『山頭火忌』 薔薇たち 淋しく凛と咲いておりました

 

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 自宅庭 池のほとりなど

 

 

 

        『山頭火忌』    薔薇たち 淋しく凛と咲いておりました

 

 

  今日は種田山頭火の忌日。杏と、庭の鯉たちに夕べ残った刺身を与える。己が生んだ卵ですら共食いする鯉である。獰猛な性格を宿す。杏に更に暖かい格好をさせ、妻を品川のマンションに送ったついでに、亡き主人のご実家へ。線香を手向けた後、主人とともにいつも親しかった薔薇のご老人を麹町に尋ねる。すると父ぐらいな年齢のご子息が出て来られて、今年の盛夏、静かに息を引き取られたと言う。僕たち親子は、案内されるがままに、あの優しかったお爺ちゃんのご霊前にお線香を奉った。とうに100歳を超えた方だったのに、涙がポロポロと溢れて仕方がなかった。杏はどうしたんと言った顔つきをして、僕の顔をピタピタと叩いた。その後、秋色に染まった薔薇でも御覧になりますかと言われ、是非にと。かくして広さ300坪ばかりの薔薇園に入ることが出来た。杏は嬉しそう。身体を上下にゆすって、歩く歩く。でも何故か、秋の薔薇園は今まで感じたことがなかったしっとりした清涼感があった。事実遣り水に濡れているせいでもあったのだろうか。それとも花の数が、春に比べると随分少なかかったためだろうか。それとも故人の思いがまだここにしっかりとあるからなのだろうか。杏だけが元気いっぱい。

 

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  皆 秋の風情の中 淋しさに負けず ただ凛として咲いていた

 

  お爺さんは別格と思えるほど幸せな人生でしたよと、ご子息の言に大納得して帰る僕たち。父とほぼ同じ境遇で、戦前から一貫して戦争をしたら駄目だと主張して憚らなかった御仁だった。吉田茂が在英大使だった時代、近隣国の大使をしておられたが、戦争に抗議するかのように、極めてすっぱりと役所勤めを辞めた。戦後国連に入った日本。このお爺ちゃんは国連本部で、確か何かの要職についていたと思う。それから約半世紀。麹町の自宅で、永い間悠々自適。趣味の薔薇園芸に精魂籠めてお過ごしになられた。在りし日の、あの御方をこれらの薔薇を見ながら思いを籠めると、何だかとってもハッピーな気分になれるものがあった。有難うお爺ちゃん!杏があんまり黄色い薔薇に好きになり執着していたからか、同じ黄色でも品種の違う色々な黄薔薇をひと抱え(僕の抱いた感じで)も戴いて帰って来た。杏のご機嫌は極めて良好!マンゴウプリンがシュゴ~~クゥ美味しかったらしい。途中おトイレを借り、何度か時間を見て用足しをさせて、ぅんよかったぁ。ご機嫌な杏。天空は、ただ一点の雲もない秋晴れ。

  去年だったか、山頭火の記事、『松はみな枝垂れて南無観世音~山頭火』を出させて戴いたが、その折畏れ多くも道草先生と紙上議論をさせて戴いた。あの日々が特別に懐かしく思う。思えば、山頭火の、借金しては飲み、飲んでは借金する繰り返しだった山頭火の醜態ばっかりに気を取られていた僕があったのかも知れない。あれから随分山頭火への見方に変化が出ていると確信している。そうして僕が、いつか山頭火の足跡を辿った旅の道を思い出していた。

 

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松山市御幸寺境内にある一草庵 現在でも丁寧に管理されている

 

  上記写真は松山にある一草庵、つまり山頭火の最期となった庵である。部屋に入ると空っぽの一升瓶が哀しげに置いてある。この松山市御幸寺境内の一草庵に入ったのは、前年の初冬昭和14年12月15日であった。新年の神が来る嬉しき新年を迎え、櫻咲き花舞い散る中、最期の句集であった『草木塔』の発行を事の外喜んだ。そしてその年の10月10日、夜ここで「柿の会」と言う句会を催されたが、山頭火は途中失敬して寝入ってしまった。11時に散会となったものの、夜半、気になった高橋一洵が、午前2時頃尋ねると、既に硬直が始まっており、急いで御幸寺の住職を起こし、医者に行って往診を御願いしたが適わず、既に息は完全になく、そのまま帰らぬ人になったのである、享年57歳。11日未明のことであった。この一草庵には、次の三句が残されていた。

                 鉄鉢の中へも霰

                 春風の鉢の子一つ

                 濁れる水のなかれつつ澄む

  尚異論があるだろうが、山頭火の最期の句としては

                 おちついて死ねさうな草萌ゆる

  の句だろうと想像される。尚遺骨は、ふるさと防府の護国寺裏の共同墓地にほうむられた。

  山頭火を看守った最期の人・高橋一洵に、山頭火のトラウマになった母恋しの思いの歌が、市内・長建寺に、高橋が句として句碑が建てられていた。サビサビとした中にも、山頭火を彷彿とさせるいい句であった。

                 母と行く この細径の たんぽぽの花

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高橋一洵の句碑 (長建寺にて)

  上の三句とも、現在一草庵に、句碑となって残っているが、高橋一洵のこの句も忘れてはなるまい。山頭火と言えば、出身地の山口県防府市を思い出さす。僕は博多に行く途中何度か防府を訪れている。山頭火が生まれたのは現在の防府市八王寺町2丁目、防府天満宮から徒歩で10分くらいのところにある。種田家の屋敷は、三方を田んぼに囲まれ、納屋、土蔵、母屋が並んでいたとのことであったが、現在その屋敷は残っていない。生家跡にはただ句碑のみが残っていた。

                うまれた家はあとかたもないほうたる (生家跡に建てる句碑に)

                  分け入っても分け入っても青い山  (生家近く種田又助商店に建つレリーフ)

  又山頭火が小学校の時、通った小径が現在も素晴らしいいい雰囲気で残されている。中でも「志ほみ羹」で有名な双月堂にも句碑があった。この界隈は懐かしい民家が立ち並ぶ小径で、双月堂はその東端にあたる。双月堂茶室前に建つ句碑に、

                   あめふるふるさとははだしであるく (山頭火の小径にて)

  明治39年、父竹治郎は長男正一(山頭火)名義で、防府市郊外の酒造場を買い取り、酒造業をはじめる。暖冬で酒が腐敗したことが原因で破産に追いこまれたのは、大正5年山頭火34歳の時であった。山頭火は妻子とともに防府を後にし、妻の実家がある熊本に移り住んで、古書店「雅楽多」を開業するがうまく行くわけがなかった。その後離婚し、自殺未遂の末、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となり、大正14年に得度し「耕畝」と名乗る。以降「雲水」となり墨染めの衣をまとって、方々を放浪することになるのだが、僅かな金を手にするとデロデロになるまで酔っ払ってしまう。女には興味を示さなかったが、酒だけは断ち難かったようである。あっちこちに放浪しながら、詠んだ句の数は1万を悠に超えていた。西国中心の旅が多かったが、何故か山形にも立ち寄っている。そして浴衣一つで駆け込んだ先が、かの永平寺。厳しい典座がある御寺に居つくわけがない。確か三日もしないうちに退散している。雲水の姿は仮の姿で、その後昭和7年には再び郷里山口に戻り、小郡町(現・山口市小郡)にて、「其中庵」を結庵、再び防府に立ち返ろうする。そうして終焉の地・四国の遍路旅に出ることになり、かくして松山に落ち着くこととなったのである。

 話は飛び飛びだが、再び防府に戻ろう。「大道新舘」、かっての酒造場の前の県道沿いには、山頭火自筆の句碑があった。

                   酔うてこほろぎと寝てゐたよ (酒造跡地に残る)

 山頭火の遺骨は、防府市の護国寺内共同墓地にあるが、寺では山頭火17回忌の昭和31年10月11日、山頭火を顕彰するために護国寺に、それらしい山頭火の墓が建てられた。自然石に彫られた素朴な墓であった。但しこの墓の下に山頭火の遺骨があるかどうかは不明である。又この境内には7基ほどの句碑が立っている。

 

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山頭火のお墓 俳人らしい楚々とした墓であった

 

                 風の中おのれを責めつつ歩く (護国寺門前にあり)

                 てふてふうらからおもてへひらひら (護国寺山門入って直ぐの場所にある)

 

 僕は、防府駅周辺や山頭火がいたであろう天神さまなど、どんなところでも何箇所も徘徊して歩いた。そして僕は、『鉢の子』や『山行水行』などの句集はあるのもの、山頭火の中で最も優れた句集は最期の『草木塔』ではないかと結論づけている。諸氏いかがなものでしょうか。晩年になればなるほど、句は愈々そぎ落とされ、簡潔になり、訴える声が弥増すのだから。更にもう一つ、防府駅前(北口)にある山頭火の立派な銅像も紹介しておこう。

 

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てんじんぐちに立つ銅像  「ふるさとの水をのみふるさとの水をあび」と刻まれている

 

         山頭火 遺作ともなった「草木塔」より抜粋

                 炎天をいただいて乞ひ歩く 

                 しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 

                 雨だれの音も年とつた 

                 うしろすがたのしぐれてゆくか 

                 いつまで旅することの爪をきる 

                 水音しんじつおちつきました 

                 ぬいてもぬいても草の執着をぬく 

                 何が何やらみんな咲いてゐる 

                 松かぜ松かげ寝ころんで

                 鴉啼いてわたしも一人

                   鈴をふりふりお四国の土になるべく

                 霧島は霧にかくれて赤とんぼ

                  まつすぐな道でさみしい

                  また見ることもない山が遠ざかる

                  分け入つても分け入つても青い山      

                  遠山の雪も別れてしまつた人も 

                  何か足らないものがある落葉する 

                  月のあかるい水汲んでおく 

                   春の海のどこからともなく漕いでくる 

                   鎌倉はよい松の木の月が出た

 

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 当家の庭に生えてある紫蘇の残骸に しじみ蝶がてふてふひらひらと舞っていた

 

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