100万アクセス近し!

 

 

『風景 八十三』 亡き主人の絵 彼の絵には必ず雲が描かれていた 「風は友 雲はライバル 雨は恋人」と

 

 

 

 

                 100万アクセス近し!

 

 

 『櫻灯路』と、『硯水亭歳時記』と、この『硯水亭歳時記 Ⅱ』の我ら三ブログ総計で、愈々今月中に100万ヒットとなります。お陰さまで、皆さまからの心からなるご愛顧を、衷心から有り難く嬉しく思っています。MSNのブログでは、ブログのリニューアルの度に散々な目にあっています。『櫻灯路』では、前半部分の記事の口絵が何故かすべて削除されてしまいましたし、本ブログではアクセス数が極端に減らされたり致しました。何故という問い掛けに、MSNからの反応はありません。それでも或る程度の目標まではとグッと我慢をして参りしました。それがこの目標だったのです。ですからもう少しの頑張りでありましょう。

 今日は「世界平和記念日」。欧州に滞在していると、この日は皆祝日となっておりまして、日本だって実は無関係ではありませんのです。世界平和記念日とは、大正7年(1918年)の11月11日に、ドイツとアメリカが停戦協定に調印して第一次世界大戦が終結したことを意味し、人類が再び大きな戦争を起こさないようにという趣旨から制定された平和を願う記念日のことで、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパ各国では、今日は晴れの祝日となっています。第二次世界大戦の時ほどの空前の大規模な動員はなかったのですが、日本だって、第一次大戦には参戦しておりました。日本は、当時の同盟国であった英国の要望により、ドイツに宣戦布告し、中国、シベリア、南太平洋、インド洋、地中海などに出兵致しました。現在、東京九段の靖國神社にお祀りされている246万6千余柱の御祭神のうち、4,850柱は、第一次大戦で戦没なされた日本人兵の御霊だったのです。残念かな、あの後も無意味な戦争は続き、日本は司馬遼太郎がよくいう「魔法の森の20年間」に突入致しました。昭和初期から20年間の、たったそれだけの時間で、「国体護持」だとか、そして最も恐ろしいことに、「統帥権」を拡大解釈し大法螺を語り、軍部の独走があったのです。でもどうしても考えられず信じられないことの歴史の連続でした。現在の憲法は確かにGHQから押し付けられたものであったにせよ、日本国憲法第九条で詳細に非戦の誓いが規定され、平和国家日本がここから築かれました。でも又もや集団的自衛権の名のもとに、拡大解釈の火種がないわけではありません。ドイツの国家のように憲法を改憲すべきだと考えています。決して拡大解釈に走らないためにもなすべきことだと信じます。

 今でも戦争が続いています。人類はどこまで愚かなのでしょう。どんなことだって戦争は罪悪です。今年画期的なプラハ発言をしたオバマ大統領が13日に来日されますが、やはり時間の関係で広島・長崎に行けないようです。でもNHKのインタビューに応じたオバマ大統領は必ず在任期間中、広島・長崎を訪れたいと約束されておいででした。今でも普通に原爆で敵国をやっちゃえとののしる一派が大勢なのに、彼の勇気ある決断に絶大な敬意を表します。イデオロギー戦争から、民族紛争から、宗教戦争から、いい加減争いごとがなくなって欲しいと強く強く念じています。

 昨日から日本の国中が騒然としています。英会話学校の先生だったリンゼイさんを殺害(今のところ憶測の容疑だけ)し、死体遺棄した市橋容疑者が逮捕されました。リンゼイさんのご家族に対し、改めて深い同情と哀悼の意を禁じ得ないのですが、一方市橋容疑者のご両親が記者会見しているのも観ました。両親ともドクターらしく理路整然と淡々とお話している様子でしたが、でもやっぱり親ってこんなにも甘いもんなのかと驚きました。私が犯人なら、私の父だったら何としても探して、真っ先に私を刃にかけるでしょう。そしてもしも私の息子がそんなことを犯したのなら、亡きリンゼイさん以上の苦痛を受け、苦しんで死ねと申し述べることでしょう。殺人の罪は決して軽くないのです。そんなわけで容疑者のご両親にちょっと合点が行かない気がしないでもありませんが、今後の捜査や取調べなど動向を見守りたいし、新たに始まった裁判員制度の対象になるはずです。961日に及ぶ不敵な逃亡を重ねた犯行の全貌を、新しく選ばれた国民の裁判員たちがどう判断されるかが注目です。

 更に悲しみがありました。森繁久弥さんは96歳の天寿を全うされ老衰でお亡くなりなられました。私の母親は演劇人でしたので、私の知る限りでは大変ご尊敬を申し上げていた方だったと思います。スタートはNHKのアナウンサーからで、当時流行の軽演劇や落語や講談はいうに及ばず、義太夫も端唄や小唄も何でもこなし、驚くべきことに能までやっていたらしいです。そんじょそこらの一発芸で消えて行く芸能人ではありません。森繁主演の映画で、最近日本映画専門チャンネルでは山崎豊子作品集と題して、森繁の映像を観ました。「暖簾」と「花のれん」だったでしょうか。私もモリシゲ病に罹ったようでして、大変深い感動を受けました。更に、「夫婦善哉」だったか「猫と庄造と二人のをんな」だったでしょうか、大阪商家の駄目なボンボン役が多く、それでも決して憎めず、淡島千景と絶妙な息のあった名演技が印象的でした。何度も旨いなぁと改めて感じ入りました。私は社長・駅前シリーズはそれほど観ていないのですが、隣のベッピンさんの手をさすってエロ社長ぶりを発揮していたのが、何とその手は部下の小林桂樹の手だったなんて、滑稽で可笑しかったことがいっぱいありました。私の父は、森繁の歌謡全集を持っていて、鼻歌まじりに「知床旅情」しか歌いません。「屋根の上のヴァイオリン弾き」ではユダヤ人・テヴィエ役を観て大変感動したのは確か高校時代の頃だったでしょうか。あの向田邦子を発掘した方でもありましたし、2004年1月に、向田邦子の作品「向田邦子の恋文」が最期の俳優活動の作品になったのも何かの因縁だったのでしょうね。ラジオ放送では加藤道子と素晴らしいコンビで魅了して戴きました。歌もいずれも懐かしさに溢れたモリシゲ節で素晴らしかったし、フーテンの寅ちゃんにも出てましたね。どれを観ても軽妙で可笑しく、でもシリアスな深い演技だったなぁと思います。まさに昭和を代表する名役者だったのでしょう。巨星果つで思いのほか無念ですが、でも大きな徳を残し素晴らしい天寿の全うなのでしょう。

 松岡正剛氏の千夜千冊の中に、森繁久弥著「もう一度逢いたい」などの書評を通して次のように書かれてあります。少々長くなってしまいますが、非常に優れた一文ですので、もしお暇が御座いましたら、是非この全文をご一読賜りたいと御願い申し上げます。

 何に弱いといって森繁久弥にはめちゃくちゃ弱い。見れば泣かせられる。それも筋書からすればまだ泣くほどの場面ではないのに、モリシゲの目がちょっと虚ろになって泳ぎはじめると、もういけない。うるうる、くすんくすん、だ。それが『雨情』や『恍惚の人』や『屋根の上のヴァイオリン弾き』なら、あの哀しさ、あの名演技なのだ、きっとうるうるは誰にもおこっているだろうものの、そうではなくて、喜劇映画の『社長太平記』や『駅前旅館』でもそうなってしまうのだった。あきらかにモリシゲ病だ。なぜモリシゲに弱いのか、さきほどいろいろ思い出して原因をつきとめた。ぼくはモリシゲの「歌」から入ったのである。当時、モリシゲはたいてい紅白歌合戦に出ていて、あのモリシゲ節で『船頭小唄』やのちに加藤登紀子がおハコとした『知床旅情』などを披露していた。紅組は越路吹雪、白組はモリシゲ。このオトナの二人が紅白歌合戦の絶品絶頂となっていた良き時代で、北島三郎などはまだ新人、美空ひばりすら江利チエミ、雪村いずみと並んでいた程度だった。ぼくは炬燵に入りながら、ひたすらモリシゲ節に酔っていた。以前にも書いたように、九段高校に山田勝利がいて出版委員会こと新聞部の1年先輩だった。水泳部のキャプテンもしていたが、ぼくはこの山田先輩に可愛がられ、よく亀戸の駅前近くの自宅に遊びに行った。映画館やパチンコを経営している家だった。子供のころにイチジクを食べすぎて親戚の家に泊まったのを除いて、他人の家に泊まったのはこれが最初ではなかったかとおもう。他所の家で夕ごはんをいただくのはなんとも楽しい。食器もメニューもすべてが新鮮だった。食事も楽しいが、山田先輩が繰り出す秘密はもっと胸ときめいた。そのひとつにレコードがあった。「なあ、松岡、これ知ってるか?」と言ってはいろいろ聴かせてくれた。そのなかにドボルザークや藤沢嵐子のタンゴとともに、LP森繁久弥アルバムが入っていたのである。これにぞっこん参った。とくに『琵琶湖周航の歌』『銀座の雀』など、どれほど先輩と物干し台に出て放歌放吟したことか。モリシゲ節がぼくの涙腺を手術してしまったのである。これが原因だった。それからは大変である。森繁劇団の旗揚げ公演の『佐渡島多吉の生涯』など、何度泣いたことか。 三木のり平にも、ね。森繁久弥は多彩である。だいたい古川緑波一座で鍛えられたあとは、満州に渡ってNHKのアナウンサーになっていたし、喜劇軽演劇悲劇ホームドラマ百般はすべてこなすし、なんと50年も続いている加藤道子とのラジオ『日曜名作座』の朗読は日本の話芸の至宝といってよい。市原悦子と常田富士男の『日本昔ばなし』しか知らない世代は、これをぜひとも聞かなくてはいけません。そして、歌はモリシゲ節。これはなんといっても森繁久弥の哀愁そのものだが、それだけではなくミュージカルも旨い。それからヨット、クルージング、「あゆみの箱」などの慈善事業、さらにはエッセイの達人で、『森繁自伝』(中央公論新社)『こじき袋』(読売新聞社)『帰れよや我が家へ』(ネスコ)ほか、著書もすこぶる多い。しかし、これを落としてはモリシゲの画龍点睛を欠くというのが、挨拶名人であって、弔辞仙人だということだ。スピーチが軽妙洒脱であることはむろんのこと、まさにその数分には「品格」と「色気」と「哀愁」が絶妙に醸し出されて、もうおしっこを漏らしたいほど格別なのである。本書は、この、「弔辞仙人のモリシゲ節」が大いに奏でられている一冊である。すでにこの一冊を綴ったとき、森繁久弥85歳。自身が余命を延ばしていることに忸怩たるものを感じつつ、先に逝った者たちを淡々と偲ぶ随筆になっている。実際の弔辞はごく僅かしか入っていないが、その情感を余してあまりある。とくに一点だけあげれば、亡くなった莫逆の友・勝新太郎をめぐる文章だ。勝が言う。「シゲちゃん、何か欲しいものないか」。「うん、そうだな、台杉が欲しいな」。台杉とは北山杉のことである。忘れたころに、勝が植木職人10人ほどとトラックに台杉2本を乗せて東海道をひた走って、森繁の家にドンと置いていった。それから会うたびに「俺の杉は元気か」と勝は不敵に笑う。ある日、勝が茫然としている。「何か、あったんか?」「おふくろが逝っちゃったんだよ」。森繁も言葉を失っていると、「俺、兄貴と二人でおふくろのアスコを見たよ、通夜でさ」と、とんでもないことを言う。「俺たちが出てきたアスコを拝んでいたら、涙が無性に出てきてな」。変な奴だと思ったとたん、森繁も泣いていた。この勝新太郎と森繁久弥の関係は、日本の男と男が組合わさった最高の「バサラ数寄」をしでかせる無類の組み合わせなのである。なにしろ以心伝心しか二人には、ない。たとえば勝が撮る映画に誘われた森繁は、何をやらされているのか、いつもまったくわからないらしい。蕎麦の屋台をもってきて、そこで好きなことを喋り続けてくれ、あの土手からゆっくり上がってきてくれ、そこでシゲちゃん唄えよ。さっぱり筋の説明をしないらしい。その勝が人生で一番好きな歌が次の歌である。

   夕空 晴れて 秋風吹き
   月影落ちて 鈴虫泣く
   思えば 遠し 故郷の空
   ああ わが父母 いかにおわす

 森繁は勝に、死ぬ前にこの歌を唄ってやりたかったようだ。あるいは三味線が旨かった勝に、しみじみこの歌を唄ってほしかったのか。しかし、いまぼくもまた、かの森繁爺さんに「ああ、わが父母、いかにおわす」と唄ってほしいのだ。昭和史とは森繁久弥の歴史だったのである。」 (以上 松岡正剛の、森繁久弥著「品格と色気と哀愁と」全文です)

 松岡正剛氏をして何とこの名文の絶賛です。私たちと同じく悲しみをともにしていらっしゃることでしょう。何か堪らなくうすら淋しいものですね。また森繁久弥ほど多数の芸能人のお葬式に参列された方はいなかったのではないでしょうか。最期に憶えているのは久世光彦さんのお葬式でしたか、「何故オレより先に逝ったのか」と絶句され、それ以降、ご親族のご葬儀もあってかあらゆる葬列に参加されることはありませんでした。いつどの弔辞も深く心に沁み入るものがありましたですね。今度時間があったら、千歳船橋の森繁通りでも是非ふわりと歩いてみたいものだと思っています。心から心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

image

広告
カテゴリー: メモリー パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中