糸瓜(へちま)忌 子規の周辺

 

zeppitu

正岡子規 辞世の三句 (国立国会図書館 東京本館所蔵)

左句 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

真ん中の句 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」

右句 「をととひのへちまの水も取らざりき」

我が死へに対しても冷徹な客観性が見られる

 

 

 

         糸瓜(へちま)忌 子規の周辺

 

 

 先日は素晴らしい日本晴れのなか、一年生議員が晴れやかに国会に登場した。どうせ新しくやるんなら、トコトンやって欲しいと念じているが、やや不安な事態を心配しないでもない。だが永年に亘って溜りに溜まった汚れたオリと敢然と決別し、日本人として誇りの持てる国家にして戴きたいと心より願う。政局なんぞに左右されず断固たる決意で、是非とも刷新し清新さを忘れないで欲しい。ちょうど明治の初頭もそうであった。松山藩士の子として生まれ、秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟は、生地の松山藩が佐幕派であったがために、あんなに教育者になりたかった兄・好古は陸軍に入らざるを得なかった。真之は正岡子規や夏目漱石などと交流し文学を志していたのだが、勇躍海軍に入らざるを得なかった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で明らかなように、好古はあのロシアの精鋭部隊コザックの大馬軍隊を打ち負かし、一方真之は日本海海戦で、東郷平八郎大将率いる有能な参謀の一人として作戦に直接参加し、無敵不沈と言われたバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破している。時代は急を要したが、二人の軍人はその後の日本の軍事に関わることはなかった。松山時代、子規は盛んに自由民権運動の演説会に行っている。大分やんちゃな人柄であったらしく、自分で新聞を発行したり滝沢馬琴の小説を筆写したり、大いに若さを謳歌していたのだろう。然し無念かな、日清戦争に従軍記者として遼東半島に行った帰りに大喀血をし、そのまま神戸の病院に直行、その後病床の身となってしまった。最初の喀血はその7年前鎌倉旅行の最中であったが、肺結核と診断されていたようであっても、子規には妙な朗らかさがある。そこが救いであったろうか。その後7年間闘病生活の後、根岸の子規庵にて9月19日に(35歳未満)永眠す。あと後ひと月で35歳になるところであった。子規はどんなに悔しかったことだろうか。真之がアメリカに軍学を勉強するために行く際、「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と悲痛な一句を詠んで遺している。これからアメリカで驥足を伸ばそうとする親友と、大きな志しを抱きながら、病を抱え根岸の家を出ることもままならない歯痒さに、今更ながらに愕然としたことだろうか。短い子規の人生を象徴するかのような辞世の句として上記写真三句が遺されているが、単に優れた文学者としてのみならず、溌剌とした明治と言う革命の時代を自ら具現した人でもあった。

 彼らと、山県有朋や大久保利通などと一線を画す理由は、明治時代を官僚システムの中に全く入らなかった人々であった。下級武士以下出身の山県有朋は、何故固有資産として椿山荘や無鄰菴を所有出来たのか、薩長閥以外に何も考えられないだろう。日露戦争以降の日本は、あの太平洋大戦争の後でさえ、官僚の利権は守られたのだったろう。

 正岡子規は論ずるまでもなく、明治以降の文学に多大な影響を与えた人であった。こんな秋の時季になると、誰しもが「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は必ず思い出されるものであるが、俳句に写実や写生を導入し主張した人であった。友人・夏目漱石を初め、高浜虚子や河東碧梧桐や伊藤左千夫や長塚節など多くの後進を育て、特筆すべきは晩年の随筆集であろう。「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」は子規三部作として高く評価してしかるべきだ。それまで芭蕉の賛辞ばかりだったのを、誰にも顧みられなかった与謝蕪村を最も高く評価したのは子規であった。又漢詩にも大変な詩が多く、今後僕は子規の漢詩を勉強しようと思う。古今集を特別に無視し「万葉回帰」の志向も忘れられない。その後斎藤茂吉に繋がったのは言うまでもない。たくさん書きたいことがあるが、明日19日には故郷・松山や根岸の子規庵などの多数でイベントがあることだろう。NHKでは司馬遼太郎作・NHK・ドラマスペシャル『坂の上の雲』を膨大な資金を使って製作中である。この11月から放映される見通しで、早くその放映が待たれてならない。そして明日19日午後から、NHK・ドラマ・スペシャル『白洲次郎』が放映されるが、第三話が未だ放映されていなかったのを、明日その第三話(ラスプーチン?)として初放映され完結する見通しである。どちらも楽しみでならないが、明治と言う革命期と、戦後と言う怒涛の変革期を生きた人たちのお話である。正岡子規はまさに若狭に満ち生き生きと描かれていることだろう。白洲次郎の完結はいかに、今から楽しみでならない。そうそう、そう言えばイチローが大リーグで9年連続200本安打を達成したのだが、正岡子規が「野球(のぼーる)」の用語をつけ、今でも使われている用語の殆どで、子規は喀血する21歳以前まで野球にひどく熱心にやっていたようである。溌剌とした子規の青春の息吹を感じられてならない。そして何と日本野球殿堂にも正岡子規が入っていると言うから驚きである。

 今変革の時、坂の上に、雲などは全く見えない時期である。余りに急速な改革は、例えば最も愚行であった「廃佛棄却」などを生み、数々の愚行・蛮行はどうしても悔やまれてならない。白洲次郎が通産省を創設し、その後さっさと下野させた勢力は大なる愚行の一つであったのだろう。そうして戦後どこでどう間違ったのか、未だに占領下の中にいるようであり、明確な今後百年の指針に向け、新政権は大いに挑戦して戴きたいものだと希っている。生にも死にも凛とした美意識があって然るべきであろう。悲運の人、子規の死の床を見るがいい。

 

  是非ご紹介申しあげたいweb『正岡子規の世界』 『子規庵』 『松山市子規記念館』 

 

hechim2

ゴーヤの花に似た子規・死の床のヘチマ 花と実

 

masaoka01  

上京時、奈良に立ち寄った子規が詠んだ歌が 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」である

 

広告
カテゴリー: 文学 パーマリンク

糸瓜(へちま)忌 子規の周辺 への4件のフィードバック

  1. 良枝 より:

    私の教科書の正岡子規はすっかり落顔されてもはや原型はありませんが、とてもできのよい落書きだったため顔を忘れることはありませんでした。ごめんなさい 苦笑しかし、学校で教えて貰ったときに正岡子規がどういう人であるか触れる先生は皆無でした。少しでも教えてくれればもうちょっと国語や歴史に興味を持つ学生が増えるかもしれないのに。先入観なく、そのうたの評価や、すばらしさを学ぶ上ではバックボーンは邪魔なのでしょうか?なんだか、もったいないような気がするんですよね。確かに、自主的に学ぶ事は大切なことなのですが。坂の上の雲、楽しみですね。NHKは本当に、たくましいですよね。

  2. 文殊 より:

         りんこしゃん りんこしゃんがご存知の子規は多分自画像の子規ではないかなぁ。飄々としている子規の印象はあまりイケメンとは言えず、でも図太い骨格を感じさせるものです。佐幕派の、明治時代にはそんなに重用されなかった人たちは結構いたんですよね。佐賀藩の大隈重信もそうでしたし、決して薩長だけではどうしようもなかったかも。それにしては、明治維新は文化革命となっておりますが、あれこそ武力闘争以外の何物でもなかったはずです。権勢を振るって、磐石の構えなはずが、鹿鳴館で有名な井上馨は三井財閥の丁稚のような人だったですから。財閥の力も必要だったのですが、構造的に官の財源横流しなどが横行し、すべての巨悪は明治に既にあったのかも。 そんな背景の中、病床でしか発言出来なかった悔しさが子規にはあったでしょう。そんな強い思いから出来たのかも知れませんが、子規の影響は凄いものでした。ちょうど同期に自然主義が欧州で発生したことがありました。新聞記者として子規は貪欲な知識欲にかられていたのです。 明治以降の歴史の勉強は、中学でも高校でも「後は読んでおけ」と言われることが多かったですね。最も身近な歴史教育が出来ていないのは恥じるべきことです。 更に河井継之助や小栗忠順なんか、有能な佐幕派の惨殺は革命の齎す最も陰惨な出来事でした。今でも現地に行くと、河井の上野介は大人気です。地元の人たちの篤い思いが連綿と続いているのでしょう。 NHKのハイビジョンはたいした番組を予定し頑張っていますね。大いに敬意を表したいと存じます。あのムツ婆さんの記録だって8年掛だったんですから、日本の良心としてこれからも頑張って欲しいですね!

  3. 道草 より:

    子規の雅号が、血を吐くまで鳴くホトトギスからとあれば、その覚悟の程が知れて悲痛ではあっても潔さには頭が下がるのみです。高校時代に子規の俳句や短歌を少し習った記憶があります。写実主義に徹する余り、所謂俳諧に於ける豊かな言葉遊びや修辞を否定した、とも聞きました。万葉集を賛美し古今集を否定したのもその表われとか。それも好みの問題で、いずれにしても、新しい詩情の世界を開拓のは確かなこと。辞世の句が挙げられておりますので、当時覚えて印象的だった短歌3首。くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる 松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす いずれも光景が鮮やかに目に彷彿とされますが、殊に三つ目の歌には一層胸打つものがあります。子規は漢詩にも堪能だったとか。以て瞑すべし。「子規を聞く」一声 孤月の下喀血 聞くに堪へず夜半 空しく枕を欹つ古郷 万里の雲

  4. 文殊 より:

         道草先生 ただ今、白洲次郎・正子ご夫妻の物語がBSハイビジョンで放映されている最中です。僕たち戦後世代は特に現代史に弱い面があります。特に教育を受けて来なかったからでありましょうが、それが返す返すも悔しい気がしないでもありませぬ。歴史認識は何も戦争中の戦犯だった歴史に関わらず、日本史のあらゆる部門でまだまだな感じがします。埋もれた人を再び俎上に乗せて脚光を浴びてもらう方法は司馬さんが得意な分野でした。坂本竜馬でさえ司馬さんに改めて発掘されたのではなかったでしょうか。官軍と賊軍は紙一重でありまして、明治のご維新は薩長連合のチカラによる奪回であったのでしょう。有能な人材をたくさん失いました。河井継之助や小栗上野介忠順などはその代表だったでしょう。その中にひっそりと位置しているのが子規です。子規だって、どんなにあの時代に活躍をしたかったことでしょうね。『義』に生きた謙信公は、その精神を多くの後代の方々に引き継ぎました。まさに吉田松陰や松平容保や村田新八など、受け継がれた『義』に生きた驚くべき人たちでした。歴史はなんぼ振り返っても飽きるものではありません。まだまだ埋もれた評価のある人物が潜んでいると考えられます。時代とともに、その評価は幾らでも変化して行くものですから。勝海舟や緒方洪庵など、まだまだ評価が足りないぐらいです。 それら評価の根本をなすものは、日本的なモノではないでしょうか。日本的なモノとは、日本人が本来持っていた真っ正直さや天然の明るさや、千変万化する四季の移ろいの日々の中に、一瞬一瞬の美しさを見つけて行き、自らの生き方を体現した人を言うのでしょう。素直で明るく、真摯で、そして無欲にして、驕らず、それが日本的な感性だと、僕は信じています。子規についてはたくさんおしゃべりをしたい思いが次々に湧いて参りますが、秋山兄弟の生き様こそ、子規を暗示した生き方でありましょう。仲間を信じ、ひたすら部下の安寧を考えた武将は秋山兄弟とともになくなったように思われてなりません。でも今でも僕たちは僕たちの生死のザマを美しくありたいと願うのは結構数が多いんだと信じています。今日子規の忌日にして、白洲次郎の放送を横目に見て、つくづく考える次第です。黒田如水のいつもの言葉を贈らせて戴きます。『人に媚びず、富貴を望まず』 清貧に生きていたいと強く感ずる次第であります。今日も有難う御座いました!

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中