ああ憧れし 錦秋の石山詣で

 

 

 

 源頼朝寄進の国宝「多宝塔」 寺内は国の天然記念物である珪灰石の上に建つ

 

 

 

                      ああ憧れし 錦秋の石山詣で

 

 櫻爛漫たる春の京都、付き合い始めたばかりの妻と比叡の御山に登り、西国三十三霊場第十四番札所である三井寺に行き、そこで密かに古能・「三井寺」のひと節を謡って聞かせ、天皇三代で終わり短かった、櫻舞う大津京への思いを巡らせたものだった。能・三井寺はたいして面白くもない能だが、母子別れの物語で、ここの観音信仰のお陰で、母子が再会を果たすというものである。当時の妻は我が謡を親身になって、大声ではなかったものの、大層嬉しそうに聞き入ってくれたものだ。櫻の下で謡ったその時間は長く、今日は東京に帰るからと言ってタクシーで運転手にお金を掴ませ、我が恋人を帰してしまったのだった。こんなことでは我が熱き恋は成就しないのではと、順序は逆だが、夕闇迫った西国三十三番霊場第十三番札所・石山寺へと急ぎ参った。ところが余りにも遅かったために、ご朱印を逸している。従って正確には西国遍路では唯一廻っていないことになり思念の残る御寺となっている。珪灰石の奇岩の下のほうから、本堂に仄照る「南無観世音菩薩」と書かれた橙色のご法灯の明りを頼りに、御寺から感じられる霊気だけは完全に吸って帰って来たほろ苦い思い出のある御寺なのである。今月は錦秋の京都の記事を書こうと思っているが、やはり紫式部ゆかりのこの御寺から、古都の紅葉たよりの旅を出発したいものだと願ったのである。

 西国三十三番霊場第十三番札所の古刹・東寺真言宗石光山石山寺は、琵琶湖畔、大津市にある。琵琶湖は古代から満々たる水を湛え、八百八水の川が流れて出来ているが、湖水から流れ出すのはただ一筋の河川のみ、瀬田川だけである。ここに架かる瀬田の唐橋は、東北から都に入る重要な交通の要衝とされ親しまれて来たが、この瀬田の唐橋から歩いて直ぐのところに御寺はある。静かな瀬田の流れに沿ってウラウラと行くと御寺・石山寺の山門が見えて来るのだ。通常の御寺が殆ど女人禁制であったのに対し、この御寺は奈良の室生寺とともに女人には取り分け優しく解放され続け、古く1200年以前から数多くの女人・女御たちのご信仰の、大切な観音信仰による御霊場の御寺とされて来た。この御寺がひと際鮮やかな雅を魅せるのはきっと秋、それも遅い錦秋の頃だろうか。

 

 

瀬田の唐橋

 

 平安・寛弘元年(1004)紫式部は新しい物語の構想を得るために、この石山寺に七日間の参籠をした。村上天皇の皇女選子内親王は嘗て読んだことがない珍しい物語を、一条院の后・上東門院に所望されたのだが、手許にそれらしき持合わせがなかった上東門院は、女房の一人・紫式部に命じ、新しい物語を書かせようとした。そこで紫式部は、それらの願いを叶えるための祈念のため、この御寺に参籠したのであった。折しも八月十五夜の月が琵琶湖に煌々と映え、それを眺めた式部の脳裏に不図一つの物語の構想が浮び上がり、とりあえず手近にあった大般若経の料紙に、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…」と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き記していったのだった。かの「源氏物語」はこのように書き始められ、具体的に書かれたこれらの部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月を眺め、都で管絃の調べの御遊びを回想する場面として須磨の巻に昇華されることになったのである。かくして色男・光源氏が奔放な恋の遍歴を描いて、式部が筆は冴え渡ったのだった。国宝・本堂の堂内に、式部が月を観た部屋(源氏の間)や使用したとされる古硯(平安時代の名品)が残されている。ああ何というゆかしきかな御寺ぞよ。だが紫式部だけではなかった。同じ平安時代の「更級日記」には、菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(次女)が一節として、「谷河の流れは雨ときこゆれど ほかよりけなる在明の月」と。和泉式部が書いた「和泉式部日記にも、石山詣で恋心を抱き揺れる女心の行方が出て来る。「仏の御前にはあらで、古里のみ恋しくて、かかる歩も引きかへたる身の有様、と思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高欄の下の方に人のけはひすれば、あやしくて、見下ろしたれば、この童なり」と。女たちの心はこの御寺で、より一層内面へと向かわせ、それぞれの思いの丈を鎮魂させたのであろうか。更に「枕草子」にも描かれており、鎌倉時代には「大鏡」や「方丈記」にも描かれ、それぞれに御寺への憧憬や、御寺の景観の美しさを書き記している。

 

 

 石山寺山門と 硅灰石の奇岩から見た紅葉と 毎年開かれる源氏物語展と

 

 古来日本人は自然の美や異形なるものに深く畏敬の念を示し、それを信仰の対象として来た民族である。ここ石山寺も例外ではなく、三万六千坪におよぶ広大な境内には、日本唯一の巨大な国の天然記念物に指定され、世界的にも珍しい硅灰石の奇岩となって、その上に堂々と建っている御寺で、如何にも神域の雰囲気や霊気が感じられてならない。奈良時代、聖武天皇は大仏建立のために大量の黄金が必要であった。良弁僧正に夢のお告げを語り発願し、聖武天皇の勅題を拝し、この地を聖地と定め開基、良弁僧正が如意輪観世音菩薩を念持佛としてこの地に草庵を創建したところ、陸奥の国から必要な分だけの黄金が発見されたという。かくして大仏は完成されたのだったが、ここの舞台造りで壮麗な国宝・本堂の寺伝によれば、それが石山寺建立の根拠となり、時に天平19年(747)のことであったとある。一般には遍く観音信仰が広がりが定着し、石山寺に詣でる人々のことを、特に「石山詣で」と呼ぶようになったのである。

 

 

石山寺本堂と 夕闇迫る石山寺と 源氏の間の紫式部像と

 

 

 本堂内陣は平安時代の建造物だが、外陣は浅井長政の娘で、信長の姪にあたる淀殿の寄進によって造営された堂々たる建造物である。ご本尊の不動明王坐像(重文 平安時代作)は、実に巨大な御仏で、一畳六尺(5㍍以上)にもなり、三十三年に一度しかご開帳されない秘仏である。御前立の如意輪観音半跏像(桃山時代)も美しい。「南無観世音菩薩」と記された多数のご法灯は眼下の紅葉で広がる海の中で一層美しく映え、石山の頑強なる石の斜面に屹立する懸崖造りの本堂から目映いばかりの紅葉が鮮やかに見え、参詣者の方々は朱に染まった天空の中に立っている思いがするだろう。

 そそり立つ硅灰石のその先に美しく建っている多宝塔も国宝で、源頼朝の寄進によるもので日本最古のもので、切手になったことでも有名であろう。高さ十七㍍、伸びやかに広がる屋根の勾配が実に美しい。内陣に入ると、金剛界三十六尊と五大明王が描かれた柱に守られた金剛界大日如来坐像は、まだ無名時代だった頃の快慶の作で、半眼の鋭い眼光の凄さがこの多宝塔を荘厳してやまない。

 又天空に上る月の、息を飲む美しき石山寺。「石山の秋月」は近江八景のシンボルの一つに数えられ、眼下に密かに瀬音を忍ばせる瀬田川の流れを望む「月見亭」はかの松尾芭蕉翁も魅せられた俳人であった。非公開ながら、その隣に芭蕉が庵が並び建っている。「汐やかむ須磨の此の海秋の月」、「夕月や二つあっても瀬田の月」、「石山の石にたばしる霰(あられ)かな」、「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」と美しい俳句を残し、余程瀬田川や琵琶湖の月夜の絶景に魅せられた一人であったのだろう。蕉翁はこの近くに建つ義仲寺で永遠の眠りにつき、墓地近くに蕉翁ゆかりの無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在し、蕉翁が愛した琵琶湖南西の近江は如何ほどのものであったかが想像出来ようというものである。又この月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台にせり出すように設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座ともなされていた。

 

 

 瀬田川にせせりだすように 月見亭が 

 

 自然主義文学の一方の先達者であった島崎藤村は、この寺内の茶丈である密蔵院で約二ヵ月間過ごし、この時のことを文学界第七号に「茶丈記」として寄稿し、曰く、「石山といふ名にしおもふ、ものさびれたる古刹にして、かの俳士芭蕉が元禄のむかし、幻住の思ひに柴門をとざして、今はその名をみとどめる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名に似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆をはじめ、大雅の心を名目に浮かべたる源氏の間には、僅かにそのかみと示して、風流の愁ひをのこす」と書き記している。境内には「石山寺にハムレットを納むるの辞」の藤村の一節が、文学碑として設けられてもいる。

 更に決して忘れてはならない御堂がある。蓮如堂である。戦乱と飢饉に苦しむ人々を救わんとした浄土真宗・中興の祖蓮如が母を巡る伝説があることである。蓮如6歳の時、幼名布施丸と呼ばれた時代、母は我が子に親鸞・浄土真宗の教えの再興を託して忽然と姿を消してしまった。その後成長した蓮如がこの御寺に立ち寄り、何と蓮如6歳の絵姿と、その絵に描かれていた鹿の子の着物が残されていたのだった。それを観た蓮如はハラハラと涙を流し、母子の再会こそ適わなかったが、我が母は己の生涯を通して母の祈りを形にし、まさしくこの御寺の観音菩薩の化身であったと悟るのだった。「恋しくばたずね来てみよ長橋の 石立つ山は 母のふるさと」と歌を詠んでいる。鹿の子の着物と、美しい布施丸の絵姿は今に凛として伝えられている上、真言密教の奥の深さも併せて想定されるのだろう。

 石山寺の御仏たちは石山のオーラのようなエネルギーに満ち満ちた巌石とともに、すべての女たちの艱難辛苦や、やるせない悩み事を優しくお聞きになられ、永い時を経て衆生済度のお立場を貫かれて来たのだろう。その中には夫の不実に嫉妬の紅蓮を燃やし身を焦がした女もいた。藤原道綱の母が記した「蜻蛉日記」には、「御仏に我が身を訴えようにも涙にむせるばかりで、まともに物いうことも出来ない。この御堂は高いところにあって、下はどうやら谷らしい。谷の片側は深い木立である。ふもとの水は鏡のようだ」と、狂おしい女の情念を受け止め、俗世の影を洗い落としてくれたのだろうか。降り積もる紅葉と落葉。悠久の時を永らえ、今も琵琶湖畔の瀬田で御仏たちは奇岩々上で待っていなさることだろう。

 今日はいみじくも平成の世の天皇の、ご即位20年記念の日である。国民を居住まいをご心配なされ、皇族の今後を、後の世に皇太子や秋篠宮に譲るとされた思いの丈に、深い感慨を覚える。稲魂さまを、宮中賢所でご主宰なさる新嘗祭、象徴天皇として是非とも必要で、私たちの文化の象徴である。あのサイパンのバンザイクリフに向かって深く頭を垂れた天皇を決して忘れない。この時お詠みになられた御歌は、「あまたなる命失せし崖の下 海深く蒼く澄みたり」と。阪神淡路大震災で、何度も両手拳を掲げられた心優しき皇后陛下も決して忘れない。雲仙・普賢岳の噴火や北海道・奥尻島や新潟・山古志村など多くの被災地を訪れられた。山古志の時に詠まれた御歌は、「地震(なゐ)により 谷間の棚田荒れにしを 痛みつつ見る山古志の里」である。戦後一貫して象徴天皇として御役割を追求なされた深い思いが伝わってあまりある。EXILEの「幸せは今いる場所から~」と絶唱されたのを、仲睦かしく二重橋上にお立ちになられ、にこやかにお聞きになられていらっしゃったお姿の天皇・皇后両陛下を心底から感動して見ていた。ともかくどこの祝賀会も無事に終了して、小生も多くの方々とともにほっとしている。一日の長いお時間、本当にお疲れさまで御座りました。天皇・皇后両陛下のご健康とご健勝を心からお祈り申し上げたい。

 

 

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