンがあり、富士山のご神火と無縁ではないとも思わせるが、故事来歴は已然として実証的には分かっていない。そこが日本三大奇祭と言われる由縁であろう。

 

oyamasan 

 オヤマサン (富士山の模型のような御神輿)

 

  対岸にあたる東京湾に面した千葉県稲毛にも、ここと相対した浅間神社がある。稲毛でも本場の浅間神社と同じように安産・産業・防火の神となって、今でも盛んに崇拝されている。僕の第二子は今月下旬が予定日であるが、徐々にその緊張が高まりつつあり、妻に全く兆候がないわけではない。論文を書き終えてから頻りに病院と連絡取ったり、検診などに行っているようだ。予定通りならそろそろ入院しなくてはならないのだろうか。でも未だはっきりとした陣痛は起きていない。義母がいてくれるから心強く安心ではあるのだが、何かと気忙しくなっている。妻の直ぐ傍にいる僕が、ソワソワなどして一体どうするのかと我ながら可笑しくもあるのだが・・・・・・・。今夜火祭りで、明日の吉田では、この同じ境内で「ススキ祭」が挙行されるだろう。吉田の燃え盛る火に、一切の邪悪が去って、母子ともに健康でありまするように、心から心から祈りたくなろうというものである。以下の歌は我が妻の今回の出産と全く無関係で、男女の別離を描いているのだが、背景に「火」に対するご信仰ありと思われたので、敢えてご参考までにここに掲載させて戴くことにした。(さだまさし作詞・作曲 『修二会<しゅにえ=お水取り>』)

 

                修二会

                                              作詩・作曲 : さだまさし

	春寒(はるさむ)の弥生三月花まだき
	君の肩にはらり	良弁椿(ろうべんつばき)
	ここは東大寺	足早にゆく人垣の
	誰となく独白く南無観世音	折から名残り雪

	君の手は既に	凍り尽くして居り
	その心	ゆらり	他所(よそ)にあり
	もはや二月堂	天も焦げよと松明の
	炎見上げつつ何故君は泣く	雪のように火の粉が降る

		走る	火影	揺れる君の横顔
		燃える	燃える	燃える	おたいまつ	燃える


	過去帳に	青衣の女人(しょうえのにょにん)の名を聴けば
	僕の背に	君の香りゆらめく
	ここは女人結界(にょにんけっかい) 君は格子(こうし)の外に居り
	息を殺して聴く南無観世音	こもりの僧の沓(くつ)の音

	ふり向けば	既に君の姿はなく
	胸を打つ痛み	五体投(ごたいとう)
	もはやお水取	やがて始まる達陀(だったん)の
	水よ清めよ	火よ焼き払えよ	この罪この業

		走る	火影	揺れる	あふれる涙
		燃える	燃える	燃える	松明	燃える
		走る	火影	揺れる	あふれる涙
		燃える	燃える	燃える	松明	燃える
 
yosida no himaturi
 吉田の火祭り』 町中が火の海となれり
 

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火よ焼き払えよ 疑義よ晴れよと 御神火怒れ!  『吉田の火祭り』 への2件のフィードバック

  1. 道草 より:

    この15日に「花背の松上げ」があり、京都の夏の大きな行事は終了したようです。次は10月の「鞍馬の火祭り」でしょうか。この「花背の松上げ」は、元々は愛宕信仰による献火の行事とか。「愛宕山」は全国各地に沢山ありますが、いずれも火に関連しているのでしょうか。「愛宕社の火祭り」は富山ですか。1月の行事の様ですが・・・。「花背の松上げ」はこれまで24日でしたのに、過疎で人口が減り、若い者が帰省するお盆の14日になったとか。止むを得ない状況とは申せ、神事を簡単に変更しても宜しいのかどうか、甚だ疑問に思うところです。人口や資金などの事情で地域だけで維持出来ない場合は、何とか援助策を講じる必要があるように思います。まして、無形文化財とか民俗文化財に指定されている歴史と伝統のある行事は尚更と思うのですが・・・。「花背の松上げ」  白川 淑出町柳からバスに乗る鴨川を越えて 賀茂街道へ薄暮のなかを ひたすら北へ北へ──鞍馬あたりから 細い山道になり北山杉のトンネルをくぐっていくむかしの若狭裏街道を登っていくヒトの道か ケモノ道か足もとは 山肌をおおう羊歯のむれようやく花背峠にあっ見えた! 別所のバス停ずいぶん前に訪れたことがあった「よう わさったな」姉さん被りのおばさんが迎えてくださったここは平家落人の隠れ里ことばも京の町中とは違っていたかたしの母方の出所(でしょ)の血すじの地さしずめ 曾祖父は杣人(そまびと)であったろうかひんやりとかよう 盆の風小山にかかる ひと掃きの霧それから もっと奥へ奥へ──大堰川の上流に出る川添いに ぼおっと浮かぶ祭りちょうちん春日社のお灯りらしい村人は ここで愛宕さんの火種を受ける御神酒(おみき)で身を浄めた男たち 数十人むこう鉢巻き はっぴ姿 が灯籠木場へ  トントン カンカン  トントン カンカン心音のようにゆっくりと繰り返される太鼓と鉦の音が墨いろの山影から谺してかえってくる河川敷に立てられた 千本の地松に一本一本 ていねいに点火されていくあたりいちめん 火の海中央にすっくと立つ 檜の大木二十メートルばかりの頭には笠がのっているその大籠をめがけて 上げ松を放り投げる  トントン カンカン  トントン カンカン四方八方から 真っ赤な松明(たいまつ)が飛び交う「バスケットみたやな」と見物人放物線を描いて落ちてくる 炎の尾なかなか命中しない火の海にぱっと火花を咲かす炎の玉「ああァ惜しいな もうちょっとたったのにィ」ふと さきごろのサッカーを思い出した「ワッ入った やっと入ったァ」太鼓と鉦がはやしたてる土手から橋の上から 歓声 拍手一の松を投げ入れた者は一年の無事があるという二の松 三の松 次から次へ……やがて 大籠から立ちのぼる火柱 舞いちる火の粉「オリンピックの聖火より見事やおへんか」「ほんに心に沁みますな なんちゅうても おしょらいさんの送り火どっさかいに」ここらあたりのお婆さんが喋っている夜空を染めた炎が燃えつきるころ灯籠木(とろぎ)が倒されるドーン 大地を叩く音響いつしか 火の海も鎮まってもとの おとなしい山里にもどっていたほっとひと息ついて見あげると 上弦の月シルクのような暈をかざして特等席から眺めていた

  2. 文殊 より:

           道草先生  今日は!コメントのご返事を遅れて申し訳御座いませんでした。実は昨夕家内が陣痛を起しまして、ドクターに電話相談したところ、直ぐにいらっしゃいと言うことになり、急遽入院を致しました。前回のお産が早産であったことが理由の一つでしたが、その後安定しておりまして、先生のお話ではまだ先だろうと言うご見解でした。今のところ一先ず安堵したところです。新インフルエンザの院内感染も考えられる折から、まるで隔離施設のようにされて大切にされております。杏は義母と叔母から一緒になって面倒を見てもらっているようで、これも安心材料の一つです。まぁ入院しておけば安心でしょう。お陰さまです。しかもこのコメントに添付されている詩歌は、まさに「松上げ」そのものでありまして、たっぷりと臨場感に溢れています。このような詩歌があったなどと知るよしも御座いませんでしたので、つい何度も読んでしまいました。重ね重ね感謝を申し上げます。有難う御座います! さて愛宕さんは山城の国と丹波の国の国境に位置し、賽の神として、或いは都の戌亥を守る守護神として永年崇敬されて参りました。京都の中で最も高い山になることはご存知の通りであります。愛宕信仰は早くから神仏習合し、 中世以降「勝軍地蔵」がそのご本地仏として崇敬されるようになっておりました。愛宕信仰は愛宕山に集まった多くの修験者たちによって各地に広められ、近世以降「火伏せの神」、 また「境界を守る塞の神」として広く信仰されております。全国で愛宕神社は43都道府県にあり、総数は1500社を越えるといわれております。但し 「愛宕信仰」に関しては実に文献史料が非常に乏しく、 特に近世以前は殆ど不明なことが多いんですよ。また「愛宕信仰」に端を発した「松上げ」の火祭りは丹波山地の山村を中心に広い範囲に分布しているのですが、詳細な調査報告や研究も質量ともそこまで至ってないのが現状です。愛宕山は大宝年間(8世紀)に、修験道の開祖である役行者と加賀白山の僧泰澄によって開かれたと言う伝承を持つ霊山です。今日の愛宕さんは全国に分布している本社として、 ご祭神は火の神である「迦遇槌命(カグチヅノミコト)」を祭り、人々から「火伏せの神」として尊崇されて参りました。近世の庶民の間で「竈」に祀られる火の神として信仰を集めるようになり、家内の実家のオクドにもある通り 「阿多古祀符火廼要慎」と記されている火伏せの護符は特別有名ではないでしょうか。それと 愛宕さんのご神花である「樒(シキミ)」を持ち帰って火災から免れることを人々は請い願ったことでありましょう。ご信仰は現在も生き続け、崇敬者は全国でどれほど数が多いものか想像だに出来ないほど多い状態です。更に愛宕さんは明治「廃仏毀釈」により、それまであった佛教色は完全に払拭されるに至りました。以降寺僧は神職となり、今日の愛宕神社に引き継がれました。幸いにしてご本尊の一つである「勝軍地蔵」は毀釈から免れ、現在、京都・西山大原野にある天台宗の金蔵寺に移されてご無事でありました。「お伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」と言う言葉がある通り、近世以降、村々では「愛宕講」を組織して愛宕さん詣でへと代参し月参りが行われたようです。代参者は火伏せの護符と樒を受けて帰り、護符は竈神の「三宝荒神さま」や台所の壁に貼り、樒は竈の上などに置いて火難除けに致したようです。また子供が3歳までに愛宕さんへ参ると、一生涯火災の難を免れるとよく言われています。このことは母神伊弉冉尊(ボジンイザナミノミコト)が、ご祭神である迦遇槌命を出産する時に火傷で亡くなられたという故事に基づくもl野かも知れませんが、愛宕さんは出産と育児の神としてもご信仰されて来た一面があるとも考えられています。  お盆も終わった8月下旬に、京都の山国か ら若狭にかけて広がる丹波 山地では「松上げ」とよばれる 勇壮な火の祭礼が行なわれておりますネ。愛 宕の火祭りは、多くは修験道の行事と深い関わり を持ちながら続けられて来たように思われます。今日見ることができる松上げは、村の広場に長さ20メ-トル近いトロギ(灯籠木)とよばれる柱松を立て、先端にモジ(傘状の籠)を取り付け、村の男たちが火のついた「上げ松」とよばれる松明を廻しながら 投げ入れて火をつけると言うものですね。「松あげ」は晩夏の風物詩として荘厳な夜の火祭りになっております。この火祭りこそ「愛宕信仰」に端を発し、さらに愛宕さんと深い関わりのある「地蔵信仰」とも結びついたとも言われております。神仏習合の民俗行事として今に伝えられているのでしょう。松上げは8月24日の夜に行なわれるという例が多いのは、「お地蔵さまのご縁日」である24日に由来するからでありましょう。 ところで、吉田の火祭りも「松上げ」と呼ばれています。何故同じ呼び方をされるのか全く理由は分かっておりませんが、吉田さんのご祭神であるコノハナサクヤビメと、愛宕さんの母神伊弉冉尊(ボジンイザナミノミコト)とは遠い縁戚関係にあり、一方では火災を起して疑義を晴らし無事出産されたのに対し、愛宕さんのご祭神は火災の火傷で亡くなってしまうわけで、どこをどのように結びつけてよいのやら、表面的には似ているものの実証的な論説では分かっていないのが現状です。両社とも開山1300年を過ぎて尚不明な部分が多いことであります。今後の研究材料の大切な一つであります。 又東京にある愛宕神社は我が主人がこの男坂で急死したようなものですから、思い出が一層深く、こんな暑い日は特に哀しみが再び湧いて来るのであります。寛永年間時の将軍家光は、愛宕社の下で、誰そ段上の源平の梅を採って来る者はいないかと発したところ、「丸亀藩讃岐守が家臣・間垣平九郎参上つかまつる ただ今採って御覧入れましょう」と馬上高らかに宣言したと思いきや、急峻な男坂86段をダダッと軍馬もろともに駆け上がり、ものの見事に源平の梅を採ってきたとか、講談にもあるあの坂をと、不思議ではありますが、何やら本当のことのようです。安政の大獄によって、自らは開国派で、尊皇攘夷派を徹底弾圧した彦根15代藩主、及び時の大老・井伊直弼掃部頭(カモンノカミ)は、水戸脱藩志士など多数により櫻田門外で討ち果たされたのでしたが、その志士たちが集合したのがこの愛宕神社境内でした。重ね重ね思いつることのみ多いのですが、如何にせん未だ主人の忌日が少ないので、東京の愛宕さんはなるべく思い出さないようにしています。ここは健康な人が登っても危ういような急峻な坂でありますから。 今夕も妻のいる病院に行って、様子を確認してから帰るようにしています。妻も僕も携帯電話を持たない人なので、義母と叔母の携帯電話をお互いに持ち歩いている状況です。多分予定日には産まれないような気がしています。今日もこのような記事においで戴きまして本当に有難う御座いました。心から感謝申し上げます。

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