『芭蕉忌』 はつ時雨いまだし

 伊賀上野にある俳聖殿

伊賀上野 藤堂藩の上野城址内にある「俳聖殿(はいせいでん)」

 

 

 

 

         『芭蕉忌』 はつ時雨いまだし

 

 芭蕉翁の最晩年から義仲寺埋葬までの件を、葉櫻散る中、拙ブログ・「紙衾(かみぶすま)」に詳細に述べさせて戴いた。されど今日は芭蕉忌。芭蕉のことを何か書かねばなりますまい。但し蕉翁のこの日を、「時雨忌」や「芭蕉忌」や、別雅号から来る「桃青忌」や、単に「翁忌」などと呼ばれているが、新暦でするものは、俳諧を嗜む方にとっては極めて少ないことだろう。旧暦で言う、11月28日になっているのだから、当たり前と言えば当たり前のことである。享年が51歳であったことも、何故翁と呼ばれるのか、不思議であるが、当時の平均寿命を考慮に入れれば当然なことなのだろう。面白いことに、芭蕉は琵琶湖周辺に多大な関心を寄せていたが、『奥の細道』以降、大垣逗留を経て伊勢の遷宮へと向かったその途中の脚で、琵琶湖周辺を観ていても不思議ではない。だが陸路を使っては不可能でもなく、又大垣出立の際は舟便であったところから海路を使ったとするならば、必ず琵琶湖周辺を訪ねていよう。大垣から再び曾良を伴いて、伊勢へ行った時こそ、大津など主な琵琶湖の町を訪ねていたのだろうか。比較的客観的な詳述がある「曾良日記」を読んでも定かではない。

 かく言うには、何故大津の義仲寺(旧国道沿いにあり)に、我が亡骸を木曾殿(朝日将軍・木曾義仲のお墓)の横に残せ(埋めて欲しい)と言い残したのか、そこがどうしても僕には腑に落ちなかったのである。何故木曾殿でなければならなかったのかも、実は僕にはとくと判明しづらく、当時の義仲寺を探ってみて、何とかして漸く得心出来たのかも知れない。義仲は不運の武将である。上洛したまではよかったが、部下の狼藉や略奪など不穏な動きを鎮めることが出来なかった。而して初め歓迎していた公家衆や、京の町衆からも疎まれ、鎌倉殿に付け入る隙を与え、追われる身となった義仲は敗走中に討ち死にしてしまうのだ。若き日の義経に討たれ果てたのだは、享年31歳であったものを、義経とて、兄・頼朝から討たれ奥州にて亡くなりし御年も同じ31歳であったとは。芭蕉はそのことを、「わび」「さび」、或いは不憫だと思ってお伴仕ったのか、「おくのほそ道」後、芭蕉が語った俳諧論・「不易流行」によるものか。僕は随分悩んだことがあった。然し芭蕉の俳諧や紀行文など多くを読み解くにつれ、確かにこうした不運の武将に思いを寄せていたからだったのが分かって来る。源義経や義仲、斎藤別当実盛と言った悲劇性を帯びた武人や、悲劇の公家・藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れては特段の句を残し、特に木曾義仲については寿永2年(1183年)4月に、平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。

         義仲の寝覚めの山か月悲し

 

     <義仲寺>

  「木曽義仲御墓所」として存在する義仲寺は、木彫りの聖観世音菩薩を本尊としている寺で、開山は室町末期といわれ朝日山義仲寺と寺号に語られている。義仲寺本堂を、朝日堂と称し、本堂には義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉など、31柱の位牌が安置されている。義仲寺が建つあたりはその昔粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面する景勝地で、寿永3年(1184年)、義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢におされ、宇治から北へ逃れる途中、義仲は31歳の命をこの地で果てた。義仲の亡骸は当地に葬られたが、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となり、この墓所の近辺に草庵を結び供養を続けた。見目麗わしい尼僧で、この義仲公の御墓所の辺で、日々の供養ねんごろな尼僧だったようで、里人がいぶかって尼僧に問うと、「我は名も無き女性(にょしょう)」とだけ答えるのみであったと言う。この御方こそ義仲の側室・巴御前で、かくして巴御前没後に、この草庵が、「無名庵(むみょうあん)」と命名され、その「無名庵」こそ、「木曽塚」・「木曽寺」・「義仲寺」とも号され、今日に至っていると聞いている。但しこの寺の荒廃や復興など度々繰り返され、多分元禄年間、芭蕉存命の折はウラ寂びた寺であったと想像するに如くはない。だからこそ翁は、音に聞くこのお寺を目指したのであろうとも。又、義仲寺境内には、芭蕉翁の坐像がある翁堂があり、次の3つの芭蕉句碑が建っている。そしてその他、又玄(ゆうげん)の「木曽殿と背中合せの寒さかな」など、全19の句碑が俳諧碑林を織り成していた。芭蕉翁は間違いなく琵琶湖周辺に高い関心を持っていたことは事実で、その証拠と言っては何だが、湖北に18基、湖西に4基、湖東に12基、更に驚くべきことに湖南~甲賀には66基もの芭蕉翁の句碑が立っているのは事実である。湖南には、特別に多いのはやはり大津との関係があるや否や。

 

 芭蕉塚にある句碑「旅に病夢は枯野をかけ廻る」          芭蕉句碑「古池や蛙飛びこむ水の音」

                               ①                        ②

 

         旅に病で夢は枯野をかけ廻る    (①の句碑)

         行く春やあふミ(おうみ)の人とおしみける   

         古池や蛙飛びこむ水の音   (②の句碑)

 

 

芭蕉翁眠る義仲寺山門    芭蕉翁の墓    芭蕉翁坐像

    義仲寺山門             芭蕉翁墓          芭蕉堂の芭蕉翁坐像

 

 

      <翁へ憧れたる一茶>

 芭蕉翁没後130数年後に、小林一茶が誕生し、幕末動乱期の少し以前にあたるが、芭蕉翁への思慕の念が相当強かったようである。50歳過ぎてから、28歳の嫁を貰うなど、どこかの誰兵衛さんによく似ているようで、僕には親近感がある。でも今日、一茶の詳細は語るまい。次に掲げる俳句は一茶が芭蕉翁へ憧れて詠んだ俳句で、「はつしぐれ」の季語を、恰も芭蕉翁忌の専売特許のように詠っていることである。今日、大津の義仲寺で、芭蕉忌は旧暦の10月12日、つまり現在の11月28日にし、その前の土曜日に法要を営んでいるようである。季節がら、まさにそのほうが的を得ているのだろう。

         義仲寺へ急候はつ時雨 (寛政7年10月12日 一茶は芭蕉の墓がある近江・義仲寺の芭蕉忌時雨会に参加)

         影ぼうしの翁に似たり初時雨 (享和3年 田川の岩田一白を尋ねし折に詠む)

         芭蕉忌に先つゝがなし菊の花 (文化元年 小金=本土寺の翁会に出て詠める)

         ばせを忌や丸こんにやくの名所にて (文化2年 馬橋の翁会にて詠める)

         こんにやくにかゝらせ給へ初時雨 (文化3年 隋斎=夏目成美宅で行われた翁会にて詠める)

         梅一輪いちりんほどの暖かさ (上記翌日は蕉門十哲の一人・服部嵐雪=別号雪中庵/54歳没=の100年忌にあたり詠める)

         ばせを忌や時雨所の御コンニヤク (翌年の4年にも小金・本土寺における 翁会で詠める)

        ばらつくや是は御好の初時雨 (文化7年 馬橋から布川に入り 翁会にて詠める)

        けふの日や鳩も珠数(数珠)かけて初時雨 (同年 同上)

        念入てしぐれよ藪も翁塚 (同年 同上)

         青柴や秤にかゝるはつ時雨 (文化8年 馬橋の芭蕉忌にて詠める)

         山寺の茶に焚かれけりはつ時雨 (文化9年 翌13日に詠む 双樹~親友が病気にて 翁忌どころではなかったらしい)

         有様は寒いばかりぞはつ時雨 (同年同上 馬橋の親友双樹がもとで詠める 双樹同年10月に他界す)

         御宝前にかけ奉るはつしぐれ (文化10年 江戸を離れ 長沼・経善寺=住職/呂芳 ここで翁会あり 12日詠める)

         芭蕉塚まづをがむなり初布子 (文化11年 再び江戸へ戻って 深川長慶寺 芭蕉塚詣でて詠める)

         芭蕉忌も松も武張りて (文化12年 翁塚巡長慶寺とあり この日も翁会で詠んだ句であろう)

         翁忌や何やらしやべる門雀 (文化13年 守谷の西林寺にて 12日はちょうど雨になったらしい)

         十月の御十二日ぞはつ時雨 (文政3年 八番日記 10月の欄にあり)

         袵形(おくびなり)に吹込雪やまくら元 (同年 斗囿あて書簡<12月> 雪中で転んで怪我をし この句の翁忌の所在分からず)

         芭蕉忌と申も歩きながら哉 (文政4年 <ばせをき(芭蕉忌)やきやとて歩きながら哉>とあり 場所不明)

         ばせを翁の像と二人やはつ時雨 (文政6年 妻きく没 37歳であった この年 湯田中で芭蕉忌を迎えた)

         芭蕉忌や豆腐の上の菊の花 (同年同期 弟子・希杖の詠める句)

         時雨をお(を)がむ草庵の月 (同年同期 一茶ふたたび詠める句なり)

         ばせを忌と申も只(たつた)一人哉 (文政8年 この2年後に一茶が没する) 

 

  寛政7年(1795)の義仲寺の芭蕉忌から、文政8年の芭蕉忌の句作まで丸30年掛かった以上、毎年の蕉翁忌の小林一茶は、その年その年の10月12日の「芭蕉忌」で詠んだ句で、実に以上のような多くの句があることが分かる。ただ一人でも芭蕉翁の忌日がかくも意味あることであったとは、改めて考えてみると、蕉翁への思いの丈の凄さが分かろうと言うものである。今年も、その今日がやって来た。本来なら本場の義仲寺にならって来月の28日にしたいところである。芭蕉忌とは、飽くまで「時雨(しぐれ)ている忌日」であるのだろうが、ひと足早く芭蕉忌を迎えることにしよう。夜は蕉翁、「おくのほそ道」に出掛ける前に書かれた畢生の著、「野ざらし紀行」でも読んで、翁のご威徳を偲ぼうと存ずる。

 

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 嵯峨菊(さがぎく)の 凍(こご)えし夜や はつ時雨 (R)   (嵯峨菊とはか細い菊花 お後がよろしいようで)

 

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