ふいご祭

 

 

 ふいごの現場 正宗家にて

 

 

               ふいご祭

 

 

  いいお日和です。妻を誘って、当家のすぐ近所に、最近できたばかりの山種美術館に行ってまいりました。速水御舟の大特集とかで、重文になっている「炎舞」などが飾られ、一層初々しさが御座いました。その後長女の杏も車に乗せ、都内のドライブへ。ベビー用のシートベルトを使いたくて堪らなかったのです。府中の近く、東伏見にある稲荷神社まで行くことに。妙に車が少なくあっと言う間に到着です。今日はご本家の京都・伏見稲荷さまでは「お火焚き」の日です。ここは東京で唯一分祀された伏見稲荷社で、そう古くありません。ただ我が妻の実家はもともと商家でありましたから、小さなお稲荷さんが御座いまして、妻は結構親しんでいるからでもありました。秋の収穫の後に、五穀の豊饒をはじめ万物を育て給うた稲荷大神のご神恩に感謝する祭典で御座いまして、古来より伏見稲荷さまでは伝統と格式ある祭事として広く知られています。本殿の祭典にひきつづき、神苑斎場において、全国崇敬者から奉納された数十万本の火焚串を焚きあげ、宮司以下神職をはじめ参列者一同大祓詞を奉唱し、罪障消滅、万福招来をお祈りするというものです。このお火焚きに全国各地のお稲荷さんや金山神社系統などでは、「ふいご祭」が行われます。一般に「ふいご」と申しましても既に死語になっているかもしれませんが、刀鍛冶や、又小さく営む鍛冶屋さんなどで、結構あったものです。日々使われる火を熾したり弱めたりする風を送る装置のことを「ふいご」と申します。古代から永く永く伝承されているものですが、今ではどんなものかも検討がつかないことでしょう。

 

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 横山大観 書画 「ふいごまつり」 (明治30年ごろの作とか 大観記念館蔵)

 

  五穀の豊饒をはじめとする稲荷大神のご神恩に感謝する祭典で、毎年11月8日にご祭典が行われるのですが、午後1時から始まる本殿の祭典にひきつづき、神苑祭場に3基の火床が設けられ、全国から奉納された十数万本の火焚串を焚き上げし、宮司以下神職をはじめ参列者一同が大祓詞を奏上する中、罪障消滅、万福将来をお祈り致します。また、この日の夕刻6時から珍しい御神楽(みかぐら)が奉奏されます。11月に京都の神社で行われる火焚祭の中では、伏見稲荷大社が一番規模が大きいものでしょう。

  ところで、お身内のような同系の金山神社は若宮八幡宮の境内社にあり、鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱を祭神として祀つられております。「金山(かなやま)」と、「金魔羅(かなまら)」(魔羅とは男根のこと)の読みが似ていることや、両神がイザナミが火の神カグツチを産んだ際に、女陰に火傷をし病み苦しんでいる時、その嘔吐物(たぐり)から化生したという伝承や、鍛冶に使う鞴(ふいご)のピストン運動が男女の性交を連想させることなどから、性神としても信仰されているようです。川崎市などでは、御神体は金属製の男根であることから、「かなまら様」(金魔羅様)とも呼ばれているようです。リアルな男根にめげず、若い女性たちが数多くご参加されているのは朗らかでとてもいいことではないでしょうか。

  そしてこの両神は、鉱山や鍛冶の神であると共に性の神でもあるため、鍛冶職人や金属・金物を扱う商人・企業の他、子授け・夫婦和合・性病快癒を願う人々からの信仰を集め、特に子孫繁栄・夫婦和合・性病快癒・安産・下半身の傷病治癒などに霊験があるとされて崇められているものです。エイズ除けを祈願する者も多く、現在ではその他にも、不妊治療に携わる医療関係者、性病快癒を願う性風俗関連産業関係者などの参拝も多くなって、境内には多数の男根形が奉納されているのでしょう。

 但し一般的に、「ふいご祭」とは、各々の鍛冶場でやられることが多いようです。金属などを製錬、加工するとき、火をおこしたり、火力を強めたりするのに使用する簡単な送風装置で、(ふいごう)とも言われ、古くは(ふきかわ)(はぶき)とも呼ばれ、《日本書紀》の天岩戸の条に、シカの皮で(天羽鞴=あまのはぶき)を作ったことが分かっています。その起源は金属器が現れてから、そう遠くない時期だと考えられます。日本の鞴(ふいご)は、多く皮袋型で、タヌキの皮が最上とされていましたが、次第に改良され、のち長方形の箱の中を気密に作り、ピストンを往復させて風を押し出す差鞴(さしふいご)や手風琴型のもの、天秤(てんびん)鞴などが作られ主流となったようです。また⇒たたら(鑢、蹈鞴)と呼ばれる大型の足踏式のものも御座いました。動力も手動から、てこ応用の足踏式に進み、さらに家畜や水車の使用となり、やがて蒸気や電力の利用も行われ、機械的装置となっていったというものでした。ふいごの歴史を詳細に書かせて戴くのも、文献がありますから、きっと面白いことだろうと存じます。

  ふいご祭は、火の神様にふいごの安全を祈願する行事でして、もともとは鍛冶の仕事場にしめ縄を張り、御神酒などをお供えしてお祭りしておりました。祭りの日には鞴(ふいご)を清め、御神酒、赤飯を供え、親戚や知人を招いて宴をはり、蜜柑を投げて拾わせたのですが、どうして蜜柑なのか、小生にはまだ調べがついておりません。上記横山大観の絵では、子供達が屋根の上から投げられる蜜柑を奪い合う様子が生き生きと描かれておりますね。我先に蜜柑を拾おうとして、相手の髪の毛を引っ張ったものの、逆に頭を押さえつけられ、お互いに身動きの取れなくなっている少年や、逃げまどう犬の姿から祭りの日の活気が漂って来ます。大観はしばしば子供の姿を描いておりますが、本作品はそのなかでも動きのある作品として興味深いのではないでしょうか。

 実はこの蜜柑に纏わる講談の、面白いお話があります。あの紀伊国屋文左衛門のお話です。次の一節です。

       ① 紀伊国屋文左衛門(ふいご祭) 曲師◆東家みさ子 [18分44秒]

 紀州から大時化の中を無事文左衛門の蜜柑船が江戸に着いた。江戸でふいご祭を前に蜜柑を一日千秋の想いで待っている。江戸一番の蜜柑問屋の大阪屋善兵衛が困り果てているところに文左衛門が蜜柑を売りにきた。善兵衛は喜んで文左を座敷へ上げた。蜜柑の相場は知らないが、「ふいご祭」に間に合うように命がけで運んできたと話し、善兵衛は一籠一両で取り引きをする。船いっぱい蜜柑が八万籠、八万両で話が付いた。

       ② 紀伊国屋文左衛門(戻り船) 曲師◆東家みさ子 [19分18秒]

 蜜柑を八万両で売った文左衛門は一万両を持って船頭たちと江戸吉原へと遊びに向かった。二十日間程遊ぶと船頭たちも早く紀州に戻りたいと言う。船場に行くと船の手入れもでき、船の中には荷が積んであり、文左は江戸中の塩漬けの鮭を買い込んだ。船は摂津の港に着いた。京、大阪の町は大水出水で流行病がはやり、生水、生ものより塩辛干物が求められていたが干物がない、上方で鮭を売って再び江戸へ材木を運ぶ男一代・紀伊国屋。

 現在、私たちが最もよく買い物に行く表参道の紀伊国屋は、この文左衛門を祖としています。そんなに多く、「ふいご祭」と「蜜柑」には深い関係があったということ、それだけで江戸の街には、鍛冶屋さんが信じられないぐらい大勢いたのだろうという反証になるのではないでしょうか。とまぁ、そんないにしえのことを家内と話し、杏には手製のオヤツを。たった2時間の小旅行でしたが、三宿や、あちこちでイベントにぶつかりました。当家の近くでも、サージを被った沖縄の方々が民舞踊を練習していました。ちょっとだけでしたが、ワクワクできた楽しいドライブでした。

 

金山神社 なかなか立派な「かなまら」が鎮座しておいでだった

 

 

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